だから俺は彼女に恋をした   作:ユーカリの木

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さり気なく、戸塚彩加はきっかけを与える 5

 カラオケを終えて一行は解散する運びとなった。時刻も夜九時を回っており、そろそろ高校生は帰宅する時間だ。

 

「いろはは俺が送ってくよ」

 

 葉山が一色を連れて千葉駅へと向かっていく。

 

「由比ヶ浜さんと雪ノ下さんはぼくが送ってくね」

 

 戸塚がふたりに声を掛ける。そこで追加で参加を希望したのが、

 

「小町もお願いしまーす」

 

「うん、いいよ。帰ろうか」

 

 戸塚は何の疑問も抱かず承諾。首をひねった由比ヶ浜と目を細めた雪ノ下の背を、さささーっと小町が推して京葉線の方へ歩き出す。

 

 見事に置いてきぼりをくらった俺と沙希は、ふたりしてぼけーっとその場で突っ立っていた。あれ、おかしいな。みんな一緒だったはずなのになんで帰りは放置されるんだろう。やっぱりカラオケで引かれたのか……。プリキュア歌ってないんだけどなあ……。

 

 若干落ち込んでいた俺に沙希が寄ってくる。

 

「少し、寄り道しよ」

 

 手を掴まれた俺は沙希に引っ張られる形で隣を歩く。左手に沙希の体温を感じながら、夜の千葉をてくてく歩く。沙希は特に行先は決めてないようで、あちこちを眺めながら時折俺を見ては可愛らしくはにかんでいた。

 

 沙希がふと視線を止める。マンガ喫茶の看板だった。

 

「ん、ちょっとだけあそこ行ってみよ?」

 

「ああ、いいぞ」

 

 少し。あと少しだけ。もう少しだけこうして二人でいたい。

 

 衝動的な感情は底をつくことを知らず、心の内から間欠泉のように湧き出てくる。だって今日はふたりの時間がなかったから。これくらいいいじゃないか。そんな言い訳すら浮かんでくる。

 

 理由なんてなんでもよかった。

 

 ただ、ふたりでいられればどこでもいいし、理由なんて必要ですらない。

 

 ふたりでマンガ喫茶に入って一時間で設定、ペアシートの個室に入る。二人用のソファーに並んで座る。

 

 目的はなかった。漫画もBlue-layも借りず、PCすら触らずただ手を握りあっていた。それだけで幸せだった。この世のなによりも素敵な空間だと思えた。

 

「なんだろう。あのね」

 

 沙希が口を開く。俺に視線を注いで柔らかい声で続ける。

 

「楽しかったけど。少しだけ寂しかった。みんな八幡のことが大好きみたいだからかな……?」

 

 思わず苦笑する。確かに、元ぼっちにあの人数はキツイのかもしれない。俺だって各人の対応に苦心していたくらいだ。沙希ならなおさらだろう。

 

 ただ、本音の部分では、友人同士の集まりなのになお嫉妬してくれているのではないかという嬉しさが強くあった。もしかしたら勘違いかもしれない。読み違えているかもしれない。でも、そうであったらとても喜ばしいことだと思った。

 

 言葉にするには恥ずかしい感情を伝えるために、強く手を握った。肩をぴくっと動かした沙希が更に強く握り返してくる。それだけで多幸感で胸がいっぱいなのに……。

 

 足りなかった。

 

 もっと欲しいと強く感じた。

 

「沙希」

 

 名を呼んだ。万感の想いをこめて。

 

「八幡」

 

 名を呼ばれる。沙希が一度顔を伏せて手を解く。急に体温を失って寂しさに胸が吹き荒れる。だがすぐに体温が戻ってくる。沙希が対面になって俺の膝乗ってきた。

 

「もう……ね」

 

 沙希の目が潤む。眉が下がり、唇が蠱惑的に輝いていた。

 

「いっぱい、欲しいの」

 

 ソファーに落ちていた俺の両手を沙希の手が絡めとる。そのまま顔を近づけてきて、俺の首筋に頭を埋めた。

 

「こんな強い気持ち、初めて……」

 

 心臓の高鳴りが止まらない。視界が明滅する。息も荒くなって、吐息が沙希の頬を強く撫でる。その度に沙希が背を仰け反らせて小さく鳴いた。

 

 衝動で動きそうになった身体を無理やり制止させる。瞬間的に雪ノ下の言葉を思い出し、一気に心を冷静の領域へ落とす。

 

 でも、

 

「八幡」

 

 沙希が顔を上げて、まぶたを閉じる。すぐに心が乱れる。

 

「もう、誰もいないから……いいよね?」

 

