央華封神・異界伝~はるけぎにあ~   作:ローレンシウ

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第三十一話 妹写昔日姉

 

「……母さま。起きて」

 

 タバサは瑠螺に促されてためらいがちに頷くと、オルレアン公夫人の寝床へゆっくりと歩み寄り、右手でそっとその体を揺さぶりながら声をかけた。

 もう片方の手には、先ほど寝入った際に夫人が落とし、瑠螺が拾い上げてくれた人形を抱えている。

 

「……ぅ――」

 

 彼女が目を開けて、ぼうっと自分の方を見つめとき、タバサは期待と不安に身じろぎした。

 

 無意識のうちに、人形を抱えている手にぎゅっと力がこもる。

 もしも母の様子がいつもと変わらなかったら、すぐにそれを渡すつもりだった。

 できないと、娘を返せと言って暴れるから。

 

 だが、そうはならなかった。

 夫人は半ばぼうっとしたような、半ば困惑したようなまなざしを、タバサの方に向け続けている。

 

 もしかして、まだ寝惚けているのだろうか。

 自分が『娘』を腕に抱いていないことに、気が付いていないだけではないか。

 タバサは無意識のうちに自分の後ろに隠すようにしていた人形を、おそるおそる、母の目に見えるよう体の正面に持ってきた。

 

「……?」

 

 彼女の様子に、変化はない。

 人形には興味を示さず、じっと自分の方を見つめ続けている。

 

 タバサの顔が、喜びに輝いた。

 しっかりと母の手を取って、もう一度呼びかける。

 

「母さま」

 

 だが、そこまでだった。

 

「あ……、ぅ……?」

 

 暴れこそしないものの、目の前のタバサを娘と認めることもない。

 ただ困惑したような顔でじっと彼女を見つめたまま、されるがままになっている。

 

 タバサの顔が、わずかに曇った。

 母の手を握ったまま、背後の瑠螺の方を振り返る。

 いまだ葎花の姿をとったままの瑠螺は、それに答えてまた空中から丹をつかみだそうかとしたものの……。

 途中でその動きを止めると、苦しげに顔をしかめて、首を横に振った。

 

「これ以上、今のわたくしにできることはありませんわ。毒掃丹は、何度も繰り返しさしあげましたし。その他の丹は、成功の確証もないのにあまり続けて使うわけにはいきません。体や心に、負担をかけますから」

 

 養命丹は丸一昼夜の休息をとったに等しい活力を体に取り戻させる便利な薬丹だが、それだけに時として体に無理な負担がかかることがあり、あまり頻繁に服用していると寿命が削られていくと言われている。

 それに、毒掃丹を何度も服用させてなお取り除けなかった毒に対して成果が上がる見込みもほとんどないだろうから、危険を冒してまで繰り返し投与するようなものではない。

 

 癒心丹は永続的な狂気を取り除いてくれる素晴らしい丹だが、それは傷だらけになった珠をやすりで磨いて傷ついた部分を取り除き、一見元のままだが一回り小さい状態にするようなもの。

 つまりは、服用するたびに使用者の精神を摩耗させてしまうのだ。

 何度も投与し続ければ、たとえ狂気からは解放されたとしても恒久的な心神耗弱状態に陥って、結局は日常生活に支障をきたすようなことにもなりかねない。

 

「……そう」

 

 自分たちとはまったく異質で、常識外れに強力だと思えた瑠螺の力をもってしても、ここまでしか改善できないのだとすると……。

 やはり、昔のままの母は、もう戻ってはこないのかもしれない。

 そう認めて、瑠螺と出会って一度はよみがえってきた希望をまた失うというのは、とても辛いことだった。

 

(でも、それはわたしにとってのことだ)

 

 タバサは自分に、そう言い聞かせた。

 

