央華封神・異界伝~はるけぎにあ~   作:ローレンシウ

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第三十話 公主 為妹模朋友

 

「これはまた、風光明媚な土地じゃのう……」

 

 瑠螺はシルフィードの背から眼下に広がる光景を眺めやって、感心したようにそう言った。

 

 ここラグドリアン湖はガリアとトリステインの国境沿いに広がる、ハルケギニアでも有数の名勝と名高い大きな湖なのだから、それも当然であろう。

 タバサの実家は、どうやらこの湖のすぐ近くにあるらしかった。

 あたりには豊かに実った果樹園や青々とした畑もあって、たくさんの農民たちが働いている。

 

「ほんとにきれいなのね。それに、お魚がいっぱいいそう! きゅい!」

 

 シルフィードもはしゃいではいるが、相変わらず食い気が先立っているようだった。

 先ほど、たらふく食べたばかりのはずなのだが。

 

(……おや?)

 

 しかし、タバサからもうこのあたりだと指示を受けたシルフィードが徐々に高度を落としていくと、瑠螺は湖の様子が何やらおかしいことに気が付き始めた。

 

 浜が見えず、湖水が丘の緑を侵食しているのだ。

 湖の端近くでは、花や草木が水に飲まれている様子がよく見えた。

 

(水位が、普段よりも上がっておるのか? なぜ?)

 

 五遁の仙人としては、五行にかかわる事柄に異常が見られれば放っては置けない。

 戒律にも、『おのれが親しむ五行を汚すことなく、汚さるることを見逃すべからず』とあるのだ。

 

 ハルケギニアではどうだかわからないが、央華ではこの手の事件が起きた場合には大概、なにがしかの不穏な原因が背後に潜んでいる。

 たとえば、その地の土地神が狂ったとか、邪仙の企みだとか。

 観察力の鋭いタバサもまたこの異常に気が付いているのではないか、何か理由を知ってはいないかと思って、瑠螺は彼女の方に目を向けてみて……。

 

「……むう?」

 

 それで、こちらの様子もまた湖に負けず劣らずおかしいということに、瑠螺はようやく気が付いた。

 

 彼女はさきほどから一言も発さずに、じいっと本を見つめたまま。

 しかも、ページをめくっている様子がない。

 

「タバサや、どうしたのじゃ。大丈夫なのかえ?」

 

 そっと肩を揺すって、心配げにそう声をかける。

 タバサはちらりと瑠螺の方に目を向けると、大丈夫と短く呟いて、また本に目を落とした。

 一瞬だったけれど、その瞬間の彼女の目はどこか不安げですがるような、それでいて何かを強く訴えかけるようなものだった。

 仙人である瑠螺は、人間からそんな目を何度も向けられた経験があった。

 

(軽々しく口に出せぬ理由がある、ということか)

 

 湖のことも気にかかるが、大切な妹にそれほど思いつめる悩みがあるのなら、まずはそちらを片付けてやらねばなるまい。

 仙人としても、そしてまた姉としても。

 瑠璃はそう心に決めると、それ以上のことを強いて問い質そうとはせず、古い見事なつくりの屋敷の傍でシルフィードから降り立って、その門をくぐっていくタバサに後続する。

 シルフィードはやや不服そうにしてはいたものの、タバサに命じられて近くで待機していることになった。

 

 もちろん、瑠螺にはその館の門にある二本の杖が交差した紋章が、ガリア王家のものだなどということを知る由もない。

 紋章の上に大きく刻まれた、不名誉印の意味についても。

 ただ、妙に寂しげな雰囲気の館で、庭にせよ外観にせよ手入れは行き届いているはずなのにろくに人の気配もなく、まるで廃屋のようだと感じた。

 

(陰気が立ち込めている、というわけでもないようじゃがな)

 

 少なくとも、よからぬ妖物が棲み付いているとか、鬼に憑かれているとかいうことではなさそうだ。

 瑠螺がそう考えている間にも、タバサはすたすたと歩いていって、館の扉をノックした。

 

 ややあって扉がゆっくりと開き、中から一人の老僕が姿をあらわす。

 彼はタバサの姿を認めると、ずいぶんと驚いた様子ながらも嬉しそうに、恭しく頭を下げた。

 

「これは、お嬢さま。お帰りなさいませ」

 

 彼の他には出迎える者もなく、館の中に他の使用人もいないようだった。

 トリステインの魔法学院と比べてみても、また央華において大邑の王が住む館などと比べてみても、明らかに規模の割に人が少なすぎる。

 この男一人で、これだけの館や敷地の世話をすべて見ているのだろうか。

 

 そんな瑠螺の疑問をよそに、老僕は二人を屋敷の客間へと案内した。

 屋内のほうも外観に違わず立派なもので、手入れが行き届いて綺麗だったが、やはりひっそりと静まり返って人の気配がしない。

 

(喪に服してでもおるのかのう?)

