挨拶を済ませると、アンリエッタはにわかに感極まったような表情を浮かべて、膝をついたルイズを抱き締めた。
端から見ている瑠螺にとっては、先ほどの落ち着いた態度からの変化が急激すぎてなんとなく不自然にも思えたが、ルイズ自身は突然の姫君の来訪に面食らったゆえか、そういったことは特に感じていないようだ。
「き、姫殿下! いけませんわ、こんな下賤な場所へお運びになられるなんて……」
「ああ、懐かしいルイズ! そんな堅苦しい行儀はやめてちょうだいな。あなたとわたくしはおともだち、おともだちじゃないの!」
「……もったいないお言葉でございます」
ルイズは緊張した声でそう言うと、おそるおそる、アンリエッタを抱き締め返す。
二人はそれからしばらくの間、昔の思い出話に花を咲かせた。
小さい頃にドレスの取り合いをしただの、お菓子の取り合いをしただの、ごっこ遊びの主役を巡って争っただの……。
話しているうちに、ルイズの方も次第に緊張が解けて、懐かしげな、楽しそうな顔になってきた。
「ふうむ……」
瑠螺は、ちょっと首をかしげた。
話の内容からすると、どうもルイズは、このアンリエッタという姫君とは旧知の間柄であるらしいが。
(ルイズに会うために供の者たちの目を盗んで、密かに抜け出してきた……と、いうことかのう?)
それだけであればなんとも微笑ましい話で結構なことなのだが、最初の方の芝居がかった態度が、少しばかり気にかからないでもなかった。
とはいえ、今は姫君も本当に楽しそうに見えるし、純粋に話をしにきただけであるならば思い出話によそ者が口を差し挟むのも無粋であろうからと、とりあえず黙って二人の邪魔にならぬあたりに下がっておく。
ついでにその時、喧騒から距離を置いたことでドアの外で誰かが聞き耳を立てている気配にも気付いたので確認してみると、それは以前にシエスタを咎めようとしたギーシュという名の男子生徒であった。
「なんじゃおぬしは。こんなところで、何をしておる?」
「い、いや、ミス・リュウラ。決して、やましいことじゃないよ。ぼくはただ、薔薇のように見目麗しい姫さまのお姿を見かけたのであとをつけて」
「ほほう? それで鍵穴からじろじろと、女子の部屋を覗き込んでおったというのかや。それが、やましくないとな?」
「あ、いや、その……」
「見ての通り、姫君はご主人と昔話をしに来られたのじゃ。これ以上、無粋な邪魔をいたすでない」
冷たい目でじろりと睨みつけ、脳天に拳骨を一発お見舞いしてやると、ギーシュはあわてて逃げ去っていった。
そんな些細ないざこざなど目にも耳にも入らなかった様子で、二人は歓談を続けている。
「感激ですわ。姫さまが、そんな昔のことを覚えてくださっていたなんて。わたしのことなど、とっくにお忘れになっているかと……」
話が一区切りしてルイズがそう言うと、王女はベッドに腰かけて、ほうっと溜息を吐いた。
「忘れるわけないじゃないの。あの頃は、毎日が楽しかったわ。なんにも悩みなんかなくって……」
それから、深い憂いをにじませた声でそう呟く。
ルイズは心配そうに、そんなアンリエッタの顔を覗きこんだ。
「あなたが羨ましいわ、ルイズ・フランソワーズ」
「姫さま、なにをおっしゃいます。あなたは王族ですわ。国中から慕われているじゃありませんか」
「国中? ……そうかしら」
「もちろんです。先ほどは生徒も教師も、みんな姫さまのために杖を掲げたではありませんか。ここで仕える平民の使用人たちだって、誰一人として歓迎の言葉を述べない者などおりませんでしたわ!」
アンリエッタは、半ば皮肉っぽい、半ば自嘲気味な笑みを浮かべた。
ルイズは、本当にそう思っているのだろうか。
いつも護衛付きで囲われた生活を送っている自分の耳にさえ、今のトリステイン王家には権力が無い、実権は枢機卿のマザリーニにあると揶揄する国民の声が聞こえてくるというのに。
(本当に、羨ましいわね)
そう、心の中で溜息を吐いてから、話を続けた。
「だとしても、窮屈なだけよ。王国の姫なんて籠の中の小鳥も同然。自由の方が、どれだけ素敵なことか……」
窓の外の月を眺めながら、寂しげにそう言ってみせる。
(いかにも安全な籠の中だけしか知らぬ、幸せな小鳥の言いそうなことじゃな)
