だから俺は彼女に恋をした   作:ユーカリの木

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瞬く間に、川崎沙希は距離を縮める 5

「人に話さないでって頼んだ……」

 

 泣き崩れそうな表情で沙希が言った。

 

 背筋に冷水が刺さったと思った。心臓がきゅっと縮んで、勝手に喉が短く息を吸った。

 

 物言わぬ俺に沙希が言葉を叩きつけてくる。

 

「あの二人は、やっぱり特別? 八幡だから話せたこと……言っちゃったの?」

 

「違う」

 

 やっと声が出た。酷い事態が起こってしまったと、ようやく頭が理解できた。

 

 沙希は聞いてしまったのだ。俺が雪ノ下と連絡を取っている声を。そして、雪ノ下の危惧した通り、その事実は沙希の心を突き刺した。それが、いま目の前で涙を流し始めた沙希の表情が証明していた。

 

「ずっと、話してたの? 一緒に遊んだことも、食事に行ったことも、カラオケのことも、公園のこともなにもかも、ぜんぶぜんぶ話したの?」

 

「違う。沙希、聞いてくれ」

 

「聞きたくない!」

 

 伸ばした俺の手を払いのけた沙希は両手で耳を塞いだ。

 

「そうだよね。あたし、たった二日だもんね。あの二人には勝てないもんね。知ってた。分かってた。だから……だから、うれしかったのに……!」

 

 沙希の嗚咽が落ちる。俺の頭はもう真っ白で何も考えられなかった。言い訳だってできない。だって事実だから。細かく話してなくても、きっと沙希にとっての一線を越えてしまったのだ。誤解の余地などない。

 

 沙希が俺を見つめ、大きく表情をゆがめた。

 

「あたし……バカみたい……!」

 

 踵を返した沙希が走る。廊下を駆けて階段を下りていく。

 

 残ったのは虚無感。

 

 そして、俺は動けなかった。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 やっぱり急ぎ過ぎた。

 

 二階から悲痛に響いた沙希さんの声を聞いて、わたしは事態の動かし方が早かったのだと確信した。

 

 声は聞こえど内容は分からない。だけど、いま沙希さんを行かせてはいけないことだけは分かっていた。どうせ兄は突然のことに動けないはずだ。

 

 だからソファーでだらけていた身体を弾く様に起き上がらせ、全力で玄関の前で両手を広げて立ち塞がった。ちょうど階段から降りてきた沙希さんと対峙する。沙希さんの両頬には涙が伝っていた。

 

 沙希さんは、わたしの姿を見て困惑したように視線を迷わせた。

 

「小町……あたし……」

 

「兄の話を聞いてください」

 

「……でも」

 

「お願いです。兄の話を聞いてください。言い訳もなにもかもを。兄は、自分の不利益になることばかり表に出して、言い訳を口にしません。兄は自分が悪者になることに慣れています。だからお願いします。兄だけを悪者にしないでください。どうかお願いします。兄の言い訳を聞いてあげてください」

 

 誠心誠意をこめて頭を下げる。いままで一度だってこんな風に心から頭を下げたことがあるだろうか。たぶんないんじゃないだろうか。でも、兄のためならこれくらい簡単にできる。だって、この機を逃したら、兄がどうなってしまうか不安で仕方ないから。

 

「違う。そうじゃない、そうじゃない! 八幡は悪くなくて、あたしが……あたしがただ自信がないだけで……」

 

 沙希さんが大きくかぶりを振る。

 

 内心ほっとした。決定的なすれ違いが起こったわけではなかったみたいだ。なら、まくし立てて立ち止まらせて、兄の下へ戻すことはきっとできる。

 

「兄は、これ以上ないくらい沙希さんを信頼しています。兄が家族の前であんな風に泣いたことなんて一度もありません。兄は、心の内に溜めたものを吐き出すのが苦手なんです。だから沙希さんは兄にとってもう特別なんです。

 

 兄は……兄は、身内には甘いんです。絶対に裏切ったりしないんです。全力で大切にするんです。そのなかに、もう沙希さんはいるんです。お願いします。

 

 どうか、どうか……!

