川崎家は昔ながらの古い一軒家だった。父親が改まった様子でドアベルを鳴らすと、引き戸が開いて母親らしき女性が顔を出した。その表情は少しだけ疲労感が見えていた。
「お母さん……」
呟いた沙希の声は震えていた。ちらりと川崎母が沙希に目をやり、やんわりと笑む。すぐに父親と母親に向き直ると深く腰を下げた。
「お待ちしておりました。沙希の母です。わざわざお越し頂きありがとうございます」
「いえ、こちらこそ突然お邪魔して申し訳ございません」父が返す。
中へどうぞ、と促されるままに俺たちは川崎家へ入る。居間に案内されてしばらく待っていると、川崎父と大志がやってくる。ふたりとも沙希へ一度目線を投げてから座り、こちらに向き直る。
「沙希の父です。沙希がお世話になっています。連休中は比企谷さんの家に泊めて頂いたそうで、ご迷惑をお掛けしました」
「こちらこそ息子と娘がいつもお世話になっています。こちら、つまらないものですがお家族で召し上がってください」
母親が午前中に買ってきたという高級チョコレート菓子の包みをテーブルの上に置く。丁重に受け取った川崎父が、それをテーブルの端へ滑らせた。
一拍。
丁度よいタイミングで川崎母がやってきて全員にお茶を置いて、自らもまた川崎家側に腰を下ろす。
「今回お邪魔させて頂いたのは、まずは娘さんの沙希さんにお世話になっている件についてです。沙希さんには息子の八幡と娘の小町の相手をして頂いているようで、両親共働きのうちとしては大変助かっています。情けないことに私どもは家事のほとんどを小町がやっていまして、そのため昔から甘やかしてばかりなんですが……どうにも川崎さんの娘さんはしっかりしているご様子」
父親がのっけからジャブを打った。隣に座る小町が小さい声で「うへぇ」と呻く。
父親の言葉を母親が引き継ぐ。
「まだ高校生だというのに、大変よくできた娘さんなようでして。娘の小町から聞いていますが、掃除や料理の手伝いまでしてくれているようでして、しかもすべてお上手とのこと。川崎さんにとってはさぞご自慢の娘さんでしょうね」
なんでこう大人の会話って裏ばっかりあるのかしら。字面だけ見れば普通なのに、変な副音声が混じっているような気がしてならない。
俺が訳すところの副音声はこうである。
「うちも同じなんだよねー」
「でもうちはちゃんと小町をフォローしてるんだけどなー」
「沙希ちゃんはすごい子なんだけど大変そうだよ?」
「あれれ、おかしいねー?」
……である。
最低の内容だ。軽く頭を抱えたくなる。
なに? なんで好きな人の家族に喧嘩売ってんのこの人達……。
若干憂鬱になっている俺をよそに、大人たちの会話は続いていく。
「ありがとうございます。私どもも娘のお陰でだいぶ助かっています」川崎父が細い声で言う。
「ただ、うちは他にも小さい子どもがまだふたりいまして……。沙希には負担ばかり掛けて申し訳ないと思ってます」川崎母も声に張りはなかった。
二度頷いた父親が言葉を返す。
「うちも子どもが小さい頃は大変でした。小学生の八幡が家事をやって小町の面倒もみていました。小町が大きくなってからは家事担当が小町になりましたが、それまで八幡には大変な苦労を背負わせていました」
いきなり話の焦点が俺に当たる。母親が父親に続いて話す。
「本当は八幡にもっと目を掛けてやるべきだったんしょうけど、やはり小さい小町の方にばかり目が向いてしまって……。私たちに見せる八幡の顔がどうにも大人びたものだったので、問題ないとばかり思っていたのですが……。たぶん、相当苦労させたと思います」
よみがえる。かつての光景が。
学校でうまく行かず、家でも親はいない。小町の面倒は見なければならず、妹ばかりが優遇される。誰も見てくれない。だから、自分で自分のことを対処するしかなかった。
誰も、見ていないと思っていた……。
兄は……と小町が声を滑り込ませる。
「兄は、つらそうでした。私にはそんな顔は見せませんでしたが、部屋で泣いている声は何度も聞きました。日に日に疲れていって、性格も捻くれて……だから、兄にばかり迷惑は掛けられないと思ったんです」
あのときはごめんね、そしてありがとうね、お兄ちゃん。
小町が俺に顔を向けて恥ずかしそうに言った。
熱いものが流れた。それがなんであるか、咄嗟には分からなかった。ただ、心の内にあったよくないものが、溶けて浄化されて流れ出していく感覚だけは強くあった。
「……あ」
嗚咽が零れた。ようやく流しているものが涙だと知った。気づいてしまえば、涙は滂沱と流れ出てきた。思わず口を押えて声を噛み殺す。
背中に優しい感触が灯る。
小町と沙希が俺の背をさすってくれていた。
泣いている息子に注目を集めまいとばかりに父親が声を被せる。
「結局、親の怠慢はどこかで子どもに負担が来るんですよ。うちは今でもふたりに迷惑ばかり掛けています」
やめてくれ。
心が叫んだ。
そんなことを言わないでくれ。
涙が止まらないだろうが……!
