「ああ。それでしたら、このあたりの領民たちが話しておりました。二年ほど前から、湖の水位が上がってきていると」
瑠螺の質問に対してそう教えてくれたのは、執事のペルスランである。
四六時中夫人の身の回りの世話やこの屋敷の手入れをしている彼は外部の情報にはうといものの、そうは言っても当然ながら、近隣の住民とある程度の接触はあった。
「なんでも、ラグドリアン湖に棲まう水の精霊が、機嫌を損ねたのだという噂です。ですが、今のところはガリアもトリステインも、解決のために人員を派遣することはしておらぬようで……」
ペルスランは、そう言って溜息を吐いた。
水の精霊は始祖ブリミルの時代には既にこのハルケギニアに存在していたという歳経た強大な存在であるから、退治など容易ならぬことだし、交渉して増水を止めてもらうにしても危険が伴うので、みな尻込みをしてしまう。
今のところはまだ湖岸のわずかな土地が水没した程度であり、国家全体として見れば些事なのだから、より差し迫った他の問題が先決だと後回しにされているのはまあ、無理もないことなのだろう。
だがこのままでは、実家の場所も近いのだからとそのうちにまた大切なお嬢さまに危険な任務が押し付けられることになるに違いない。
そう考えると、気が重くなるのだった。
「水の精霊……とな?」
瑠螺は、軽く首を傾げた。
央華でいうところの、湖の土地神のようなものだろうか。
「水の精霊は、わたしたちとはまったく違う存在。水の塊のような姿をしていて、その体は魔法薬の材料にもなる。メイジは交渉で、先住魔法の使い手は契約で、精霊の力を借りることがある」
タバサ(もちろん人形ではなく、シャルロットの方だ)が、横合いからいろいろと説明をしてくれた。
「ふうむ。なるほどのう……」
央華で言えば、やはり土地神か、あるいは五生百怪の類だろうか。
とはいえ世界が違うのだし、類似点はあるにしても、まったく異なる存在なのかもしれないが。
「なんにせよ、その者が水を増やしておることは間違いないわけなのじゃな?」
ならば、捨て置くわけにはいくまい。
他にする者がいないであれば、ひとつ自分が話をしてみようと、瑠螺はそう提案した。
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「確かに、水が増えている」
人目を避けるために夜まで待ったうえで瑠螺をラグドリアンの湖畔へ案内したタバサは、湖を眺めながらそう言って、小さく首を傾げた。
まだ両親が健在だったころ、このあたりに遊びに来た時には、岸辺は確かもっと先の方にあったはずだ。
それに、木や草花、いくつかの小屋や道などが水面下に呑まれている様子が、双月の光に照らされて見える範囲だけでもはっきりと確認できている。
「きゅい……。シルフィは普段、水の精霊とはお付き合いしないけど。なんだか、普通と違うわ。機嫌を損ねているみたいな感じなのね」
シルフィードは、水辺に屈みこんで水面に尻尾をぽちゃんと浸しながら、そう呟く。
これから水の精霊との交渉を試みるということで、先住魔法の使い手で精霊に詳しい彼女をタバサが呼び戻し、協力を要請したのだった。
「ふむ、ペルスランどのから聞いたとおりじゃな」
瑠螺は頷くと、シルフィードの方を見た。
「して、シルフィードや。おぬしの力でその水の精霊とやらを呼び出してもらって、話をすることはできるかのう?」
自分が話をしてみようなどといっておいて、彼女に頼り切りというのも情けないような気はするものの。
現実的に考えて、精霊との対話に慣れているシルフィードに呼び出してもらうのが、一番安全で話がうまく進みそうな方法に思えた。
