「…………」
アンリエッタから息子へ宛てた手紙を読み終えたジェームズ一世は、深い溜息を吐いた。
それまでにも増して疲れ、老け込んだような顔になったと、瑠螺は感じた。
ややあって、ジェームズ一世はその手紙を無言で丁寧にたたみ直すと、封筒に入れてルイズに手渡す。
「……中身は、余のほうで確認した。姫が息子に返却を求めた手紙は、これに相違あるまい。確かに返却したぞ」
「ありがとうございます、陛下」
ルイズは深々と頭を下げると、その手紙を受け取った。
「叛徒どもは、明日の正午には攻城を開始すると宣言しておる。その前に、トリステインに帰られよ。この城は空からも地上からも封鎖されておるが、地下には秘密の港があるゆえ、そこから出るとよい。小船の一隻くらいならどうにか手配はできよう、風石もまだ少しはある」
「陛下のお心遣いに、感謝いたします」
それで用件は済んだはずだが、ルイズはなかなか下がろうとはしない。
しばし躊躇した後に、おずおずと口を開いた。
「おそれながら、陛下……。先ほど、明日には攻城が開始されると言われましたが。アルビオンの王軍には、勝ち目はないのですか?」
「始祖が、奇跡を起こしてくださらぬ限りはな」
国王は表情を変えずにそう言って、重々しく頷いた。
「我が軍は、もはや三百にも満たぬ数。対する敵軍は、五万は下らぬ。あとは、いかなる暴威をもってしても我らの勇気までは挫けぬと叛徒どもに示してみせることだけが、望みうるすべてであろう」
それきり、誰も口を開こうとはせず、しばらく沈黙が続いた。
今や、守るべき民も国も失おうとしており、もはやそれらに対して何もしてやることができなくなった国王に対して、どんな言葉を掛けられようか。
それでも、ここで何か言わねばならぬとも、みな思っていた。
明日にも死んで逝こうとしている彼らに黙って背を向けて、何もせずに立ち去ることがどうしてできようか。
「……せめて、戦えぬ者だけでも、なんとかして逃がしてやってはどうかのう?」
先ほど自分が斬った箱を直し終えた瑠螺が、迷った末に口を開いた。
「生まれ育った国を捨てがたいことは、わかる。でも、全員が死ぬために戦うということは、あってはならぬ。命を懸けて戦うのは、後に残る誰かを守るため。そうではないのか?」
一国の王に対するその不躾な物言いに、他の者たちはみなうろたえて、瑠螺の方を見る。
けれど、彼女を制止しようとする者はいなかった。
ジェームズはいささか険しい目を彼女のほうに向けたが、瑠螺は少しも怯んだ様子もなく、それを真っ直ぐに見つめ返した。
「……ご婦人、そなたの名は?」
「わたしは、瑠螺と申す者じゃ。今は、そちらにおるルイズの使い魔をしておる」
「使い魔?」
国王から怪訝そうな目で見られたルイズは、萎縮した様子で顔を伏せた。
が、じきに思い切ったように顔を上げると。
「陛下。わたくしの使い魔が、大変なご無礼をいたしました。しかしながら、わたくしも彼女の申すとおりかと思います」
そう、熱っぽく訴えた。
一度口を開くと、彼女は止まらない。
「戦えぬ者だけと言わず、わたくしどもと共にトリステインへ亡命なされませ! 再起の機会は、必ずやってまいります。ここで命を捨てて、不埒な叛徒どものために始祖から連なるアルビオンの血を絶やすことなど、あってはならぬはず!」
「そのようなことは、そなたらから言われるまでもないわ!」
ジェームズは厳めしく冷ややかな声で、ぴしゃりとそう言った。
しかし、すぐに表情を崩すと、力ない笑みを浮かべながら軽く頭を下げる。
明日にも滅ぼうかという、もはや何の価値もない、抱え込むだけ負担でしかない王家に対する目の前の女性たちの訴えが真心から出たものであることは疑いようもない。
たとえその態度がいささか不躾であるにせよ、思慮が浅いにせよ、怒りをもって応じるべき場面ではなかった。