 

 央華では、地方によっては葬儀の後しばらくの間は、概ねこんなような雰囲気だ。

 死者の魂はすぐに冥界へ下る場合もあるが、死んでから数日程度は死体の近くに留まっている場合もある。

 だから、これだけあなたのことを惜しんでいるのだと死者に伝えるために、沈痛な雰囲気を保ったり、嘆き悲しんでみせたりするのだ。

 別の地方では、死者がこの世に不安や未練を残さず旅立てるよう、あえて明るく振る舞ってみせたり、死んだ者の存在などなかったかのように無視していつも通りの生活を続けたりするところもあった。

 

 タバサは瑠螺を客間に座らせると、しばらく待っていてほしいと言い残し、老僕を連れてどこかへ出て行った。

 察するに、自分に相談を持ち掛ける前に、まずはあの使用人の男に事情を説明しているのだろう。

 

「ふうむ……?」

 

 瑠螺は今のうちに何かしておくべきかと少し考えてみたものの、いかんせん情報不足で、そんなことをしてみたところで何にもならぬ。

 結局、ここであれこれ頭を悩ませるよりは、素直に本人たちからの説明を待とうと決めた。

 

(飛翔の兄上であれば、『気を抜かずにもっと考え抜いてみなくてはならん』とでも言われるやもしれぬがなあ……)

 

 そんな勝手な想像をして苦笑しながらも、老僕が置いていった菓子やワインを、ちびちびと口に運ぶ。

 

「……おお。これはうまい」

 

 

 ややあって、タバサと老僕が戻ってきた。

 そして、瑠螺の前で揃って深々と頭を下げると、どうかこの館の主、オルレアン大公夫人を救ってほしいと訴える。

 

(どうにも他人行儀なことじゃのう、この妹は)

 

 瑠螺は苦笑しながら、そんなタバサの頭をそっと撫でてやった。

 

 もちろん、大公だろうと国王だろうと、そんなことくらいで瑠螺が驚いたりするわけもない。

 狐にとっては人間は人間、身分などどうでもよいことであるし、仙人にとってはそこらの邑や都の王族と関りを持つことなど、別段珍しくもないのだから。

 そもそも、彼女と親しい仙人仲間の一人である葎花女仙も、元々は緋月という邑の王族の出であるのだという。

 

 それから居住まいを正して、もう一方の老僕の方に向き直る。

 彼はこのオルレアン大公家の執事で、名前はペルスランというらしい。

 

「難儀をしておる者があれば、力になるのが仙人の務めというもの。そうかしこまられずともよいぞよ」

 

 それから、差し支えなければもう少し詳しい事情を聴きたいのだが、と付け加える。

 

「もっともなことです。では、私の方から」

「いい。……わたしが話す」

 

 タバサはそう言って忠実な老僕を制すると、瑠螺の前の席に行儀よく腰を下ろして、かいつまんだ事情の説明を始めた。

 

 

 

 彼女の本名はシャルロット・エレーヌ・オルレアンといい、父のシャルル大公は、現在のガリア王ジョゼフの弟。

 つまりは王弟家の令嬢で、王族の一員である。

 しかし、現在ではその権利を剥奪されているのだという。

 

 今から数年前、タバサの祖父である先王が崩御したことが、悲劇の始まりだった。

 

 先王が遺した王子は、現在ガリア王の座についている長男のジョゼフと、その弟であるシャルルの二人。

 王位の継承順からいえば、長男であるジョゼフの方が王座を継ぐことが妥当だといえる。

 しかし、不幸にもジョゼフは貴族の証である魔法の才に恵まれず、暗愚と揶揄されていたのに対し、次男のシャルルは国に並ぶ者のない魔法の達者で、性格もよく、人望に溢れていた。

