おシャニの盛り合わせ   作:ドレモネード

7 / 9

 梅雨すきじゃない。
 ふゆこすき。



雨の日はすこしだけ踵を上げて

 

 

「っもー、サイアク」

 マスクの中でため息をついても、さっき食べたチョコミントアイスの香りが鼻に入ってきて若干の清涼感があるだけで、大して気分は晴れない。

 晴れていないのは気分だけでなく、予報の外れた天気もそうだった。降水確率三十%と今朝は予報士が言っていたはずなのに、しとしとと空から降ってくる雨粒たちは、ふゆが電車に乗っているときから姿を現し始めた。その時点では、すぐに止むものだと思っていた。でも、事務所最寄駅のホームに降り、人の波に乗って改札を抜け、著名なアイスクリーム店で買ったアイスをひとつ食べ終わった今になっても、鈍色の空は泣き止まないでいる。

 折りたたみ傘くらい携帯しておくべきだったわね。

 立ち止まって壁に背を預けるふゆの前を、同じ乗客だったひとびとが通り過ぎていく。その過半数が色とりどりの傘を花のように開かせながら、ほの暗い雲の下に躍り出て、思い思いの方角に歩き去る。傘の群れの中にまばらに紛れ込んでいる黒い頭は、雨に濡れることをいとわない豪快な、あるいはおおざっぱなひとたちなんでしょ。

 対して軒下に残されるのは、ふゆのように雨から身を守るすべを持たないひとと、雨に濡れてまで先を急ごうとは思わないひとたち。十人にも満たない数ではあるけど、みんな焦ったようすはなく、スマホや文庫本に目を落としたり、ただぼうっと虚空を眺めたりして、通り雨が上がるのを待っている。

 ……通り雨よね?

 予定の時刻まで余裕があるとはいえ、その時間はせいぜい一時間程度。この調子で雨が弱まることもなく降り続けるようだったら、多少の被弾は覚悟しなければならない。むしろ強まってしまった時には、そうね、召喚呪文でも唱えてやるわよ。

 

 

 ☔︎

 

 

 この壁に寄りかかってから、どれくらいの時間が経っただろう。いまハマってるソシャゲのデイリーミッションをこなして、単発ガシャも回し、その結果になんの感情の波も起こらないまま、習慣じみた指さばきで開いたツイスタ上にて繰り広げられていた女性アイドルたちの微笑ましい会話に、無粋な横やりを入れていたオタクくんへ芽生えたかすかな殺意をなんとか鎮めきったまでの時間経過だから、たぶん二十分くらい?

 依然、雨は降り続いていた。

 弱まることも、強まることもなく。

 変わったのは、ふゆと同じように雨上がりを待つひとたちの顔ぶれくらいだ。ふしぎと人数はそう変わりない。駅に電車が止まるたびに増えそうなものだけど、止まない雨にしびれを切らしたひとの数だけ減ったようで、結果ほとんどプラマイゼロと見てとれた。

 タクシーを利用する手もあるにはあるんだけど、どうしても料金が割高に感じてしまって気が乗らない。貧乏性なんじゃない。言うほど倹約家ってわけでもない。ただ、そこにお金を使うくらいなら、我慢してオタ活費用に回したいってだけ。よってタクシーは最後の手段という位置付けに。

「……」

 降り始め特有の雨の匂いなんて、もうとっくにしなかった。あの匂いにもたしか名称があったはず。なんだっけ。『雨 匂い』と検索しようとしたところで、通知バナーが画面上部から降りてきた。ストレイライトのトークルームだ。

『虹っすよ、虹!』

 メッセージを発信したのは、ふだん突飛な発言、行動でふゆやあいつを右往左往させているあさひちゃんだ。ついさっき撮ったらしい写真もアップしている。ここら一帯は雲に覆われているものの、遠い空には青が広がっているらしく、あさひちゃんがスマホで捉えた写真にはうっすらとした七色が写し出されていた。

 虹なんて、久しぶりにみたかもしれない。

 七色なんだっけ、虹って。なんで七色に見えるんだろう。最後に、直に虹を見たのはいつのことだったか。ぼけっとした頭で記憶をさぐりさぐりしていると、また文字列が浮かび上がった。

『めっちゃキレイじゃん!』

 間髪入れずに、楽しげなスタンプが二、三個連発される。愛依ちゃんだ。すごく、愛依ちゃんだなあ、と思った。

 ふゆも文字をフリック操作で打ち込んで送信。

『うわぁ、すっごく綺麗〜!』

 かわいらしげなスタンプもひとつ、なんとなくの感覚で選択して送りつけて、スマートフォンをかばんにしまう。くぐもった通知音が聞こえた。ふたりのうちのどちらかが、メッセージかスタンプか送ってきたのかもしれない。

 たしかな湿度をともなった風を、頬に感じた。

 あの写真は、いつ撮られたものなのかな。風がやってきた方角に目を向けても、見えるのは建物と灰色の空ばかりで、七色なんてどこにもない。せめて雲の切れ間が見えてくれれば、雨がやむ余地を想像できるんだけど、それすら見えなくて若干の焦りが心に生まれてくる。

 これは、やまないっぽい?

