時をさかのぼり、アムールトラの過ぎ去りし日々を描きます。
アムールトラとはかつて何者であったのか?
いかにしてフレンズの姿を得たのか?
なぜビーストに身をやつしてしまったのか?
高くなだらかな天井に吊り下げられた、色とりどりの照明が星のように眩しく輝き、舞台を照らし出している。絶え間なく舞い散る紙吹雪が、空間を一層華やかに、騒々しく彩っている。
舞台の上では、奇抜な衣装のヒトや動物たちが協力しあって多彩な芸を披露している。客席からはひっきりなしに喝采が巻き起こり、熱狂が渦巻いている。
ヒトはその場所を“サーカス”と呼んでいた。
一方で、巨大なカーテンに仕切られて照明の当たらない舞台裏は薄暗く、遠くに聞こえるだけの喝采は一層静寂を強調させた。掘っ建ての柱の周囲には乱雑に小道具が置かれ、その間を縫うように、神妙な面持ちのヒトたちが通りすぎていく。
それと同じように、出番を待つたくさんの動物たちは、簡素に設置された鉄の檻の中で息を殺すようにたたずんでいた。
私の記憶が始まるのは、そんな場所だった。
私は舞台裏の静寂の中でうずくまり、カーテンの隙間からわずかに見える照明をぼんやりと眺めていた。賑やかな舞台も他人事のように思えた。
やがてカーテンの向こう側の照明が消えて喧噪が聞こえなくなると、疲れた顔のヒト達に連れられて、同じように疲れた顔の動物が歩き、また檻の中へ戻っていった。
私がいた檻の中にも、私と同じ橙色と黒の縞模様を持ったトラ達が戻ってきていた。檻の隅で佇む私に一瞥もせず、各々が決めたスペースに座り込むと、気だるそうにあくびをしてその場に寝そべった。
檻の外で、数十人のヒトがなおも忙しそうに後片付けに勤しんでいる。それらが終わると、その中の何人かが銀色の荷車を押し、檻の前にやってきた。
その姿を見ると、檻の中のトラ達は皆弾かれたようにざわめきだす。
「餌だ。食え」と、簡潔な指示と共に、檻の中に等間隔に銀色の皿が並べられていく。大きな皿は成体用、小さな皿は仔供用だった。どの皿の上にもどっさりとピンク色の生肉が乗せられている。
成体も、仔供も、トラ達は我先にと皿の傍まで駆け寄り、生肉にむしゃぶり付き始めた。
成体たちは一日の疲れを癒すように、舌鼓を打ちながら黙々と各々の皿の肉を食んでいる。私もそれに遅れて仔供用の皿のひとつにありつこうと近寄った。
だが、誰かが後ろから私を突き飛ばし、私が目を付けていた皿を横から奪い去って口を付け始めた。私と同じぐらいの幼いトラ、私の兄弟のうちの一匹だった。
あきらめて別の皿を探す私が右往左往していると、すでに手付かずの皿は無くなっていた。
成体たちが大人しくひとつの皿にありついているのに比べて、仔供たちは皿をひっくり返して、散らかしたりしながら餌を奪い合っている。
私も、遅ればせながら奪い合いに参加すれば、まだいくらかは生肉にありつけそうであったけど、私は兄弟たちが食べ散らかすのをただ眺めているだけだった。
「お前、食べないのかよ」と、別の兄弟が満足そうにゲップをしながら私に問いかける。
「うん、お腹空いてないから」と、私ははにかみながら答えた。
兄弟たちは皆血気盛んで、やんちゃだった。私はそんな兄弟たちをいつも後ろから一歩引いて見ていた。私は兄弟の中で一番年少であり、同時に一番気弱で体も丈夫ではなく、上の兄弟たちに遠慮ばかりしていた。
私たちアムールトラの七匹兄弟は、まだ幼くてサーカスに出演することはなかったが、いずれ近いうちに大人のトラ達に混ざってあの舞台に上がることは明らかだった。
そうすることで餌をもらい、生きていく。それが当たり前なのだろうと思っていた。それ以外の生き方は知らなかった。
ある日、私たち兄弟は芸の練習に駆り出された。サーカスのトラの花形芸である火の輪くぐりの練習があった。最初のうちは火をつけていないただの輪を兄弟たちと一緒にくぐっていた。
やがて慣れてきたと判断され、本番同様に火が灯った輪をくぐることをヒトに命ぜられた。赤々と燃える輪を前に、兄弟たちはみんな躊躇する様子を見せるが、やがて意を決した兄弟のうちの一匹が果敢にも火の輪の中に飛び込み、通り抜けてみせた。