もし仮に自分がやるとしたら、湖の中に入っていって直接探すか、もしくは『妖怪誘唱(妖怪を誘う歌)』で召喚を試みるかになるだろうが、ただでさえ機嫌を損ねているところへそんな不躾な真似をしたら、交渉する前から相手を怒らせてしまう可能性が高そうだ。
「うー。機嫌の悪い精霊を呼び出して、水をぶっかけられたりしないか心配だけど……。お姉さまたちの頼みなら、やってみるのね」
一度はそう言ったものの、それから、困ったように首を傾げる。
「……きゅい。でも、湖の底まで声を届かせないと、水の精霊は気付いてくれないかも?」
水韻竜などの水の力に慣れ親しんだ種族であれば、水の精霊と契約を行う時の作法にも詳しいのだろうが。
そうでないシルフィードでは、ひとまず精霊と話すときに汎用的に用いられる先住言語で応答してくれるよう呼びかけてみるくらいしか術がなかった。
だが、彼女は水の精霊とは契約していないので、水中に声を響かせるような呪文は使えないのである。
これが空気中であれば、契約している風の精霊の力を借りることで相当遠くまででも声を届かせられるのだが、空気のない水中ではそれも役には立たないだろう。
「なら、わたしが空気の球をつくる。その中に入って、精霊の近くまで行けばいい」
タバサがそう提案するものの、シルフィードは冗談じゃないとぶるぶる震えて頭を振った。
「いやいや! シルフィは誇り高い風韻竜です、湖の底になんか潜りたくありません。大体にして、頼りになる風もない水底で、もしも空気の球が破れでもしたらどうするのね。腹を立てた水の精霊に、何をされるかわからないのね!」
シルフィードが怯えるのも、無理はなかった。
ハルケギニアの水魔法は、ただ水流を操るだけではない。
生物の体内にある水の流れを操作することで、生命や精神をも掌握してしまえるのである。
ことに、水の力そのものの塊といってもよい水の精霊にとっては、それは呼吸をするのと同じくらいにたやすいこと。
精霊の住処にずけずけと入っていって機嫌を損ねた上に、その力に無防備に身を晒してしまったが最後、一瞬にして心を奪われるか、あるいは窒息死させられるかだろう。
とはいえ、瑠螺もそう簡単に諦めるというわけにはいかないため、代替案を出して彼女を説得にかかる。
「ならば、わらわが水の中で声を届かせられるようになる術をかけて進ぜるゆえ、ここからでもよいから呼びかけてみておくれ。もしも危険がありそうだったら、すぐに水面から離れればよいであろう?」
「何か起きたら、空気の膜を張ってすぐに水からあなたを守れるよう待機しておく」
結局、シルフィードは二人のその提案を受け容れることになった。
瑠螺に『命水行呼吸 息(水行に命じて呼吸する、息せよ)』と『命水行通語 届(水行に命じて語を通ず、届け)』の仙術をかけてもらって、水辺から首を突っ込む。
そこから、大きな体に似合ぬ高い澄んだ声で、まるで歌を口ずさんでいるかのような先住の言語を使って、彼女は水底のあたりにいると思われる精霊に呼び掛け続けた。
しばらくの間そうした後に、シルフィードは唐突にぴたりと口をつぐんで顔を上げると、姉たちの待機しているあたりまでいそいそと後退する。
「……きたのね」
緊張した声で彼女がそう言った直後に、離れた水面が光りだした。
瑠螺らが立っている岸辺から三十メイルほど離れた水面の下が、眩いばかりに輝いている。
次いで、水面が盛り上がって、うねうねとうごめく。
きらめく巨大な水塊のような姿をしたそれは、明らかに命をもつ生物だった。
(あれが、水の精霊とやらか)
心中で感慨深げにそう呟いた瑠螺をよそに、シルフィードはまた一歩進み出ると翼を広げて、その生物に再び歌うような先住の言語で話しかけた。
それに応じるように、盛り上がった水面が、見えない手にこねられているかのごとくぐねぐねと形を変えていく。
そうしながら、水の精霊は一体どこから声を出しているものか、シルフィードの言葉に返答を返した。
