由比ヶ浜の案内でパンケーキがおいしいと有名なカフェに入ることになった。慣れた様子で由比ヶ浜は個室を希望し、店員に案内され最奥部にあるちょうど六人席の個室へ移動する。
個室は広かった。ネイビー柄の落ち着いた壁紙に、黒い皮のソファーが丸テーブルを中心に並んでいる。照明は窓から差し込む光のほかに、壁際にひっそりと置かれたスタンドライトが複雑な影を描きながら室内をほんのり照らしていた。
うん、とりあえずお洒落だなーという感想しかない。こういう店に来るとなんだか落ち着かない気分になるんだよね。
個室に入ってから由比ヶ浜が仕切り、奥から右回りに俺、沙希、小町、雪ノ下、由比ヶ浜、戸塚という順に座る。俺の隣に戸塚を座らせるとは、さすが分かってらっしゃる。崇め奉らないと!
全員が注文を終えたところで、由比ヶ浜が切り出した。
「沙希……なにがあったか、訊いてもいい?」
ん、と沙希が吐息して頷く。
大した話じゃないよ、と前置きをして沙希が話し始める。
「戸塚以外はたぶん家の事情はある程度知ってると思うけど。うちは四人姉弟でね。あたしが長女なんだけど、下に弟がふたり……長男の大志は小町の同級生だし知ってるかな? あと渉、妹の京華がいるんだよ。子どもが四人ってなるとお金もたくさん必要だから、両親は共働きで昔から家事や育児は大体あたしが担当してたんだ。大変だって思うことはたくさんあったけど、それでも家族の世話をするのは好きだった」
過去を思い出しているのか、沙希が天井を見上げる。
「いまでは落ち着いたけど、昔は大志もやんちゃ坊主だったな。けーちゃんもわっくんもいまは手が離せないけど、可愛い盛りだよ、ほんとに」
ただ、と沙希が視線を戻す。
「なんか……ね。疲れちゃったんだ。三年生になって受験が本格的になって、でも家事も弟妹の世話もしなきゃいけなくて。将来の不安もあるし、なんだか色々なことが手に着かなくなって……。たぶん、誰かに助けて欲しかった」
ふっと沙希が微笑む。頬が引きつった不器用な笑いだった。
「自分のために時間を使いたいけど、そういう訳にはなかなかいかなくて……。でも将来を考えると勉強しないといけないし。こんなこと、相談できる相手なんかいなくて……。そんなときに、比企谷にぽろっと口に出したのが今回のきっかけ、かな?」
これでお終い、と沙希が話を終える。
言葉にすれば、家族への愛と自身の将来への不安で潰れたと説明できる。だが、当人にとってはそれだけではない、心に大きな靄がかかって先の見えない闇の中を歩いているような気分だったのだろう。
人は、希望なくして生きられるほど強くはない。
沙希は希望足り得るものを持っていなかった。だからパンクしてしまった。
「沙希……つらかったんだね。ずっと、頑張ってたんだね」
感受性の高い由比ヶ浜が瞳を潤ませて沙希に声を掛ける。一瞬目を見開いた沙希が、小さく頷いた。
「あなたの現状、理解できるなんて傲慢なことは言えない。でも、これだけは言わせて。私たちはあなたの味方よ。あなたの問題、解決するまで必ず支え続けるから」
雪ノ下が柔らかい口調で告げる。沙希は俯いて一言、ありがとうと呟いた。
「それから川崎さん、改めて謝罪させて。あなたの意向を無視して、事情は伏せられていたとはいえ比企谷くんから相談を受けていたこと、本当にごめんなさい」
「ごめんね、沙希」
雪ノ下と由比ヶ浜が頭を下げる。沙希はそれに対して首を振って、
「気にしないで。大した話じゃないって言ったでしょ? これくらいのこと、そこらの家である話だからさ」
「そんなことないよ!」
そこで口を挟んだのは戸塚だった。
「川崎さんは頑張ったんだよ。それは誰かと比べるものじゃない。川崎さんのつらさや、頑張りは、川崎さん自身のものなんだよ。だからそれを肯定していいし、弱音だって吐いていいんだよ」
沙希が喉の奥で悲鳴を漏らした。