瑠螺は心の中でそう呟いて、肩をすくめた。
元々が野生動物である瑠螺に言わせれば、人間が野の獣を自由だなどと考えるのは、およそ見当外れな幻想に過ぎないことだ。
常に天敵から狩られる恐怖に身をすくませて神経をすり減らし、大概は空腹で、飢え死にしないうちに食を得なければと血眼になって野山を探してばかりの日々に、自由を楽しむ余裕などまったくといっていいほどない。
狭い籠の中から見れば広い外は美しく見えるだろうが、実際にそこで生きるとなるとまた話は別だ。
(しかし、まあ……)
そうは言っても、籠の中には籠の中なりの悩みもあるのであろうし。
一概にどちらが良いと、決めつけるものでもないか。
瑠螺がそう考えていると、アンリエッタがふと彼女のほうに向き直り、にっこりと微笑んで軽く会釈をした。
「ああ、急にお邪魔してごめんなさい。あなたは、こちらの教師の方かしら?」
その落ち着いた態度や風変わりな外見は使用人の類には見えないし、夜分に生徒の私室にいることなども併せて考えれば、確かに若手の教師か何かだと思ってもおかしくはないだろう。
「ルイズ、もしかして授業の補講でも受けていたの?」
その質問に、ルイズも瑠螺も、揃って首を横に振った。
「いえ、彼女はこの学院の者ではありません。その、遠い異国の地から来た……貴族、のようなもので……」
「わらわは、瑠螺と申す者じゃ。いまは、ルイズの使い魔とやらをしておる」
瑠螺はそう言って胸の前で袖口を合わせるようにすると、丁重に頭を下げた。
アンリエッタはきょとんとした面持ちで、そんな風変わりな礼をする瑠螺の姿をまじまじと見つめた。
「使い魔……ですか? その、人にしか見えませんが……」
「さよう、わらわのような者がこちらでは珍しいという話は聞いておるがな。しかし、わらわがルイズに呼び出されたことに間違いはない」
人、というあたりには明確に答えず、しれっとそう言って胸を張った。
「そうですか、はあ……。ルイズ・フランソワーズ、あなたって昔からどこか変わっていたけれど、相変わらずみたいね?」
「……これでも、ちゃんと成長しています。彼女が来てくれたことも、良かったと思っています」
ルイズは、やや不機嫌そうな調子でそう反論した。
アンリエッタは、あら、ごめんなさいねといって軽く肩をすくめると、また芝居がかった溜息をつく。
その様子を見てとったルイズは心配げな顔になり、瑠螺は小さく首を傾げた。
「姫さま、どうなさったんですか?」
「ふうむ。もしかすると、おぬしには何か、ルイズに打ち明けたい悩みでもあるのかえ?」
そうなのであれば自分は席を外そうかと申し出た瑠螺に、アンリエッタは少し考え込むような様子を見せたものの、首を横に振った。
「いいえ、メイジにとって使い魔は一心同体。席を外させる理由がありません。ただ、わたくしが今から話すことは、ルイズもあなたも決して口外はしないでください」
その要求にルイズと瑠螺がしっかりと頷いたのを確認してから、アンリエッタはにっこりと笑って話を続けた。
「わたくし、もうすぐ結婚するのです。今度、ゲルマニアに嫁ぐことになって」
「ゲルマニアですって!?」
途端に、ルイズが驚いたような声を上げる。
「姫さまのような方が、あんな野蛮な成り上がりどもの国に?」
「そうね。でも、仕方がないわ。同盟を結ぶためです」
アンリエッタはそれから、ハルケギニアの政治情勢を交えて、かいつまんだ事情を説明した。
クロムウェルなる男を首魁に戴いたアルビオンの貴族たちが反乱を起こし、王室は敗色濃厚で今にも倒れそうになっていること。
その者どもは、あろうことか『ハルケギニアを統一する』などという、誇大妄想じみた大義を掲げていること。
それゆえ、このまま反乱軍が勝利を収めたなら、次は空の国から地上に、おそらくは最も近く国力も弱いトリステインに真っ先に侵攻してくるであろうこと……。
「このトリステインがそれに対抗するためには、今のうちに他の国と協力関係を取り付けておくしかないでしょう。いざ反乱軍が攻めてきてからでは、誰も厄介なお荷物と同盟などしてはくれませんから」
隣国のガリアはトリステインと同じく始祖ブリミルの時代から続く親戚筋で、ハルケギニアでも随一の大国である。
