師匠と弟子、二人きりの修行の日々。
ヒトは、死んだら天国か地獄に行く。
以前、ヒグラシ所長が教えてくれたことだ。
良い行いをしたヒトは天国に行って、永遠の幸福の中で過ごすことが出来る。
悪い行いをしたヒトは地獄に落ちて、終わることのない痛みや苦しみをその身に受け続ける。それは生きている時に犯した罪に対する罰なのだと。
本当かどうかわからないけど、そんな考えを信じているヒトが世界中にたくさんいるらしい。
動物も、ヒトと同じように天国や地獄に行くのかな?
私は一度死んだことがあるけど、その時見たのは天国でも地獄でもなかった。
暗くて冷たい川の中を、どこまでも流されていたことを憶えている。
何もなくてただただ寂しい場所だった。その寂しいって気持ちさえも次第に無くなっていくのを感じた。
今にして思えば、あそこは天国か地獄に行く途中の通り道だったのかもしれない。
あの道を渡り切る前に、私は今の姿で生き返った。
そして今、生きているはずの私が居る場所は・・・
「アムールトラ・・・付いてこいや。俺の家に案内してやらァ」
「は、はい、師匠!」
あの白づくめの不気味な建物の中で、ゲンシ師匠は私に空手を教えることを約束してくれた。
あの後、師匠と私はトラックの荷台に詰められて、どこかへと運び出された。
しばらく走ったトラックがどこかで足を停めると、天井を覆う金属の屋根が突然に切り開かれて、師匠と私は外に下ろされた。
私はまぶしさから目をかばうように手をかざしながら、おそるおそる暗闇の外へと一歩を踏み出した。
そこにあったのは、想像だにしない景色だった。
数えきれない瓦礫やゴミで埋め尽くされた鉄さび色の大地・・・いつ果てるともない荒野が地平線の向こうまで続いている。
一歩踏みしめるごとに、細かな瓦礫の中に足が取られて沈んでいく。
臭いもひどい。埃っぽくて、むせ込みそうなぐらいしょっぱくて・・・それになんだかよくわからないけど、とても嫌な感じがする。
見れば見るほどに、想像を絶するひどいありさまだ。この世界にはこんな場所もあったのか。
こんな所には、ヒトは絶対に住めない。ヒト以外のあらゆる動物にとっても、ここは生きられる場所じゃない。
ゲンシ師匠はいつの間にか、どんどん先に進んでいっていた。
細かな瓦礫が降り積もる道は波のように細かい勾配を形作っており、少し進むだけでも登ったり下ったりしなければいけなかった。
私も師匠に置いていかれない必死に足を運んだ。
「ここのことはどこまで知っていやがる?」と、振り返りもしないまま師匠が尋ねてきた。
「ここは死刑囚が集められる場所って聞きました。師匠も、その・・・」
「死刑囚がここでどんな風に死ぬか、知ってるかい?」
「・・・いえ」
「やれやれ、ドクターハザマの言う通り、本当に何も知らねェンだな」
ゲンシ師匠がここのことを色々と説明してくれた。
死刑。国が与える罰として、罪人の命を奪う行為のこと。
日本では数十年前まで、ロープで首を絞めたまま高い所から落として死刑を行っていたらしい。
外国では、銃で撃ち殺したり、毒を体に注射したりと、色んなやり方があったとのことだ。
でも、現在ではそういったやり方は全部なくなったらしい。
残酷であるとか、倫理観に反するとか、ヒトの考え方が進歩していくのと同時に、段々と時代遅れになっていったから、とのことだ。
世の中の流れは一時期、死刑を完全になくそうという意見に傾いていた。
だけど死刑はなくならなかった。
死刑になるかもしれないという恐怖が、犯罪をやめさせるブレーキとして必要だからと考えられているかららしい。
死刑の次に重い罪は終身刑といって、囚人が寿命で死ぬまでずっと刑務所に閉じ込めてしまう刑罰があるらしいのだけれど、何十年もの間ヒトを一か所に閉じ込めておくのはとても難しいことらしい。