まったく、先に言われた……。戸塚は物事の本質を捉えるのがうまい。
そう、沙希はもっと自分を労わっていいのだ。家族を重荷に感じる、現状に不満を抱く、未来が不安になる。誰もが経験し、誰もが嘆き、苦しみ、きっと口にしているものだ。沙希はそれをしてこなかった。すべてを内に秘めて鍵をかけてしまった。大本の原因はきっとそれだ。そして、沙希をそんな風にしてしまった過去がどうしようもなく痛ましかった。
俺も、同じだから。
「ま、戸塚の言った通りだな。ゴールデンウィークで抱え込んだもん全部吐き出せ。勉強なんて休みの後でも取り戻せるし、家族のことだって大志がいる。なんとかなるだろ」
言って俺は沙希の頭に手を載せた。それが合図になったように、沙希が顔を両手で覆って嗚咽をこぼした。いままで黙していた小町が沙希の背中をゆっくりとさする。いよいよ耐え切れなくなったか、沙希は口元を押さえて号泣する。
「すみません、ちょっと席外しますね」
小町が沙希を連れて部屋を出ていく。
その様を眺めていた雪ノ下が視線を俺に向けた。
「あなたがやろうとしていること、ようやく分かったわ」
「他に方法が思いつかなかった。悪手だったか?」
雪ノ下が首を振る。その仕草は、まるで教え子を前にした教師のような温かさがあった。
「いいえ、私もこれが最善だと思うわ」
「えっと、どういうこと?」
由比ヶ浜が頭上に疑問符を浮かべる。答えるのは当然雪ノ下だ。
「川崎さんの現状をなんとかするために必要な条件はみっつ。
ひとつ、川崎さんの心を正常な状態に戻すこと。
ふたつ、この休みを終えても心の平穏を自分で保つことができるようにすること。
みっつ、家族が持つ川崎さんに対する甘えを薄め、彼女の置かれている状況を理解してもらうこと。
これらすべてを同時に解決できる方法、それが今回の家出ね」
わー、こうも見事に当てられると八幡恥ずかしくなっちゃう!
合ってるかしらと話を振られれば、俺としては頷いて同意を示すしかない。
「あ、だからテンションが上がるとこーって話だったんだね」
ようやく合点がいった由比ヶ浜が胸の前でぽんと手を合わせた。
「ま、そういうことだ。現状の息抜きと、今後自分でストレス解消する方法でも見つけてくれればいいと思ってな。まあ、女子高生の息抜きとストレス解消法なんて分からなかったから、ふたりに相談したってことだな」
「そうなると、私たちの回答が今回の問題に即していたか、一考の余地はあるわね」
指で顎に触れながら雪ノ下が考え込もうとするが、俺はそれを止める。
「問題ない。意外とやりたい事があるみたいでな。二日間でやったことも色々初体験ばかりみたいだったし、ストレス解消法も案外見つけられそうだ」
ただし、殴る方面でのストレス解消法に目覚めないことだけは祈っておく。
「そう、それなら良かったわ」
安心したように雪ノ下が微笑む。
「八幡はいつだって人を助けてるんだね」
戸塚が誇らしい友人でも持ったように言うから、照れくさくて頭を掻いた。
「そんなんじゃない。色々思うことがあってな……。なんつーか、小町も似た境遇だから重なってな」
くすっと笑って雪ノ下が茶化してくる。
「確かに、比企谷くんという大変な兄がいる点では、小町さんは苦労しているものね」
「自覚あるからそういうこと言わないでね」
まったく、隙あらば雪ノ下は俺を罵ってこようとするのだから困る。
雪ノ下と由比ヶ浜、戸塚の三人が話し始めた隙を拾って、沙希を助けようとした理由を少し考えてみる。
そもそも、小町は社交的だし内に抱えるタイプではない。それでも、いつか来る想像の小町と重なった。だから助けざるを得なかった。
いや、これは適切ではない。助けたかった。なぜだか分からないが、助けたいと思えた。それがなんであるか、いまになっても言葉にできないのだが……。
個室のドアが開き、小町と沙希が戻ってくる。続いて店員が入ってきて注文の品をテーブルの上に並べていく。