 沙希の美しい表情がゆっくり近づいてくる。触れるだけで心捕らわれる顔から目が離せなくて、見とれて掴まれて、身体が勝手に動いていた。

 

 唇が触れる。淡いキス。触れた瞬間、全身に電流が流れたような衝撃が走った。思わず自分のものとは思えない吐息が漏れる。

 

 怖くて、恥ずかしくて、嬉しくて、幸せで、どうにかなってしまいそうで。俺は沙希から顔を離そうとして、

 

「やだ、離れないで」

 

 沙希が右手を解いて俺の後頭部に腕を回した。

 

 そのまま再び唇が重なった。一回目より少しだけ深く、強く、永遠すら遠く感じるほどに長く。

 

 額を合わせたまま唇を離す。顔を真っ赤にした沙希が、幸せそうに微笑んだ。

 

「コーヒーの味がする。甘いね」

 

「カラオケで飲んだからな」

 

「あのガムシロいっぱい入れてたやつだね」

 

「沙希のはリンゴの味がした」

 

「うん。リンゴジュース飲んだから」

 

 沙希が左手も解き、俺の両頬に手を添える。

 

「まだね、足りないから……もう一回」

 

 沙希が唇を甘く開く。自然と俺から唇を合わせる。今度は舌先を触れ合わせた。幸福が神経を通って全身を駆け巡る。脳髄が痺れていた。

 

 沙希の甘い、甘い吐息。息だけですら触れるだけで愛おしく感じた。

 

「甘いの……もっとちょうだい」

 

 上唇を挟まれて、沙希の舌を口内に入る。視覚も嗅覚も聴覚もなくなって、触覚と味覚だけが鋭敏に沙希の柔らかい唇と艶めかしい舌を感じた。沙希の舌を唇で食む。沙希が吐息と共に背を仰け反らせる。その背を俺が強く抑えた。

 

「やだ……これ、すごいの」

 

 蕩けた顔で言った沙希が、また唇を触れさせてくる。

 

 幸せが止まらない。幸福の沼に突き落とされていくような感覚。あまりにも歓喜が止まらなくて、心がおかしくなってしまったのかと思った。

 

 もっと。もっとたくさん。ずっと、時間いっぱいまでこうやって……。

 

「沙希……」

 

 自分の声ではあり得ない優しい声が出た。沙希が目をとろんとさせる。

 

「その声……好き。もっと呼んで。もっとたくさん、キスして」

 

 思考なんてなかった。頭は白昼夢でも見ているかのように真っ白。その世界には沙希だけがいて、沙希以外はなにもなかった。

 

 沙希から感じる感覚だけがすべてだった。

 

 きっとこれは、人と人との関係での幸せな最もたるもの。

 

 一時間なんてあっという間だった。

 

 気づけば終了時刻三分前で、慌てて正気をひっ捕まえて沙希の背を叩く。

 

 沙希のねだり声。

 

「ん、やだ、まだぁ……」

 

「時間だ時間。それにそろそろ帰らないと補導時間になるぞ」

 

「じゃあ八幡の部屋でする」

 

「アホ、自制が効かんくなる。とにかく出るぞ」

 

 うぅーと唸る沙希を引き連れてマンガ喫茶を出る。駅まで歩く途中、まだ足りないと言わんばかりに沙希が俺の左腕に抱き着いてくる。というより身体ごと俺に押し付けてきて感触やらなにやらで色々ヤバい。理性が欲求に押し込められそうで、沙希から離れようとするが当の本人がそれを許さない。離れたら死ぬとばかりに引っ付いてくる。

 

「沙希、少し離れてくれ」

 

「やだ」

 

「いい子だからほら、飴ちゃんあげるから」

 

「飴ちゃんよりちゅーがいい」

 

「ここ街中だからね? ほら、みんな見てるから。恥ずかしいから……!」

 

 夜だからか本当はそこまで視線を感じないが、沙希から離れるために俺も必死だ。というか自制が、自制がもたない……! 頑張って理性ちゃん!