涙を止めんと苦心していても大人たちの会話は止まらない。
「はたから見ればうちの息子は捻くれていますが、根は真面目で優しい子なんですよ。それが表に出せない原因の一端は、やはり我々にあるのでしょうね」
難しいですね、と母親が悔いるように言った。
鼻をすすって涙を拭う。ようやく開けた視界の中で、川崎母が俺を見据えていた。
「うちはどうなんでしょうか……」
川崎母が苦悶の表情で俯く。そして掠れた声で続ける。
「いつもほとんどを沙希ばかりに任せていて、沙希のことを考えていたのか……。目が行くのはやっぱりまだ小さい京華や渉ばかりで、沙希にまで気が配れていなかったのかもしれません……」
顔を上げた川崎母が沙希に向く。
「沙希……もしかして、つらかった?」
沙希が息を呑んだ。
無言の瞬間。
やがて、沙希が頷いた。
「少しだけ……やっぱり大変だった」
川崎両親の表情に悲痛が走った。大志も表情をこわばらせている。
沙希が一度歯を食いしばってから述べる。
「いままでは大丈夫だったんだけど、やっぱりもう受験の年で……。なんだかいっぱいいっぱいになっちゃって、どうしていいか分からなくて……。たぶん、疲れちゃったんだと思う」
「姉ちゃん……」
大志の表情がくしゃりと歪む。
「誰も悪くない。分かってる。みんな大変だって。でも……だけど、やっぱり自分の時間が欲しかった。誰かに助けてもらいたかった」
「そうか、そうだったのか……」
川崎父の声は、悔恨の念に満ちていた。
ほんの少し。小さい子たちに向けていた目を沙希へと注いでいたら、こんなことにならなかったのかもしれない。きっと、川崎両親ともに家庭を守ろうと精一杯だったのだろう。だから手の掛からない沙希や大志に目が行かず、昔から家事を担当していた沙希に負担が集中した。
これは決して川崎両親や大志が怠慢だったわけではない。彼らも彼らで自分ができることをやっていた。沙希自身の性格の問題もあるだろう。そして、それが作られてしまった過去も起因している。
誰が悪くて、誰が正しい。そんな簡単な二元論では説明できない。ただ歯車が噛み合わなくてこんな結果になってしまった。
たぶん、それだけのことなのだと思う。
「だから、連休になって家を出ちゃったの。八幡と小町が、うちへ来いって言ってくれたの。あたしを助けてくれたの」
テーブルの下で沙希が俺の手を握った。俺も手に力を込めた。
「まだ完全に整理がついてなくて、いま帰ったらきっとまたおかしくなっちゃう。大変だって大志から聞いてる。想像だってつく。けーちゃんも、わっくんも、きっと寂しがってるって思う。だけど……だけどお願い。もう少しだけ、家を出させて……」
あたしに……。
「高校生らしいことをさせて」
たぶん、これが決定打だった。
川崎家三人の表情がこのとき壊れた。
沙希の切実な訴えは、きっと異常だ。高校生が高校生らしくないなんて、字面にすれば格好良く見えたり大人びて見えたりするだろう。だが実際はおかしいのだ。高校生が高校生らしくないなど、とても正常とは言えない。なら、沙希を取り巻いていた環境が間違っていたのだ。
そして、そのことに川崎家三人が気づいた。いや、あるいは気づいていたのに対処が遅れた。
結局、誰も悪くはない。誰もが少しずつ悪くて、誰もが少しずつ被害者だ。たまたま水面に浮上したのが沙希だった。
こんなこと、どこの家庭だってきっとある。不満のない家なんて探すだけ無駄だ。それくらいありふれたものだ。
だから、素直になって話し合って知恵を出し合って解決する。きっとこれがやるべきことなのだろう。