「……いや、すまぬ。真情と誉れのあるお二方からの申し出には、まことに感謝の言葉もない。だが無論、我らとて、戦えぬ身でありながらこの城に留まって尽くしてくれた者たちだけは、最後を迎える前に港から逃がす手筈であった」
だがしかし、最後に一隻だけ残っていた戦艦『イーグル』号は、先日敵の補給路から物資を奪うべく出撃したきり、まだ戻ってきていない。
無論、絶望的な戦況に嫌気がさして逃亡したのだろうなどという下衆な勘繰りは論外だ。
息子であるウェールズを始め、乗組員たちはみな、真の忠義と勇気を持つ精鋭たちばかりである。
空賊を装って活動してはいたが、ついに正体が暴かれ、乗り込んでいたウェールズらの命と共に沈められてしまったのであろうことは疑いようもなかった。
ジェームズはそのことを、ルイズらに説明した。
「船が無くては、地上へ辿り着くことはできぬ。城に留まる者たちはみな、この状況を受け容れ、ここで玉砕する覚悟を既に決めておるのだ」
今頃は生き残りの水メイジたちが、乏しい材料と精神力とを裂いて、女子供たちのために自決用の毒薬を作っているはずだった。
戦い抜いた果てに、敵の虜囚となって辱めを受けることがないために。
「で、ですが。先ほどは、小船の一隻くらいなら用意はできると……」
「他の者たちを置いて逃げる数人だけを選出することはできぬし、そうまでして逃げたいと思う者もおらぬであろう」
国王は、疲れ切ったような溜息を吐いた。
「……それにな。余は、もはや年老いた。余命幾ばくもあるまい。ウェールズ亡き今、アルビオン王族の血は、どうあれ……」
そんなジェームズとルイズをよそに、瑠螺はキュルケ、タバサと顔を見合わせていた。
ひそひそと、囁きを交わし合う。
「ねえ。空賊を装って補給路を襲っていたって、もしかして……」
「可能性は高い」
瑠螺は、困ったように視線をさまよわせた。
「う、ううむ? そう……かのう?」
まさか、自分が先だって沈めたあの空賊船に、その皇太子とやらが乗っていたかもしれぬとは。
もし本当なら、知らなかったとはいえ、これはまずいことを……。
「リュウラ、あなたにはなんとかできないの?」
切なげな目をしたルイズにそう呼びかけられて、瑠螺ははっと我に返った。
こほんと咳払いをして、頷きを返す。
「そうじゃな。戦えぬ者たちを逃がしてやるだけならば、わらわのほうでどうにかできるであろう。そのくらいは、頼ってもらっても構わぬぞ」
自分のしでかしてしまったことだとすれば、その責任もあるわけだし。
「それはまことか? そなたには、戦うことも魔法を使うこともできぬ者たち全員を、この城から逃がしてやることができるというのか? ここにはもはや飛べる幻獣も船もなく、風石もほとんどないのだぞ?」
「ううむ。まあ、多少は本人たちにもがんばってもらわねばならぬかもしれぬが……」
ところで、と前置きをして、瑠螺は話題を変えた。
「その『いーぐる』とかいう船は、もしや黒塗りで、外見はこのような感じではなかったか?」
そう言いながら、幻術を使うことで、先だって自分が沈めた船の姿を小さく室内に再現してみせた。
国王は見慣れぬ術に困惑しながらも、確かにその船だと答える。
「やはり、そうであったか……」
瑠螺はややきまり悪げに身じろぎをして視線を泳がせながらも、こくりと頷いた。
「……で、あれば。おぬしの息子は、まだ生きておるやもしれぬ。調べてみよう」
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「小型とはいえ、人一人の力で戦艦を沈めるなど……」
ジェームズは、ルイズらから事情を聞いても半信半疑といった様子であったが、それでも瑠螺のすることをじっと見守っていた。
