「結局来ませんね……」
「もうそろそろ交代要員が来る頃かしら」
それはボスが時刻の確認のためにスマホを取り出した瞬間だった。車に備え付けの無線機が喧しく鳴り響く。
「ボス!」
「行くよ楓」
TAC50は車から飛び出ると、生け垣に沿って走る。ボスも、息を切らせながらTAC50の後に続く。
「ボス! 見えました!」
しかし、2人がホシを補足したときには、すでに逃走中の男は生け垣でできた境界線上にいた。
「楓! それ以上追っちゃダメ!」
「……! でもボス」
「管轄外で捕まえても……、なんの効果もないわ」
励ますようにTAC50の肩を叩きながら、ボスは車へと戻ろうとする。
「ああ、でもアレは飛ばしておいて」
「……、はい」
楓はアタッシュケースのスイッチを押す。起動した楓月が男を追いかけて飛び上がるのを眺めながら、ボスのあとに続いた。
助手席に腰を下ろしたボスは、ポケットから飴玉をとりだし口に放り込んだ。
「どう? 意外と上への警戒は薄いでしょ?」
「薄いどころか、まったく警戒されてないです……。無防備に近くのホテルに入っていきました……」
TAC50は左眼に流れ込んでくる映像を分析しながら、運転席に座る。
「ねえ楓」
キーに手をかけたところで、ボスから突然話しかけられる。
「はい、なんですか?」
「楓月とリンクしたまま運転して大丈夫なの?」
「……、問題ないかと」
「その考える時間が怖いんだけど」
「問題ないはずです。ここに来る前だって同じようなことをしてましたし」
「その時は誰か乗ってた?」
TAC50は少し考えて、それから不思議そうに首を傾げながら口を開いた。
「いえ、なぜか皆もう一台の車の方に乗ってましたね」
「……、帰りの運転は私がするわ」
「え? どうしてですか?」
「ほ、ほら。私だってたまには運転したいって思うこともあるわけだし?」
「どうして疑問形なんですか。まあボスがそう言うなら」
納得の行かなそうな顔をしながらも、運転席を譲り渡す。そして、左眼に注意しながら助手席に身を沈めた。
=*=*=*=*=
物静かな室内で、大きな机に座る初老の男性はため息をつく。
「おもちゃを与えたわけじゃないんだぞ」
「わかっています。お祖父様」
普段はボスと慕われている彼女が、部屋の入り口で真っ直ぐに立っている。
「本当にわかっているのか?」
男性は書類の束を机の上に投げ捨てる。そこには、彼女たちの部下の履歴と、それから配属後の成果が記載されていた。
「いくら不良品どもとはいえ、高性能な人形なんだ。うまく使え」
「使え……ですか」
「なんだ、人形を道具扱いするのは反対か?」
「いいえ。ただ、私の手にはあまるおもちゃもあるということだけ」
「とりあげるぞ」
「とりあげてどうするんですか? 少なくともここに、私以上の適任はいないでしょうに」
彼女は苦笑いをしながら、そう呟いた。男性は再び、深くため息をつく。
「さすがに役員会の連中どもが騒ぎ始めた。もう時間の問題だと思え。私がかばってやれるのはおまえだけで、下の人形どもは無理だ」
「ええ、わかっています」
「成果を出せ」
男性は書類の束を机の上に置く。
「次の担当の事件だ」
彼女はその重苦しい書類を受け取る。それは偶然なのか、管轄外に逃げたあの男の事件だった。
「ウチの課を動かすような事件ですか?」
「わからんのか」
「お祖父様はいつも言葉足らずですし」
「……はぁ、上が既に動いていると言えばいいか?」
「総監のお祖父様より上の立場?」
「政治家だ」
「さすがにお祖父様の上となるとそうなりますか」
彼女は呆れたようにため息をつくと、書類で自分の肩をとんとんと叩く。