そして犯罪をやめさせるブレーキとしての効果は、死刑に比べるとあまり期待できないとのことだった。
だからと言って、直接的な方法で囚人の命を奪う今まで通りの死刑もためらわれた。
そうして考え出されたのが“直接的には殺さない死刑”だった。
「この拘置所にいるだけで、誰もかれも遠からず死んじまうのさ。一か月後か、あるいは一年後か・・・そりゃあそいつの生命力次第だな」
「どうしてなんですか?」
「ここがひどいのは見た目だけじゃぁねェ。ここは放射能に汚染された島なんだ」
ほうしゃのう・・・そういう名前の、すべての生き物の体を壊してしまう恐ろしい毒があるらしい。この島のどこにいても、放射能が囚人の体を蝕み続ける。
時間が経てば経つほど囚人の体は放射能に侵されていって、やがて死に至る・・・
「だが、おめぇの体には放射能が効かないらしいんだと」
「そ、そんなこと聞いてません・・・」
「俺もついさっき聞いただけだ」
「所長は何も言ってませんでした」
「あの男はおめぇに余計なことを話して、不安にさせたくなかったんだろうぜ。ともかくおめぇは安全だ。そうでなければ、おめぇに対して過保護ともいえるあの男が、おめぇをこんな所に送り付けるわけがねェやな」
確かにそうだ。私にはセルリアンと戦う使命がある。その使命を果たせないまま死なせることなど、ヒグラシ所長は絶対に望まない。
でも、だからと言って何も教えてくれないのはあんまりじゃないか。
「そういうことだからよ、おめぇに空手を教えるとは言ったが・・・あんまり時間はないと思えよ」
「・・・・・・はい」
瓦礫の砂漠の合間に無数の朽ち果てた建物が軒を連ねている。様々な大きさの・・・元々はビルだったり普通の民家だったりしたであろう廃屋だ。
「・・・し、師匠。あれは何ですか」
私が指差したのは廃屋の中のひとつだ。その入口から、金属の光沢を放つ“こけし”のお化けみたいなのが出てきたのだ。
寸胴な体の下には球体があり、それがボールのように転がることで瓦礫の上を移動している。
ヒトの背丈よりも少し大きいほどの得体の知れない物体が動いているのを見て、私は思わず身構えた。
「安心しろや。ありゃあガードロボットさ」
「がーどろぼっと?」
「囚人を野放しにするわけねェだろ。見張る人間が必要だ。だが放射能が降り注ぐ中を生身の看守が歩き回るってわけにもいかねェ。そこで遠隔操縦のガードロボットが使われてるってェわけさ。よく見てみな、あそこにも、あそこにもいる」
なるほど、こけしのお化けの向こうから、あのハザマっていう女のヒトやその部下たちが見ているってことなんだ。ちょうど、ヒグラシ所長がいつも黒い球体ごしに私に話しかけてくるのと同じようなものだ。
そして、私にはもう一つ気になることがあった。
「師匠、さっきから私たち以外には誰もいませんが・・・他の囚人はどこに?」
「みんな建物の中さ。穴を掘っている。そしてそん中で怯えて縮こまっている」
「あ、穴ですか?」
穴を掘るのは、放射能を少しでも避けるためらしい。汚染が一番ひどいのは地面の上であり、地面に穴を掘って、少しでも地下に潜れば、それだけ放射能が薄くなるのだとか。
一日でも長く生き延びるためにここの囚人は穴を掘り続けている。
「ガードロボットの仕事は見張りだけじゃねェ。食料や水の配給もやるし、日ましに悪化する囚人の健康状態も記録してる。だから囚人は穴掘りに専念できるってことさ」
「・・・師匠は穴を掘らないんですか?」
「やらねェ。そンなことよりも大事なことがある」
私は頭の中に入ってくる情報を整理しきれないまま師匠に付いていった。