店員が去ると、雪ノ下が俺を見て言う。
「それじゃあ比企谷くん、音頭をお願い」
「は、俺? なんで?」
「ここにいるのはすべてあなたと親交のある方々よ? それも、あなた中心のね。なら、誰が音頭を取るかは決まっているでしょう?」
どうだと言わんばかりに胸を張る雪ノ下だが、俺としてはそもそもの疑問がある。
「なあ由比ヶ浜、そもそもこういうカフェで音頭とかいるのか?」
「あははー……いらないんじゃないかな?」
由比ヶ浜が乾いた笑みを漏らす。うん、やっぱそうだよね。ゆきのんも由比ヶ浜に言われて「え、そうなの?」的な顔してるし。
そして、こんな微妙な空気に出張ってくれるのはいつだって小町だ。
「おーっと、ならここは小町の出番ですねー。不肖小町、ここは乾杯の音頭を取らせていただきまーす! じゃあ、みなさんグラスを持ってくださいねー。ほらほらお兄ちゃんに沙希さんも早く早く! 雪乃さんもそんな落ち込んでないで持って持って! さてさて、よろしいですかー? いきますよー? ではではー、お兄ちゃんの成長にかんぱーい!」
かんぱーい、となぜかお洒落なカフェで乾杯する六人の姿がそこにはあった。なにを隠そう俺たちである。うん、やっぱなにか間違ってると思うんだよなあお兄ちゃん。しかも俺の成長に乾杯って……。小町が俺のことをどう思っているのか、その端緒が垣間見れた気がするよ……。
まあ、空気が一変して和やかな雰囲気になったから、やっぱり必要なことだったのかもしれない。
さて、みんなもパンケーキに向かっているようだし、俺もそのお洒落なスイーツとやらを食べてみようじゃないか。眼前の皿に手を伸ばさんと視線を向けると、そこには俺のためのパンケーキがなかった。
反射的に小町を見る。小町の皿の横に俺が頼んだパンケーキが引き寄せられていた。
「小町ちゃん。そんなに食べると太るわよ? というか、お兄ちゃんのパンケーキ返しなさい」
めっ! と注意するも小町は不敵な笑みを浮かべていた。
「ふっふっふ。小町は訊いているんだよ。一昨日、沙希さんとお兄ちゃんが洋食屋でやったことを」
「一体なんの――ッ!」
瞬間、脳髄に電撃走る。まさか、こいつ、訊いたのか?
視線を沙希へ向ける。沙希は頬に冷や汗を流して固まっていた。
「沙希、話したのか……?」
「こ、小町の追及がすごくて……つい……」
さっと背筋が寒くなる。小町め、まさかここでやらせるつもりか……?
ふっ、と小町が口端を吊り上げる。その様はいまの俺たちにとっては悪魔のような邪悪な笑みに見えた。
小町はなにを思ったか突然立ち上がり、ぱんぱんと大きく手を叩いて注目を集める。
「さあさあ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい! 小町主催、お兄ちゃん争奪戦開始でーす!」
どんどん、ぱふぱふー! とか口で効果音をつける小町。まったくなにがなんだか分からない。ただ、ろくでもないことだけは確かだ。
「なになにー? 小町ちゃんどうしたのー?」楽しそうな由比ヶ浜。
「なにかしら、その胡乱な催しは……」雪ノ下が目を細める。
「なんか楽しそうだね」戸塚はいつだって天使……!
嫌な予感しかしない。
小町が手をパンパン叩きながら声を張る。小町ちゃん、ここお店の中だから静かにね。
「ではではー。山手線ゲームを始めましょう! ルールは次の通り! 『お題出す、みんな答える、リズムよく!』さあ、今回のお題はお兄ちゃんの良いところ! 当然お兄ちゃんは抜きで沙希さんからスタートです!」
え、なにそのざっくりした説明? あれ、俺の良いところとかなにそのお題。恥ずかしいから今すぐ止めて!
俺の願い叶わず、小町が音頭を取り始める。
「古今東西、お兄ちゃんの良いところ!」
最初は沙希だ。
「優しい」
手拍子が打たれ、小町に続く。
「面倒見が良い!」
お願い誰か止めて! 顔が赤くなっちゃう!