 どうあれ、長い間どんな治療を施しても何の変化も見られなかった母の容態に、初めてはっきりとした改善の兆しが見られたではないか。

 ともかくも、常に敵の影に怯えながら必死に『娘』を守ろうとする、終わることのない闘争の苦痛から、母は解放されたのだ。

 それ以上を望むのは、母を完全に正気に戻してこの辛い現実の世界に引き戻したいなどと願うのは、あるいは単なる自分のわがままでしかないかもしれない。

 

 何よりも、母は毒をあおって以来、このような敵意も怯えもないまなざしを向けてくれたことなどなかったのだ。

 完全に正気に戻ったわけではなくとも、そのことは心の底から嬉しいと思っている。

 それに、ずっとこのままの状態だと決まったわけでもない。

 静養させ続ければ、あるいはいくらかでも昔のことを思い出してくれて、自分のことを娘だと認識してくれるようになったり、笑顔を見せてくれるようになったりもするかもしれない。

 

 何であれ、これだけのことをしてくれた相手に対して、この上なお少しでも不満のある様子を見せるなどという、あつかましく非礼な振る舞いをするべきではないだろう。

 

「わかった。母さまは、もう苦しんでいないようにみえる。あなたのおかげ」

 

 けれど、タバサがそう言って深々と頭を下げても、葎花への変化を解いた瑠螺は、下唇をぐっと噛んで悔しげな面持ちをしたままだった。

 常に無表情なタバサが、かすかながらも滅多に見られぬ笑みを浮かべてみせてくれても喜びはなく、むしろ胸の奥に小さな棘が刺さったような気分になった。

 妹の切なる望みをかなえてやれず、彼女に無理をさせてしまっている、と感じたからだ。

 

 長い間、母に敵意を向けられ拒絶され続けるという苦痛を味わってきたタバサからすれば、この状態でもずいぶんよくなったと感じられるものだったが、今日初めて夫人の姿を見る瑠螺にとってはそうは思えなかった。

 娘と思い込んだ人形に対する偏執や被害妄想はなくなったようだが、いまだに周囲の状況を理解できず身内も識別できない心神喪失状態のままだ。

 これではただ狂気の症状が変わっただけで、到底治せたなどといえるものではない。

 

(葎花師姉本人がここにいてくださったなら、どうにかなったかもしれぬものを……)

 

 豊かな知識と経験を持つ本物の葎花女仙その人であれば、よしんば術ひとつでどうにかすることまではできなかったとしても、じっくりと毒の性質を調べ、この世界にあるさまざまな材料を試してみることで、ある程度時間をかければなんとかできたかもしれない。

 いくら本人だと自分に言い聞かせてみたところで、やはり上っ面を模倣しただけの術では本物のそれとは比べるべくもないし、所詮は表面的な模倣で実際の知識や経験が伴っていないがゆえに、応用も効かないのだ。

 そうはいっても元となった術者の技量の高さゆえに、生中な巫蠱の道士を凌ぐほどの力を発揮できはするのだが、今回はさすがに分が悪いか。

 タバサが手を尽くして調べても解除法がわからなかったというほどの毒、それも異界のそれが相手では、正規の修行を経ていない模倣術だけでどうにかできるようなものではなかったようだ。

 

(……だが、なんとかしてやらねば)

 

 いつまでもないものねだりをしてみても仕方がない、自分で何か考えるより他にないだろう。

 清徳を積まんと志す仙人としても、妹想いの姉としても、ちょっと薬を与えてそれが利かなかったからというくらいのことで、早々と解決を諦めて投げ出すなどというわけにはいかないのだ。

 

 とはいえ、だからといって葎花師姉の力を借りる以外で、毒や薬に関してはまったく素人の自分に何ができるだろうか。

 

 毒に侵された今の体を殺して新しい体に取り換えるなどというのは、さすがに乱暴に過ぎるであろうし。

 以前の吸血鬼事件におけるアレクサンドルの場合は、元々の体が死んでしまっていたから新しい体を用意するしかなかったのであって、まだ生きている者を無暗に殺したり生き返らせたりなどと、命を軽々しく取り扱ってよいものではない。

