──『ぴったり6時。施設の朝は鐘の音で始まる。』
はしゃぐ小さい子達の賑やかな声。変わらない空、秋の風。増えた落ち葉に小鳥の囀り。
──『施設での暮らしも10年、気づけば最年長。今は38人兄弟。性格も年齢も肌の色も様々。性格も年齢も肌の色もさまざま。私達に血の繋がりはない。
大好きなママ、大好きなみんな。血の繋がりはなくても大切な家族。』
──『全て私の、私達の普通。10年間疑ったことすらなかった当たり前の日常。』
私が、私だけが。気付いている。
今日、コニーは
どうしても食事が喉を通らなかった。
牛乳にも口を付けられなかった。パンもスープも隣に座っていたトーマとラニにあげた。
体調が悪くてと言い訳して食事の席を立つ。
何も食べてないのに吐き気が止まらない。ぐらぐらと足元が安定しない。結局廊下の端で動けなくなってしまって、ギルダに手を引いてもらって医務室に行った。
「…あら、熱があるわね。」
体温計を見たママは眉を顰めてそう言った。テストの時間は寝ていなさい、そう言い残して部屋を出て行った。
静かな医務室に、こちこちと時計の音が響く。
…あぁ、どうしよう。このままだとコニーが死んでしまう。
出来ることなら今すぐにコニーの手を取って逃げ出したい。塀を超えて、森へ抜けて。シェルターへと皆で逃げ出したい。
…出来るわけない。分かってる。分かっているけど。
息が出来ない。耳鳴りがする。ガンガンと頭が痛む。視界が歪む。嗚呼。
──いやだよ、コニー。
コンコンと控えめに扉がノックされた。ゆっくりとドアが開いて息を呑む。
「…エ、マ?」
ドアを開いたのは、エマだった。
エマはほっとしたように笑うと、医務室の中へと入ってきた。
「ママに聞いたら風邪じゃないみたいだから会ってもいいって。体調はどう?マリー。」
エマがベッドの横の椅子へ腰掛ける。
エマの優しい声音が染みる。思わず泣きそうになってしまって慌てて目頭を抑えた。
「…大丈夫。何でもないよ。」
曖昧にぼかして答えた。…取り繕うことすら出来ない私を、許して欲しい。何も知らないエマにはどうしても話せない。心配をかけたくない。
エマは私の答えを聞くと、少し眉を下げて小さく言った。
「…あのね、マリーが何か悩んでるんじゃないかなって思ってて。」
ぽとりと落とされたその言葉は、染み入るように医務室に広がった。エマは困ったように苦笑しながら続ける。
「ほら、コニーの里親が決まった日。あの日から何となく元気が無いなって思ってたからさ。ね?」
日差しが射し込んでエマを照らした。エマのオレンジ色が太陽のようにキラキラと輝く。
それは本当に、息を呑む程に美しくて。
「何か悩みが合ったら言ってよ!話すだけでも良いからさ、私聞くし!」
いくらでも、とエマが笑う。希望にに呑まれたように視界がチカチカと点滅した。
──助けて、と言ってしまいたかった。
きっとエマなら私の話も真剣に聞いてくれる。信じてくれる。私が逃げたいと言えば逃げようと言ってくれるだろう。
優しい彼女は、絶対に見捨てない。コニーも兄妹も、私でさえ。
──けれど、もし。それで彼女が死んでしまったら。
私は死ぬ以上に後悔する。レイにだってノーマンにだって申し訳が立たない。彼女は死んではいけない。絶対に。
「…コニーに、行って、ほしくない」
嫌だよ。辛いよ。苦しいよ。逃げ出してしまいたい程に苦しい。悲しみに体を引き裂かれて死んでしまいそうだ。
「…さいていだ、わたし。」
コニーの死を知りながら何もしない。何も知らない彼女に教えることもしない。自分のことしか考えてない、自己中で浅はかで傲慢で、最低最悪の屑野郎だ。
「違うよ。」
エマの声が響く。沈んだ空気を断ち切るように、強さを孕むその声が凛と広がる。
「マリーは最低じゃないよ。」
許されたいと、思ってしまった。
「…ご、め…」
エマに手を伸ばした。エマが私の背に腕を回して抱きしめてくれる。
涙や鼻水がエマの服に付いても、エマは黙って抱き締めていてくれていた。暖かくて力強いその手に、私はずっと、甘えていたのだ。
──エマ、私、嘘ついてるんだ。
小さい頃から一緒に育った皆にも、ずっと隠し事をしてるんだよ。
エマにもレイにもノーマンにも、話してないことが沢山ある。
でも怖くて。
未来が変わって、誰かが死んでしまうかと思うと恐ろしくて。
誰にも言えずにいるんだよ。
──本当は、里子なんて真っ赤な嘘だ。
私達は今もずっと──食べられるために生かされているんだよ。
「…マリー?」
エマの肩を掴んだ。動悸が上がる。体が沸騰するみたいに熱くなってクラクラと目眩がした。
呼吸が早くなる。心臓が暴れる。声が震える。
それでも今、言わなければ。
「…っ、エマ!今すぐにここを出──っ」