しばらくすると瓦礫の島の終わりが見えてきた。
_______ザァァァ・・・ザッパーン・・・
陸地が途切れた向こうには、途方もない広さの海が広がっている。
実際に海を見るのは始めてだ。映像では何度か見た事があるけれど・・・でもこの海は、映像の中で見たような、胸がおどるような青くきらめく透明な海とは全然違う。
日は高く、さんさんと陽射しが降り注いでいるのに、海面がその光を反射することはなかった。海面は見渡す限り、真っ黒に濁っている。
そして海面の上には、良くわからない形のおびただしい量のゴミが漂っている。
あたりまえだけど、陸地だけじゃなくて海もすっかり汚れてしまっているんだ。囚人がこの海を泳いで逃げることは出来ないだろうな。
「着いたぞ・・・ここが俺の家だ」
家・・・どこに家が。私が辺りを見回すと、瓦礫の中にまっすぐな坂道を見つけた。
地中へと延びる坂の終点には、扉すらない四角い穴が開いていた。
道の幅から考えると、たぶん車が出入りするような道だったんだ。
「あ、あそこですか?」
「あの地下駐車場が一応、俺の家ってェことになる」
「・・・?」
ゲンシ師匠はそれ以上答えなかった。
打ち寄せる波の音だけが繰り返し鳴り響いている。これだけ汚れていても、音だけは正真正銘の海だった。
困惑したまま師匠のことを見ていると、突如彼から放たれる空気が変わった。
研究所ではじめてあった時と同じだ。
目の前にある海と同じくらい巨大な存在感を放ち始めた師匠を前に、私も必死に雑念を振り払い意識を集中させた。
「さあ、さっそく稽古しようじゃねェか・・・まずは打ってきな」
「はい!」
最初に師匠に見てもらうのは、この技しかない。VRでも何度か学んだ技だ。
まっすぐな姿勢で下半身を深く踏み込ませて、握り込んだこぶしを突き出す、空手の基本にして要の技・・・!
「それで中段突きのつもりかい」
「・・・ッッ」
ゲンシ師匠の腹部めがけて中段突きを打とうと思った瞬間、いつの間にか師匠の手刀が私の首元に添えられていた。
これだ、この感じ・・・意識の外から攻撃が飛んで来る。この謎がわからない限りはどうしようもない。
「今ので大体わかった」
師匠は早々に構えを解いて、殺気を引っ込めてしまっていた。私の最初の稽古はいともあっけない形で終わってしまったのだ。
「空手の真似事をしているつもりかもしれんが、そんなものおめぇにはまだ早ェ」
「おめぇは筋力も体力も人間よりはるかに上だ。そんなおめぇが、どうして俺みたいな老いぼれの病人に後れを取るのかわかるかい」
「・・・そ、それは・・・」
「答えは簡単だ。おめぇのその恵まれた体が・・・空手の邪魔をしているからさ。空手は・・・いや、すべての格闘技は、力で振り回すもンじゃねェ」
「一体どうしたら?」
「体の使い方を一から全部変えるンだ」
言葉の意味を理解出来なくて困惑している私をよそに、ゲンシ師匠は歩き出した。
黒く汚れた海の波打ち際で足を停めた師匠は、振り返りもせずに私に手招きをした。
師匠と私は、瓦礫で出来た砂浜の、陸地と海の境界線に立っていた。
遠い目をして、居心地良さそうに汚れた海を眺めていた師匠が再び私に話を始めた。
「アムールトラよ、ひとつ質問をしようじゃねェか。“生きるために絶対やらなきゃいけないこと”ってなあ、何だ?」
「え、あの・・・」
「なぞなぞじゃねぇぞ。当たり前のことを答えろ」
「食べることですか?」
「食事すらしていない時にやっていることはなんだ? ちょうど今の俺たちみたいにな」
今の私たちがしていること? 稽古もしていないし、ただ海を眺めているだけだと思うけど・・・食べること以外に、生きるために絶対やらなきゃいけないことって一体なんなんだろう?