 

(むむ……)

 

 瑠螺は一心に考えた末に、異世界の汎用的な解毒法でどうにかできるほど生易しい毒ではないとわかった以上は、やはりどうにかして用いられた毒の種類を突き止めなくてはならないだろうと結論を下した。

 

 そうすれば、解毒剤なり治療薬なりの作り方もわかるかもしれないし。

 あるいは、巫蠱の術とはまた別の方法で、どうにかしてやることができるかもしれない心当たりもある。

 

「……タバサや。礼を言うのは、まだ早いぞえ。わらわは、あくまでも今すぐにどうにかすることはできぬと言うたのであって、おぬしの母君にしてやれることがもうないなどとは思うておらぬ」

 

 瑠螺が優しくそう声をかけてやると、タバサははっとした様子で、わずかに目を見開いて彼女の顔を見つめる。

 そんな妹の傍らに歩み寄ると、瑠螺は床に膝を突くようにしてそっと夫人の手を取り、その髪を撫でてやった。

 

「ご婦人。わらわは必ずや、おぬしの心が元に戻るようにしてみせる。まだ若いおぬしが、ただここで静かに時を過ごすだけでなく、娘と言葉を交わし、共に遊んで笑い合える日が、また来るようにのう……」

 

 困惑したような目で、ただぼうっと自分の方を見つめてくる夫人を安心させるように穏やかに笑いかけながら、瑠螺ははっきりとそう約束した。

 

 この世界のことも、毒や心の病の問題についても何もわからぬお前に、本当に救うことなどできるのかと問われれば、それはわからない。

 いくつかの方法に心当たりはあるが、絶対の自信があるわけでもないのだし。

 できもせぬことを軽々しく約束したところで、後々より一層失望させることになるだけかもしれないのだから安易に誓いを立てたりするなと、兄の飛翔ならば言うかもしれぬ。

 

(それでも、あの子ならば)

 

 自分の妹分であり、しかるに見知らぬ異世界に放り込まれるという意味では大先輩な、あの来星晶ならば。

 必ずや、同じように約束することだろうと思う。

 

『心が弱っている人を見たら、励ましてやれ。できると思わなくても、とにかく約束するんだ。絶対に力になってやるからって。してしまえば、やらずにはいられなくなる。やれると思ったら、できるようになるもんだ』

 

 彼女はいつでも、央華という異世界の大道の下にあってさえも、幼い頃に故郷の父親から聞かされたというその教えに忠実であった。

 姉として、そんな妹に対して面目が立たないような振る舞いはしたくない。

 ここが異世界であろうと、状況がどうあろうと。

 自分はただ仙人として、己が信ずる善行を成すのみだ。

 

「……それでは、わらわは失礼いたす。こちらのご息女方は、いましばらくお借りしたい」

 

 ややあって立ち上がった瑠螺はそう言うと、人形を抱いたまま自分の傍らでじっと佇んでいたその様子を見守っていたタバサを促して、部屋から退出していった……。

 

 

「おぬしの母君が飲んだという毒について、何か種類などを特定できそうな心当たりはないかのう?」

 

 客間に戻ってきた瑠螺は、ソファに座って擦り切れた人形の繕いをしながら、向かいに座るタバサにそう尋ねてみた。

 

 ちなみにペルスランはというと、戻ってきたタバサから夫人の様子に改善が見られたことを聞かされて、瑠螺に何度も何度も礼を言いながら彼女の寝室へ向かっていった。

 今や、この屋敷で唯一の使用人である彼には、するべきことがたくさんあるのだ。

 これまでは人形を片時も手放そうとしないために風呂に入れることもできなかった夫人の体を清める役目は、後で娘のタバサにやってもらうにしても。

 まずは夫人が怯えるために長居できなかった部屋をきちんと掃除して、暴れたときに危険なために置いておけなかった家具を運び入れて、大公夫人の私室に相応しい快適な部屋に戻してやらなくてはならないだろう。