「…エマ?ここにいるの?」
カチャン、ドアが開いた。…あぁ、なんて間の悪い。
「やっと見つけたわ、エマ。そろそろテストが始まるから早く席に着きなさい。」
「…はぁい。」
ごめんね、また来るからね。エマが申し訳無さそうに言う。私は掴んだエマの肩を離すので、精一杯だった。
「エマと何か話をしていたの?」
ママが話を降ってくれる。能面のように薄っぺらな笑顔だった。
「…ううん、なんでも。」
そう。ママは応えて満足そうに笑った。
*
会いたくなかった。どうしても。きっと彼女に会ったら私は、泣き喚いてしまうから。
「マリー、入るよ。」
ドアの向こうからエマの声が聞こえる。数回のノックの後、ドアが開かれた。
「具合はどう?体調は回復した?」
エマの声にこくりと頷いた。エマがよかったぁと笑って息を付く。心配してくれていたらしい。
エマが振り返って手招きをした。間を置かずパタパタと足音が響く。ひょこりと顔を出したその娘に、私の中の時間が止まる。
「…コ、ニー、」
小さなリボンが付いたその衣装は、皮肉なほどに華奢な彼女に似合っていた。
胸元で抱かれたリトルバーニーが幸せそうに笑う。ふわふわと揺れるツインテールはきっとママに結んでもらったものだ。
「あのね、マリーにも見て欲しかったの。…似合ってる?」
うん、とっても似合ってる。そう言おうとしたけれど言葉になったかは分からなかった。コニーは私に見えるように数回くるくると回って、それから恥ずかしそうに切り出した。
「…マリーにね、渡したいものがあるの。」
ごそごそとコニーがポケットを探る。やがて彼女は小さな折り紙を取り出した。
「エマにね、折り方を教えてもらったの。マリーにもあげたかったから。」
渡されたのは、小さなうさぎ。
それは、彼女が抱く宝物によく似ていた。
「私からもね、リトルバーニー。私のことわすれないでね。マリー。」
小さなその体を、思い切り抱き寄せた。
コニーからは石鹸とシャンプーのいい香りがした。きっと昨日頑張って洗ったんだろう。今日会うはずの、新しい家族に会うために。
コニー、コニー、コニー。
この体を離したくない。行って欲しくない。行っちゃだめだ。
大人になんてなれないよ。新しい家族なんていないよ。鬼に食べられて死ぬだけなんだよ。
「ふふ、くすぐったいよマリー。」
何も知らないコニーがころころと笑う。涙が止まらなくて、それでもコニーの服は汚せなくて。必死に袖元で目を拭った。
「コニー、私、コニーに、あえて、よかった」
これからこの娘は、どれだけ苦しい思いをするのだろう。信じていた幸せな世界に裏切られて、どれだけの絶望を感じるのだろう。その最期はどんなに孤独で、惨いものになるのだろうか。
「ありがとう、本当に、たくさんたくさん、あ、りがと、う」
お願いだから最期までそうやって笑っていて。
孤独も絶望も何も感じず幸せな未来を夢見ていて。
どうか苦しまずに、幸せでいて、コニー。
「…私もありがとう。大好きだよ、マリー。」
私はその場で声を押し殺して泣いた。
微笑むコニーはママが呼びに来るその時まで、ずっと隣にいてくれた。
*
───『私達は皆親の顔も生まれた場所も知らない。新しい家族が出来る。旅立ちは嬉しいこと。』
「じゃあ皆、またね。絶対手紙書くからね!いっぱいいっぱい書くからね!」
──元気でね、と皆が声をかけた。泣き出す小さな子もいた。手を握る子もいた。背中を撫でる子もいた。
「…コニー、」
コニーがくるりと振り返った。これから始まる悲劇も絶望も、何も知らない無邪気な笑顔。
何かを言おうとして、けれど言葉にならなくて、それで。
「…またね。また会おうね、コニー。」
在り来りな別れの挨拶に、コニーは本当に嬉しそうに、愛らしく笑顔を見せた。
*
「コニー!!!?」
食堂からエマの絶叫が聞こえる。
「ど……どうしよう…」
「─ってコニーもう行っちゃったよ?」
「──でもないかも。」
話し声が聞こえる。私は食堂のドアを開けた。
「さっき風呂場の窓から遠く門に明かりがついているのが見えた。見送りについて言ったママも戻ってきてないし、まだコニーは出発してないんだと思う。」
「届けてやろう」
「…ノーマン」
「本当はママに頼んで後から送ってもらうのが筋なんだろうけど、“コニーの気持ちを考えたら早い方がいい”──だろ?」
食堂にいたのは4人。ノーマンにエマ、それにレイとギルダ。
「あ、マリー!」
「マリー、どうやらコニーがリトルバーニーを忘れて行ったみたいなんだけれど…」
エマとノーマンに話しかけられる。レイがちらりと私を一瞥した。
きっとここで二人に着いていけば、原作通りコニーの死を目にすることになるんだろう。ハウスの絶対秘密の真実に辿り着くことが出来るのだ。
──けれど。
