だから俺は彼女に恋をした   作:ユーカリの木

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瞬く間に、川崎沙希は距離を縮める 4

 もどかしかった。

 

 感情を形にして見せられないことが、どうしようもなく口惜しかった。せめて何かを伝えたくて、沙希の頭を右手で撫でた。さらさらとした手触りが手のひらに伝いに脳を痺れさせた。

 

 沙希が鳴く。その声が愛おしかった。

 

 自分のものにしてしまいたかった。身体を真っ二つにするほどの強い欲求。これほどまで誰かを求めたことなどなかった。

 

 吐息が震えた。

 

 沙希が身をよじらせる。

 

「胸が……切ないの」

 

 ここがどこなのかどうでも良くなった。身体を沙希へ向ける。彼女の頭部を胸に押し付ける。沙希の左手が迷い人のように背中を這う。彼女の甘い息が胸をくすぐり、心臓を高鳴らせた。

 

「こんなに幸せなの、初めて」

 

 沙希は涙声だった。そして、嗚咽が俺の胸を打った。

 

「ずっと、怖かった。誰にも見られてない気がして。家族しかいないって思って。誰もあたしを見てくれないって、そう感じてた。だから家族だけが大切だった。他に欲しいものなんてなかった。そう、信じ込んでた」

 

 心の内を吐露し始めた沙希の涙が、したたかに胸に浸透していく。

 

「でも、弟と妹ができてお姉ちゃんになって。あたしなんかよりこの子たちを守らなきゃって。どうせあたしのことは誰も見てくれない。家族しかいない。だからすごく大切にして、自分の時間を削って相手してお世話して……。急に分からなくなったの。あたしを幸せにしてくれる人が、どこにいるんだろうって」

 

 沙希の告白が続く。ずっと抱え込んでいた負のダムが決壊する。

 

「ねえ、あたしはここにいる。ここにいるよ?」

 

 沙希が額を押し付けてくる。かすれ濡れる声はそれでも止まらない。

 

「あたしを見て。あたしを見つけて。お願いだから……。あたしはここにいるから……。どうかどうか、あたしを求めて」

 

 かろうじて保っていた沙希の声が、このとき壊れた。

 

「ひとりは嫌だ。もう寂しいのは嫌だ。一緒に居て。ずっと傍にいて。あたしから離れないで。ひとりにしないで。もう、ひとりでいることが耐えられないの……!」

 

 赤子のように沙希が泣く。

 

 息が詰まる。肺が呼吸を忘れる。

 

 こんなときになにも言えない。いつもは達者に回る口が少しも動かない。言葉なんて、肝心なときに役に立たない。こんなにも孤独に打ち震える沙希を安心させられることもできないなんて……。

 

 歯がゆさが全身を支配する。無力感で死んでしまいそうだ。

 

 だから、行動で示そうと思った。沙希の身体を強く抱きしめた。壊れるくらいに強く、ひとつになってしまえと願うほど激しく。せめて、俺だけは沙希の傍にいると知ってもらいたくて。

 

 永遠にも思えて、一瞬にも感じる時間。

 

 歓喜と高揚と興奮と欲望と幸福と満足と希望と勇気と感謝と愛しさと……。

 

 もう、言葉に表すことのできない色彩豊かな感情の花が胸中を咲き誇る。

 

 涙を涸らしきった沙希がこいねがうように問う。

 

「ねえ……傍にいてくれる?」

 

「……ああ」

 

「ずっと、見ていてくれる?」

 

「……ああ」

 

「お願い。あたしに……幸せを見せて」

 

「分かった。約束する」

 

 ――ありがとう。

 

 安息地を見つけた旅人のような安堵の声で言って、沙希が全身の力をゆっくりと抜いた。身体を預けられた俺は、沙希の頭に顎を乗せて声を漏らす。

 

「もう、お互い離れられんな」

 

「うん」

 

「なんなんだろうな、この気持ち」

 

「分かんない。こんなの初めて」

 

「まあ、いまはいいか」

 

「うん。理解できなくたって、温かいのが分かるから」

 

 だから、と沙希が願いを告げる。

 

「お願い、終わりまであたしを抱きしめて」

 

 互いの心中を理解し、それでもなお互いを求めてやまない。そんな関係が得も言われぬ安心感を心に与えていた。

 

 時間いっぱいまで抱き合って、俺たちはカラオケボックスを後にした。

 

 外は既に黄昏のカーテンが街を覆っていて、黄金色に輝いていた。

 