 またもスマホを取り出し、ここら一帯の天気を調べてみる。現在地に向かって、西から黄色で示された比較的降雨量の多い雨雲が流れてきているのがわかって、思わずため息をついてしまった。ミントの香りはもうしない。

 どうしよう。

 視線の先で無情な天気予報をしらせるスマホのさらにその先、ふゆの足を白いパンプスが覆っている。昨日買ったばかりの新品同然の代物だ。前から欲しかった一品で、そこそこの値段もしたしなるべく汚したくはない。

 迂闊だった。なんで今日のような足元の悪い日に限って、新品をおろしてしまったのよ。すこしくらい我慢して、完全に晴れだとわかったうえで履けばよかった。ていうかだいたい今日は曇りの予報だったでしょ。おのれ天気予報。恨むわよ。

「はーあ」

 今日は、ストレイライトの全員に集合がかかっていた。仕事に関するなんらかの説明があいつの口から行われるもんだと、ふゆは想定している。他のふたりはえらく楽しみにしているようで、昨日はトークルーム上でどんな仕事がいいだのどんな衣装を着たいだの大いに盛り上がっていた。番組出演とかタイアップもいいけど、ふゆはとにかくかわいいのが良い。

 そういえば、ふたりはこの雨の影響を受けてないのかな。

 いつのまにか謎のスタンプ合戦になっていたユニットトークルームに、疑問を投げかける。

『あさひちゃんと愛依ちゃんは、時間までに着きそう? 雨、だいじょうぶ?』

 即レスが返ってきた。

『もう着きそうっす!』

『だいじょーぶ系〜』

 どうやら足止めをくらっているのは、ふゆだけみたい。

 続けて、ぽこん、ぽこん、とふたりからのメッセージが浮かび上がる。

『冬優子ちゃんは?』『だいじょうぶっすか?』

 反射的に、返信していた。

『だいじょうぶだよ』って。

 大丈夫じゃないくせに。

 まあ、仮に大丈夫じゃないと告げたところでどうなるわけでもないしね。ふたりは運転できるわけでもないし、迎えにきてもらうのも悪いし。

 徒歩で十分。小走りで五分。

 それだけ我慢すればいいだけの話。

 がんばるぞいと気合いを入れて、もたれかかっていた壁から背を離した瞬間、

 目がくらんだ。

 ような気がしただけで、実際はあたりが刹那的に光に包まれたみたいだった。

 雷か、と直感して数秒後、案の定、ゴロゴロゴロと不穏な音が遠くから聞こえてきた。

 ほどなくしてザーッと雨の勢いが強まる。心なしか雨粒自体のサイズも大きくなったように感じる。そこらを歩いていた通行人が数名、小走りで軒下であるこちらに避難してきた。ひぇーだのうぁーだの、言葉にならない声を上げながら服についた露を払っているけれど、その行為が気休めにしかなっていないようすを見ると、すっかり本降りになってしまったみたいね。

 やっぱり、歩くのも走るのも、ここは断念するしかないわ。

 でも、遅刻なんてもってのほか。

 この程度で誰かを頼るのは忍びないけど、背に腹はかえられない。

 ――。

 よし、召喚呪文を唱えましょう。

『あんた、いまヒマ?』

 これだけの文字を打つのに、なぜか妙に時間がかかった。そしていまだに送信ボタンを押せないでいる。約束の時間までは、あと三十分。まだ若干の猶予があるとはいえ、あいつを呼び出すにしてもなるだけ早く迎えを要求しておかなければ、間に合う確率も時が進むにつれて下がっていく。あいつがすぐに連絡を確認できるかどうかもわかんないし。

 なにげに、ふゆから業務連絡以外で電話なりメールなりするのって、初めてじゃない? いやそれ以前に、あいつからプライベートな連絡なんて、来たことなかったし来るはずもなかったわ。いつだって業務連絡。あいつって、仕事以外の日に、アイドルとどっか出かけたり通話したりするのかな。ふゆには関係ないけど、気にならないこともない。ふゆには関係ないけど。ほら、アイドルって休みの日でも特に異性関係には気を張っておかないとだし、いちばん距離の近い関係の異性があいつって子も少なくないだろうし、なんというか、ねえ? ふゆには関係ないけど。とにかくあいつは気を遣わなきゃいけないはずなのよ。アイドルのプライベートにも。

 で、なんだっけ。

 ……あぁ、送信しなきゃいけないんだった。

 はい、送信送信。

 こんなもん、業務連絡に変わりないわ。

 さーて、さっさと確認してくれるわよね、業務連絡なんだから。

 的確で迅速な対応を期待してる……わぁ?