 

「やぁだぁ」

 

 沙希の甘え声が耳をくすぐる。背筋がぞわぞわした。このまま宵闇の中へふたりで消えてしまいたい欲求をぎりぎりのところで抑える。

 

 一度落ち着けと空気を飲んで沙希の髪をなでる。

 

「あれだ……帰ったら、またするから……いまは、な」

 

「……ほんと?」

 

 上目遣いの沙希の表情はまだ蕩けたままだ。普段とのギャップが凄くてそれだけで胸が早鐘を打つ。もはや魅了の魔眼だ。目を合わせれば最後、堕ちるとこまで堕ちるしかない。そんな瞳。

 

 だからなんとかその瞳の引力から逃れて、視線を外へ逃がす。

 

「約束する」

 

 目線を戻すと、へにゃりと沙希が口元を笑う。

 

「うん、わかった」

 

 沙希が俺の腕を開放して、でもすぐに手を繋ぐ。指同士を絡め合わせて沙希が嬉しそうに微笑んだ。

 

 なんとか変な気を起こさずそのまま電車に乗り、住宅街を進んで家の前まで着いた。玄関の扉を開けてそのままリビングに入ると、珍しく母親が帰ってきており、ソファーに座ってテレビをほけーっと眺めていた。

 

「ん、おかえり八幡、沙希ちゃん」

 

 ふたりして返事をして、小町の帰りを聞くと、既に風呂に入って自室に引っ込んでいるようだ。沙希は母親に勧められるままに風呂へ。俺はそのまま部屋に戻ろうとしたところで、母親に引き留められる。

 

「あんた、惚れた?」

 

 あまり干渉してこない母親にしては珍しい。しかも内容が直球過ぎて答えづらい。ほら、やっぱり恥ずかしいし……。

 

「……たぶんな」

 

 俺の答えが不満だったのか、母親がこれ見よがしなため息をした。その、アホじゃないのこの男は、みたいなため息はやめてほしいな。

 

「別に殻に閉じこもる必要のある相手じゃないでしょ。違う?」

 

「……違わんな」

 

「なら、もう少し素直になってもいいんじゃない?」

 

「結構素直になってるつもりなんだけどな」

 

 はっ、と母親が鼻で笑った。

 

「どこが。どうせ内心でびくびくしてるんでしょう? あと、沙希ちゃんが今回の件で負い目を感じてるだろうからーとか無駄な気を回してるんじゃない?」

 

 ぐさりと刺さった。包丁で直接心臓を抉られた気分だ。さすが母ちゃん。無駄に俺の思考を読んでくるなあ……。

 

「かもな」

 

「そんな考えは無駄だから放棄しなさい。素直に心を見つめればおのずと答えは出るんじゃない?」

 

 次々と言葉を放たれてしまうと、俺としては頷くしかない。なにせ自覚があるのだから反論などできない。

 

 あとひとつ、と母親が言葉を付け加える。

 

「あんたには、沙希ちゃんみたい子が合うよ」

 

 さすがにもう反応すらできず、部屋に引きこもろうとしたところで、もうひとつ、と言葉を放ってくる。なんなの、歳食うと子供に説教したくなる人って。あれめんどくさいんだよなあ……。

 

「するなら避妊だけはしときなさい」

 

「しねえからな!」

 

 というか持ってないし! 買ったこと無いし! だっていままで必要な機会なんて無かったし!

 

「お父さんがあんたのために昨日買ってきたから、さっき部屋の机の上に置いといたよ」

 

「なにしてくれてんだこの親は!」

 

 ヤバい! 沙希が風呂から出る前に隠しとかないと! ほんとにもう、余計なことばっかりするんだから!

 

 慌ててリビングを出る直前、

 

「気持ちだけは口にして伝えなさい」

 

 母親の言葉が背中に当たった。思わず瞠目して、でもすぐに階段を駆けて自室に戻る。色々な思考に頭が費やされながらも机上を見る。ブツはすぐにあった。

 

「親父ぇ……」

 

 ブツの傍には小さなメモ。

 

 ――ゴールデンウィーク中に落とすんだ八幡! By父親

 

「親父ぇ……」

 

 ブツとメモを速攻で机の引き出しに隠してその場で頭を抱える。

 

 母親の言葉が脳内でリフレインする。

 

 分かっていた。全部俺の臆病が根源だ。

 

 ただ怖い。

 

 もしかしたら断られるかもしれない。依頼のことで沙希がいまみたいな態度を取っているのかもしれない。あるいは、沙希が変に勘違いして一時の感情で浮かれているだけなのかもしれない。今日までの全部が幻なのかもしれない。

 

 なにもかもが恐怖の対象だ。

 

 もし、告げてしまったら……。

 

 いまの関係が崩れてしまうのではないかと思えてしまって。

 

 ふいに、スマホがメールの通知を鳴らした。のろのろとスマホを取り出して画面を見る。戸塚からのメールだった。内容を見て目をみはる。

 

「ちゃんと自分の気持ちを決めなきゃだめだよ。

 

 もう、本当は決まってるんでしょ?

