だから俺は彼女に恋をした   作:ユーカリの木

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そして、ふたりが選び取ったものは 3

 兄の帰りをソファーで座って待っていた。バラエティ番組を見ながらも内容は上の空。結局、兄は大丈夫かと心配になってくる。

 

 この五日間を見ればその不安も杞憂だ。沙希さんは確実に兄を想っているし好いている。そうとしか考えられない。なら、心配なんてするだけ無駄だ。

 

 兄は吉報をもって帰ってくる。

 

 今日は少し奮発してケーキ屋でチョコレートケーキを買ってきた。甘いもの好きの兄ならきっと喜ぶだろう。

 

 初めて人と想いを交わし合った兄の姿が早く見たかった。徐々に落ち着きが無くなってくる。ソファーから意味なく立ち上がったり座ったり、リビングを歩き回ったりしながら兄を待つ。両親は今日も仕事で遅いから、私の興奮が家じゅうに広がっていく。

 

 やがて、玄関からドアが開く音がした。

 

 兄だ。

 

 リビングから飛び出して兄を出迎える。

 

「おかえりー! お兄ちゃんうまくい……お兄ちゃん?」

 

 喜びに溢れた声が疑問に変わる。

 

 兄はどこか疲れた様子だった。いつもそんな感じだけど、それを三倍にしたくらいひどい有様で、放っておけばその場に倒れそうなほど憔悴しているように見えた。

 

「お兄ちゃん? 大丈夫?」

 

 顔を伏せた状態の兄へ慌てて駆け寄るも反応がなかった。

 

 急に不安に襲われた。

 

 兄が顔を上げる。

 

 背筋が凍った。

 

 目が死んでいた。

 

 もはや何者も信用しないと言わんばかりの、あらゆるすべてを拒絶する眼だった。

 

「お兄ちゃん……なにがあったの?」

 

 怖くなった。なにかとんでもないことが起こったんじゃないかと勝手に頭が思考を始めた。

 

 もしかして沙希さんが事故にでもあった? なら兄がこんなところにいるわけがない。あるいは喧嘩した? でもそれだけで兄がこんな風になるはずがない。なら一体何が……。

 

 問いの答えは思いの他すぐに返ってきた。

 

「ふられた」

 

 は?

 

 思考に空白が生まれる。

 

 イマ、ナンテイッタ?

 

「寝るわ」

 

 兄がよろよろと身体を揺らしながら階段を昇っていく。私はその姿を呆然と見つめていることしかできない。

 

 なんで? どうして? 疑問ばかりが浮かんで、ようやく兄が心配になった。

 

 静かに二階に上がって兄の部屋の前に立つ。そっとドアに耳を寄せると中から声が聞こえた。

 

 兄の嗚咽だ。

 

 必死で悲しみを殺さんとする、聞く者の心を引き絞る声だった。

 

 今度こそ頭が真っ白になった。そして目が飛び出さんばかりの驚愕。次に「なぜ」と疑問が浮かび、やがてそれは、マグマのような怒りに変わった。

 

 なぜふった?

 

 どうして断った?

 

 一体どんな理由でお兄ちゃんの告白を蹴った?

 

 あれだけこれ見よがしに好意をまき散らした結果がこれだって?

 

 ……。

 

 許さない。

 

 絶対に許さない!

 

 裏切ったな……!

 

 私のお兄ちゃんを裏切ったな‼

 

 兄に気づかれないようリビングに降りる。スマホを取り出して沙希さんへ電話を掛ける。繋がらない。また掛ける。繋がらない。何度も掛ける。繋がらない。なぜ繋がらない。ふざけるな。言い訳のひとつでも言ってみせろ!

 

 開かない埒を無理やりこじ開けようと、大志くんに電話を掛ける。

 

 沙希さんは今日、ディスティニーの帰りにそのまま家に帰宅する予定だった。兄が家に帰ってきたならば、沙希さんも川崎家にいるはずだ。

 

 三コール目で大志くんが電話に出る。

 

「もしも――」

 

「沙希さん出して。早く!」

 

「ひ、比企谷さん? 一体なにを……」

 

「いいから出せ!」

 

 小さく怒鳴る。本当は叫んでやりたかった。

 

 お前の姉は私の兄を裏切った。さっさと出せ。言い訳を聞かせてみせろ。私を納得させられるだけの説明をしてみせろ!

 

 だが、大志くんの反応は予想外だった。

 

「……お兄さん何したんすか?」

 

「は?」

 

 疑問。

 

 気づく。大志くんの声には怒りが混じっていた。

 

「……姉ちゃん、帰ってきてからずっと泣いてます。お兄さん姉ちゃんに何したんすか?」

 

「はあ?」

 

 泣いている? ふった側が? なぜ?

 

 すぐに怒りが降ってくる。

 

「ふざけないで! なんで沙希さんが泣くのさ! 泣きたいのはこっちだ‼」

 

 裏切ったのはそっちだろう!