瑠螺やタバサには言葉の意味はわからないものの、その声はまるで磯に打ち寄せる波の音や、水泡のはじける音のような響きだ。
そうして何度か言葉のやり取りを交わした後、シルフィードはこくこくと頷いてから、姉たちの方を見た。
「リュウラお姉さま、タバサお姉さま。水の精霊は、こう言っているのね。『お前たちが我と交渉か契約をもちたいというのならば、まずは誠意の証として己のことを紹介するがいい。そうするなら、話くらいは聞いてやってもいい』って」
「なるほど。それは、もっともなことじゃな」
進み出て挨拶をしようとした瑠螺をシルフィードが押しとどめて、首を横に振る。
「そうじゃないのね。そんな人間のするような挨拶だけじゃ、水の精霊は自己紹介をしたとは認めてくれないのね」
シルフィードは、水の精霊が求めている自己紹介とは、体を流れる液体……つまりは血を、湖に滴らせることなのだと説明した。
そうすることで、水の精霊は指紋のようにひとつひとつの生物ごとに違っている水の流れ方を覚えて、誤ることなくその個体を識別できるようになるのだという。
「なるほど、血か」
瑠螺は特に不思議がるでもなく頷いて袖口から宝剣を取り出すと、それを軽く指先に走らせて、血を数滴ばかり水面に滴らせた。
次いで、その剣を貸りたタバサも指先を軽く突いて、小さな血の玉を一滴、水面に放る。
最後にシルフィードが、タバサに尻尾の先端をほんのちょっとだけ刺してもらうと、それを水に浸した。
それを受けて、水の精霊の変形する様子が変わっていく。
「きゅい?」
まずは、シルフィードにそっくりな、しかし本物よりはかなり小さい姿になった。
きらきらと輝く、氷の彫像か何かのようだ。
「――お前は、風と語らう者――」
その姿の水の精霊の口から……かどうかはわからないが、とにかくどこかから……、初めて、瑠螺やタバサにもわかる人間の言葉が発せられた。
しかし、いつまでもその形態をとり続けはせず、再び姿を変えていく。
「…………」
今度は、タバサにそっくりな姿になった。
ただし、シルフィードの時とは逆で本物より一回りかそれ以上も大きく、着衣や眼鏡を身に付けていない。
「――お前は、青き髪の一族に連なる者――」
精霊のその言葉を聞いたタバサは、一瞬ぴくりと眉を動かしたが、何も言わなかった。
おそらくは、過去にガリア王族の祖先にあたる誰かが、今の自分たちと同じように精霊に『自己紹介』をしたことがあるのだろう。
体内を流れる液体の特徴から血統を辿ることくらいは、この精霊にとってはたやすいことなのに違いない。
彼女がそう考えている間にも、精霊は姿を変え続ける。
「……ほう。これは、また……」
瑠螺は、いささか感嘆したようにそう呟いた。
水の精霊は、まずはタバサの時と同じく、裸の瑠螺の姿をとった。
しかし、すぐにまた姿を変えると、今度は六本の尾を広げた優美な狐の姿をとってみせたのである。
つまりは変化していない彼女の本来の形態を、血を一滴調べただけで看破したのだ。
タバサは興味深そうに、姉の本来の姿を象ったそれをじっと見つめる。
一方で、たやすく瑠螺の正体を看破した水の精霊は、その姿のままぐねぐねと奇妙にうごめいたり、さまざまな姿勢をとったりしていた。
その様子は、何やら少し困惑でもしているかのように見える。
ややあって、精霊は言葉を発した。
「――お前は……? お前は、我の知らぬ水を宿している。この世界の天地を、いまだ巡ったことのない水を。単なる者よ、お前は、我とは異なる理に従う存在のようだ――」
「……なんと。おぬしには、そのようなことまでわかるというのか? 一体、どうやって」
「単なる者よ。我にとっては、どうしてお前たちにはそのような明白なことがわからないのかということのほうが、理解に苦しむ。ゆえに、説明する術をもたぬ」