 カラオケでのことがなんだか気恥ずかしくて、お互い少しだけ距離を取って歩いていた。沙希は無言で前だけを見て歩いて、俺も同じように前だけを見据えていた。なぜなら、ちょうどその方面に太陽が沈もうとしていたから。きっといまの赤い顔も、夕日のせいにできるはずだった。

 

 ふいに思い出す。

 

「沙希、夕食どうする?」

 

「え、あ、うん……どうしよっか」

 

「家に戻るなら小町に連絡しないとな。あとさすがにハーゲンダッツ買ってやらないと」

 

「うんうん、そうだね」

 

 ふふ、と笑った沙希が目じりを下げる。

 

「あの……ね、八幡。お願いがあるの」

 

「どうした?」

 

「今日は……ずっと一緒に居て」

 

 真剣な目で願う沙希の意図が掴めない。

 

「ずっともなにも、家に泊まってるだろ」

 

 そうじゃない、と沙希が首を振る。

 

「夜、ね。傍にいたいの。一緒に寝たい」

 

 瞠目する。

 

 俺の反応に慌てた沙希が言葉を重ねてくる。

 

「そうじゃなくて、そうじゃなくて……。ただね、ぎゅっとしながら寝たいの。ずっと寝れて無くて、八幡の家でようやく眠れるようになったけど……。やっぱり寂しくて。八幡の体温を感じて寝たいの」

 

「なんかあったらどうする気だ……」

 

「信じてる」

 

 その信頼はひどい。いまの俺は俺を信用できない。俺の苦い顔を見た沙希が、苦しそうな表情で首を横に振る。

 

「違うの、そういう意味じゃないの。なにかあってもいい。あったっていいの。嫌なんて絶対にない。八幡と一緒にいたいの。暗い中でも、八幡がいればそれだけでいいって思えるから」

 

 ねえ、伝わるかな。

 

 必死に縋りつくような顔で沙希が言った。

 

「分かってる。理解してる。ただ、俺は俺が信用できないだけだ。理性の化物なんて言われたくせにな……」

 

 出てきた言葉は自嘲だ。

 

 なにが理性の化物だ。沙希を腕の中に仕舞えるならば、沙希を自分のものにできるのなら、どんなことだってしてしまいたいと思えるほど、いまの俺の感情は正常な思考を妨げている。

 

 俺は俺が怖かった。決定的な何かを壊してしまいそうだった。なによりも大切にしたいくせに、欲求だけが膨らんで何をするか想像すらできない。あまりに本能に忠実な自分が嫌いになりそうだ。

 

 眉間にしわを寄せた俺を見上げた沙希が涙を浮かべる。

 

「ごめん、ごめんね。嫌なこと考えさせちゃった。ほんとごめんね。馬鹿な事言っちゃったね。傷つけてごめん。でもね、そんな風に考えてくれて、大切に思ってくれて、すごく嬉しいの」

 

「謝らなくていい。これは俺の問題だ。俺の理性の問題だ。沙希があんまりに可愛いから、ずっとひっちゃかめっちゃかで思考がぐちゃぐちゃなんだよ」

 

「そのひっちゃかめっちゃかなの、訊きたい。どんな言葉でもいいから、全部教えて」

 

 息を合わせたように俺と沙希が立ち止まる。視界の奥に海が見えた。当てもなく歩いている内に、稲毛海浜公園まで足を伸ばしていたようだ。

 

 一度息を短く吸って吐く。

 

「公園でも行くか。少し話そう」

 

「うん」

 

 公園に入って適当なベンチに沙希を座らせる。

 

「飲み物買ってくる。お茶でいいか?」

 

「……うん」

 

 既に夜の帳が下りていた。空は黒のペンキを垂れ流したように暗くなり、その中で星が瞬いて自己主張をしている。こんな時間だからか園内は人がまばらだった。近くの自販機で飲み物を買って、街灯が照らすベンチへ戻る。

 

 沙希にお茶を渡し、俺はコーヒーの缶を手の中で転がした。

 

 口火を切ったのは沙希だった。

 

「ごめんなさい」

 

「なんで謝るんだよ」

 

「迷惑ばかり掛けてるから。すごく、申し訳なくて……。八幡は優しいからなんでも聞いてくれて、でも甘えすぎてた。もっと八幡の気持ちを考えなきゃいけなかった」

 

 さらに続きそうな自虐の言葉を止めるために無理やり割り込む。

 