止める者など当然おらず、無慈悲な手拍子と共に雪ノ下に回る。
「ず……賢い」
おい、いまずる賢いって言おうとしただろ!
小町判定ではセーフのようで、由比ヶ浜に回る。
「眼鏡が似合う!」
それ良いところなの? 疑問に思っているうちに次の戸塚へ続く。
「つらくても頑張るところ!」
じーんときた。ちょっと、これまだ続けるの?
手拍子はまだ打たれる。一周回って次は沙希。
「あたしを受け止めてくれた」
手拍子。
「わがまま聞いてくれる」小町が言う。
手拍子。
「成長したわ」雪ノ下が微笑む。
手拍子。
「身内にだだ甘!」ふふんと由比ヶ浜が笑う。
手拍子。
「尊敬できる!」戸塚が誇らし気に答える。
あの、そろそろ本気で泣きそうなんだけど。目の奥が熱いよ?
二週目が終わった。小町がふんふんと頷き指揮を取る。
「さあ、思いのほかお兄ちゃんが愛されていることが分かって、小町感激です! ということでこの流れで王様ゲーム行ってみましょう! 王様はお兄ちゃんに何でも命令できるってことでよろしくです☆」
きゃぴるん、とあざとくウインクした小町が、どこから出したのか人数分の棒を握った右手を前に突き出す。俺以外の全員が棒を持つ。案外ノリ良いね君たち……。そんなに俺に命令したいの?
「さあさあ行きますよー、王様だーれだ!」
小町の掛け声と共に全員が棒を引き抜く。全員が棒の先を見る中、小町があーっと声を上げる。
「これは小町が王様ですねー」
作意ぃ! 作意しか感じないぞ! さては小町め、合法的に俺に命令するためにこんなことをしてるんじゃあるまいな……?
「ではでは、お兄ちゃんが一番にパンケーキを食べさせてもらう!」
「あ、あたし一番だ」
ほわーっとした表情で沙希が宣言する。おい、沙希。状況を見ろ! なんで若干嬉しそうなんだよ!
「じゃあお兄ちゃん! 命令だよー。沙希さんにパンケーキを食べさせてもらう。レッツゴー!」
小町がびしっと俺と沙希を交互に指差して命令する。
「うう……」三番の由比ヶ浜が唸り。
「はあ……」四番の雪ノ下がため息し。
「わあ……!」二番の戸塚が楽しそうに声を漏らす。
「待て、ここでやるのか? ハードル高くない?」
なんとか逃げようと小町に言うも、妹は首を縦に振ってそこはかとない迫力を滲ませて言う。
「お兄ちゃん、沙希さん、やらないと……言うよ?」
はいぃぃ!
俺と沙希の背筋がびしっとなる。
小町怖い! いろはすの怖さが移ってるよ! いろはすめ、うちの妹に悪影響ばっか及ぼしやがって……!
もはや恐怖と恥ずかしさでガクブルになった沙希が、震える指でパンケーキをナイフとフォークで切り取る。一口サイズになったそれをフォークで刺して俺に差し出してくるが、ぷるぷる震えて普通に食べられない。というか鼻に生クリームが当たる! あたっちゃうから!