 それがために宮廷はジョゼフ派とシャルル派の二つにわかれての醜い争いになり、結果オルレアン公は狩猟会の最中、毒矢で胸を射抜かれるという形で謀殺されたのだという。

 

 その上、後々の禍根を断つために、まだ幼いシャルロットの命までもが狙われることとなった。

 ジョゼフを擁する者たちは、今後の相談のためと称して母娘を城に招き、その席上で彼女に心を狂わせる毒を混ぜた飲み物を与えて廃人にしてしまおうとしたのである。

 

「母さまはそれを見抜いて、わたしの代わりにその毒を飲んだ」

 

 その目を秘めた激しい感情で輝かせ、少し声を震わせながらも、努めて淡々とした口調で、タバサは話し続ける。

 

 オルレアン公夫人が娘を庇うために人々の目の前で自ら毒をあおった以上、その願いを無視して自分たちで手を下すのはさすがに憚られたのか、その後は彼女に対して直接の危害が加えられることはなかった。

 だが、王家の者たちは領地もない下級貴族であるシュヴァリエの称号ひとつを与えただけでタバサを外国へと追い払い、そのくせ事あるごとに呼び出しては無理難題の任務を押し付けてくる。

 おそらくは、成功しようと、失敗に終わって死のうと、どちらに転んでも自分たちにとって都合のいい便利な手駒としての価値を、彼女に見出したのであろう。

 タバサ自身も、己と母の身を守るために黙ってそのような扱いに甘んじ、そのすべてを切り抜けて、今日まで生き延び続けてきた。

 

「わたしだけじゃない。母さまもシャルロットを守ろうとして、ずっと戦い続けている」

 

 毒を飲んで心を病んだオルレアン公夫人は、今ではこの館の奥の部屋に閉じ込められているらしい。

 かつて夫人自らがシャルロットに買い与え、彼女にタバサと名付けられて妹のようにかわいがられていた人形を自分の娘だと思い込んで、片時も離そうとしないのだという。

 

 一度心を壊し、廃人となってしまった以上は、もう元の母に戻ることなどないかもしれない。

 だが、おそらくは水魔法の毒で心を狂わされたと考えられるので、もしかしたら同じ水魔法で作った薬なり解毒剤なりを用いることで元に戻せるのではないか、というわずかな希望もあった。

 それゆえタバサは、数多くの書物を調べて手がかりを探そうとしてきたし、幾人もの優秀な薬師を内密に訪ねて相談したこともあった。

 けれど、そのすべてが徒労に終わった。

 

 今ではもうすっかり諦めてしまって、せめていつの日か、父の仇どもの首を母の前に並べることで、いくらかでもその終わりのない不安を和らげてやろうと。

 母への想いと氷のような復讐心とが複雑に混ざり合った、いささか歪んだ心で、タバサはそう誓っていた……の、だが。

 

 

 

「お願いでございます。お嬢さまの信じておられるように、奥さまの心を癒すことが、リュウラさまにはおできになるのであれば。どうかその力を、私どもにお貸しくださいませ!」

 

 ペルスランが必死に訴えるような調子でそう言って、深々と頭を下げた。

 

「あらかじめ、言っておきたい。手を出して、もしもそのことが知られれば……。あなたは、ガリア王を敵に回すことになるかもしれない」

 

 その上で、承知の上であえて、その危険を受け容れてくれるのであれば。

 母だけでも、今の苦しみから救い出してくれるのであれば……。

 

「その時は、わたしは生涯をかけてあなたに仕える。払える代償があれば、何でも支払う」

 

 タバサは、真っ直ぐに瑠螺の顔を見つめながらそう誓った。

 

 もちろん、瑠螺がそんな危険など気にもせず、いかなる代償も求めないであろうことは、タバサにもよくわかっている。

 それでもやはり、そのことはしっかりと伝えておかなくてはならないと感じたのだ。

 相手から求められるのと、自分で誓うのとは、また別のことだから。

 

「……」

 

 瑠螺はそれに何も返事はせず、黙って立ち上がると、タバサの頭にそっと手を置いた。

 