最初の一匹に続くように、他の兄弟たちも次々と火の輪くぐりを成功させていった。
みるみるうちに、輪の向こう側に、私以外の兄弟全員が辿り着き、こちら側で動けないでいるのは私だけになった。
トラの兄弟たちも、近くで指示をするヒトたちも、私が動けないでいるのを怪訝な表情で見ている。私は私で必死に自分を奮い立たせようとするが、火の輪の眩しさや近くから感ぜられる熱さを見ていると、どうにも怖くてたまらず、足が動かないのだった。
「・・・さっさと行け! 後はお前だけだぞ!」と、近くにいたヒト達の中でもひと際立派な出で立ちをした若い男性が私の近くで鞭を振るった。ピシャリと甲高い音が鳴り響く。
それでも動かないでいる私を見てなおさら苛ついた様子で、若い男性は私の近くで鞭を打ち鳴らし続ける。私はだんだんと近づいてくる鞭の音に恐怖してすっかりうずくまっていた。
「団長、こいつらは今日がはじめての訓練ですから、あんまり根を詰めないほうが・・・」と、その場にいたもう一人が、団長と呼ばれた若い男性をいさめた。
「・・・ふんっ!」と、団長は鞭を放り出してその場を後にした。私は去っていく団長の後ろ姿を見てほっと胸をなでおろし、その日はそれで終わった。
しかしその後も、他の兄弟たちが訓練をうまくこなしていく中で、私だけが怖がったり、ミスをしたりと、そんな状況が続いた。いつしかサーカスのヒトたちも、トラの兄弟たちも、私のことを出来損ないとみなすようになった。
私も自分のことを、周りより劣っていて、十分に餌をもらったりする資格のない存在なのだと思い始めた。芸の出来ない動物など、サーカスには必要ないんだ。
何度目かの火の輪くぐりの練習があった。他の兄弟たちはもう慣れたものであり、縦一列に並んで、流れるような軽快さで次々に輪を飛び越えていった。
ただの一度も輪をくぐれていない私は、下を向いて震えている。
調教師は私のことを半ば無視するように、兄弟たちに次の指示を飛ばした。兄弟たちは、芸が上達していく達成感に高揚しながら、新しい芸に挑んでいく。
何で私だけがこんなに劣っているのだろう。みんなと同じように出来ないのだろう。この頃の私は、生活のすべてがつまらなかった。
「アムールトラの七匹兄弟ですか? 良い調子です。かなり覚えがいい奴らですね。やはり血統がいいですから」
「でも、末っ子のアイツだけは・・・てんでダメですね。団長、いっそのこと、六匹兄弟として売り出せばいいんじゃないですか?」
「まだ体が大きくなるまでには時間があるだろう? ウチは動物の芸を一番の目玉にしてるんだ。そんな簡単にあきらめるなよ」
「そうは言いますがね。アイツは本当に劣等生ですよ」
「もういい。それならこの俺が直々に調教してやる」
ある時、兄弟の中で私だけが首根っこを掴まれて訓練場に連れていかれた。団長が鞭を握りしめながら、私の前に佇んでいる。幾度か体験したように、前方に火の輪が現れた。
「さあ、くぐってみろ」と、団長は冷淡な口調で命令する。
「わかるか? この輪は、お前ら仔供の練習用なんだぞ? 本当ならもっとずっと高くて狭いんだぞ? こんな簡単なことを、何でお前だけ出来ないんだ? お前の兄弟はみんな出来ているのに」
団長の言葉はわからなくても、私に伝えたいことだけはわかる。
私だけが兄弟の中で劣ってしまっている。完璧主義の団長には、それが許せないのだ。
「お前の親は、このサーカスでも一番の人気者だったんだぞ? その仔供であるお前達に、どれほどの期待が寄せられていると思う? お前たち兄弟は次の花形なんだぞ? わかるか?」と、団長は淡々と語りながらも、鞭を力強く握りしめて私に近づいてくる。
団長は、部屋の隅に灯っていた松明のひとつを引き抜くと、己の眼前に掲げた。赤々と灯る松明の炎を掲げると、それを私に見せつけるようにしながら向かってくる。
うずくまっている私のすぐ近くで、威嚇するように松明を振るい続けた。
「さあ! 飛べ! 松明が嫌なら! 火の輪を飛び越えてみせろ! さあ、早く!」
前方もからも後方からも火に照らされて、すっかり恐怖にあてられて縮こまってしまった私に、団長はなおも近づいて来る。