 

「…………」

 

 質問を受けたタバサは、その答えに今後の母の運命がかかっているかもしれないということもあって、一心に自分の記憶を探ってみた。

 

 だが、もちろん毒の種類を突き止めようという試みは、彼女自身もこれまでに何度もやってきたことである。

 どうがんばってみても、今さら新しく気付けるようなことはありそうになかった。

 

 母の飲んだ薬については、従兄弟のイザベラから『心を失わせる薬』だと聞かされただけだ。

 体や心に作用するような薬は水魔法で作るものであるから、その一種だろうとは推察されるが、正確な種類までは定かでない。

 とりあえず、書物に載っているような一般的な薬で該当しそうなものはなかったので、おそらくはガリア王族の権威で優秀なスクウェア・クラスの『水』の使い手に命じて独自に調合させた、特殊な毒物なのかもしれない。

 

 伯父に呼び出されて城に行き、母が毒を飲んだあの日のことは、正直よく覚えていなかった。

 すべてが、悪夢の中のように曖昧だった。

 母が毒を飲んで崩れ落ちるのを見た瞬間、自分も意識を失ってしまった。

 飲んだ毒物の色は血のように赤く、ワインの杯に入れられていたことだけは覚えている。

 だがもちろん、そんなものは無色透明な毒をワインに混ぜたか何かして着色しただけかもしれないから、何の手掛かりにもなりはしない。

 現実を受け容れることもできずに自分の殻の中に閉じこもり、ただただこれは夢だと自分に言い聞かせ続けて周囲からの情報を必死に遮断しようとしていた、あの時の自分の弱さが悔しくてならなかった。

 もしもしっかりと目を見開いてすべてを見つめ続けていられたなら、あるいは大切な何かを見聞きし覚えておいて、瑠螺に必要な情報を提供できたかもしれないというのに。

 

 タバサはそれらのことを、瑠螺に正直に伝えた。

 

「ふむ、そうか」

 

 あっさりと頷いた瑠螺の表情には、いささかの落胆の色も見えない。

 そのことが、タバサの慰めにもなった。

 

 実際、やると決めた以上はどうあろうとやり遂げるのだから、このくらいのことはつまづいたうちにも入らないと思っていた。

 

(では、どうするか?)

 

 書物をあたったり、水魔法とやらに詳しい者に聞き込みをしたりするというようなことは、これまでにタバサがさんざんしているだろうから、望みは薄い。

 タバサが覚えていないという、実際に毒物を与えられた時の状況を探ってみるのが、まずは一番可能性が高いように思えた。

 当人が覚えておらずとも、カジノでも用いた『祈願 三尸憶探』の仙術をもってすれば、当時の記憶を探ることができるのだから。

 

 しかし、タバサは夫人が倒れた後は気を失ってしまったということであるから、それ以降の情報は記憶を探ってみても得られないだろうし。

 夫人も同じように倒れ、しかもその後は狂気に侵されてしまったというのでは、三尸を用いても正しく記憶を探れるかどうか。

 

 二人が揃って倒れた後にこそ向こうの気も緩んだはずで、内密な話もその場で行われたかもしれないし。

 中にはどんな毒物なのかを口にした者さえ、あるいはいたかもしれない。

 だから、可能ならば是非ともそこまで探りたかった。

 タバサの記憶を探って現場にいた者たちの顔や名前がわかれば、次にその者たちを捕まえて同じように記憶を探ってみるという手もあるが、当然ながら手間がかかるし、危険も伴うだろう。

 

「…………」

 

 瑠螺がそこで目を向けたのは、ちょうど繕いが終わったばかりの、手の中の人形だった……。

 

 

 タバサの許可を得た瑠螺は、まだ残っている『賦命丹』をひとつ口に放り込んで噛み砕くと、淡い桃色をした薬丹の息を手の中の人形に吹きかけてやった。

 