 もともとつり上がり気味の彼女の目が、さらにきりきりと険しくなって、剣呑な輝きを増している。

 頭頂部からは狐の耳がぴんと飛び出し、背後では数本の尾がゆらゆらと揺れていた。

 先ほどのタバサの話を聞いて激しい怒りにかられたため、人型が維持できなくなったのである。

 

 かつて、親兄弟や同族の多くを理不尽に奪われた経験のある瑠螺にとっては、家族は何よりも大切なもの。

 兄姉たるものは、弟妹を守ってやらなくてはならぬ。

 身内同士で殺し合うというようなことは、一番許せない性質なのだ。

 

(……なればこそ、妹の前で無様な姿など、見せてはならぬ。姉としての責任というものがある)

 

 そう自分に言い聞かせ、暫時目を閉じて、小さく息を吐く。

 次に口から出て来た言葉は、ごく穏やかなものだった。

 

「そのようなことは、タバサが気に病まずともよいのじゃ」

 

 開かれたまぶたの奥から妹に向けられたまなざしは優しく、耳も尾も、既に引っ込んでいる。

 

「さあ、おぬしの母君のところへ案内しておくれ」

 

 

「母さまは、この奥にいる」

 

 タバサは屋敷の一番奥まった部屋の前で立ち止まると、そう言った。

 ペルスランは、何か必要があれば呼ぶことになるかもしれないが、今のところはついてこさせていない。

 

「たぶん、入っていくと怖がると思う」

 

 それが誰であっても、夫人は自分から大切な娘を奪おうとしている王家の回し者だと考え、激しい敵意を向けてくるのだという。

 実の娘であるタバサ……本当のシャルロットのことも、今の彼女は認識できないらしい。

 

「そうか……」

 

 それでは本人も、そしてタバサやペルスランもさぞ辛いことだろうなと、瑠螺は悲しげに顔をしかめた。

 

 しかし、悲しんでばかりいても始まらない。

 いずれにせよ、瑠螺としてはやること、できることは既に決まっていた。

 

『変化朋友』

 

 まずは、部屋に入る前にあらかじめ変化術を用いて、仙人仲間の葎花女仙人の姿をとっておく。

 

 年齢はタバサとさほど変わらないように……十五かそこらくらいに見えるし、小柄で秀麗な面立ちをしているところもよく似ている。

 しかし、受ける印象はずいぶんと違っていた。

 幼子のかわいらしさや無垢さと大人の色気とが同居しており、それに加えて思慮深さも感じられる、そんな不思議な笑顔をこの女性は浮かべているのだ。

 

 変化した自分の姿を興味深そうに見つめてくるタバサに対して、瑠螺は本物の葎花女仙のようににっこりと笑いかけると、優雅な仕草で一礼した。

 

「はじめまして。わたくしは妙喜山紅椿洞の洞主を務めております、葎花と申します」

 

 以前の吸血鬼事件の際には周囲の目を欺かねばならぬ事情もあって、変化術や声彩珠と組み合わせて元の自分のままであるかのように偽装していたのだが、今回は変化した姿をそのまま晒していた。

 別に隠す必要もないし、妖艶な瑠螺本来の姿よりは子供のような葎花の姿の方が、狂気に侵されているというタバサの母親を少しでも怯えさせずに済むかもしれないから。

 

「今日はあなたがたのお力になるために、瑠螺さんに姿と技とをお貸しておりますのよ」

 

 もちろん、実際には葎花女仙が貸してくれたわけではなく、勝手に借りているだけだが。

 それを聞いて、タバサはやや困惑した様子で、小さく首を傾げた。

 

「……その人の方が、毒に詳しい?」

「あら。こう見えましてもわたくし、瑠螺さんより何十歳も年上ですもの」

 

 事実ではあるものの、本物の葎花女仙に聞かれようものなら盛大に顔をしかめられそうなことを言って、おほほほと笑ってみせる。

 

 これから成功の確証がない、狂気に苦しむ女性の治療にあたろうかというのに、この小芝居と緊張感のない態度。

 見方によっては、不謹慎だともいえるかもしれぬ。

 