 

 大志くんが声を張る。

 

「比企谷さん待った! なんかすれ違ってる気がする!」

 

「どうでもいいからさっさと沙希さんを出せ!」

 

「無理っす!」

 

「どうして⁉」

 

「姉ちゃん、見たこともないくらいひどい有様で泣いてて、人と話せる状況じゃないっす」

 

「だからなんで沙希さんが泣くのさ‼」

 

 ふざけるな。ふざけるな!

 

 お前が泣いていい理由なんてこの世にはひとつたりともありはしない‼

 

 怒りに任せて叫ぶ。

 

「ふったのはそっちだろ‼」

 

 そのとき、電話口で大志くんが息を呑んだ。

 

「……姉ちゃんが、お兄さんを振った?」

 

「そうだよ!」

 

「ありえない……」

 

 この世のものではないものを聞いたように、大志くんは掠れた声で言った。

 

 はたと私も気づく。これはおかしい。なにかがすれ違ってる。

 

 一旦落ち着いて冷静になろう。波立っていた心の水面を平静に保つ。ようやく感情の波が収まってきて、深く息を吸って長く吐いた。

 

「怒鳴ってごめん。大志くん、整理しよう。こっちはお兄ちゃんが落ち込んで帰ってきて、訳を聞いたら『ふられた』って言ってた」

 

「こっちは帰ってきたときには号泣してて、なにも聞けてないっす」

 

 わけが分からない。世の理不尽を詰め込んだような事態が起きていると思った。

 

「分かった。いまは理由……聞けないよね。こっちも同じような状態だから」

 

「はいっす。どうしたらいいか……」

 

 ふたりして黙り込む。

 

 ふいに、キャッチが入った。画面を見ると、雪乃さんからの電話だった。少しでも知恵が欲しかった私はそれに飛びつくことにした。

 

「ごめん大志くん、キャッチ入った。もしかしたら理由が分かるかもしれないから、一回電話切るね」

 

「分かりました。こっちでもなんとか探ってみます」

 

「ごめんね、ありがとう」

 

 電話を切ってすぐに雪乃さんへ掛けなおす。雪乃さんへはすぐに繋がった。

 

「小町さん? 遅くにごめんなさい。比企谷くんに連絡を取りたかったのだけれど全然出てくれなくて……」

 

「はい、兄はいま電話に出れない状態でして……」

 

「やっぱり……」

 

 いま、なんて言った?

 

 もしかして雪乃さんは何か知っている?

 

「雪乃さん、なにか知ってるんですか?」

 

 一拍の無言。

 

 そして、がりっと奥歯を噛む音が聞こえた。

 

「……小町さん。最初に伝えておくわ。最後までしっかりと聞いて。なにを思っても、どうか最後まで聞いてちょうだい。その後ならなにを言ったっていいから。いいかしら?」

 

 猛烈な悪寒。寒気とかそういうレベルではない。全身が総毛だった。

 

 なにか知っているどころの話ではない。雪乃さんは確信に食い込んでいる。

 

「……はい。お願いします」

 

 雪乃さんが長く、長く息を吸う。

 

「私と由比ヶ浜さんは今日、ディスティニーランドにいたの」

 

 ……ああ。

 

「ええ、まったくもって偶然よ。知らなかったのよ。途中でふたりがいることに気づいて、本当はそのときに出ていけば良かったのだけれど、あの広い園内でもう一度出会うことなんてないと思ったから気にせずにいて……」

 

 ……なんてひどい。

 

「いつしか彼らがいることを忘れて楽しんで、最悪のタイミングで遭遇したのよ」

 

 ……これは悲劇か、それとも喜劇か。

 

「たぶん、あれは比企谷くんが川崎さんに告白してるところだったと思う。川崎さんが途中で私たちの存在に気づいて……」

 

 何か言っている。もう言わないでいい。すべて分かった。理解した。納得した。世のあまりの不合理さに神を呪い殺したくなった。

 

 その後、雪乃さんたちはどうしていいか分からずその場に立ち尽くしていて、気づいたら兄もいなくなっていた。慌てて兄に電話を掛けるがつながらず。混乱して錯乱して、ようやく妹の私の存在を思い出して掛けてきた。それがさっきの電話だ。

 

 長い息が出た。

 

 理不尽だと分かっていても、一言だけ伝えたかった。

 

「雪乃さん……」

 

「……なんでも言ってちょうだい」

 

 雪乃さんの懺悔の声。

 

「恨みます」

 

 雪乃さんが息を吸った。

 

「ええ。それだけのことをしでかしてしまった自覚はあるわ」

 

「でも、教えてくれてありがとうございます。あとは、なんとかします」

 

「もう、関わらせてはもらえないのかしら……」

 

「いえ、たぶん頼ると思います。私もどうしていいか分からないんです。原因は分かっていて……。でも正直、いま私も混乱してるんです」

 

 電話口の声が変わる。

 

「小町ちゃん、まずはみんな落ち着こう?」

 

 結衣さんだった。その声はひどく落ち込んでいて、いまにも死んでしまいそうなくらいな細い声。

 

「はい……」私は頷く。

 

「ごめんね、本当にごめんね。わたしたち邪魔しちゃって。折角の大事な告白をひどい有様にしちゃって。ごめんね。謝っても全然足りないけど……本当に、ごめんなさい」

 