松明は、いよいよその熱が肌に感じられるほどの距離にまで来ていた。
団長が額にしわを寄せて苛ついている表情がはっきりとわかる。私の近くで足を踏み鳴らして、その音でも私を威嚇している。私は今にも団長に蹴飛ばされるのではないかと思った。しかし、逃げ場はない。
「なんて強情な奴だ・・・いっそ、一回火の熱さを体験してみるか? 別にどうってことはないぞ? なんせお前はトラだ。自分がどれだけ大きくて強い体になるか、考えたこともないだろうな」と、団長がぶつぶつ呟きながら近寄ってくる。
松明がじりじりと、恐怖で縮こまった私の体をあぶろうと近づけられる。
私はそれを自分に与えられた罰なんだと思った。私は出来損ないだから、価値がないから、こんな風に虐げられるのだ。
「やめてください!」
突如、火の熱さではなく、やわらかなぬくもりが、私の小さな体をすっぽりと包み込んだ。暗闇に包まれた視界の中で、私はその心地よさに違和感を覚える。
「坊ちゃま! この仔が可哀想ですよ!」と、私を包み込んだ違和感の主が言葉を発した。声の高さや話し方から察するに、年を取った女のヒトであることがわかる。しわがれてこもっているような、それでいて優しい声だ。
私と同じく、団長もその声に驚いた様子であり、松明を引っ込めてばつが悪そうに佇んでいる。
「お前、サツキか? どうしてここにいるんだ?」
「お久しぶりでございます。今はこの近くで暮らしています。一座が公演をしていると知って、懐かしくなって来てみたんです。今日は公演はお休みでしたけど・・・元関係者だから、入れてもらえたんです」
「そうか。お前、親父が倒れたのと一緒にやめたんだったな。俺が大学を出た頃だったから・・・もう十何年も前の話になるか。それはともかく」
どうやら団長と、サツキと呼ばれた老女とは旧知の間柄のようであり、身近な空気をまとわせながら挨拶を交わしたが、仕事の邪魔をされた団長の声色は再び不機嫌なものとなっていく。
「何で訓練場に入ってきた? 昔話がしたければ控室で待っていろ」
「ごめんなさい。つい懐かしくなって入ってきてしまいました・・・それで、差し出がましいのですが、少し厳し過ぎるのではないでしょうか?」と、老女は私の体の上からどくと、皺が寄った痩せた腕で私のことを抱きあげた。
私の体はまだ小柄な老女の両腕に収まる程度の大きさしかなかった。
老女は、私の頭を優しく撫でている。生まれて初めて感じる心地よさに、恐怖でこわばった体がほぐれていくのを感じる。
「すっかり怯えてしまっています。この仔はまだほんの赤ん坊なんです」
「赤ん坊なのはちょっとの間だけだ。あっという間に大きくなる。下手に甘やかして、何も出来ないまま成長したら、不幸になるのはこいつ自身だ」
「ですが坊ちゃま、動物だって、ヒトと同じなんですよ。一匹一匹違うんです。大きくて強くても、繊細な仔だっているんです。お父上は、もっと一匹一匹に寄り添って、その仔の身になって芸を教えることを常に心がけていましたよ」
「・・・うるさい! やめた人間が口出しするな!」と、“お父上”という言葉を聞いた途端、団長が突如冷静さを失って怒声を上げた。
「親父が何だって言うんだ! ウチは今や日本最大級の人気サーカス団なんだよ! 親父やお前がいた頃とは動物の数だって比較にならない! 動物一匹一匹に時間をかけていられないんだよ!」
「・・・何匹居たって、動物はサーカスの大事な仲間ですよ。あまりかわいそうな扱いをしては・・・こんな、火で炙ろうとするなんて・・・」
「・・・くっ!」
団長は苛立ちを必死に抑えながらも、老女の指摘に痛い所を突かれたようであり、反論せずに俯いて歯噛みしている。
「・・・今日の所は、年長者の顔を立ててやろうじゃないか」
「いえ、出しゃばるような真似をして申し訳ありません」
その場はひとまず収まったようであり、団長は踵を返して訓練場を後にしようと歩きはじめた。老女は私を抱えながら団長の後に付いていった。
私はすっかり居心地が良くなって老女の胸に顔をうずめていた。