「待て待て待て。迷惑だなんて思ってない。正直言って昨日から人生で一番楽しい。こんな幸福だったことなんてない。それだけは絶対だ」

 

「重荷になってない?」

 

「なってない。むしろ軽いまである」

 

「そっか……。なんだろうね、良かったって思うのと、嬉しいって思うのと……。よく分かんないね」

 

 そう言って沙希が小さく笑った。

 

 潮風が鼻をくすぐる。海が近いからか、少しだけ風が冷たかった。気づけば、人の姿はどこにもなかった。俺と沙希が座るベンチだけが街灯に照らされ、世界から隔絶されているようだった。

 

「俺は、まだこれがなんなのか分からん」

 

 抽象的な言葉。ただ胸からうち出る感情をそれらしい言葉に変換して吐き出しているだけだ。

 

「本当はたぶん分かってる。過去の記憶と、黒歴史と、経験と、捻くれた性格が答えを出すのを妨げてるだけで、本音の部分じゃもう決まってる」

 

「うん」

 

「形にするのが嫌なんだとも思う。一般的な枠組みでくくられる気がして……。そうじゃなくて、もっと他に言い表せる適切な言葉があるんじゃないか、これ以上はないって形があるんじゃないかって……な。まあ、とりあえずよく分からん」

 

 伝わっただろうか。

 

 自分でも分からないこの想いをどうすれば理解してもらえるのか。どれほど想っているか分かって欲しいのに、言葉にできないことが悔しくて仕方ない。

 

 無言が続く。

 

 耳が痛いほどの静寂の中、沙希が細い息を吸った。

 

「ねえ……なんで、こんなに同じなんだろうね」

 

「同じ?」

 

 おうむ返しする俺に、沙希が眉を下げて口端を緩く上げた。

 

「すごく、八幡の気持ちが分かるの。きっと、あたしもそんな風に感じてる。あたしも捻くれてるし色々あったから、言いたいことが朧げにだけど分かるよ。うん、なんでかな、分かっちゃう」

 

「……そうか」

 

 声が掠れる。

 

 誰かが同じ気持ちでいてくれている。それはなんて、素敵なことなのだろう。胸が高鳴って幸せが全身を巡るようだった。

 

「本当に……」

 

 ――この世界は本物か?

 

 口の中でつぶやいた言葉に戦慄した。

 

 だって、昨日からおかしいじゃないか。何もかもがまるで俺に都合よく作り直されたようで、どこに行ったって楽しくて、嬉しくて、幸せなことばかりで、嫌なことなど起こりやしない。

 

 本当にここは現実か?

 

 夢じゃないのか?

 

 俺はちゃんと生きて両の足で確かな地面の上に立っているのか?

 

 どれもが信用できなくて、すべてが不安の種になりそうだった。

 

 でも……。

 

 すべてがまやかしであったとしても、

 

「あたしはここにいるから。八幡の隣にいるから」

 

 俺の手を包んでくれる沙希の両手が、伝わる体温が、漂う空気が。

 

 沙希の存在だけは確かなものだと俺に教えてくれていた。

 

 沙希がいるなら俺はここにいる。ならそこがどこであろうがどうだっていい。沙希がいれば、きっとすべてが大丈夫だと思えるから。

 

「そうだな。なら、なにも問題ないな」

 

「うん、問題ないね」

 

 沙希が頭を預けてくる。

 

「あと三日だね」

 

「まあ、別に過ぎても今生の別れになるわけでもないだろ」

 

 嘘だ。そんな日なんて来なければいいと思っているくせに。

 

「そうだけど、そうなんだけど、ほら、もうちょっとなんかないの?」

 

「捻くれてんだよ。素直になれないんだよ」

 

「めんどくさいなあ八幡は。あたしもめんどくさいから、ふたりして面倒だ」

 

 ころころと沙希が笑う。沙希が笑うだけで空気が朗らかになる。感じていた風の冷たさも、いまではどこかに行ってしまったようだ。

 

「まあ、あれだ。寝るか、一緒に」

 

「いいの?」

 

「なんつーか、ほれ。あと三日だし。寝るのも三日だし。それくらい大丈夫だし」

 

「語尾がなんか変なんだけど」

 

 やらしいなあ、と沙希がにやつく。その顔は腹立ちますねえ。やられるとどうにもやり返したくなる。やられたらやり返す、倍返しだ。

 

「んじゃひとりで寝る」

 

「やだ」

 

「即答だな」

 

「やだ、一緒に寝る」

 

「駄々っ子かよ」

 

「駄々こねて一緒に寝られるなら駄々こねる」

 

「駄目って言ったら?」

 

「……ほんとに駄目?」

 

 一体今日何度目になるのだろう、沙希の上目遣いが俺に刺さる。ああもう可愛いなあもう!