「良いか? 俺たちは今ここに立っている。そして、息をしている。違うか?」
「・・・?」
「ピンと来ねェか。まあいい・・・“立つ”ことと“息をする”こと。これが生きることの根っこだ。体の使い方を全部変えるってのは、この根っこから変えていくってェことさ」
ゲンシ師匠が最初に私に教えてくれたのは、立つことだった。
真っ直ぐに立った姿勢から、肩幅に足を開き、片方の足を踏み出し、さらに上半身を横にしながら足を前後に大きく開いて腰を落とす。
それが終わったら今度はその動きを反対の手順で行い、また元の真っ直ぐ立った姿勢に戻る。
そして同じ動きをもう片方の足で行う。
止まっているに等しいゆっくりとしたペースで、単純な動きを何度も何度も繰り返していく。ひとつの動きを終える間に、汗が何滴も零れ落ちて瓦礫の砂浜に吸い込まれている。
足の開く幅や、重心の移し方、つま先の向きなどに、わずかな間違いすらあってはならない。
ゲンシ師匠は何時間もの間、寸分の狂いもない動きで立ち方を変えていっている。ごく自然体に、それが当たり前であるかのように。
それに比べて、ぎこちなく無駄な力が入ってしまっている私の体ときたら、師匠の真似をしようとしても、とても同じようには出来ないのだった。
思えば、自分の体の動かし方に対して、ここまで神経を使ったことなんてない。自分の体は自分が思う通りに動いてくれるものだとばかり思っていた。
師匠の伝えたいことがなんとなくわかってきた。
私は体の動かし方がまるでなってなかった。生まれ持った強い体にすっかり甘えて、ただ力任せに動かしていただけだったんだ。
・・・・・・
立つことの稽古に没頭することまる半日・・・真上にあったはずの太陽が、汚れた海の水平線の向こうに消えて久しい。
瓦礫の島にも夜が来たのだ。暗闇の砂漠の中にまばらに光る点が動いて見えるのは、ガードロボットたちなのだろう。
「さァて、この辺にするか」と、息も切らさぬゲンシ師匠が今日の稽古の終わりを告げた。
「___はあっ・・・はあっ・・・はあっ・・・」
研究所でもトレーニング付けの毎日だったけど、それと比較にならないぐらいに全身が疲れ切っているのを感じる。
今までやったこともないような体の使い方をしたからだろう。でも、これが当たり前に出来るようにならないといけないんだ。
「付いてこいや。メシにすンぞ」
「・・・はい」
私は師匠に付いて、海辺のすぐそこにある地下駐車場の中へと入っていった。
暗闇の中に古ぼけた輪っか型の蛍光灯がひとつだけぽつんと輝いている。それに向かって小さな虫がコツンコツンと体当たりを繰り返している。
狭い駐車場の中には段ボール箱がいくつか積み上げられている。師匠は手近な段ボールを開けて中身を取り出した。
師匠が手に持っていたものは、紙に包まれた丸っこい何かと、ペットボトル詰めの水だ。
「ハンバーガーとミネラルウォーターだ。そら、おめぇの分だ」
「・・・あ、ありがとうございます」
「まともな食事でびっくりしたかい?」
正直、すごく驚いた。社会から切り離された瓦礫の島で、都会のヒトが食べているような食べ物が当たり前のように出てくるなんて夢にも思わなかった。
そして、獣よりも獣みたいな風貌のゲンシ師匠がハンバーガーに舌鼓を打っていることも、見れば見るほどにチグハグでおかしな光景だ。
こんな失礼なことは口に出せないけれども、本当にそう思う。
「こんなメシが食えるのもドクターハザマのおかげだ。あの人は食事の配給には一番心を砕いてるンだ。何があっても囚人を餓えさせないようにってな。拘置所の治安を守るためさ」
一足先に食事を終えたゲンシ師匠は、満足そうにゲップをしながらハンバーガーの包みとペットボトルを、地面に穴を掘っただけの簡素なゴミ箱に捨てていた。
今日はこの地下駐車場の中で眠りに付くのかな、と私が思っていた矢先、師匠が立ち上がって外へと続く坂道へと歩きだして行った。
「師匠、どこに行くんですか?」
「眠るのさ。おめぇも来い」
眠る? 外で?