老女の腕の中は、干し草と石鹸が混ざったような、嗅いでいると眠くなってくるような匂いがした。こんなに温かくて安心する気持ちを、物心がついてから初めて知った。
しかし、私がそう思っているのもつかの間・・・
「ここにそいつを戻せ」と、団長がトラの檻のカギを開けた。金属音を立てて開かれた向こう側には、兄弟たちがじゃれ合っている音や、骨を休める成体たちの寝息が聞こえる。
老女は枯れ枝のような両手を伸ばし、私の小さな体を檻の中に差し出した。
団長が檻を閉め、錠前に再びカギをかける。
トラの檻から遠ざかっていく老女の姿を見上げていた私は、檻に前足をかけて立ち上がり、老女を呼び戻そうと何度も叫んだ。
しかし、すでに暗い廊下の向こう側に行ってしまった老女が私の声に気付くことはなかった。
このままサーカスの建物の外に行かせてしまったら、もう二度と会えないような気がした。でも、そんなのはいやだ。またあのヒトに会いたい・・・優しく撫でてほしい・・・
「何おまえニャーニャー情けない声出してんだよ」
「前から思ってたけど、本当はトラじゃなくてネコなんじゃねえの?」と、後ろから兄弟たちがあざけっている声が聞こえる。
私は、あらがいがたい強い衝動が体中を駆け巡っていくのを感じながら、兄弟の方へ向き直った。
______グルルルルッッ・・・
私の顔を見て、兄弟たちはびくっと驚いた。牙をむき出しにして目元口元を吊り上げ、怒気を漲らせるその表情は、相手にあきらかな敵意を向けていると取れるものだった。
「なんだお前? ケンカ売ってるのかよ! 生意気な顔しやがって!」
「ネコって言われたのが悔しかったのかよ!」と、兄弟たちが私と同じように牙を剥いて威嚇し返した。
「わたしだって、トラなんだっ!!」
大声でそう叫ぶと、兄弟たちに向かって一直線に駆け出し、その中の一匹の胸元に躊躇なく噛み付いた。なんでこんなことが出来たのか自分でもわからない。
胸の中にあるのは、老女に再び会いたいというおさえられない強い気持ちだ。
「うわあ! いてえぇっ! ちくしょう!」
「ふざけやがって! ボコボコにしてやる!」
私は6匹の兄弟達を相手に取っ組み合いを始めた。私は地面を転げまわりながら手近な兄弟の体にまた牙を立てた。
兄弟たちは私を取り囲み、ある者は引っ掻き、ある者は噛み付いた。私の体はあっという間に生傷だらけになり、血がにじんでいった。
「やめろお前ら! ケンカだけはするな! 人間からひどい罰を受けるぞ!」と、ただの仔供のじゃれ合いではないことを悟った成体達がいさめようと近寄ってくるが、時すでに遅かった。
______ガチャンッ!
トラの檻が勢い良く開け放たれ、飼育員達が何人も入ってきた。金属のさすまたや捕獲網などをたずさえながら、ケンカしているトラの仔共達に近寄ってくる。
「もうダメだ、お前らが悪いんだからな!」と、成体のトラ達は、巻き添えを食わないためにそそくさと檻の隅に退いた。
成体のトラ達は皆、小さくてか弱いヒトのことなど何で恐れているのかわからないぐらい、強靭な体と、鋭い牙と爪を持っていた。
だがサーカスで生きる動物たちは、ヒトに逆らうこととはすなわち、生きる場所を失うことであるということを理解していた。
いかに大きかろうが、強かろうが、そんなことは何の意味も持たないんだ。
そんな成体たちを見てきた仔共たちは、成体たちの考えはわからないまでも、何の疑問も抱かずにそれに倣うようになっていた。6匹の兄弟たちは飼育員達の姿に恐れをなし、すぐさまケンカを中断し、腹這いに寝そべって服従の姿勢を示した。
しかし私だけは、待っていたといわんばかりに、全力で開け放たれた扉へと走り出した。その場にいた飼育員もトラも、一瞬何が起こったかわからないという様子であっけに取られていた。
「おい、トラが一匹逃げたぞ!」
「何やってんだ捕まえろ!」
私は、追いかけてくる飼育員達が繰り出すさすまたをかいくぐり進み続けた。今まで愚鈍そのものだと思っていた自分の体は、想像よりずっと俊敏だった。
暗い廊下に、干し草と石鹸が混ざったような老女の残り香は、まだ十分に残っている。一歩一歩進むごとに匂いが強まっていくことに期待を躍らせた私は、兄弟とのケンカで痛む傷のことも気にせず、いっそう力を漲らせて走るペースを上げた。