 

「駄目じゃない……から、一緒に寝る」

 

「ん、ありがと」

 

 あ、と沙希が思い出したように声を上げる。

 

「お風呂は別だからね?」

 

「なんでそこまで一緒にいなきゃいけないんだよ。風呂くらいひとりで入りたい。人生の疲れを流せる場所にひとりでいないなんて信じられないだろ」

 

「あたしといると疲れるの?」

 

「主に心臓がな。可愛すぎて心臓に悪い」

 

「ん、誉め言葉として受け取っとく。あたしもすごくドキドキしてるから、おんなじだね」

 

 沙希の声が心地よく響く。

 

 色々な不安が同じで、たくさんの想いも同じで、すべてをさらけ出してなお嫌わない存在。そんな都合の良い人、果たしてこの先に存在するだろうか。いないだろう。沙希しか、沙希だけがその人だ。

 

 本当にもう、たった二日でこんな風になるなど想像すらしなかった。

 

 だからこそ、やっぱりもどかしい。この気持ちに名前を付けて、沙希と共有したかった。でも怖い。源泉はやっぱりそこだ。性根の部分で怯えているのだ。だから形にできないし、伝えることができない。完全には素直になり切れていない。それが沙希に対する裏切りのようで、その臆病さが嫌だった。

 

「家に帰ろっか。今日は小町と一緒に食べよう?」

 

「なら電話しないとな。ちっと遅れちまったから怒られそうだけど」

 

 腰を上げて、沙希の身体を引き上げる。立ち上がった沙希が俺を見て、嬉しそうに微笑んだ。それを見ているだけで身体の芯がじんわりと温かくなった。

 

「んじゃ、帰るか」

 

「うん、帰ろっか」

 

 あ、ハーゲンダッツも忘れずに買ってかないと!

 

 

 

 初めての三人での食事を終え、沙希は風呂場へ、俺はいつも通り自室へと戻ってベッドに寝転んでいた。

 

 バタバタしたい。超バタバタしたい。布団被って、うわあああああああ、とか叫びたい。

 

 なに今日の俺。何もかもがおかしすぎだろ。沙希だってあんなに可愛くなっちゃって。

 

 ごろんごろんとベッドの上を転がる。何かに触れてないと落ち着かなくて、枕を抱きしめて再びごろんごろん。

 

 うわあ、大胆なことしちゃったよ。なんか一足飛びに距離を詰め過ぎた気がするけど大丈夫かなあ。わあ、なんか幸せだなあ。

 

 感じたことのない奇妙な高揚感のまま足をばたつかせる。こんなの小町に見られたら憤死ものだ。まさか、見てないよね?

 

 挙動不審の身体を無理やり止めて自室のドアを見る。よし、空いてない、隙間もなし。

 

 よーし、バタバタするぞー!

 

 と、上半身を捻ったところでスマホが鳴った。なんだよもう、これからがいいところだったのに……とか意味不明なことを思いながら、発信者も見ずに電話に出る。

 

「はいもしもし」

 

「随分と上ずった声ね、浮かれが谷くん」

 

 冷ややかでいてどこか親愛の情が含まれた声で、雪ノ下が言った。

 

「雪ノ下か。わざわざ電話してくれたのか」

 

「ええ、あなたのことだからどうせ連絡してこないと思ってね。あと、先に報告があるのだけれど、一色さんから連絡が来たわ。私の方からも説明しておいたから、あの子のことは許してあげて頂戴」

 

「無駄に心配かけたみたいだからな。今度礼言っとかないといけないか」

 

「そうね、あの子も結構取り乱してた自覚があるみたいだし、相当心配していたようよ?」

 

「俺はそんなに美人局に引っかかってるように見えたか……」

 

「川崎さん、相当綺麗になっていたんでしょう? 相手があなたなら当然ね」

 

 おおう、辛辣ゥ!