その答えを聞いて、なるほどそういうものかもしれないな、と瑠螺は納得した。
要するに、水の精霊にとっては当たり前のその知覚能力を、自分たちは持っていないということなのだろう。
生まれたときから目の見えない者に、色の違いを目が見える者が理解しているのと同じくらいに正しく理解させろと言われても、それは無理難題であるに違いない。
「奇妙な者たちよ。そのような話をするために、我を呼び出したわけではないのだろう。要件を言うがいい」
「おお、そうであった」
瑠螺は気を取り直すと、本題に入ることにした。
どうして湖を増水させているのか、何か理由があるのなら聞かせてはもらえないか、と。
「このあたりに住む者はみな、困っておるのじゃ。陸の動物も、草木も、水の下では暮らせぬからのう。どうか、やめてはもらえまいか。もし、おぬしの側にやむにやまれぬ理由があるのなら、我らが力になれるやもしれぬ」
タバサもシルフィードも、うんうんと頷く。
水の精霊は、ゆっくりと大きくなった。
そして、またさまざまに姿を変えたり、いろいろなポーズをとったりしてしばらく考え込んだ後に、返事をする。
「……よいだろう。いずれにせよ、秘宝はいま、我が手を離れてしまっている。いまさらお前たちに聞かせたところで、害にはなるまいと思う」
「たからもの、なのね?」
シルフィードがきょとんとして、そう呟いた。
「そうだ。風と語らう者よ」
水の精霊はそう言って何度かぐねぐねと形状を変えた後に、今度はタバサの姿になって、彼女の方に向いて語り始めた。
「かつて、数えるほどもおろかしいほど月が交差する時の間、我が守りし秘宝がここにはあった。それを、お前の同胞が盗んだのだ」
タバサは、小さく首を傾げる。
「人間が?」
「そうだ。人間の手によって、我が暮らすもっとも深き水の底からその秘宝が盗まれたのは、月が三十ほど交差する前の晩のことだった」
タバサはさっと計算して、おおよそ二年前ということになるな、と考えた。
「我は、それを取り戻したいと願う。ゆえに、我は水を増やしている。水がすべてを覆い尽くすその時までには、我が体が秘宝のありかを知ることになるだろう」
「それはまた、気の長い話じゃな」
「異なる理に従う者よ。個でもあり全でもある我と、単なる者であるお前たちとでは、時に対する概念が違うのだろう。我にとっては、明日も未来もあまり変わらぬ。永遠に戻らぬのといずれ戻るのとでは違うが、戻りさえするならば、そのときがいつになるかは大した問題ではない」
瑠螺は、得心がいったという様子で頷いた。
「なるほどのう。そういうものか……」
仙人の感覚からしてさえ、悠長に過ぎると思えるような話だが。
そのようなあり方の生物も世の中にはいるのだということ自体は、別に不思議とは思わなかった。
瑠螺とて、これまでにも蝗族などの、人間や狐などとはまったく価値観や思考の仕方が異なる種族とも、それなりに付き合った経験はあるのだし。
先ほどのやり取りからしても、自分たちとは非常に異質な存在であることは、既にわかっているのだから。
「それで、そのたからものっていうのは? 一体、どんなものなのね」
「秘宝の名は、アンドバリの指輪、という。我と共に、長い時を過ごした指輪だ。誰が作ったものかは知らぬが、お前たちがこの地にやってきたときには既に存在した」
「聞いたことがある。『水』系統の伝説のマジックアイテムで、死者に偽りの命を与えると言われている」
タバサのその言葉を、水の精霊も肯定した。
「いかにも。死は我にはない概念ゆえ理解できぬが、死を免れぬお前たちにはその力が魅力だと思えるのかもしれぬ。しかしながら、アンドバリの指輪がもたらすものは偽りの命。旧き水の力に過ぎぬ。それを注ぎ込まれた者は、指輪を用いた者に従う傀儡と化すのみ。所詮、益にはならぬ」