従業員たちは肩で息をしながら私に追いすがっているが、もはや追いつかれる気がしなかった。
残り香を頼りにいくつもの角を曲がり、建物の奥に進んだ私は、やがて廊下の突き当りにたどり着いた。老女の匂いが強く漂うその場所には、簡素な装飾が備え付けられた木製のドアがあった。
後ろ脚で立ち上がってドアノブにぶら下がろうと試みるも、私の前足がドアノブに届くことはなく、むなしく空を切り続けた。
そうこうするうちに、追いついた飼育員たちの一人が私に覆いかぶさって羽交い絞めにしてきた。必死に抵抗して振りほどこうとするも、大の男に圧し掛かられては、今の私の力ではどうすることもできない。
「うるさいぞ! 一体なんの騒ぎだ!」
扉が内向きに開け放たれ、中から苛立った顔の団長が姿を現した。そのすぐ後ろには、老女も控えている。
私は老女の姿を見つめながら、飼い猫のように媚びる声を上げた。
「まあ、この子、ここまで追いかけてきたっていうの?」
「何があったんだ」
団長に詰め寄られて、従業員たちはばつが悪そうにいきさつの説明を始めた。
私はその場で従業員が持っていた捕獲網の中に押し込められながらも、他のことを一切気にせずに老女を見つめている。
「ふうん、そうか」と、話を聞き終わった団長は、今一度深い溜息をついて呼吸を整えると、何かを決断したように顔を上げる。
「やっぱり、こいつはこのサーカスでやっていくのは無理だな。先に兄弟に噛みついたのはこいつなんだろ? だったらもう、他の兄弟と一緒に仕事はさせられない。こいつがいたらまたケンカの原因になるかもしれないからな」
「団長、こいつをどうしますか? 他のサーカスか、動物園にでも売りますか?」
「それも難しいだろ。本来なら大切な商品であるはずのトラの仔共をウチが手放す理由なんて、業界人なら簡単に察してしまうさ。こいつは他のトラとうまくやれない問題児なんだってな」
「うーん、困りましたね」
「いや、考えがある・・・」
団長は、突如視線をずらして、傍らで聞いていた老女に目配せした。老女は突如自分に視線が向けられたことに驚き、わずかに体を震わせた。
「サツキ、お前がこいつを連れて帰れ」
「そんな・・・トラを引き取ることなんて私には無理ですよ」
「ああ、勘違いするな。無理なのは重々承知だ」と、団長は上機嫌そうにふんぞり返りながら言葉を続ける。
「いいか? お前はこいつの“転売”をするんだ。いったんお前の所有物ということにして、サーカスとの繋がりを絶つんだよ。そうしたらどこかに売ることだって難しくはないはずだ」
「でも・・・」
「もちろんお前から金は取らない。お前はこいつを売った分だけ丸儲けするのさ。生後半年の健康なアムールトラの仔供だ。6、700万はいくだろうな・・・サツキ、お前は一人身で、貯金とアルバイトで食いつないでいるんだろ? お前にとってもいい話のはずだぞ?」
困惑し黙り込む老女をよそに、団長は自分の都合だけで話をさっさと進めていく。団長に何事か命じられてそそくさと出ていった従業員は、数分後、何枚かの書類とペンを持って戻ってきた。
つい先ほどまで話していた応接室の、黒漆のテーブルに書類を広げ、老女の眼前に差し出す。
「この売買契約書にサインしたら、この仔トラはお前の所有物になるんだ。さあ・・・」
「は、はい・・・」
_______矢車 皐
いつの間にか、団長の提案を受け入れざるを得ない状況に追い込まれてしまった老女は、反論もせずに書類に名前を書き入れた。
「よし、それでいい。でかくなる前に、さっさとどこかに売っぱらえよ・・・適当な話を作るのも忘れるな。そうだな、縁故でトラの仔供をもらったけど、生活に困って売らざるを得なくなったとかはどうだ? その手の話をすぐに信じるお人よしは世の中多いぞ?」
話がまとまり、老女は会釈をして応接室を後にした。私は小動物用のキャリーケージに入れられて、従業員に持ち運ばれながら老女の後に続いた。
振りかえると、ソファーにふんぞり返ったままの団長と、側近の従業員が何事か小声で話をしているのが見えた。