 だが、瑠螺自身に治療術の心得がない以上、タバサの母親を救えるかどうかはひとえに変化術で、この葎花女仙の力をどこまで再現できるかにかかっている。

 特に根拠はないのだが、より本人らしく振る舞う方が、少しでも術の精度が増すだろうという気がした。

 本物の葎花女仙もきっと、どんなに治療が困難な状況であろうとも暗くなったり不安がったりする様子を患者や身内に見せたりはせず、明るく楽天的な態度を崩さないことであろう。

 彼女はそういう女性であり、そして自分はいま、その葎花になっているのだ。

 

(わたくしは葎花。洞府を開くまでに至った、れっきとした巫蠱の仙人。だから、どんなにおそろしい毒によって侵された体であろうと、壊された心であろうと、必ずや救ってさしあげることができるはず)

 

 瑠螺はそう、自分に言い聞かせていた。

 自分が正真正銘、本物の葎花女仙になり切ることで、タバサの母を救ってやりたかった。

 

 それから、ひとつ深呼吸をして。

 

「……それでは、早くタバサさんのお母上を診てさしあげませんとね?」

 

 タバサが頷いて扉をノックしたが、返事はない。

 しばらく待ってから、彼女はそっと扉を開けて部屋の中に入り、瑠螺もその後に続いた。

 

 それは大きく、殺風景な部屋だった。

 ベッドと椅子とテーブルがあるきりで、他にはなにもない。

 この部屋の住人にはそれ以外の家具は必要なかったし、下手なものを置いておけばかえって危ないからだ。

 開け放した窓からは、湖からの風が吹き込んでカーテンをそよがせている。

 

「……!」

 

 ベッドの上で身を起こし、乳飲み子のように大切そうに人形を抱えていた夫人が、自分の世界への闖入者に気付いた。

 元は美しい女性だったようだが、心の病のために見る影もなく痩せてやつれている。

 彼女は、のばし放題の髪からまるで子供のように怯えた目を覗かせて、わななく声で侵入者に問いかけた。

 

「だれ?」

 

 タバサはその女性に近づくと、深々と頭を下げた。

 瑠螺もまた、それに倣う。

 

「ただいま帰りました、母さま」

「はじめまして。わたくしは、妙喜山紅椿洞の葎花と申す者ですわ」

 

 しかし、事前にタバサの言っていた通り、夫人は彼女らの言葉に耳を貸そうとしない。

 目を爛々と輝かせて、冷たい敵意を向けた。

 

「下がりなさい、無礼者ども。王家の回し者ね? 誰があなたがたに、可愛いシャルロットを渡すものですか! 下がれ!」

 

 彼女はそれから、この子には玉座を狙うような野心などないのにとか、呪われた舌の宮廷雀たちにはもううんざりだとか、ぶつぶつと呟くと、人形を一層強く抱きしめて頬ずりをした。

 以前から何度も何度もそのように頬を擦りつけられてきたのであろう、人形の顔はすっかり摩耗して、綿がはみ出ている。

 

 タバサは何も言わず、ただ悲しげな笑みを浮かべて頭を下げると、傍らの瑠螺の方に目を向けた。

 

 葎花の姿をした瑠螺もまた、目の前の光景に沈痛な面持ちをしていたが、妹にすがるような視線を向けられると小さく頷いて行動に取り掛かった。

 ひとまず治療の妨げとならぬよう、本人にはしばらく眠ってもらうことにする。

 空中からなにかを掴み取るような仕草を二、三度繰り返し、その手を口元へもっていった。

 

「思い通りの風よ、吹け」

 

 ふうっと息を吐くと、しゅるしゅると噴き出した桃色の煙が、夫人の頭を包み込んだ。

 眠りをもたらす『睡眠丹』を作り出し、雲にして吹きかけたのだ。

 夫人は小さく呻いたが、ほどなくしてくらくらと体を揺らすとベッドに倒れ込み、穏やかな寝息を立て始めた。

 

 瑠螺はそれを確認すると、そうっと近づいて、床に落ちた人形を拾い上げる。

 

「よしよし、痛かったでしょう。あとで、ちゃんと繕ってさしあげますからね」

 

 そう言ってそっと頭を撫でてから、それをタバサに手渡した。

 

 さてここからが、いよいよ治療の本番である。

 瑠螺はまず、眠り込んだ夫人に対して『薬調知』の術を使い、彼女の症状から使われた毒物を特定できないかを試してみた。

 毒物の種類がわかれば、解毒剤なり治療薬なりの作り方も判明するかもしれないからだ。

 