 

 あとは素直になるだけだね。

 

 だから、がんばってね!」

 

 はは、と乾いた笑いが漏れた。

 

 誰もかれもお節介焼きだ。他人事だと思って好き勝手言いやがって。俺だって色々考えてるんだよ。怖くて、恐ろしくて、形にすることを想像しただけで身がすくむような思いがするんだよ。こんな気持ち初めてなんだから……。

 

 こんこん、とドアがノックされる音。

 

 遅れて返事をするとゆっくりと扉が開かれる。寝間着用の淡い紫のワンピース姿の沙希が入ってきた。

 

「八幡、お風呂空いたよ。って、どうしたの?」

 

 俺の恰好を見て沙希がきょとんとする。それはそうだ。床に座って頭なんぞ抱えていれば誰だって不審に思う。

 

「あ、いや、あれだ。色々考えてたらこうなっただけだ」

 

「難しいこと?」

 

 沙希が近寄ってくる。隣に腰を落とした沙希がこてんと俺の肩に頭を預けてきた。

 

「いや、単純なことだ」

 

「ん、なら訊くのはやめとく」

 

「そうしてくれ」

 

「あたしもね、お風呂で色々考えちゃった」

 

「色々か?」

 

「うん、色々」

 

 ふふっと笑った沙希が、俺の首筋に頭をこすりつけてくる。

 

「いまはね、このままがいいかなって。考えてる時間がもったいないなって」

 

 だって、と沙希が上目遣いで俺を見て、飴色の声で続ける。

 

「あと二日しかないから」

 

 沙希が俺の頬に触れて、そのまま口づけしてきた。

 

「うん。我慢しないとって、ちゃんと考えて理解してるから」

 

 あたしのこと大切にしてくれてありがとうね。

 

 耳元で囁いた沙希が、俺の後ろに回って抱きしめる。

 

「うん、我慢我慢。これならちゅーできないね」

 

 ころころと沙希が笑う。本当に色々な声で笑うから、こっちもなんだか愉しい気分になってしまう。色々考えていることが馬鹿みたいだ。

 

 素直になろう。そう、思えた。

 

「ところで、胸が当たってるんだが……」

 

「当ててんのよ」

 

「さっきと言ってること違くない?」

 

「なんかずっと無意識で当ててたことに気づいたから、いまは意識的にやってみようかなーって」

 

「そういう無防備なところがですね、男の理性をガリガリ削るんですよ?」

 

「ヤバい感じ?」

 

「いや、あったかい気分になる。このままがいい」

 

「ん、ならよかった」

 

 ふにゃん、と沙希が一層強く胸を押し付けてくる。柔らかくて暖かくて、なんだかそのまま寝入ってしまいそうだ。

 

「これいいな。寝そう」

 

「お風呂入ってからじゃないとダメだよ」

 

「分かってる。でもなあ、このまま寝たい気分が強い」

 

「じゃあ、寝る前にまたやってあげるね」

 

「頼むわ」

 

 んふふー、と沙希が俺の首に顔をすりすりしてくる。

 

「やめ、くすぐったいから!」

 

「だぁめ。お風呂入らないとずっとこうしてるもん」

 

 ぞわぞわとした感触が神経を駆け巡って、単純にすごくくすぐったい。身体がそわそわする。

 

「分かった。分かったから! 風呂入るからそれやめて!」

 

「ほんとに? 言葉だけじゃないの?」

 

 うりうりーと沙希がこすってくる。

 

「ちょふぇ! 入る! 入るから! なんならいますぐ入るまである!」

 

 ようやく沙希が身体を開放してくれる。笑いをこらえていたせいで息が荒い。ぜいはあと大きく息をしてから立ち上がる。

 

「じゃあ入る。俺は風呂に入る」

 

「うん、そんなに宣言しなくても分かってるよ」

 

 沙希が口元を押さえてぷぷぷと笑う。なんか負けた気分だ……。寝るときに仕返ししてやりたい。やられたらやり返さないと!

 

 そのとき、ポケットにしまっていたスマホが鳴った。

 

「ん? あのふたりかな?」

 

 沙希がどれどれと近づいてくる。

 

「さっきまで一緒にいたのにまだ確認することあるのか……?」

 

 疑問に思いながら画面も見ずに電話に出る。沙希もいるからスピーカーモードだ。

 

「はいよ、比企谷だ」

 

 ふたりのものではない、荒い息遣いが聞こえた。顔をしかめる。誰だ?

 

「比企谷先輩……」

 

 その声は大志だった。嫌な予感がした。

 

「大志か、どうした?」

 

 引きつったような声がスマホから響く。

 

「姉ちゃんを……家に帰してくれませんか……?」

 

 ――もう限界なんです。

 

 大志の声は、背筋を凍らせるほどに震えた声だった。

 

 

 

 

 

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