「ほ、ほら八幡、さっさと食べて!」
「はいアウトー!」
そこで小町が遮ってくる。
「沙希さん、そこは『はい、あーん』でしょう⁉ やりなおし!」
「うぅ……」
小町の思いのほか強い駄目だしに沙希が呻く。
右手でフォークを持って、左手を添えて俺の口にゆっくりと近づける。本当にゆっくりすぎてハエが止まるくらいの速度だ。
「は、はい、八幡、あ……あーん」
いまだ恥ずかしくて口をもごもごさせていると、やっぱり小町から注意を受ける。
「お兄ちゃん? 王様の言うことが聞けないの? 尊王攘夷でもしたいの?」
尊王攘夷は天皇を敬って侵略してくる敵を排除することだ。全然関係ねえよ、と突っ込みを入れたいが余裕がない。
「小町さん、尊王攘夷はそもそも王を尊び侵略者を斥けようという思想であって、決して革命的な意味合いでは……」
「雪乃さん、いまはそんなことどうでもいいです」
俺の心の声を代弁しようとした雪ノ下が、小町によって撃沈する。しゅん、となった雪ノ下を由比ヶ浜が慰めている光景がなんだか悲しすぎる。小町さんが怖い、という雪ノ下の言葉は聞かなかったことにしよう。
「あれー、お兄ちゃんできないの? おかしいなー一昨日は……」
「分かったやる! やるから!」
あぶねー。小町め、さらっと爆弾落そうとしやがって。
腹に力を込めて沙希と向き合う。もはや熟れたリンゴのような顔をした沙希が、ぷるぷると両手を震わせながらフォークを構えていた。
「は、はい。八幡、あーん」
「……おう」
開けた口の中にパンケーキが放り込まれる。甘さとか柔らかさとか、色々と味覚で感じるものがあるのだろうが、いまの精神状態で味わえるだけの余裕なぞない。というか、みんな見過ぎだから! 特に由比ヶ浜さん、そんなウルウルした瞳で見ないでね!
一連の流れを見た小町が満足そうに頷く。
「うんうん、さすが仲良くなったふたりですねー。まるで本物の恋人みたいです。いっそ恋人になっちゃってはどうですかねー? では二回戦行ってみましょー」
まだやるの⁉ どんな拷問⁉
全員からささっと棒を回収した小町が再び握った右手を突き出す。
「王様だーれだ!」
皆が棒を引く。一部真剣な表情で勢いよく引いた人物がいたが、見なかったことにしよう。どんな命令をされるのか予想がつかな過ぎて怖い……。
「あ、ぼくだ!」
戸塚! 戸塚が王様だ!
わーいわーいとはしゃぐ姿がとても愛らしい。天使の舞だ。
勝負事にはめっぽう本気の雪ノ下は脱力し、由比ヶ浜は悔しそうに相変わらず唸っている。沙希はさっきの出来事でいっぱいいっぱいなのか、顔を赤くしたまま黙り込んでいた。
そのとき、戸塚と小町の間でなにか視線が交わされた気がした。ん? なんだろう、急に悪寒が……。
戸塚がひとつ頷いて命令を告げる。
「じゃあ、八幡が三番にパンケーキを食べさせる!」
「あ、またあたしだ」と沙希。
謀ったな小町!
再び立ち上がった小町が拳を天井に突き上げる。
「それでは行ってみましょー! お兄ちゃんが三番の沙希さんにパンケーキを食べさせる。れっつらごー!」
王様は戸塚。戸塚の命令は絶対。ならばやるしかあるまい……!
腹の底に力を込めて、いざパンケーキを三角形にナイフを入れる。一口サイズのそれを沙希の口元へと持っていく。
沙希はぶるぶると身体を震わせながら俺とフォークを何度も見比べていた。
「さ、お兄ちゃん。言うことあるよね?」
小町が追い打ち掛けてくるよー……!
ぽふんと俺の肩に手を置いた戸塚と視線が合う。
「八幡、男ならちゃんとやらないと駄目だよ?」
戸塚ぁ……お前までそんなこと言うのか。
うぅ、と内心で由比ヶ浜みたく唸りながらも、恐る恐る口を開く。
「沙希……あ、あーん」
「う、うん……。あーん」
濡れた沙希の唇が開かれて、ちろりと見えた赤い舌の上にパンケーキを入れる。ぱくりと閉じた唇からゆっくりとフォークを抜いた。なんだか変な気分になりそう……。
もぐもぐこくん、と喉を鳴らした沙希がほんわり頬を染めて一言。
「ん、おいし」
味分かるのかよ。俺は全然分かんなかったけどな。
そのとき、そっと沙希が俺に耳打ちする。
「味分かんないけど、八幡が食べさせてくれたからおいしいの」
顔が爆発した。一気に思考が消え去り沙希しか目が入らなくなる。ふふっと笑った沙希がナイフとフォークを持とうとして……。
由比ヶ浜がついに我慢の限界を迎えた。
「むー! 沙希ばっかりずるい! わたしもヒッキーに命令したいー!」
がらりと空気が変わった。近づいていた俺と沙希の距離が離れる。
あぶない。何か間違いを犯すところだった。ナイスだ由比ヶ浜。でも何をそんなに命令したいのか私すごく気になります……!