ここで雨風をしのげるというのに、どうして?
あわてて追いかけていった私が見たのは、ゲンシ師匠が汚れた海の波打ち際で座り込んでいる姿だった。
「アムールトラ、俺の真似をして座れ。結跏趺坐(けっかふざ)てェ、ずっと昔の偉いお坊さんが考えた座り方さ」
ゲンシ師匠は体の前で両足首を組んで、左右の足を一本の輪にするようにして座っていた。背筋はまっすぐと伸びていて、立ち方の稽古をしている時と遜色ない緊張感のままだった。
その座り方の意味はわからなかったけど、師匠の動きのひとつひとつには、考え抜かれた深い意味があるということだけは今日一日で痛感していた。
「師匠、これはどんな稽古ですか?」
「昼間の話だが・・・生きるために必ずやらなくてはならないことがまだある。立つこと、息をすることの他にも、後ひとつだけな・・・もうわかンだろ?」
「・・・・・・眠ること、ですか」
「横になって眠っても何の稽古にもならねェ。だから俺はいつも座って寝てるンだ」
両足首を組んだ結跏趺坐の座り方は、息をすること、眠ること、ふたつの稽古を一度に行うとても重要な修行なんだそうだ。
息をすることの稽古は、何も動かない睡眠の時間に行うのが一番効果的だ。
正しく息をすることで気持ちを落ち着けて、雑念を取り払い、目の前のことに意識を集中する・・・そうやって感覚を研ぎ澄ませることが、実戦でも修行でも一番大切なことだと師匠は言う。
こういう修行を“坐禅”とか“瞑想”とか言うのだとか。もっと現代的な言葉でいうと“精神統一”だと。
精神統一を完全に身に着けたならば、意識を保ったまま、横になって寝るよりもずっと深い眠りにつくことが出来るらしい。
眠ることは、起きて修行することと同じぐらい大事なんだそうだ。その役目は、体を休めることだけじゃない。
今日一日、起きている間に学んだことは、眠っている時に体に刻み込まれる。そしてそれが明日へと続いていく。
起きることと眠ること・・・生きていく限り繰り返される循環・・・それをより良くしていくことこそが、すなわち修行の本質だ、と師匠は言った。
暗闇に染まった海の波打ち際、師匠の隣に足を組んで座った私は、師匠の真似をしてゆっくり深呼吸をしようとした。
「すぅー・・・はー・・・すぅー・・・はー・・・」
だけど、いざ心を落ち着かせて深呼吸をしようとすればするほど、気持ちが焦ってきてしまって、逆に息苦しくなってくる。
足を組んで座るのも慣れなくて、体の節々が痛い。とてもじゃないけど休むことなんてできそうになかった。
「そンな力任せな呼吸じゃダメだ。大事なのは力を入れることでもねェ、考えることでもねェ、ただ観察することだ」
「観察?」
「まずは温度を感じろ。吸い込む空気は冷たい、吐き出す空気は温かい。その温度の差をじっくりと観察するンだ・・・・・・次に、空気の流れを感じろ。てめぇの体が、ただの空気の入れ物になったつもりでな」
「あ、あの・・・」
「理屈はこれ以上考えンでいい。俺の言った通りにやってみな」
吸い込む空気は冷たい。
吐きだす空気は温かい。
私の体は、空気が流れるだけのただの入れ物・・・。
・・・師匠に教えられた言葉をお経のように頭の中で念じるけど、言葉の意味もわからず、集中して呼吸ができているとは言い難かった。
自分はこれほどまでに集中力がなかったのか。立つことといい、きょう一日で自分がどれだけ未熟だったのかをほとほと思い知らされる。
師匠はどんな風に精神統一しているのだろう・・・ふと気になって、横目でちらりと見てみた。
(・・・・・・ッッ!)