 必死で涙を堪えた結衣さんの掠れ声が耳朶を震わせる。

 

「もう、いいですから。結衣さんたちのせいじゃないって分かってますから。さっきは雪乃さんにひどいこと言ってごめんなさい」

 

「いいのよ。私たちはそれを言われるだけのことをしたと痛感しているの」

 

 スピーカーモードにしているのだろう、雪乃さんの声が届く。

 

「比企谷くんは、いまどんな様子……?」

 

 恐る恐ると言った様子で雪乃さんが訊いてくる。

 

「……端的に言ってひどいですね。あんなお兄ちゃんを見たのは初めてです」

 

 ヒッキー……と結衣さんの悲痛な声。

 

「ということは、恐らく川崎さんもそうかしら……」雪乃さんの問い。

 

「はい、大志くんに電話して確認しました。たぶん、似たり寄ったりでしょう」

 

「事態はおよそ最悪というわけね……」

 

 本当に最低なことをしたわ、と雪乃さんの悔恨。だが、すぐに声が冷静に戻る。

 

「反省は後よ。いまは知恵を出しましょう。事態を動かすのよ」

 

「一体どうすれば……」

 

 困惑した私の弱音を雪乃さんが受け止める。

 

「原因と落としどころは分かっている。なら逆算すればいいだけ。原因は間違いなく私たちの存在よ。彼女にとって、私たちの存在は思いのほか大きかったということ。気持ちは分かるもの。ならそれを覆せばいい。落とすべきところはふたりをちゃんと冷静な状態で会わせることよ」

 

 粗いが道筋ができた。

 

 結衣さんが原因を探っていく。

 

「沙希にとってわたしたちって、恋敵だよね。しかも一年も一緒にいたから、沙希からすればすっごい存在感あるし、きっと急に怖くなったんじゃないかな。自分よりわたしたちの方がふさわしいとか、そんな感じで」

 

「たぶんそうだと思います」

 

 沙希さんは自己評価が低い。そして近しい者を優先する傾向がある。性格から考えるに、結衣さんの言う通りだろう。

 

「つまり、川崎さんの中で私たちと比べて自身を上位に持っていけば良い、ということね」

 

「ゆきのん、それってどうすればいいの?」

 

「さすがに難儀ね。他人の感情、しかも価値観に近いものを変えるのはすぐには……」

 

 三人して考え込む。

 

 この五日間で沙希さんは自分を取り戻した。見ていてくれる人、心配してくれている人、助けてくれる人がいることを知った。兄に強い恋慕の情を抱いた。

 

 これだけの前提を揃えてなにがある?

 

 沙希さんにとっての敵は雪ノ下雪乃と由比ヶ浜結衣の圧倒的存在感。容姿端麗、頭脳明晰、そして同じ奉仕部員として長い時間を過ごした雪乃さん。同じく奉仕部で飛びぬけた容姿と明るく人懐こい性格の結衣さん。

 

 沙希さんが勝てるものはたくさんある。でも、たぶんそれでもなお一年という奉仕部の見えない時間が邪魔をした。

 

 ならばなにがある?

 

 たったひとつでいい、沙希さんが誰よりも勝ると信じられるものは……。

 

 ……お兄ちゃん?

 

 瞬間、ひらめいた。

 

 もはや悪魔染みた考えが浮かんだ。

 

 これは人の思考じゃない。人の道を踏み外した外道の思考だ。

 

 思わず笑みが生まれた。冷静になって導き出した方法がこれだ。うん、やっぱり私はお兄ちゃんと真逆だなあ。

 

「雪乃さん、結衣さん……最低な考えがあるんですが、聞いてもらえますか?」

 

 ふたりが頷く。

 

「いいわ。なんでも言ってちょうだい」雪乃さんは覚悟が示し、

 

「うん、ヒッキーのためならなんでもするから」結衣さんが献身をあらわにする。

 

 ならばあとは、言葉にして伝えるだけだ。

 

 非道の理論を。

 

 話し終わった後、しばらくふたりは絶句していた。だけど、

 

「……ひどい人ね」くすくすと雪乃さんが笑う。

 

「うん、ほんとだ。ヒッキーとは全然ちがうね」あははと結衣さんも呆れていた。

 

 でも、とふたりが声を揃える。

 

「やる」

 

 あの日私は誓った。

 

「……ありがとうございます」

 

 なにをしてでも兄を幸せの道に導いてみせると。なら、この程度の罪悪、噛み砕いて飲み込んで腹に抱えてしまえばいい。

 

「小町さん。私も恥と外聞もなにもかも捨てるわ。明日、あらゆる伝手を使ってでもふたりの心を救ってみせる。由比ヶ浜さんもいい?」

 

「うん、ゆきのん。わたしも絶対にふたりを仲直りさせてみせる」

 

 ごめんなさい。

 

 ありがとうございます。

 

 待っていてお兄ちゃん。大丈夫だから。きっと、きっと大丈夫にして見せるから。もう一度勇気を取り戻して。

 

 できるよね?

 

 だって小町の自慢のお兄ちゃんだもん。

 

 

 

 


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