当然、その庇護を求めようという意見が真っ先に上がった。
ところが、悪いことに現在のガリア王ジョゼフは『無能王』と揶揄されている男で、国王の座につくために有能だった弟を暗殺したという黒い噂もあり、何よりも政にまるで無関心ときている。
案の定、今回の同盟の打診にもろくに興味を示さず、首を縦に振ってはくれなかった。
そこで、距離的に近くアルビオンの反乱軍に対抗できるだけの十分な国力をもつ国として次の候補に挙がったのが、ゲルマニアだったというわけである。
しかし、力に劣るトリステインが縁戚関係もなく、自国だけでも十分反乱軍と渡り合えるだけの力を持つであろうかの国と同盟を結ぶためには、相手に提示する何らかの見返りが必要だ。
「成り上がりの新興国で即位したばかりの『皇帝』にとっては、始祖から続く歴史ある王家の系譜に加われるということは魅力的でしょうからね」
ゲルマニアにとって魅力的だと思えるほどの財貨や領地を譲渡できるだけの余裕は、トリステインにはない。
やむを得ず、歴史と伝統のある王家の血筋を提供しようというわけだった。
「そんなことに……」
ルイズは、沈んだ声で言った。
自分にとっても不本意なことだが、何よりもアンリエッタ自身がその結婚を望んでいないことは、その態度や口調から明らかだ。
「仕方のないことです。王族として生まれた以上、好きな相手と結婚することなど望みようもありません。物心ついたときから諦めていますから、それはいいのです」
「姫さま……」
寂しげに微笑むアンリエッタに何と言っていいのかわからぬ様子で、ルイズが切なげな表情を浮かべる。
「なるほどのう……」
まあそんなものだろうなと、瑠螺も心中で溜息を吐いた。
アルビオンの王党派とやらが、勝ち目のない戦で命を散らそうとしているというのなら、何とかしてやりたいとは思うが。
よく知りもせぬ異界における人間同士の戦で、どちらかの陣営に肩入れするわけにもいくまい。
本人たちに助かる気があるのなら逃がしてやるくらいはするつもりだが、まあ王族やその重臣の貴族たるものがそうそう己の国や民を見捨てて逃げるなどということはできないだろうから、それもまず無理だろう。
それは央華にしても同じことで、央華では代々の祖先の眠る土地を軽々しく離れるなどというのは、およそ考えられぬことなのだ。
ましてや王には土地神を祀る責務があるのだから、なおさら他の地になど行けない。
アンリエッタの婚姻の件にしても、一人の女性としての幸せを遂げさせるために何とかしてやりたいとは思わぬでもないが……。
それによって同盟がふいになり、大勢の民が戦渦に巻き込まれることになるというのであれば、無関係な自分などが安易に手を出してよい問題でもないだろう。
央華でも、王にせよ庶民にせよ婚姻相手などは親が決めていて、自分で選べないということも多いものであるし。
そんな二人の胸中をよそに、アンリエッタは話を続けた。
「……ですが、礼儀知らずのアルビオン反王党派の貴族たちは、明白な理由からその同盟の成立を望んでいないでしょう。したがって、わたくしの婚姻を妨げるための材料を、血眼になって探しているはずです」
「ふうむ? つまり、そのような材料が存在しておるということなのかえ?」
瑠螺がそう尋ねると、アンリエッタは悲しげに頷いた。
「おお、始祖ブリミルよ……、この不幸な姫をお救いください……」
そう言って顔を両手で覆うと、よよよ、と力なく泣きながら床に崩れ落ちる。
いちいち芝居がかって大袈裟な態度に、瑠螺はちょっと困ったような、呆れたような顔つきになった。
「姫さま! おっしゃってください。その、姫さまのご婚姻をさまたげる材料とは!?」
しかし、彼女と同じトリステインの貴族であるルイズは興奮した様子でアンリエッタの手を取ると、そうまくしたてる。
アンリエッタはそれに対して、以前にアルビオン王家のウェールズ皇太子に宛てて自分がしたためた、一通の手紙だと答えた。
「ああ! ウェールズ皇太子は、遅かれ早かれ、反乱勢に囚われてしまうでしょう。そうしたら、あの手紙も明るみに出てしまう! それが反乱軍の手によってゲルマニアの皇室に送られれば、同盟は……」