 すぐに、人形はぴくぴくと動き始めた。

 最初は操り人形のようにぎこちなく、自分の手や足を確かめるように。

 徐々にその動きも滑らかになり、体が膨らみ始め……、真物の精気を得て、姿形も変わっていく。

 瑠螺はそれを確認すると、そっと人形を床に下ろしてやった。

 

 完全に人の姿形と大きさになったその人形は、まるでタバサに瓜二つ。

 ただ、髪の長さだけが違う。

 十二歳になるまでのタバサ、いやシャルロット自身がそうしていたように、その人形は鮮やかな青髪を長く伸ばしていた。

 

 人形はしばしの間は何が起こったのかもわからぬ様子できょとんとしていたが、じきにタバサの姿を認めると、ぱっと顔を輝かせて彼女に飛びついていく。

 

「シャルロット姉さま、おかえりなさい! お話しができて、うれしいわ!」

 

 見た目こそそっくりであっても、その雰囲気はまるで違っている。

 常に無表情な『人間の』タバサとは違って、わずかにつり上がった目を利発そうに輝かせながら満面の笑みを浮かべた様子は、どこまでも無邪気で快活そうだった。

 初見の人間にどちらが人形の化生だと思うかと尋ねたら、ほとんどの者が誤った方を選んでしまうことだろう。

 

(薬丹の力でようやっと人型をとれるようになったばかりにしては、ずいぶんと人間らしい子じゃのう)

 

 瑠螺はそんな感想を抱きながら、その様子を眺めやっていた。

 普通は、生命をもたぬ器物が人間の姿をとれるようになったからといって、内面まですぐさま人間らしくなるわけではない。

 親しい仙人仲間のひとりである秀弦生などは……彼は琴の化生であるが……人間の感情というものをよく理解できないと言って、それをわかるようになることを長年の目的としていたくらいなのだが。

 

 おそらくは、彼女が初めから人間を模した形に作られ、人間のすぐ近くに置かれてその生活を見つめてきた人形であるがゆえか。

 人に似たものとして作られたからこそ、その振る舞いを真似るということが、彼女にとって自然なありかたなのだ。

 

(それに、長い間ずいぶんと大切にされてきたから、ということもあろうなあ)

 

 幼少期のタバサ……いやシャルロットは、きっとこの人形を、ずいぶんとかわいがってきたのだろう。

 幾度となく、一緒に遊んだのだろう。

 この『人形の』タバサの活き活きとした姿は、父を亡くし母も変わり果て、自身は命がけの日々を送ることになって明るさを失ったという事件以前の、シャルロット本人のそれを模したものであるに違いない。

 

 もちろん、狂気に侵されて歪んだ認識によるものとはいえ、我が子を守ろうとするオルレアン公夫人からの真摯な愛情を、ここ数年の間ずっと注がれ続けていたからということもあろう。

 強い想いの込められた器物は、それだけ心を宿しやすくなるものだ。

 

「お久しぶりね! ねえ、聞いて。母さまったら、最近はずっとわたしを抱きしめて離さないのよ。それにね、タバサのことをシャルロットだなんてお呼びになるの。おかしいでしょ?」

 

 そんな瑠螺の思いをよそに、ようやく自身の口で『姉』と話せるようになった人形は、喜色満面で話し続けている。

 

「わたし、そんなに姉さまによく似てるのかしら? そうだったらうれしいけど。でも、きっと姉さまがこのお家を出て行かれたから、寂しがっておられるのよね!」

「…………」

 

 自分で許可したこととはいえ、動けるようになったタバサに突然そんな風に懐かれて、シャルロットはどうしていいものかわからずにいる様子だった。

 そんな、昔のように明るく笑いかけたり話しかけたりしてくれない姉に不平を漏らすでもなく、タバサは話し続ける。

 いくら人間らしく振る舞っているとはいえ、それはかつての姉の姿を模しているだけで、まだ本当の心の機微などにはうといのだ。

 