彼女はまず、大きな盆を用意すると、水行術でその中に澄んだ水を満たしていった。
それから水面をじっと見つめ、先だって空賊船、もとい『イーグル』号を沈めたときに見た船長の姿を思い浮かべながら、口訣を唱える。
「『以水行為鏡 写(水行を以て鏡となす、写せ)』」
途端に、風もないのに水面に波紋が広がる。
収まったときには、凛々しいが苦悩に満ちた表情をした金髪の若者の姿が、そこに写し出されていた。
それを見たジェームズが、はっとして目を見開く。
「ウ、ウェールズ……!」
ルイズらも、食い入るようにその姿を見つめる。
瑠螺は笑みを浮かべると、大きく頷いた。
「生きておったようじゃな、やはり」
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「船の状態はどうだ。大砲などは要らぬ、アルビオンまで飛べさえすれば、それでよい」
廃材に腰かけて半壊した船をどうにか修繕しようと働いている部下たちの姿を見つめながら、ウェールズは作業を指揮する側近にそう尋ねる。
尋ねられた男は、力なく首を横に振った。
「時間も、材料も足りません。残念ですが、一日や二日ではとても……」
「……そうか」
ウェールズは、悔しげに唇を噛んだ。
先だって貴族派に物資を提供している不埒な商人の船を襲おうとした際、どこからか得体の知れぬ攻撃(おそらく)を受けて、船体が大破してしまったのだ。
予想もつかなかった事態にとにかく乗員を救うことだけに努め、どうにか犠牲者こそ出さずに済んだものの、一段落したときには既に、アルビオンに戻るにはあまりにも高度が下がり過ぎていた。
やむなくハルケギニアへの降下を決定し、こうしてなんとか無事に、地上には辿りつけたものの……。
「それでは、最後の戦いには間に合いそうもないな……」
ニューカッスル城への敵の総攻撃は、おそらく今日明日のうちには行われるだろう。
同胞たちが決死の戦いに臨もうとしているというのに、このままでは自分たちは戦いの場に戻ることができない。
「こうなれば、やむを得ません。どこかの港ですぐに飛べそうな船を見繕って、それを借り受けましょう」
「借り受ける、……か」
ウェールズは、自嘲気味に笑った。
借りると言っても、勝算皆無な戦いに臨もうとしているこちらには、それを返す機会はまずあるまい。
それを正直に言えば貸してくれる相手などあろうはずもないから、とどのつまりは強制的に略奪するしかないということだ。
「他国の港から、船を奪い取るか。いよいよ、空賊じみてきたな……」
しかも縁戚関係にあり、大切なアンリエッタの母国でもある、このトリステインから奪おうなどとは。
だが、他に選択肢はあるまい。
「そうだな……。では、全員また、空賊に逆戻りだ。野郎ども、これからラ・ロシェールを襲撃するぞ! 準備をしろ!」
皇太子は縮れた黒髪のかつらと眼帯をつけ直し、空賊船長の姿に戻ってそう宣言した。
おお、と、周囲から歓声が上がる。
が、そこで。
『そう早まるでない。軽々しく悪事を働けば、後々までなにかと後悔させられることになるでな』
唐突に、すぐ近くから女性の声が響いた。
「なに? ……誰だ、いま言ったの、……わあぁぁっ!?」
皇太子はぎょっと目を見開いて、思わずひっくり返った。
無理もない。
次の瞬間、自分の薬指にはめていた『風のルビー』の輪を潜って、まるで指輪の精かなにかのように瑠螺が姿をあらわしたのだから。
以水行為鏡 写(水行を以て鏡となす、写せ):
直径30cm以上の水溜まりの水面に、術者の望んだ任意の生物もしくは場所の映像を写す、五遁水行術の一種。
術者はその生物もしくは場所のことを、あらかじめ知っていなくてはならない。
生物を写そうとする場合には、その生物の仙術抵抗を超えなければ術をかけることはできない。