 はぁ?

 ――なんでいんのよ。

 ていうかふゆ、見つけんの早すぎでしょ。

 あいつまだこっちに気づいてないんだけど。

 まばらな人の波に乗って現れたあいつは、ふゆの視線が孕む温度か湿度に気づいたのか、もしくは自然と視界の中に映るふゆに気づいたのか、通行の流れからはみ出してこっちにやってくる。その右手には、透明なビニール傘がしっかりと握られていた。

「こんなところで、どうした」

「……見ればわかるでしょ」

 無駄にほどよく整った顔を得心したような表情に染めて、プロデューサーは言う。

「あぁ、傘を忘れたんだな」

 他人からずばり失態を突かれてしまうと、幼い反骨心めいた何かが芽生えてきちゃうのはなんでだろう。

「……そうよ。天気予報を過信していた愚かなふゆを笑いなさい」

「はは」

「愛想笑い下手くそすぎでしょ」

「まあ、誰だってちょっとしたポカくらいするさ」

「下手な慰めもいらないわよ」

「今日こんな目に遭ったんだ。明日はきっと今日より良い日に――」

「根拠のないポジティブ論も結構」

「そ、そうか……」

 せっかく相手が思いやりをもって応じてくれているのに、向けられた親切を無碍にするような言葉で切って捨ててしまう。それがいまのふゆ。ヘドが出るほどかわいくない。アイドルのふゆとは同一人物と思えないほどだし、家族と接する時の方がまだかわいげがあるはず。

「にしても、雨、どんどん酷くなってきてるな。まさかここまで降るとは」

「まあ雨って不幸の象徴みたいなもんだしね。こうしてあんたと偶然、遭っちゃったのも頷けるというか」

「うっ」

「なに本気でショック受けた顔してんのよ。冗談に決まってるじゃない」

「だよな……」

 でもどうしても、こいつの前だと、考える前に口が動いてしまうというか、遠慮や配慮の欠けた発言をしてしまうというか、とにかく、ぜんぜんかわいくないふゆになってしまう。

 素をさらけ出す前は、かわいいふゆのままで接することができたのに。

 アイドルとしてどんなときもかわいい存在でありたいと思うふゆにとって、こいつの前でも少しくらいかわいい姿でありたいと思うのは、至極当然の理なのよ。

 かわいくない素を見せていても、かわいいと思ってほしい。

 なんて、傲慢すぎるわよね。

 せいぜい、かわいくない素を、できるだけかわいく思われるようにしていきたい。

 このくらいが、健気さが感じられていいかも。

 ――ピカッ

 という音はもちろんしないけれど、直後にゴロゴロと物々しい音が轟いたのは確かだった。担当アイドルのけんもほろろな態度に、どうしたものかと苦笑していたプロデューサーの顔つきが、すっと変わった。

「……タクシーで行くか。ちょっと並ばなきゃいけないかもしれないけど」

 という妥当な提案に、反論を唱えて別案を出したいと思ってしまったのは、自分にはかわいげがあるとかないとか、今の今まで考えていたせいなのかもしれない。

 そしてそれを勢いのまま実際に口にしてしまったのは、元来のふゆの性格によるところが大きかった。

「…………ら、………………い」

 ただ、それを言うにあたって、精神力はごりごりと削られ、心音は高まり、謎の赤面症にも襲われるし、声も虫の羽音レベルになっちゃったけれど。

「え? どうした冬優子」

「だから、その……」

「ん?」

 じぃっと、ふゆの顔に穴があくんじゃないかってほど見つめられている。口がもごもごとまごついて、思うように動いてくれない。視点も定まらないし、もちろん目なんて合わせてられない。かっかと燃えるような体感温度のせいで、いつのまにか背中にいやな汗がぷつぷつと湧いてきていた。

「かっ、」

 ようやく、二の句を継げたはずだったのに、愚かにも盛大に噛んでしまった。身体中をめぐる血流が湯気をのぼらせる。頭の中は湯あたり寸前。ぼうっとして、ぐるぐるしてきた。