「ねえ、また一緒にダンスをしましょうよ。父さまの前でわたしを踊らせてくださったあのダンスの振り付け、タバサはちゃんと覚えてるわ。それとも、ご本を読んだり、おままごとをしたりする? わたし、イーヴァルディの絵本が好きよ。だって、姉さまもお好きだから」

 

 どこまでも無邪気げにそう言われて、シャルロットの目が一瞬、遠くを見るようなものになる。

 穏やかだった日々のことが思い出された。

 目の前には、その頃の自分の姿をそのまま留めた、『妹』がいる。

 

(目の前に……)

 

 だからこそ、ここにいる今の自分はもう、その頃のままではないのだ。

 シャルロットはかすかに寂しげな笑みを浮かべると、首を横に振った。

 

「……だめ? 忙しいの?」

「そう」

「そうなの。じゃあ、また今度ね?」

 

 シャルロットは何も答えずにそんなタバサをそっと抱きしめると、瑠螺の方を示して、あの人の頼みを聞いてほしいと伝えた。

 タバサは姉から頼みごとをされたのが嬉しかったのか、顔を輝かせて、今度は瑠螺の方に駆け寄る。

 

「ご挨拶が遅れてごめんなさい。あなたがわたしを手当てして、姉さまと話せるようにしてくださったのよね。ありがとう、お名前をお聞きしても?」

 

 そう言って、パーティにでも連れていかれたときに覚えたのか、優雅な礼をしてみせた。

 瑠螺は屈みこむと、微笑みながらそんなタバサの頭を撫でてやる。

 

「なに、気にされるな。わらわは瑠螺という者じゃ。今日はおぬしに、いくつか尋ねたいことがあって」

 

 そう前置きをしてから、瑠螺はまず、オルレアン公夫人が毒を飲まされて、現在具合が悪いことを話した。

 タバサは、きょとんとしている。

 

「母さまが毒? 毒って……おとぎばなしに出てくる、りんごとかに混ぜる……」

「ああ、そうか。そのようなこと、おぬしが知っておるはずもないのう」

 

 彼女が毒について知っているのは、姉と一緒に読んだ絵本や何かに書いてあった知識だけなのであろう。

 瑠螺は、毒とは体の調子を壊させる悪い飲み物や食べ物のことで、誰かがわざと夫人にそんなものを飲ませたのだ、と説明してやった。

 

「まあ、ひどいいたずら! 一体どこの悪い子が、そんなことをしたの?」

「それがわからぬのじゃ。でも、もしかしたら、タバサが何か知っておるかもしれぬ」

 

 ぷんすかと憤慨するタバサに苦笑しながらも、瑠螺は夫人が毒を飲まされた晩のことを何か覚えていないか、彼女が理解できるよう慎重に言葉を選んで尋ねてみた。

 まだ命をもたなかった頃の記憶は曖昧ではあろうが、『面相墨』で一時的に命を得た器物がそれなりに情報を与えてくれることからもわかるように、何も覚えていないというわけではない。

 特に、人間を模する存在である彼女ならば、物事の認識もかなり人のそれに近いかもしれないので、役に立つ情報を聞き出し得ると踏んだのだ。

 それが駄目でも、彼女の記憶を『祈願 三尸憶探』で読むという方法はあるが、まだ命をもたない器物だった頃の記憶までこの仙術で詳細に辿れるかどうかはわからない。

 

 タバサはそれでもなかなか瑠螺の質問した内容を飲み込めない様子だったが、そこへ横合いからシャルロットが助け舟を出してくれた。

 

「母さまとわたしが、城のパーティで倒れた日のこと」

「ああ、あのときのこと? びっくりしたわ! そういえば、あれからあんまり姉さまは戻ってこられなくなったし、母さまはわたしを離さなくなって。もしかして、お具合が悪くなられたせいだったの?」

 