 

 ――兄からもう、大切なものを奪わないでください」

 

 この言い方は卑怯だ。まるで沙希さんが悪者みたいな言い方だ。説得の方法としてはきっと最低の部類。兄とは真逆の責任を他人に擦り付ける方法。

 

 でも、仕方ないよ。

 

 わたしにとっては、兄が一番だから。なによりも大切な家族だから。兄には幸せになってもらいたいから。

 

「お兄ちゃんを……ひとりにさせないで……!」

 

 涙は必死でこらえた。その一線だけは超えてちゃいけないと思った。

 

 これは嘘だ。兄はひとりじゃない。昔と違って、少ないけれど決して離れない友人を見つけた。大切な人を手に入れた。

 

 でも……真実でもあるのだ。

 

 心を言葉にして全部をさらけ出して、良いところも悪いところもぜんぶ受け止めてくれる人は、きっと沙希さんしかいないから。

 

「わたしをどれだけ罵ったっていいです。憎んだって構いません。だけど、その代わり、お兄ちゃんの下に戻ってください。

 

 一生のお願いです。

 

 お義姉ちゃん……!」

 

 ああ、もうだめだ。なんでだろう。涙が止まらないよ。

 

「小町……!」

 

 沙希さんの声がして、顔を上げると同時に思い切り抱きしめられた。

 

「ごめん、ごめんね。言いにくいことばかり言わせちゃったね。聞くよ。ちゃんと八幡の言葉を聞くから。ひとりにしないから。大切なものを奪ったりしないから。だから安心して。小町のことだってそう。嫌いになったりしない。憎んだりなんかしない。だってあたしにとってもう妹みたいなものだから。あたしは、家族は絶対に嫌いにならないんだから……!」

 

 沙希さんの言葉が胸を打った。素敵な人だと思った。あんなひどい言い方をしたわたしにこんな言葉をかけてくれて申し訳なかった。

 

「おねえぢゃん……!」

 

 悪者にしてごめんなさい。卑怯な言い方をしてごめんなさい。嘘をついてごめんなさい。

 

 そしてなにより……。

 

「立ち止まってくれて、ありがとう……!」

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 放心していたのは五分か、それとも十分か。

 

 気づいたときには沙希はもういなくて。致命的な時間だけが過ぎ去ったことだけは確かだった。

 

 失敗した。大事なところで失敗した。雪ノ下がせっかく忠告してくれたというのに。されてすぐに失敗するなんてとんだ愚か者だ。滑稽すぎて笑い話にすらならない。

 

 ふいに、階下で声が聞こえた。沙希と小町の声だ。石造になっていた足を叩いて無理やり動かす。

 

 まだチャンスはあるかもしれない。全部話して謝って、元に戻れる機会があるのならば、いまは全力でそれにしがみつきたい。

 

 階段を下りて玄関口を見ると、驚くべき光景がそこにはあった。

 

 最愛の妹と大切な人が抱き合って、わんわんと大声で泣き崩れていた。

 

 なんだこの地獄絵図は……。

 

 あまりにも予想外の事態に逆に冷静になった。

 

「ふたりとも、どうしたんだよ」

 

 俺の言葉に小町が顔をあげる。

 

「お兄ちゃんのバカ、アホ、ボケナス、八幡! ちゃんと何があったか沙希さんに説明して!」

 

「小町ちゃん。いまの俺に罵倒は結構効くからやめてね」

 

「ぶえー。沙希さん泣かせといてなに言ってんのさ。ほら、沙希さん連れて部屋に戻ってちゃんと話す! ほらダッシュ!」

 

 小町が立ち上がりながら沙希を引き上げ、そのまま俺に渡すと、さっさと行けと言わんばかりにシッシと手首を振った。

 

 お兄ちゃん、全然状況分かんないんだけど……。

 

 それでも、挽回の機会は巡ってきた。いまだ泣く沙希の身体を抱えて俺の自室へと向かう。沙希をベッドに座らせ、俺も隣に腰を落とした。

 

 泣いていた沙希も、しばらくして涙を拭って俺に視線を注いだ。

 

「まずはごめんなさい。癇癪起こしちゃって。八幡の言い分も聞かずに勝手にどっかに行こうとして本当にごめんなさい」

 