「まあ見ててください。ウチには期待の新人も入りましたし」
「TAC50か」
「佐藤楓、ですよ」
食い気味に、男性の言葉にかぶせてそう言う。
「あまり無茶はしないでくれ」
「大丈夫。私はまだ大丈夫だから」
そういいながら出ていく孫娘を見て、男性は再びため息をついた。
「まったく、手間のかかる子だ」
男性は葉巻を切り直し、火を着けた。
=*=*=*=*=
「ねえケフィ」
「何?」
「飴持ってない……?」
「持ってるわけないでしょ」
K5とAA12は、珍しく二人で給湯室へと来ていた。とくとくとコーヒーを淹れる後ろ姿を見ながら、AA12は首を傾げる。
「ん? コーヒーが3つ? ありがとうケフィ」
「なに馬鹿なこと言ってるのよ。自分の分くらい自分で淹れなさい」
「じゃあそれはルーキーの分ってこと?」
「そうだけど……なに?」
「いや、ケフィってルーキーに優しいなって」
「彼女は仕事中なんだから、持っていってあげるくらいはしてあげるわ」
「好みまで把握して?」
「おなじ課のメンバーが飲む物くらい把握してるわ」
「ふーん、じゃあ私の分も淹れてよ」
「先に戻っとくわ」
「もう、素直じゃないなぁ」
AA12はサーバーからカップにコーヒーを淹れて、それからK5が置いていった砂糖の残りを全部淹れて後を追った。
=*=*=*=*=
「楓、様子はどう?」
TAC50は左眼から意識を戻す。そこにはK5が、コーヒーを片手に立っていた。
「追跡中です。今はモーテルで休んでますね」
「そう……、はいこれ」
「ありがとうございます」
飲み頃になったコーヒーを受け取る。いつもTAC50が入れる量と同じだけ砂糖が入った味がする。
「ボスは?」
「一旦家に帰ると」
先程まで椅子に座っていたボスは、着替えをとってくると出ていったばかりだった。
「ああ、そう……」
ケフィはまだ湯気の立つコーヒーを、無人のデスクへと置いた。
「まだ待機?」
「はい、居場所だけは報告するようにとだけ指示を受けてます」
「ふーん」
TAC50がプリントアウトした地図を、K5はコーヒーを啜りながら眺める。
「謎ね」
「何がですか?」
「この逃走経路よ。普通はウチの管轄から離れていくはずでしょ?」
K5は地図を指差し、潜伏場所を線でなぞる。
「近づいたり遠ざかったりですか?」
「いや、これはまるで——」
扉がガチャリと開く。
「逃げてるんじゃなくて一定の距離をとってるみたいだ、かな?」
「アッチソン……」
「セリフ取っちゃったかな?」
「まあいいけど。それよりも、次の場所当てでもしない?」
K5がニヤリと笑うと、AA12も白い歯を見せた。
「じゃあ私はこのモーテル」
AA12が指差すと、K5は無言のまま目を細めた。
「もしかして被ったかな? でも早いもん勝ちだ」
「いいわよべつに。私はここね」
そう言ってケフィが指さしたのは、これまでの潜伏パターンからは考えられないほど離れたラグジュアリーホテルだった。
「ヤケは良くない」
「私の予言は必ず当たる。必ずね」
そう言いながらK5は人差し指を立てた。
「ちょうどよかった。みんな揃ってるね!」
ばんと大きな音を立てて扉が開かれる。ボスが慌てるように荷物を投げいれる。
「じゃあみんなで一課に殴り込みに行くよ!」
「ボス!? 殴り込みって一体」
「ああ、楓がいたんだった。殴り込みって言ってもね? ちょっと捜査資料を拝借するだけだよ」
「でもそれって——」
「待て」
「待ちなさい」
K5とAA12が言葉を止めさせる。
「楓、あんたは何も聞かなかった。これは全部ボスに言われた通りにやること。オッケー?」
AA12の質問に、TAC50はうなずくことしかできなかった。