 もちろん、大切な二人に常ならぬ異変があったときのことならば、彼女もよく覚えている。

 姉さまは大丈夫なの? と、心配げにお腹などをさすってくれるタバサを安心させるように少し微笑みかけてやりながら、シャルロットは何か飲まされた毒の種類とか、毒を作った相手がわかりそうな手がかりを覚えていないかと、重ねて彼女に尋ねた。

 

「うーん……。別に何も……」

 

 タバサは眉根を寄せて考え込んでいたが、ふと気が付いたようにぽんと手を打った。

 

「あ、そうだ。思い出したわ。倒れた母さまを、ジョゼフ伯父さまがベッドに運んで寝かしつけるときに言ってたの。『さすがはエルフの毒だ、大した効き目だな』って」

 

 よく屋敷を訪れては、中庭のポーチで『父』であるシャルルと酒を飲んだり、チェスを指したりしていた伯父のことは、しっかりと覚えているし。

 エルフという言葉も、姉と共に読んだ英雄物語などに何度も出て来たので覚えている。

 

 それを聞いたシャルロットは、はっと目を見開いた。

 

「それで、姉さまとわたしを運んでくれてた、耳のとんがった男の人が返事をしたのよ。帽子をかぶって隠してるみたいだったけど、わたしの位置からはよく見えたの。返事は、確か……。『それは、賞賛してくれているつもりなのか?』とか……」

 

 それじゃあ、あの人がエルフで、そんなひどいいたずらをしたのね? と、義憤……というにはかわいらしい怒りに燃えるタバサをよそに、シャルロットは愕然としていた。

 

 まさか、ガリア王家が……いや、あの男が、始祖の時代からの大敵とされるエルフとのつながりを持っていたとは。

 だが考えてみれば、ハルケギニアでも随一の大国の王ともなれば、敵対する種族の指導者層とも停戦や和解などの交渉を行うために、何らかのつながりを維持していても不思議ではない。

 しかし、よもや王城内に堂々とエルフを招き入れ、その力を借りているとまでは想像もしなかった。

 

 だが、考えてみればつい先ほど、一介の平民でカジノの経営者に過ぎない男ですら、先住魔法の力を使う幻獣を利用している事例を見たばかりではなかったか。

 そんな経験をした時点で、先住魔法による毒物、その可能性にどうして思い至らなかったのかと考えると、自分の頭を殴りつけたくなった。

 なるほど先住魔法による毒物、それも最上位の使い手と目されるエルフの作り出したものならば、自分たちの用いる系統魔法や、瑠螺の用いる不可思議な力でさえも歯が立たなかったことにも納得がいく。

 

「ふうむ。エルフというのは確か、人間と敵対しておる種族で、東方の砂漠地帯に住んでおるのだとか聞いたが……。そうなると、わらわが交渉に赴いて、その毒物とやらについて尋ねてみるのがよいであろうか」

 

 自分は人間ではないから、その方が話を聞いてもらいやすいかもしれない。

 オルレアン公夫人が飲まされた毒物を作ったと思われる、そのエルフ本人を捕まえて聞き出してやりたいのは山々だが、現在の居場所などはわからないし。

 記憶を読むなどの強引な方法を使うのでなければ、無関係な相手からの方が情報を得やすいことだろう。

 

 しかし、そんな瑠螺の呟きに、シャルロットはすぐさま首を横に振って反対した。

 

「危険。そこまでは頼めない」

 

 エルフと言えば、ハルケギニアの人間ならば誰でも、単身で腕利きのメイジ10人にも匹敵しようかと謳われるその恐るべき強さを思って震えあがる相手だ。

 自分自身、ドラゴンとエルフは絶対に戦いたくない相手の筆頭である。

 そのエルフの本拠地に自ら赴いて、交渉をしようだなどと。

 もしも戦いとなったときには瑠螺でも敵うかどうかはわからない、事実彼らが作ったという毒の効力を、彼女は完全には解除できなかったのだから。

 