 しかし、結果は芳しくなかった。

 

「無理もありませんわね……」

 

 残念ながら、何もわからないということがわかっただけ。

 症状だけを見て毒物の種類を特定することはただでさえ難しいのだし、所詮は模倣の術ゆえに、本物の葎花女仙と比べれば大きく精度が落ちる。

 それに何よりも、この毒はハルケギニアのものなので、央華世界に同じ毒があるのかどうかも怪しい。

 さすがに、術ひとつで簡単に正体を突き止めるというわけにはいかないようだ。

 

「……まあ。種類がわからなくても、なんとかすることはできますでしょ」

 

 努めて明るくそう言うと、治療に取り掛かる。

 

 まずは、先ほどと同じく空中からなにかを掴み取るような仕草をして、『養命丹』を作り出した。

 それを口元へもっていって雲状にし、夫人に吹きかける。

 身体に丸一日休息したに等しい恩恵を与え、不眠による疲労や持続している毒を消し去る効果があるこの丹煙を吸い込むことによって、夫人の顔色はいくらか良くなった。

 

 続けて、毒を消し去ることを専門とする丹、『毒掃丹』も同じように与える。

 数年前に摂取したという毒の成分がまだ体に残っていたとして、まずはそれを取り去ってしまわなくてはならない。

 出来の良し悪しによる失敗をなくすため、念には念を入れてひとつだけではなく、何個か続けて与えた。

 

「これで、毒はなくなりましたかしら?」

 

 眠り続けている夫人の様子にこれといった変化は見られず、成否のほどはわからない。

 だが、万事首尾よくいっているものと信じて、最後に『癒心丹』を与えた。

 この仙丹は、精神を蝕む永続的な狂気を取り去ってくれるものだ。

 

「まずは原因となった毒を体内から消し去り、その上で毒がもたらした狂気を拭い去ってさしあげれば、健常な状態に戻る道理……」

 

 手順は間違っていない……と思う。

 きっと成功した……はずだ。

 

 一抹の不安を覚えながらも自分にそう言い聞かせて、タバサの方を振り返った。

 

「……これで、わたくしにできる治療は済ませましたわ。お母上を、起こしてさしあげてくださいな」

 





薬調知(薬を知る):
 巫蠱術の初歩で、術者は対象の薬物(毒物も含む)の種類を見分けることができるようになる。
通常の薬や毒であれば難易度は1なので、大概の薬や毒は簡単に見分けることができる。
巫蠱の仙術で作られた丹や毒の場合には、その必要行使値が成功難易度となる。
薬物を実際に目にしていなくても、それを投与された生物の症状から種類を特定することもできるが、この場合は難易度が5上昇する。
この術は同じ対象に対しては1度しかかけることができず、再挑戦はできない。
 ハルケギニアの先住魔法で作られた『心を壊す毒』は央華世界には存在しないものだと考えられるため、この術で正体を突き止める難易度は非常に高いか、そもそも成功不可能だと思われる。

毒掃丹(毒を掃じる丹):
 巫蠱術で作り出される、さまざまな毒の効果を失わせる薬効をもった丹。
普通の毒を解毒する場合の成功難易度は4なので、ある程度腕の立つ術者なら大概の毒は簡単に消し去ってしまえる。
仙人や妖怪が作ったような毒を解毒する場合には、その毒の必要行使値が成功難易度となる。
もちろん、解毒したからといって既に負ってしまった心身のダメージまでもがなくなるわけではなく、それを癒すためにはまた別の手段が必要となる。
 ハルケギニアの系統魔法では歯が立たないほど強力な上に央華世界には存在しないと考えられる『心を壊す毒』は、解毒する難易度が非常に高いか、そもそも解毒不可能だと思われる。

癒心丹(心を癒す丹):
 高度な巫蠱術で作り出される、服用者の永続的狂気を治療してくれる丹。
ただし、この丹を使用した者は、精神値を1D÷2点(端数切り上げ)だけ永遠に失ってしまう。
 狂気に陥った原因は問わないので『心を壊す毒』が引き起こした狂気も癒すことができるが、体内にまだ毒が残ったままの状態では癒してもまたすぐに新たな狂気を発症してしまうため、症状の緩和程度にとどまる。

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