個々に意思があるというのは不便なものだな、と呟いた精霊をよそに、シルフィードは身を縮こまらせた。
「きゅいい……。まったく、趣味が悪いのね。死んだ人を操るだなんて、『大いなる意思』の御心に反しているのね」
「盗んだのは、どんな相手?」
タバサのその質問に、水の精霊が答える。
「風の力を行使して、数個体が我の住処にやってきた。眠る我には手を触れず、秘宝のみを持ち去っていった」
「ふむ。何か、手掛かりはないのかえ? 特徴とか、名前とか……」
「残念ながら、盗人どもは風に包まれていて、我の力が届かなかった。その体を流れる液体を感じずして単なる者を識別することは、我には難しい。だが、確か個体の一人が、こう呼ばれていた。『クロムウェル』と……」
瑠螺は、それで何かわかるだろうかと問いかけるようにタバサの方を見てみたが、彼女は少し考えて、首を横に振った。
「珍しい名前じゃない。それだけでは難しい」
クロムウェルという名前の人間でおそらく最も有名なのは、現在アルビオンの王党派を打倒しようとしているという反乱軍の首魁だろうが……。
そんな男が空の上からこんなところまで自ら足を運んで精霊の秘宝を盗んだなどとは考えにくいし、おそらく別人だろう。
それ以外のクロムウェルには心当たりなどないが、なんであれ大して珍しい名前ではないし、そもそも本名を名乗ったのかどうかも定かではないわけだから、手掛かりとしては弱すぎるというしかない。
瑠螺は大して気にもせず、まあそんなものだろうと頷くと、水の精霊の方に向き直る。
「なるほど、事情はわかった。なれば、その指輪がおぬしの手に返るよう計らうゆえ、水かさを元に戻してはもらえぬか?」
水の精霊はまた少し考え込むようにぐねぐねと変形してから、返事を返した。
「いいだろう。指輪が我が元に返ったときには水を増やすのをやめ、以前の量に戻そう」
「戻ったときか……。前払いというわけには、ゆかぬか……のう?」
「断る。お前たちが確かに我との約束を守ろうとするか、守ろうとしたとして成功するかについての確証がない。ゆえに、我も取り戻す試みを続けねばならぬ」
瑠螺らは少し粘って交渉してみたものの、水の精霊の意思は固いようだった。
強硬策に出てこの精霊を倒してしまうという方法もないではないが、その場合でも、すでに増えた水かさまではおそらく元には戻らないかもしれないし。
それに、話が通じる相手を問答無用で倒してしまうというのも、あまり望ましいことではあるまい。
これが人間のしていることならば、自分の都合で他人に迷惑をかけすぎている、自己中心的すぎると咎めることもできようが、精霊とはそもそも、そのような考え方をする存在ではないのだろう。
第一、死という概念がない存在らしいので、倒したところで数年後か数十年後かには復活して、また同じことを始めるかもしれない。
やはり、指輪を取り戻すことで根本的な問題を解決してやるのが、最善の方法だと思えた。
「わかった。その条件でよい」
結局、そう妥協することにした。
そうなると、どうにかしてなるべく早く指輪を見つけてやらねばなるまい。
まあ、増水の勢いはかなり緩やかなようなので、数日以内とまでは言わないが。
これ以上の被害を防ぐためには、なるべく数か月以内くらいには……。
それで話は終わったと見たのか、水の精霊は別れの挨拶もせずに、そのまま湖の底へ沈んでいこうとする。
しかし、それをタバサが呼び止めた。
「待って。ひとつ聞きたい」
「なんだ?」
「人間は、あなたの体の一部をわけてもらって、水の秘薬の材料にすることがある。あなた自身にも、生き物の心や体を操る、強い『水』の力があると聞いている」
「いかにも。正しい認識だ。だが、それがどうかしたのか」
なら……と、タバサはひとつ深呼吸をしてから尋ねた。