 とてもではないが、そんな危険を冒してくれとお願いすることはできなかった。

 母は救いたいが、彼女にだって死んでほしくはないのだ。

 

「しかし……」

「エルフの作った先住の毒だとわかった、今はそれで十分。他にも調べる方法はある、わたしも本をあたってみる。焦る必要はない」

「……わかった。では、もう少しいろいろと調べてみて、最後の手段ということにしようかのう」

 

 シャルロットの有無を言わせない強い調子に、瑠螺もやむなく頷いた。

 

 本人の娘であり大切な妹でもある彼女がそう言っている以上は、あの夫人を救うという仕事は長期戦のつもりで取り掛からねばなるまい。

 まあ、仙人としては、解決までに数か月から数年、ことによると数十年かそれ以上もかかるような仕事に取り組むことも、さして珍しくはないが……。

 

(それにしても、あの娘が年老いて、この子らと共に遊べなくなる前には片をつけねばのう。わしとて、こちらの世界にいつまでおれるかはわからんことだし……)

 

 瑠螺がそう考えているところへ、タバサが横から口を挟んだ。

 

「お話しは終わり? じゃあ、みんなでお茶の時間にしましょうよ。姉さまったら、最近は忙しがって、ちっとも遊んでくださらないんだもの。お茶くらい、付き合ってもらいたいわ」

 

 不満げにぷうっと頬を膨らませてのそんな無邪気な提案に、瑠螺とシャルロットは顔を見合わせる。

 そして、微笑んで頷き合った。

 

「そうじゃな。タバ……いや、シャルロットも疲れたことであろうし。ひと休みしようかの」

 

 途端に、タバサの顔がぱあっと輝いた。

 

「わあ、いいの? 姉さま、おままごとで淹れてくださった、はしばみ草のハーブティーはどこ? わたし、ずっと飲みたいと思っていたのよ。ドラゴンケーキはある?」

「こっち。ドラゴンケーキはないから、オートケーキで我慢して」

 

 その準備の途中で戻ってきたペルスランは、事情を聞いて驚いたものの、まるで昔のお嬢さまが戻ってこられたようだと喜んで、自分もタバサから勧められるままに茶会に招かれた。

 そうしてしばしの楽しいお茶会が終わると、タバサはふあああ、とあくびをする。

 

「ああ、なんだか、眠くなってきたわ。ねえ、姉さま。お昼寝をしてもい……い……?」

 

 そうして、かっくりとソファーの上で寝落ちをすると同時に、しゅるしゅると縮んで、元の人形に戻ってしまった。

 リンやレンと違って、まだ作られてから日が浅い彼女には、いくら強い想いを注がれていたにしても恒久的な命を得られるほどには精気が蓄えられていなかったのであろう。

 

「まあ、一度は命を得たことであるし……。いま少し天地の精気を蓄えれば、再び人型を取ることもあるじゃろう」

 

 もちろん、もう少し『賦命丹』を与えてやれば今すぐにでも真物の命を得るであろうが、今のところ補給のあてがない以上は無暗に消費するわけにはいかない。

 瑠螺は人形に戻ったタバサを抱き上げ、そっと撫でてやると、ペルスランに手渡した。

 彼は主に対するような恭しい態度で、それを受け取る。

 

「ご婦人の部屋に戻してあげておくれ。できれば、窓の近くに。その方が、外からの自然の精気を蓄えやすいでな」

「かしこまりました。そのようにいたします」

 

 幸い、この近くにはいかにも澄んだ精気に満ちていそうな、美しい湖もあることだし……。

 

「……おお、そうじゃ」

 

 そこまで考えて、瑠螺はふと思い出した。

 ルイズの元へ戻る前に、もうひとつ解決しておかねばならぬ疑問があったことを。

 

「そういえば、ここへ来る途中に見た感じでは、あの湖の水位が妙に上がっておるようじゃったが。それに関しては、何か心当たりはないかのう?」

 


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