 

「それより、今日も大丈夫だったのか訊きたかったのだけれど、その声の調子なら問題なさそうね」

 

「ああ、楽しんでたと思う」

 

「そう、良かったわ。でも気になる点がひとつ。私たちに相談していること、恐らく川崎さんにはまだ話していないのでしょう?」

 

「まあ、最初に黙っていてくれって言われてたしな」

 

「もちろんあなたは詳細を伝えないようにしていたし、守秘義務はぎりぎり履行されているはず。詭弁に近いと思うけれどね。でも、それと感情は別よ。どこかで折を見て伝えなさい。でないと、彼女は裏切られたように感じるはずよ」

 

 後頭部を金づちで叩かれたような衝撃を受ける。

 

 そこまで考えていなかった。依頼をこなすために必死になっていたあのとき、俺はそんなことまで思考を回していなかった。迂闊だった。沙希を助けるための行動が沙希を傷つけるかもしれないなんて……。

 

「そう……だな」

 

「そんな声出さないで。あなたは間違ったことはしていない。最善を尽くした。ただ、人の感情は、相手がその人のために頑張っていても納得できないことがある、ということよ。それは肝に銘じておきなさい」

 

「分かった。サンキューな」

 

「いえ、この件に関しては私も由比ヶ浜さんから教えられた口だから、感情の鈍さについてはあなたと同じね」

 

「さすが奉仕部のコミュニケーション担当だな」

 

「それならさしずめ私は意思決定担当で、あなたは策謀担当かしら。あら、やっぱりフィクサ谷くんね」

 

「そんなこと言われたら明日からフィクサ谷八幡って名乗っちゃうだろうが」

 

「あまりに自然だからそのまま受け入れてしまいそうね。そもそも、あなた名前知られてないもの」

 

「やめてくれ。最近後輩の女子に顔だけは認知されてんだから……」

 

 くすくすと雪ノ下が歌うように笑う。

 

「一色さんの下僕、だったかしら? 実際は本当に裏で手を色々回している策謀家だというのにね。見る目がない子たちだわ」

 

「それは褒めてるのか?」

 

「もちろん褒めているわ。下僕という評価は戯言だと思って訊き流しなさい。どうせ表面しか見られない薄くて矮小な観察眼の結果よ」

 

 最後の方はもはや絶対零度の声だった。

 

 いつか後悔させてやるわ。そんな声があとになって聞こえた気がした。怖いよゆきのん……。

 

「まあ、あれだ。実際振り回されてるのは事実だしな。そろそろ雑用は勘弁してもらいたいもんだが」

 

「あなた面倒見がいいのだもの。それに、私たちも彼女には弱いところがあるから。初めての可愛い後輩というのもあるし。しばらくはその身分に甘んじておきなさい」

 

「ま、仕方ないな」

 

「ええ、いい後輩を得た反動といったところね。それよりも、明日の予定は決めたのかしら? それとも、その場その場で川崎さんの行きたいところを訊いている感じなの?」

 

「両方だな。意外と普通の遊びを知らないみたいでな。色々試してみたいらしい」

 

「そう、それならいいわ。川崎さんだけでなく、あなたも楽しんでいるみたいだし。良い関係性だと思うわ」

 

 優しい声音で言って、雪ノ下が続ける。

 

「だから、川崎さんのこと、大切にしてあげて。いまがどんな状況か分からないけれど、あなたが浮かれられるほど幸せな場所に立っているのは分かる。だからこそ、一度落ち着きなさい。あなただけじゃなく、川崎さんもよ。分かるかしら?」

 

「ああ、俺もあいつを大切にしたい」

 

「いい答えよ。なにかあったら連絡しなさい。夜中でもいいわ。私でなくとも、由比ヶ浜さんでもいい。彼女もあなたからの連絡ならいつでも出ると言ってくれている。今回の件、私たちはあなたを全力でバックアップするわ。依頼だけでなく、川崎さんとあなたの心もよ」

 

 まったく、頼もしすぎる。

 

「ありがとな。心強いわ」

 

「いいえ。どうやら、少し落ち着いたようね。電話してよかったわ」

 

「まったくだ。さっき布団でバタバタしてたからな。なんとか通常営業に戻った」

 

「あまり捻くれは発揮しないように。じゃあ、そろそろ切るわね。おやすみなさい」

 

「電話ありがとな。おやすみ」

 

 電話を切ってスマホをポケットにしまった。喉の渇きを覚えた。リビングでコーヒーでも淹れるかとドアを開けた途端、思いもよらない人がいて仰け反った。

 

「っと……! 沙希か、びっくりした……」

 

 沙希は無言だった。不信に思って顔を見るも、俯いているせいか表情が見えない。

 

「どうしたんだ?」

 

 それは、

 

「……八幡」

 

 蚊の鳴くような声の、

 

「あの二人に、話してたんだ……」

 

 処刑宣告だった

 

 

 

 

 

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