「もっと早くに伝えられたらよかったんだがな。なかなか、言いづらくてな」

 

「うん、今度はちゃんと訊くから教えて?」

 

「ああ。沙希から相談されたとき、正直手に余ると思った。俺の家に泊まったところで、沙希の価値観を変えるようなことをしなきゃ、たぶん家に戻ったって意味がない。だがな、生憎と女子高生が楽しくなるようなことが分からなくてなあ……。それで、雪ノ下と由比ヶ浜に頼った。沙希の事情は伏せて、泊っていることと、なにをすればいいかの相談をしたってところだ」

 

「……そうなんだ。そうだったんだ」

 

「さっきの雪ノ下からの電話もその確認みたいなもんだ。あいつも過保護でな。俺がちゃんとやってるか確認してくるんだよ」

 

「デートの内容とかは、ふたりに訊いたりしてるの?」

 

「いや、訊いてない。あいつらの結論は、沙希が行きたい場所に俺の意思で連れていく、ってことくらいだ。だから今日は沙希に行きたい場所を訊いたし、突然他のことをしたくなったらそれを優先するようにした」

 

「なんだ……そういうことなんだね。じゃあ、別にあたしたちのしたこととか、話したこととかは伝えてないんだね?」

 

「んなことするかよ。恥ずかしいし、そもそも誰にも教えたくない」

 

「そっか、そっか……!」

 

 沙希の表情が和らぐも、すぐに表情を真剣なものにする。

 

「あのね、さっきのあたし……嫉妬してたの。別に話したことはいいの。すごく大変なことを依頼してる自覚はあるし、全部を八幡に押し付けて、八幡が他の人に助けを求めたら嫌なんて傲慢なことは考えてない。

 

 ただ……ね。あの二人は、ずっと八幡の傍にいたから。あたしには勝ち目がないから。ずっと気になってて、それが今日になって表に出てきちゃって、あんな癇癪を起しちゃったの。ごめんね八幡」

 

 頭を下げようとする沙希を止める。

 

「謝らなくていい。謝るのは俺の方だ。どんな形であれ約束を破ったのは俺だ。ちゃんと伝えたうえであいつらに相談するべきだった。すまなかった」

 

「うん、分かった。大丈夫だから、ね。頭上げて?」

 

 顔を上げて沙希を見る。沙希は困ったように微笑んで俺を見つめていた。

 

「なんか、今日は怒涛の一日だったね」

 

 まったくだ。

 

「俺は泣くわ沙希も泣くわ一色は襲撃するわ喧嘩するわで、まあ、濃い一日だな」

 

 頷いた沙希が頭を肩に預けてくる。

 

「でもね、お互いのこといっぱい知れた気がする」

 

「そうだな。本音を訊けて良かったわ」

 

 自然と沙希の身体を抱き寄せる。沙希はされるがまま身体を密着させて、甘い吐息を吐く。

 

「ねえ、八幡。わがまま言っていい?」

 

「内容によるけど、言ってみ?」

 

「そろそろ寝たいからお風呂入ってきて」

 

 かくんと頭が落ちそうになる。

 

 えー……いまそんな場面だった?

 

 もっとこう、余韻に浸るとかないの?

 

 顔を引きつらせていた俺を見て、沙希が困ったように訊いてくる。

 

「えっと、いますごく呆れてる?」

 

「そこそこな。まさかそんな科白が出てくるとは思わなかったわ」

 

 沙希が恥ずかしそうに、人差し指同士をを胸の前でちょんちょんと突く。

 

「んと、実はすごく眠くて。だから一緒に寝たいんだけど、まだ八幡お風呂入れてないし、でもあたしも眠いし、だからわがまま言って早く入ってきてもらおうかなーって」

 

「ま、しょうがない。分かったよ。俺のVITAちゃん貸してやるから寝ないで待ってな。やり方は小町に訊いてくれ」

 

 沙希と一緒にベッドから腰を上げて、VITAちゃんを連れてリビングへ戻る。小町はいつも通りにソファーの上でぐでーっとしながら雑誌を広げていた。俺たちに気づいた小町が顔を上げて問いかけてくる。

 

「あ、ふたりとも仲直りした?」

 

「なんとかな。で、風呂入ってくるから沙希にVITAちゃんの使い方を教えてやってくれ」

 

「お、わたしのVITAちゃんですな! 小町にお任せあれ!」

 

 ソファーの上で正座をした小町が、ピシッと敬礼してみせる。

 

 あれ? VITAちゃん俺のなんだけどなあ……。いつから小町のものになったの?