その姿には心臓が止まりそうなぐらいに驚かされた。
地面に根を張った植物のように、まるで最初からそうであったかのように、辺りの景色と完全にひとつになっていた。
一切の雑念のない静寂そのもの・・・精神統一という言葉をあらわすのに、これ以上のものはないと思う。
そして、静かに休んでいるように見えて、一切の隙がないようにも思える。
仮に今この瞬間、どこかから攻撃を仕掛けられても、すべて見切ってしまうだろう。理屈はよくわからないけど、師匠は周りのことが私よりもはるかによく見えている。
本当に、どこまですごいヒトなんだろう。
・・・・・・
夜が明けて、太陽が再び姿を現し、汚れた海と瓦礫の大地を照らしはじめた。
私は結局一睡も出来ずに、ぎこちなく座ったまま過ごした。
「稽古だ。新しい立ち方をいくつか教えてやらァ」と、師匠がぽつりとつぶやいた。夜は景色と一体化していた彼は、またひとつの存在に戻っている。
日が出ている間はひたすらに立つことの稽古をして、日が暮れれば座って眠りにつく。そんな時間が幾日か過ぎた。
まともに眠れないまま何日か経って、私は立っていることすらままならないほどに疲れ果てていた。頭の中は猛烈な眠気とだるさでいっぱいだ。
朦朧とした意識で、ゲンシ師匠の立ち姿の真似を繰り返していく。
まともに力の入らない足を、静かにゆっくりと瓦礫の中に沈みこませる。
(・・・あれ? なんか、おかしいな)
違和感に気付いた。今まではただただつらいと思っていた空手の立ち方が、妙にしっくりと体になじんでいるのだ。
安定感があって、信じられないほど楽に立てている。まるで地面が下から私の足を持ち上げてくれているような感じだ。
明らかに、今までとは違う体の使い方をしている。疲れているがゆえに、余計な力が抜けているからだろうか。
これまでただ筋力だけで立っていたのが、いかに頼りないものであったのかとすら思う。
違和感は足元の安定感だけじゃなかった。気を抜けば倒れてしまいそうなぐらい疲れているのに、感覚だけはどんどん鋭くなっているのだ。
ずっと離れた所で動いているガードロボットの駆動が、まるで目の前にいるかのように感じ取れる。ガードロボットの球体の足が転がることで弾き飛ばされた細かい小石の、ひとつひとつの落下の軌跡すら・・・
「師匠、あの・・・」
「なんでェ、稽古を勝手にやめんじゃねェ」
「風の様子が変なんです。ずっと向こうで、急に風向きが変わりました。空気の匂いもなんだか湿っぽいような・・・」
「何が言いてェ?」
「もう少ししたら、きっと大雨が降ります。だから今夜は地下駐車場で眠ったほうがいいんじゃないかって・・・」
なぜか急に鋭くなった感覚で感じたことを、そのまま口にしてみた。
台風が来てるのに外で寝たりなんかしたら、風邪を引いてしまうとか、そんな次元の話じゃない。この汚れた大地に降る雨には、空気よりも数十倍濃縮された放射能が含まれていると聞いた。
そんな雨が、口や鼻から体の中に入ったら、師匠の体は・・・
だから思わず、未熟な弟子の分際でおこがましいとは思いつつも、はじめて師匠に意見してしまったのだ。
師匠はボサボサの黒いたてがみに覆われた顔を持ち上げて、雲ひとつない真っ青な空を仰ぎ見た。
「・・・俺もちょうどそう思ってたところだ」
_______ビュオオオッッ! バチャバチャバチャ・・・
その夜、予想した通りに台風がやってきた。師匠と私は、地下駐車場で坐禅を組んで、嵐が去るのを待つことになった。
錆び付いたシャッターに向かって強風と雨水が打ち付ける轟音が鳴り響いている。外では恐ろしい死の雨が瓦礫の砂漠に突き刺さっていることだろう。
「・・・アムールトラよ、またひとつ質問をしようじゃねェか」と、静寂そのものと化していた師匠の口が突然に開かれる。
「この世界で“一番強くて偉大なもの”はなンだと思う?」
「ヒトです。私はずっとヒトに育てられてきました。今も師匠に・・・」