あなたには、エルフの作った水魔法の毒薬の効果を打ち消す力があるか、と。
瑠螺ははっとして、タバサと精霊とを交互に見やる。
(そうだ。どうして気付かなんだのか。タバサの母君が飲まされたのは、水魔法の毒だと言っておった)
ならば、その専門家……というより、根本的な力の源といってもよい存在である水の精霊にならば、毒の効果を打ち破るだけの力があるのではないか。
それに思い至らず、もう少しで大切な妹の身内を救えるかもしれない機会を見逃してしまうところだったことに、瑠螺は歯噛みをした。
もっとも、ハルケギニアの魔法にうとい彼女よりも、メイジであり実の母を救わねばならぬ立場にいるタバサの方が先にその発想に至ったのは、当然といえば当然のことではあろうが。
「わたしたち人間の作れる薬では、どうしても治すことができなかった。たとえ、あなたの体の一部を材料に使っても」
水の精霊は、それは当然のことだ、と言った。
「人間のメイジは、交渉で我が体の一部を得て、そこに込められた力を単に利用するのみ。だがエルフは、我と契約することで、そこから本来以上の力を引き出すことができる。ゆえに、青き髪の一族に連なる者よ。お前たちの作り出せる薬は、エルフのそれには及ばぬ」
「でも、あなたならば」
「我であっても、不可能であろう。契約なくして我が振るえる力では、おそらく、契約をもって引き出された力には通じぬ。それが世の理というものだ。大した器を持たぬ者が契約者ならば、また話は違うがな」
「……そう」
タバサは俯くと、わずかに悔しげに顔をしかめた。
内心、かなり期待していたのだ。
しかし、精霊の話には、まだ続きがあった。
「だが。秘宝が我が元に戻れば、話は違う」
「……!」
タバサが、一転して目を輝かせて、顔を上げる。
「死を免れぬお前たちは、命を与える力ばかりを物欲しげに語り継いでいるようだが。本来のかの指輪は、旧き水の力の結晶。それと我の力とを合わせれば、いかな契約者の生み出した秘薬とて、取るに足らぬ」
精霊は自信を持って、そう断言した。
「指輪が戻るまでは、水を増やすことをやめるわけにはいかぬが。お前たちの意に沿えぬ、せめてもの詫びだ。救いたい者がいるのならば、秘宝を取り戻してくれた暁には、我はお前たちと契約しよう。そして、望み通りに力を貸すと約束する」
妖怪誘唱(妖怪を誘う歌):
長嘯術の一種で、妖怪を呼び出す歌。
召喚されたからといって妖怪が術者に従うわけではないが、交渉を試みることは可能である。
どのような妖怪を呼び出そうとするかは術者の任意で、個人的によく知っている妖怪でもよいし、種類だけを指定してもよいし、完全に無作為でもよい。
長嘯の召喚術すべてに共通する性質として、呼び出そうとするものが近くにいるほど素早く召喚することができ、逆にあまりにも遠いと到着まで非常に時間がかかったり、完全に失敗したりすることもある。
もちろん、召喚を試みる術者の力量にもよっても、所要時間は変化する。
命水行呼吸 息(水行に命じて呼吸する、息せよ):
対象とした者に水中呼吸を可能にする五遁水行の初歩的な仙術。
持続時間が1日と非常に長いため、あらかじめかけておくことが容易な上に割り込みで使用することもできる。
この術だけでは水中で言葉を話すことまでは可能にならず、仙術の口訣(系統魔法や先住魔法の詠唱も)は行えない。
命水行通語 届(水行に命じて語を通ず、届け):
対象とした者に水中での会話を可能とする、『命水行呼吸 息』よりも若干高度な五遁水行の仙術。
持続時間の長さや割り込みで使えることなどの特徴も、『命水行呼吸 息』と同じ。
これをかけておけば、仙術の口訣(系統魔法や先住魔法の詠唱も)を水中でも行えるようになる。
ただし、こちらの術だけでは水中呼吸は可能にならない。