 

 疑問は浮かぶが、ひとまずVITAちゃんを小町に預け、準備をして風呂に入る。

 

 ほけーっと風呂に入って出ると、四十分経っていた。どうやらぼーっとし過ぎてしまったようだ。リビングへ戻ると、VITAを真剣な表情でやる沙希に、その後ろからあれこれと指示を飛ばす小町の姿が見えた。こうしてみると本当に姉妹みたいだ。

 

「あ、沙希さん右! そっちじゃない、そう、そいつ!」

 

「殴ればいいんだね。任せて、得意だから」

 

 サキサキぇ……暴力振るわないんじゃなかったのかよ……。

 

 思わず脱力しかけるも、楽しそうでなによりだ。

 

「出たぞー」

 

「あ、八幡」

 

 沙希が視線を俺へ向けた途端、小町があーっと残念そうな声を上げる。

 

「死んじゃったー。お兄ちゃんバッドタイミングだよ」

 

「おい、俺の所為にするな。というか、そのゲームは沙希が狂暴になるからやめなさい。ただでさえテンパると殴りたがるんだからこの子」

 

 沙希がきょとんと首を傾げる(可愛い)

 

「え、殴るって言ってた?」

 

「めっちゃ言ってましたよ」と小町。

 

「さっきも言ってたな。得意とも言ってた」と俺も同調。

 

「ええー……」落ち込む沙希。

 

 三人で顔を見合わせ笑い合う。

 

「じゃあVITAちゃんは回収で~す。しばらく小町が預かりま~す」

 

 小町が沙希の手の中のVITAちゃんを取り上げる。ちょっと名残惜しそうにその様子を見ていた沙希の顔が可愛かった。

 

「小町ちゃん、それお兄ちゃんのものだからね? 盗っちゃだめだよ?」

 

「お兄ちゃんのものは小町のものでしょ?」

 

 なにそのジャイアン理論。小町ちゃん、横暴よ。

 

 俺の渋い顔を受けて小町がころっと表情を和らげる。

 

「冗談だよ。今日はなんか遊びたい気分だから借りるねー」

 

 ではではーおやすみなさーい、と小町は小走りにリビングを出て自室へと引っ込んだ。ホントに返してくれるよね……? お兄ちゃん心配だなあ……。

 

 VITAちゃんとの思い出に想いを馳せるが、孤独にやっていた記憶しかないのでろくな思い出がない。まあ、面白いんだけどね!

 

「んじゃ、俺らも寝るか」

 

「あ、うん」

 

 なにか気後れしているような沙希に疑問を覚えるも、疲れが出たのか眠くなった俺は彼女を連れて自室へ戻る。そのままの勢いでベッドに倒れ込んで枕を抱え込んだ。

 

「ああ、枕ちゃんと結婚したい」

 

「さすがに枕には嫉妬できないなあ……」

 

 沙希が呆れ顔で笑う。

 

「まあまあ、ちこうよれ。余は眠いのだ」

 

 くわっと欠伸をして布団に潜り込む。今日は楽しかったが疲労感が半端でなかった。目を閉じたら本当に寝そうだ。

 

「はいはい、すぐ行くから電気くらい消させて」

 

 沙希が電気のスイッチを消す。部屋に闇が満ちる。沙希が手探りでゆっくり近づいてくる音を訊きながら、俺はまぶたを閉じた。しばらくして、沙希が布団の中に入ってきて俺の身体にしがみついた。服越しに生暖かい体温が伝わり、眠気が深まっていく。

 

「ん、いい抱き枕。これならすぐ寝れそう」

 

「俺は寝る。超眠い。来年起こしてくれ。おやすみ」

 

「明日起こすからちゃんと起きてよね。おやすみ」

 

 危惧した雰囲気など微塵もなく、俺たちは五分と経たずに現実から夢の世界へと旅立った。

 

 

 

 

 


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