「人間なんざァ・・・質問の答えからは最も遠い存在さ。一番強くて偉大なもの、それは自然だ」
「自然?」
「おめぇは、この汚れきった土地や海をどう思う?」
「・・・ひどい場所だと思います。ここじゃ誰も生きていけない」
「だが、この土地が望んでそうなったわけじゃねェ、すべて人間のしわざよ」
「自然は、どンなに汚されても、壊されても、人間のことを恨みもしねェ、やり返しもしねェ、何があっても自分の在り方を変えることがねェ・・・これ以上の強さがあるかい?」
「いいかアムールトラ、自然に耳を傾けろ。この世界で一番強いものを味方につけるンだ。そのためには常にてめぇを研ぎ澄ますことだ・・・だから、立つこと、息をすること、眠ることの稽古が大切ってェことだな」
「はい・・・」
師匠の言っていることは、ついちょっと前までの自分だったら理解できなかったと思う。
でもこの数日間、稽古に励むことでようやくわかってきた。師匠の空手の根っこにある、大事な考え方が・・・
いろいろなことが腑に落ちてすっきりした私は、坐禅を組んで、絶え間なく打ち付ける台風の雨音を聞きながら、意識のある深い眠りについた。
・・・・・・
あくる朝、ゲンシ師匠が錆びついたシャッターをこじ開けると、地下駐車場の薄暗い密閉空間の中にまぶしい朝日が差し込んできた。
地面へと続く短い坂道を登っていく師匠のすぐ後ろに、私もついて行った。足取りが嘘みたいに軽く、体にも頭にも充実した気力が取り戻されている。
たぶん、うまく眠ることができたんだ。
嵐は一晩で去ってしまい、快晴の空の間を穏やかな風がそよいでいる。打ち寄せる波も、昨日の昼までと同じリズムを刻んでいる。
なんだか周りの様子が今までよりも鮮明に感じられるようになったように思う。
だが、そんなうららかな空気の中に一点だけ妙な揺らぎがあることに気付いた。その揺らぎは、私のすぐ前を歩くゲンシ師匠の周りから発せられている。
揺らぎはどんどん濃くなって、やがて稲妻のようにするどく私に向かってきた。
________パシィィッッ!!
師匠は突如、目にもとまらぬ速さで振り返り、私に正拳を打ってきた。師匠の動きは先ほどから見えている稲妻をなぞるようであった。
頭で感じるよりも前に体が動いて、そのこぶしを手で受けとめた。
「・・・し、師匠! いったいどういう!?」
「アムールトラよ、はじめて俺の技を防いだじゃねェか・・・」
踏み込んでこぶしを突き出した姿勢のまま、師匠が満足そうに口角を吊り上げる。
「今のがわかってただろ? 俺が動く前に、俺の“意”を感じただろ?」
「はい・・・感じました」
「おめぇ、昨日あたりから様子が変わったよなァ。台風が来るのもわかったし、立ち方もサマになってきた。体の使い方を、だいぶ変えられたみてェだな」
自分でもうすうす気付いていたことだけど、師匠が認めてくれたことで、本当に成果が出てきたことを実感する。
「・・・今日から、実戦の稽古を始めンぞ」
「はい!」
to be continued・・・
_______________Cast________________
哺乳綱・ネコ目・ネコ科・ヒョウ属トラ亜種
「アムールトラ」
_______________Human cast ________________
「朔 原始(さくつきげんし)」
年齢:74歳 性別:男 職業:福島第1特級拘置所 受刑者番号S-6805番
_______________Materials________________
「空手」
発生年:不明(西暦13世紀~15世紀)
概要:琉球王国(沖縄)にて生み出された打撃系格闘技。中国から伝来した拳法を独自に発達させたと言われている。世界でも知名度が高い格闘技のひとつであり、数多くの流派に分かれている。
_______________Story inspired by________________
“けものフレンズ” “けものフレンズ2”
byけものフレンズプロジェクト
“けものフレンズR”
by呪詛兄貴