いま、川崎家はようやくスタートラインに立った。それだけのことだ。
涙を流した沙希に川崎家の三人が近寄る。俺たちは邪魔にならないように部屋の隅へよけていった。
「うまくいったのかな?」
小さな声で小町が問う。俺は首を振った。
「分からん。あとは沙希たちで話し合うしかないだろ」
突然、居間の引き戸が音を立てて開いた。飛び込んできたのは小さな女の子と男の子だ。女の子の方は何度か会ったことがある京華だ。男の子は話題に出てきた渉だろう。
ふたりが泣きながら沙希に向かって飛びつく。
「さーちゃん!」
「お姉ちゃん!」
二人に気づいた沙希が目を丸くして、顔をくしゃくしゃにして泣いた。
「けーちゃん、わっくん……!」
飛び込んできた二人を沙希が抱きとめる。三人でわんわん泣いて、気づけば川崎家全員が涙を流していた。
その姿をいつまでも見ているわけにはいかないと、父親に従って全員が一度玄関まで戻る。
川崎一家の嗚咽だけが響いていた。
◇◆◇
帰りの車の中でほっと息を付く。右隣に座る沙希は泣き疲れたのか俺の肩に頭をもたれて寝入っていた。
結局、沙希は連休中、比企谷家に滞在することに決まった。
これから、全員で川崎家を守っていくというのが出した結論のようだ。それに異を唱えるつもりはない。ただ、話し合いの場が持てて良かったと思った。
沙希の心も、川崎家も、一定の落としどころが見つかった。
ただ、なにもできなかったな、という言葉が頭の中に浮かんでは消えていた。そんな俺を見透かしたように、運転している父親が声を掛けてきた。
「お前のお陰でなんとかなったよ八幡」
「泣いてただけだけどな」
「あれで川崎家の内情を引き出した。それはお前の手柄だ。良くやったよ」
「泣かせといて褒めるなよ……」
「すまんすまん」
父親がからからと笑う。照れくさいのだろう、ぽりぽりと頬を掻いていた。
父親がちらりとルームミラーに目をやる。視線の先は夢の中にいる沙希だった。
「決意は決まったか?」
明日の予定が脳裏によぎった。
「まあな」
「そうか。なら言うことはなにもないな」
黙っていた母親が口を挟んでくる。
「沙希ちゃん泣かせたら怒るからね」
「はいよ」
「あんたも……大きくなったね」
感慨深げに母親が言う。
「どうだかな」
変わった感触も、成長した実感もある。これが良い変化なのかはまだ自覚できていない。
「お兄ちゃんはめんどくさいからなー」
隣に座る小町がげしげしと脇腹を突いてくる。そこくすぐったくなるからやめて! 変な声出ちゃって沙希を起こしちゃうから……!
そうこうしているうちに比企谷家に着く。起きる様子のない沙希をお姫様抱っこでなんとか持ち上げ、俺の部屋まで運ぶ。ベッドに寝かせて布団をかぶせる。
「お疲れさん」
顔にかかっていた髪をかき分けてすっきりさせてやる。静かな寝息をたてて布団を上下させる姿をしばらく眺めてから部屋を出た
リビングで思い思いに過ごしている家族を前にして、なんとなく言っておく気分になって、ドアの前で立ち止まった。
「……ありがとな」
軽く頭を下げる。頭を上げると、全員が目をぱちくりさせていた。
あれー、俺がお礼を言うのってそんなに珍しいの? おかしいな。怠惰な生活を送らせてくれる両親と小町に常に感謝の念を捧げているというのに……!
「ま、八幡だしな」と呆れたように父親。
「たしかに、八幡だしね」と母親が同調。
「お兄ちゃんだもんなー」と小町がからからと笑う。
「ねえ、ひどくない? 俺の感謝返して?」
八幡は悪口じゃないからね! ちゃんとした神々しい名前だよ! 名前負けしてるけどね!