呻くようにそう言いながら、ショックのあまり立っていられないといった様子で、仰け反るようにしてベッドに体を横たえた。
「ならば、姫さま。このわたくしが!」
「無理よルイズ! 貴族と王党派が争いを繰り広げているアルビオンに赴くなんて! ああ、こんな話をするべきではなかったわ、すっかり動転して気が弱くなっていたのよ。忘れてちょうだい!」
盛り上がっている二人をよそに、瑠螺はいささか白けたような気分になっていた。
(なんとも大仰で、わざとらしいことじゃな)
ちらちらと相手の反応を窺いながら話を切り出したくせに、動転して口を滑らせたもなにもないものだろう。
同じ策を弄するのでも、兄の飛翔などとはだいぶ受ける印象が違う。
悪辣とまで言うつもりはないが、小狡い感じがして、あまり好きなやり方ではなかった。
まあ、あるいはこのあたりでは、王族ともなるとこのくらい勿体ぶった話の運び方をすることが普段から習慣になっているのかもしれないが……。
そんな瑠螺の冷めた胸中などつゆ知らず、二人は自分の言葉に酔っているようなやりとりを続けた。
「姫さまとトリステインの危機を、このラ・ヴァリエール公爵家の三女、ルイズ・フランソワーズが見過ごすわけにはまいりません! その一件、是非ともこのわたくしめにお任せくださいますよう!」
「ルイズ・フランソワーズ! 懐かしいおともだち! これほどの危険も顧みず、このわたくしの力になってくれるというのですか?」
その後も二人はひとしきり熱い言葉を交わし合ったり、ひしと抱き合ったりして。
ルイズが任務の内容の細かいところを確認し、王党派の敗北まで時間がないので明朝には出立しようと取り決めて。
それからようやく、少し離れたところで白けたような顔をしている瑠螺の方に向き直った。
「リュウラ。あんたも来てくれる……でしょうね? こんなときまで、タバサの用事があるとかいうのはやめてよ?」
まがりなりにも自分の使い魔なのだから、こういう時くらいちゃんと傍にいて手助けしてくれなくては困る。
タバサの任務がある時は、そっちが命がけだからということで彼女に同行することを仕方なく認めているが、今回は自分の方も命がけなのだ。
瑠螺は、軽く肩をすくめた。
「わらわには人間同士の戦に肩入れする理由はないし、手紙とやらのこともよくわからぬがな。その同盟が成立すれば、攻め込まれて戦になるのを未然に防いで、大勢の血が流れずに済むのであろう?」
ならば手伝わねばなるまい、と言って頷く。
アンリエッタはにこやかに微笑むと、そんな瑠螺の方に近づいた。
「ありがとうございます、使い魔さん……いえ、ミス・リュウラでしたね。わたくしの大事なおともだちを、これからもよろしくお願いしますね?」
そう言って、左手の甲を差し出す。
そこへの接吻を許す、という意味であった。
「無論じゃ」
瑠螺は一瞬じとっとした半目を向けたものの、思い直したようにこくりと頷くと、先ほどと同じように袖口を合わせて軽く頭を下げた。
アンリエッタは行き場を失くした左手をしばし困ったようにさまよわせていたが、やがて曖昧に微笑みながら、手を引っ込める。
そんな姫君をよそに、瑠螺は唇に指を当てて、しばし考え込んだ。
(空の彼方の土地、か。さて……、明日すぐに出立する、と言っても……)
これが央華なら、仙人だけが使える高速移動用の『風路』を使って、あっという間に辿り着けるのだが。
初めて行く場所だし、ここでは歩くなり飛ぶなりして、地道に向かうしかないだろうか。
とはいえ、地道に向かうにしても、自分はそもそもアルビオンとやらがどこにあるのかもろくに知らないのだ。
ルイズは知っているかもしれないが、彼女にしても、大まかな場所は知っているにしても王党派の追い詰められている場所へどう行ったらいいのかとか、詳細な知識や土地勘などがあるとは思えない。
急ぎの要件ということで、調べている時間もないし……。
誰か、アルビオンに詳しい者は……。
「……おお、そうじゃ。ちょうどロングビルどのが、明日で退職して故郷のアルビオンへ帰ると言っておられたが」
盗賊騒ぎの時に縁のあった自分たちがその見送りをするという体で一緒に行ってはどうか、と、瑠螺は提案した。