「か?」

 なんだかぼやけてきた視界の中、目の前で首をかしげる男から逃げるように目線をそらしたその先に、

「傘!」

 勢いよく指をさして、今度こそ告げる。

「傘があるんだから、歩いていけばいいじゃない!」

 言えた。やっと言えた。

 パアッと世界が明るくひらけて見える。

 いまだに顔は火が出るほどに熱い。そのおかげなのか、湿度が高く生ぬるいはずの風が涼しく感じる。ほんのりとひややかな清涼感によって、瞬間的に火照った身体が徐々に冷まされていくのが、体感でわかった。

「……落ち着け冬優子。傘は一つしかないんだぞ。どうやって俺たちは事務所まで歩けると言うんだ」

 訂正。頭が沸騰した。

「はあ⁉︎ あんたさぁ、わかんないの?」

「え?」

「ふゆは、ふゆはねぇ! 恥をしのんで! 恥をかく覚悟で! 提案したってのに、それをあんたは! あんたは……」

「……?」

 まだ要領を得ていないらしい思案顔が、ゆるっと数ミリ傾いた。

「はぁ……」

 まったくもう、馬鹿らしくなってきた。

「それ、よこしなさい」

「えっ、ちょっ」

 有無を言わせるまえに傘をぶんどって、変なところで察しが良くて変なところで察しの悪い変人に、背を向ける。

「おい冬優子どこ行こうとしてるんだ。まだ雨は止んでないぞ」

 心の中で、ため息をひとつ。

「わかってるわよ。わかってるから、傘を持ってるんでしょ」

「持ってるもなにも、それ、俺のっていうか……まさか、冬優子だけ傘の庇護下に入って、その隣で俺は濡れ鼠になりながら歩けと……?」

 まあ別に冬優子が濡れないならそれはそれで、とかなんとかアホなことぬかすアホがアホすぎてアホらしくなってきた。ていうか隣で歩くという発想があって、なぜふゆの求める正解までたどり着けないのか。

「あーもういい、わかんないならわかんないままでいいから。ここでこのままこうしてても時間の無駄でしかないわ。行くわよ」

「すまん、二分だけ待ってくれ。傘買ってくる」

「は?」

「いや、俺のぶんの傘」

「……」

「俺のぶんの傘……駅ナカのコンビニで……」

 本気で改札方面に逆戻りするそぶりを見せるスーツ男に、まさかとは思うけどある可能性が脳裏をよぎった。

「……あんたさ、もしかして、わかっててやってんの?」

「え?」

「どっちなの?」

「すまん、話が見えない」

「だから……」

「……おう」

「ふゆと相合傘するのが、そんなに嫌なのかって聞いてんの!」

 わざわざ相合傘なんて口に出して言うのが恥ずかしくて、声が若干うわずった。周りの目が気になって視線をめぐらせるも、衆目はこちらに集まっていない。

 放った声のターゲットは、雷にでも打たれたような顔をしていた。これ知ってる、間抜け面ってやつだ。マジでふゆの意図に気づいてなかったっぽい。察し悪すぎでしょ。

「……あぁぇ」

 ものすごい生返事。

「いやでは、ないぞ」

 でも、ふりふりっと二度三度、首を横に振ったから理解はしたらしい。

「ふん、なら行くわよ」

「おう」

 そして立ち直りも早い。一瞬は驚いていたようだけど、すぐにいつもの好青年フェイスを作って歩み寄ってきた。

「でも冬優子に傘を持たせるわけにはいかないから、返してくれ」

「あぁ、はい」

 やっぱこいつ、こういう気づかいはできるんだよねと感心したのも束の間、くるりとコンビニ方面に足を向けやがったので、即座に首根っこを掴んで強制連行へ踏み切った。

「ぐぇっ、苦しい。苦しいから離してくれ冬優子。あとついでに傘を買わせてくれ」

「だめ。無理。不許可の極み」

「うっ……観念するしかないのか。芸能記者のみなさん、後生だから今日だけは見逃してくれよ……」

「もし撮られたところで、行き先はいかがわしさなんてかけらもない事務所でしょ」

「いやでも、撮った写真をもとに、あることないこと書かれちゃうかもしれないし」

「……やっぱあんた、ふゆと一緒の傘に入るのがヤなんでしょ」

「そんなことはない」

「じゃあ、いいわよね」

「…………」

 しつこくて無謀な抵抗は、やんだ。

 目と鼻の先では、やっぱり雨がしとしとと降り続いている。

 こっちの方はまだ、やまなくてもいいかな。

 

 

 ☔︎

 

 