ひとりぶすーとむくれていると、笑いをおさめた小町がやってくる。
「そだ、お兄ちゃん。ハーゲンダッツ買いに行こう!」
「えー……どうせ奢らせる気だろ」
小町ちゃん、ことあるごとにお兄ちゃんにたかろうとするのやめようね。めっ、と注意するも、小町がやれやれと首を振った。
「この流れでそんなことするわけないじゃん。今日はお父さんが出してくれるよ。ってことで、全員分のダッツを求めてれっつらごー!」
結局自分は出さないんですね……。ただ、金をたかられている親父がなんだか嬉しそうなのが怖い。娘のおねだりってそんなに嬉しいもんなのかな……。
まいどおおきに~と、小町が商人の真似をしながらお金を受け取って、とてとてと玄関へと向かう。俺もそれに続いてふたりして外へ出た。
日が傾いていた。夕焼けに伸びる影を踏みながら妹と共にコンビニへ。
「ありがとうお兄ちゃん」
前を向いたままの小町がぽつりと言った。
「なんでお礼言われてんだ俺は……」
「いままでのこと。まえも言った気がするけど、改めて言う機会かなって」
「ま、どういたしましてだ」
とりあえず小町の頭をわしゃわしゃと撫でまわしておく。きゃーと小町がノリよく騒ぐ。よーしよしよし、小町ちゃんかわいぞーと、ムツゴロウさんばりにくしゃくしゃやっていたら、さすがに「そろそろやめて」と素で言われた。さすがにやりすぎた……。
こほん、と小町が咳払いする。
「明日はどうするの?」
「ディスティニーに行ってくる」
「それで?」
暗にそれだけじゃないだろと小町が訊いてくる。
仕方なく伝えることにした。なんだかんだで今回の件では小町にだいぶ迷惑をかけているのだ。これくらいの決意は伝える必要があるだろう。
「……告白する」
恥ずかしくなってぽいっと顔を明後日の方向に背ける。なんか騒がれるんだろうなーと思いきや、小町は「そっか」と言っただけだった。
気になって小町を見る。小町は嬉しそうにやさしく微笑んでいた。
「なんだよ」
「成功するといいね」
「まあな。失敗したらしばらく引きこもる」
「大丈夫。お兄ちゃんだもん。成功するよ」
「俺だからってのは説得力に欠けるんだけどなあ……」
この手の戦いで勝利したことなどないのだ。もっとも、勝負の舞台に立てていたかすら怪しいところだが……。
過去の記憶が走馬灯のように蘇る。
折本のときといい、他の子のときといい、マジでろくな思い出がねえ……。
げんなりしていると手に体温が灯る。小町が手を握っていた。
あれ、小町ちゃんどうしたの? やけに今日はサービスいいね。とか、どこぞの中年サラリーマンみたいなことを考えるくらいには慌てた。
にへへ、と小町が俺を見上げて笑う。
「なーに言ってんの。小町のお兄ちゃんだよ? うまくいくに決まってるじゃん。いまのお兄ちゃん、最高にかっこいいんだからね」
いつもの科白が無かった。ポイント制度はどこに行った? あれ、いつの間にか廃止になったの? ポイント還元セールもなくなっちゃったの?
訳が分からなくて混乱していると、小町の笑みが深くなった。それは、妹の成長を感じる大人びた表情だった。
「大丈夫だから。しっかりやってきなさい」
ぎゅっと、力強く手を握られる。
どうやら、今日はとことん俺に甘い日らしい。
はは、と湿っぽい笑みがこぼれた。今日は涙腺が緩みっぱなしだ。ダッツと一緒にマッカンでも買って水分を補わないと……!
「ま、なんとかやってくる」
兄らしく答えてみせて手を握り返す。
ずっと、線を引いていた。
他者と自分とを隔てる明確な境界線を。誰とも交わず、はっきりと蓋をして、誰よりも鈍らせて、もの言わぬ像のようになって、賢しらに語れる観測者の立場に身を置いてきた。
それがどんな理由であったかも明確だ。
間違えないように。後悔しないように。勘違いしないように。痛いことは嫌だから。もう、つらい思いだけは絶対にしたくないから。
思考が被る。かつて抱いた思考をなぞっている。一体いつのことだったか。どうせ、あの人に見透かされ、言われた後のことだろう。
だが、いまは自信をもって答えられる。
俺は彼女に恋をした。
これが俺の本当の恋だ。