「いいよ、二人で行ってきて。──二人の方がばれにくいと思うから。」
私は二人のように鬼に遭遇して逃げられる自信が無い。コニーの死を前にして叫ばずにいられる自信がない。──何より、
コニーの死を、信じていたくないのだ。
「そっか、分かった!」
「じゃあ僕らは行ってくるね。」
ノーマンとエマが食堂を出て行く。私はその後を追う気にもなれなくて、足早に食堂を後にした。
*
──呆気ない、ものなんだ。人が死ぬということは。
レイの言った通り、門には灯りが付いていた。エマやノーマンはそろそろ門に着いただろうか。…コニーを見つけただろうか。
2階に上がろうとして、出来なくなって階段に腰掛けた。
一歩も動きたくなかった。体に力が入らない。膝小僧に顔を埋めて、出来る限りに体を丸めた。いっその事そのまま小さくなって、誰にも知られないままに消えてしまいたかった。
廊下が少しづつ暗くなった。消灯の時間が近付いているのだろう。けれど立ち上がるのも億劫で、ずっと動かずにいた。
──あぁ、多分そろそろ子供部屋にもママが来る。戻らないと。
そう思っても、足が動かない。…何も出来ない。何も変わらない。
ただただ無力で、虚しかった。胸にぽっかり穴が空いたようで、そこから体が冷えていくようで。もうこのままここで夜を越してしまおうかと思った。その時。
ポスン、頭に手が置かれた。
ぐしゃぐしゃと髪の毛を乱暴にかき混ぜられる。突然のことでびっくりして悲鳴をあげてしまった。遠慮ないその手つきは明らかに人間のものだ。
いきなり何するんだよ。そう言おうとして、言葉に詰まった。
「アホ。何してんだこんな所で。」
もう消灯時間だぞ。そう続く声に思わず喉がぐぅとなった。
…レイだった。多分最後の見回りに来たのだろう。レイの持つカンテラがぼうっと辺りを照らす。
「…別、に」
放っておいて欲しかった。一人になりたかった。だから私はレイから逃げるように階段の隅へと寄って縮こまった。
ため息の一つでも着いて、部屋に帰ってくれれば良かった。きっとレイならそうしてくれると思った。
けれどレイは立ち去ることも無く、私の隣に腰を下ろした。
レイは居座った割に何も言葉を発しなかった。時間だけが過ぎていく。何か意図があるのかと暫く待ったが、やっぱりレイは何もしなかった。
「…そろそろ、ママが来るよ。」
レイは何も答えなかった。廊下の灯りがまた一つ消える。
「どうして、ここに来たの。」
また答えない。沈黙が痛い。早く帰ってくれと、半ばヤケになって言った。
「放っておいて欲しいのに、」
「…放っとかねぇよ。」
カタン、何処かで音が鳴った。辺りはもう暗くてよく見えなかったけど、何故かレイの口の動きだけはハッキリと見えた。
「お前は放っておかなかっただろ。」
ぽろり、と頬に涙が伝った。
それを皮切りに溢れる涙を止められなくなった。喉が大袈裟に引きつって、何度も何度もしゃくりあげる。
レイが黙ってハンカチを差し出してくれた。嗚咽が酷くなる。酷い顔をしているだろうに、レイは嫌な顔一つしなかった。
──助けられなかった。知っていながらあの子を行かせた。何も伝えなかった。何も言えなかった。
私が殺したみたいなものだ。私がコニーを死へと導いたんだ。その気になればどんな手を使ったって、あの子を助けられたはずなのに。
「コニーに会いたい、会いたいよ…!」
コニーの体を抱きしめたい。連れ戻して助けたい。今こうしている間にも、あの子は暗いトンネルでひとりぼっちだ。
私はダリアみたいに出来なかった。あの子を救う事が出来なかった。一人になることがどれだけ怖いのか、死ぬことがどれだけ恐ろしいのか、ちゃんと分かっていたのに。知っていたのに。
「…コニーは幸せだったよ。」
レイが独り言のように呟いた。カンテラの灯りが揺れる。
ゆっくりと長い時間をかけて、ハウスが暗がりへと沈んでいった。
*
───どれだけ辛くたって、苦しくったって、誰にでも平等に朝は来る。
「おはよう、マリー。」
「おはよ!マリー!」
「…おはようエマ、ノーマン。」
──『いつもの朝。まるで全部夢だったみたい。』
人が死んだって何が起こったって時間は変わらず過ぎていく。待っていてなんてくれない。止まってなんかくれない。
─追いつくには、前を向いているしかない。
ぽん、と背中を叩かれる。振り向きもせず去って行く不器用な背中に声をかけた。
「おはよう、レイ。」
いつもの日常。その中にあの子はいない。もう会えない。けど。
(──これ以上、失うことなんて許さない。)
農園を出る。エマ達を救う。
(──絶対逃げ切ってやる。)
秋の空。積もった落ち葉がかき消すように、ハウスの空を舞い上がった。
次回から満を持して脱獄編です。
コニーも助けてあげたかった。