「・・・でも、ちゃんと売れますかね。元業界人とはいえ、俺たちみたいなコネのないサツキさんに、動物を転売できるとは思えないんですが」
「ははははっ、そんな真面目に考えるなよ。あんなのは体の良い言い訳だよ。売れようが売れまいが、権利関係は全部サツキに渡したんだ。もうこのサーカスには関係のない話だ。うちはもうじき海外進出もする。落ちこぼれの動物や辞めた職員のことなんてどうでもいいのさ」
従業員が気だるそうな顔で運転する自動車が、たくさんのヒトや乗り物が行きかう星の海のような街中を走り、やがて人影もまばらな、鉄とコンクリートをつぎはぎしたような建物が立ち並ぶ小道で足を止めた。
「着きましたよ」と、従業員がぽつりとつぶやいた。
老女は車を降りると、私が入ったキャリーケージを引き寄せた。
「ありがとうございます。団長にもよろしく伝えてください」と、老女は従業員に向かって会釈したが、従業員は視線も合わせずに気のない返事だけを返し、再びアクセルを踏んで走り去っていった。
都会の片隅、すっかり日が暮れて街頭にうっすら照らされるばかりの街角に、どこもかしこも赤さびに晒されている小さな集合住宅があった。
老女は両手で私の入ったキャリーケージを持ち運び、やがて無数に並んだ扉のうちのひとつの前で足を止めた。蝶つがいを軋ませながら、節々が錆びた扉がゆっくりと開かれる。
「狭い所でごめんなさいね」と、キャリーケージの留め金が外された。私は胸をわくわくさせながら、ケージの外へ降り立った。
(緑色のお部屋だ・・・)
タンスの上や、キッチンと冷蔵庫の隙間など、ちょっとしたスペースには、余すところなく観葉植物が置かれていた。それらは狭い中でも十分に葉を茂らせている。
手近な植物の一つに鼻を突っ込み、匂いを嗅いでみた。生まれて初めて味わう安らぎで心が満たされていった。
ちょこちょこと走り回る私を他所に、老女は肩を落としながらため息をついている。
私はそんな老女の顔を見上げた。彼女は私を歓迎していないのだろうか? と思うと、何もわかっていない幼い私の脳裏にも不安がよぎる。
老女は不安な表情のまま、懐から取り出した小さな金属の板を触っていた。
しばらくすると、金属の板を耳に当てて、独り言を言い始めたのだ。私には何をしているのか全く理解できなかった。
「あ、もしもし、遅い時間にごめんなさい・・・ええ・・・ええ・・・ありがとうございます。元気でやっています。それで・・・その、ひとつ相談したいことがあるのだけれど・・・その、以前お茶をした時に聞いたのだけれど・・・その、園の飼育動物が足りないって・・・」と言ってから黙り込む老女の苦しそうな双眸は、私から片時も逸れることがなかった。
私は老女に問いかけるように、にゃあんと甲高い鳴き声を発した。老女の口元が、苦痛に耐えるように一層しわくちゃになった。
「・・・いえ、なんでもないわ。また今度お茶でもいかがかと思って」と、言いながら金属の板を耳元から下ろした。
老女は膝をついて、私の小さな体を持ち上げた。相変わらず苦しそうな顔で、すすり泣きをしているけれど、私のことをしっかりと抱きしめてくれている。
それは、老女・・・サツキおばあちゃんが、私の家族になってくれた日だった。誰からも必要とされなかった私に家族が出来たのだ。
to be continued・・・
_______________Cast________________
哺乳綱・ネコ目・ネコ科・ヒョウ属トラ亜種
「アムールトラ」
_______________Human cast ________________
「矢車 皐(やぐるまさつき)」
年齢:62歳、性別:女、職業:フリーアルバイター
「津島 洋二郎(つしまようじろう)」
年齢:35歳 性別:男 職業:ツシマジャパンサーカス代表取締役
_______________Story inspired by________________
“けものフレンズ” “けものフレンズ2”
byけものフレンズプロジェクト
“けものフレンズR”
by呪詛兄貴