 雨粒が傘に当たる音が、こんなにも遠くに聞こえるのは初めてだった。

 ぽつぽつ、ぽつぽつ。

 たしかに聞こえてはいるけれど、意識はとなりを歩くプロデューサーにばかり向いてしまう。

 だってしょうがないじゃない。

 相合傘なんて、人生で初めての経験なんだから。

 にしてもムカつく。ふゆは多少なりとも、この距離感に思うところがあるというのに、こいつときたら平然とした顔で左肩を濡らしている。逆に、ふゆはアスファルトに跳ね返った雨が足元を濡らす程度。歩幅も自然とあっている。

「冬優子のその靴、初めて見た気がするんだが。おニューってやつか」

「ええ、そうよ。だからなに?」

「似合ってるなって」

「あっそ、当然でしょ」

 さりげなくも細やかな気配り。言動の端々から匂ってくる隙のなさを察知するたびに、感謝や感心をするべきなのに理不尽なイラつきを抑えられない。このパンプス履いてきてよかったとかけらでも思ってしまう自分自身にも、ちょっとモヤっとする。

 湿度が高く空模様もこんなだから、モヤつきは勝手には晴れてくれない。

 濡れた車道を走っていくさまざまな車がふゆたちを追い越すたびに、形容しがたい音と小さな水しぶきを上げる一方で、こちらは特に会話がなかった。まあどうしても話す必要性があるのかと問われると、会話に必要性なんて言葉をあてがうこと自体がナンセンスだから答えようもないんだけど、こうも黙々と歩いてばかりだと、どうしても肩を並べて歩く自分とは違う体温を気にしてしまう。じっと観察はできないけれど、顔色をうかがってしまう。相手がいまなにを思っているのか、推察してしまう。そして、やっぱり動揺も興奮もなく素顔のままの表情を見ると、少しばかり腹が立ってしまう。

 ふゆよりも高い位置にある横顔は、前ばかりを見ていて、こっちには視線をよこさない。緊張してふゆが見られていないんじゃなくて、ただ単に前に向かって歩いているから前を向いているだけ。表情が、悠然に物語っていた。

 数メートル先の歩行者用信号がチカチカと点滅して、赤に変わる。事務所まではあと少しというところで、ようやく立ち止まることになった。

「……」

「……」

 会話はない。かぼそい雨音の独奏に、信号の切り替わりを機に複数のタイヤによる多重奏が覆いかぶさった。

 車道を挟んだ向かい側では、赤いランドセルを背負った女の子がひとり、赤い傘をさして佇んでいる。都内というか、ここらあたりの地表はアスファルトばかりだ。ふゆの住むあたりはそうでもなかった。小学校のグラウンドはもちろん土だったから、雨上がりに行われる体育の授業では、泥の跳ね返りでハーフパンツや脚が汚れないよう、できるだけ踵を浮かせて歩いたり走ったりしていた。男子は気にせず走り回って、服に茶色の点々模様をあしらっていたけど。

 となりを歩く、ふゆより少し年上の男は、どんな子供だったのかな。こいつにだって当然、子供時代があったはず。今のふゆよりも背がちっこくて幼くて、今のこいつみたいな不思議な余裕もっていない、ふつうの男の子。そんな男子がこんな男性になるには、どういった試練や転機があったのか。想像の埒外だった。

 信号はまだ、赤。雨の日に見る信号が放つ光は、すこしにじんで見える。意図して数秒の間目をつぶると、まぶたの裏で赤っぽい光がぼやっと浮かんでいて、やがて徐々に薄くなっていく。

 目を開けて、特になにを思うでもなく横を見上げた。

 視線が、交錯した。

 傘の下で初めて、目が合った。

 でもそれは、ほんの一瞬のことで、声を上げる暇も息をする暇もなく、目線は外された。

 ――気のせいよね。

 こいつの横顔が赤く見える。

 さっきまでじっと赤信号を見つめ続けていたせいで、たまたまそう見えるのかもしれない。

 でも、たしかめたい。

 すこしだけ踵を上げて、息が触れる距離に顔を近づけた。

「ど、どうしたんだ」

 錯覚だった。

 ふゆの勘違いだった。

 平然とした顔に、普段通りの顔色が塗られていた。

「どうもしないわよ」

 なぜだろう。

 胸がどうしようもなくざわついた。

 つま先に力を込めて、思いっきり踵を上げてみた。

 雨の音はもう、聞こえなかった。

 

 

 

 

 

 

(おしまい)





 ふゆこpSSRにご対面できるのかどうか、今の時点で既に不安。
 ふゆこ、、、おれはここだ。。。見つけてくれ。。。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。