ゆったりと腕を組んだ雪ノ下が不敵な笑みを浮かべる。
「確かに、比企谷くんを下僕にできるというのは魅力的よね」
雪ノ下さん、あなたゲームの趣旨間違えてるよ?
「もちろん、このゲームは続けるのよね?」
雪ノ下の笑みの温度が下がる。あらゆるすべてを凍てつかせる絶対零度の笑みだ。
「ね、小町さん?」
さっきの意趣返しか、雪ノ下の攻撃が小町へ向く。雪ノ下の背後には修羅の姿があった。
「も、ももももちろん! た、たたたた楽しいゲームはここここれからですすすすす!」
面白いくらいに小町がキョドっていた。やっぱり雪ノ下を本気にさせると怖いよねえ……。お兄ちゃん分かるよ!
こんな状態でも戸塚はにこぱーと煌めく笑顔。戸塚って意外とメンタル強いな……。
◇◆◇
王様ゲームで盛り上がった後は、沙希さんの希望でゲーセンに行くことになった。初日に話していたダンレボをやりたいのだと言っていた。
兄と沙希さんを先頭に千葉の街を歩いていく。私は最後尾でとぼとぼとひとり歩いていた。
「さっきのはやり過ぎよ」
ふと、いつの間にか隣に並んでいた雪乃さんが声を掛けてきた。その声音は強いものではなく、優しく諭すようなものだった。
「分かってます。でも、もう決めたんです」
「ええ、見てれば分かるわ」
「誰に恨まれようと、私は止まるつもりはありません」
そう、と雪乃さんが頷いた。
「私も何が正解か分からない。ただひとつだけ言えることは、比企谷くんが自分の感情を理解して、その上で答えを出した結果を受け止めることだと思っているわ」
「はい。お兄ちゃんはめんどくさいので、きっとまだ屁理屈こねてちゃんと気持ちを決めてないと思います」
「同意見ね。けれど、私には小町さんだけの味方になれない理由があるから」
私はこくんと首を縦に振る。
「分かってます。敵対したって構わない、嫌われることすら覚悟してます」
雪乃さんが瞠目すると、一度大きくため息をついて私の背中に触れた。
「小町さん、それは思い違いよ。どういう結果であれ、私たちはあなたを嫌いはしないし恨んだりしない。それだけは間違えないで」
「……はい、ありがとうございます」
ひとつ微笑んだ雪乃さんが空を仰ぐ。午後三時を回った空は、ゴールデンウィークらしく雲ひとつない快晴だ。
「恋は難しいわね。私も自分の心の在りかも理解していないの。だから比企谷くんの気持ちも、なんとなくだけど分かるのかもしれない。あるいは、そう感じることが人の心を自分の物差しで測ろうとする傲慢なものなのかもしれない。たった想いひとつだというのに、完全に知ることができない。見えないというだけで、計算できないというだけで、こんなにも難しいものなのね。だから……」
雪乃さんが私に瞳を向ける。心すら見透かすような綺麗な視線で私を見つめて、花の微笑みを湛えた。
「お互い、頑張りましょうね」
「……はい」
「これから苦労しそうね」
「それでも兄ですからね。なんとか頑張ります」
「私もこういうことは得意ではないのだけれど、あなたの真っ直ぐな一生懸命さを見ているとやる気になってくるわ」
「手ごわいですね。手加減してください。カー君の写真ならたくさん渡しますので」
「賄賂とは、なかなか本気ね。でも、私はこと勝負事に関しては常に本気よ?」
「猫の誘惑に負けない雪乃さんを初めて見ました……!」
「今回はそれだけの大勝負ということよ」
顔を見合ってふたりしてクスクスと笑う。
前を行く兄の後ろ姿を見る。並んで歩く沙希さんと楽しそうに会話をしている。その様子はやっぱり恋人にしか見えなくて、どの角度から見たってお似合いの二人だ。
だから、お兄ちゃん。
そろそろ、自分の気持ちに形と名前を付けてあげて。
そろそろ感想が欲しいなあ……(/・ω・)/