三限目後の休み時間には誰も来なかった。その代わり、一色からメールが一件来ていた。
内容はこうだ。
「深刻な問題が発生したので、いつもの場所で相談に乗ってくれませんか?」という実に行く気力が無くなるものだ。なんとか無視できないものかと考えていると、さらに一件が追加で受信。今度は葉山からだ。
「いろはの相談の件、乗ってやってくれないか? 結構重い話のようでね」
うん、分かった。葉山は敵だ。奴は間違いなく俺の敵だ。一色を押し付けようとする奴はみんな敵だ。そんなこと考えつつ少し一色が心配になるどうも俺です。
なんだか裏に小町が関わっている気がしないでもないが、後輩からのヘルプである以上無視するわけにもいくまい。
一色には「了解」と、葉山には「くたばれ」と返信し、四限目の授業をなんとか過ごす。この頃になると、俺や沙希に対する視線の感情が負のものからよく分からないものへと変化しているのを感じた。確実に葉山たちの効果だろう。居心地が悪いのは変わらない部分は難儀なところだが……。
授業が終わると同時に教室を出て購買へ向かう。適当にパンを見繕い、自販機でマッカンを買っていつもの昼飯場へとぼとぼと歩いていく。
いつもの昼飯スポット。特別棟の一階。保健室横。購買の斜め後ろの低位置。五月の曇り空の下、少し寒いくらいの風が吹き抜ける場所には、既に一色がいた。
「あ、先輩」
表情はいつもと変わらずあざとい申し訳なさそうな顔だ。適当に返事をして少し離れた場所に座り込む。袋を開けて購買で買ってきたパンを物色しつつ確認を入れる。
「で、面倒事ってなんだ?」
一度小さく息を吸った一色が「友人の話なんですが」と前置きして話を始めた。その前提がそもそもあり得るのかという疑問があったが、一応後輩の手前飲み込んでおいた。
「わたしにとってとても大切な人がすごく大きな悩みを抱えているみたいでして」
「ほーん」
「なんとか力になりたいと思っているんですが、どうしたらいいでしょう?」
「さてな。どこのどいつだか知らないが、一色に心配されている時点で相当重症だろうな」
「……先輩、ひどくないですか?」
「日頃の行いを思い出せ」
むー、と一色が頬を膨らませる。むくれても駄目だからね!
こほん、と一色が逸れた話題を戻す。
「とにかく、わたしとしては助けたいんですよ。すごくお世話になっている人ですから」
「人は人を簡単に助けられん。できるのは、たぶん、話を聞くことくらいだろうな」
賢しらに人を救うことなど、一般人にできることではない。人の心など容易く理解できない。理解したと思っていてもそれは勘違い。ただの思い込みだ。だから、話を聞いて発散させてやること、ある程度道を示すことが精々できる方法だ。
そうですか、と一色が頷いた。
「じゃあ質問を変えます。先輩は、なにか話したいことがありますか?」
「ないな」
「本当に?」
表情を真剣なものにした一色が俺を見つめる。その瞳にいつもの作られたあざとさは微塵も感じられない。本気の顔だ。見たことのない一色の表情に思わず息を呑む。
「川崎先輩と何かありましたか?」
「……それ小町から訊いたのか?」
「いえ、なにも。ただ、その発言からするに、なにかあったのは確かみたいですね」
墓穴を掘ったか。内心焦りながら返す。
「気にするな。大したことじゃない」
「先輩がそういうときって大体ひとりで何かしら抱えてるときだと思うんですけど」
「そりゃ勘違いだ。俺は大体ゲームとか漫画とかアニメとかマッカンのことしか考えてない」
「それ受験生としてヤバくないですか……? あとMaxコーヒーって考える必要あるんですか?」
一色の表情に呆れが生まれるが、すぐにこほんと話題を戻す。というか、さっきから話を逸らしまくってごめんね。俺にとってはセンシティブな話題だから。
一色が視線を外してテニスコートへと向ける。いつもならいるべき人物は今日そこにはいなかった。
「川崎先輩と喧嘩でもしましたか?」
「してないな」
「じゃあ、ふられちゃいましたか?」
言葉に詰まった。その様子を見た一色が苦笑する。
「バレバレですよ? 先輩って意外と態度に出ますからね」
「……そのことを笑いにでも来たか?」
「そんなわけないじゃないですか。心配したんです。先輩が大丈夫かって気になったから、こうして会って話してるんです」
自分の返答のひどさに吐き気がした。
「……すまん」
「いえ、先輩からすればいつものわたしらしくない行動でしょうから、そう思うのも無理ありません。ですが、本気で心配してます」
何も言えなかった。言う言葉が見つからなかった。
「なんでもいいです。話してみて下さい。これでも女心は分かっていますから、アドバイスでもなんでもできます」
一色が慈しむように笑む。見せたことのない真剣な表情だった。
「深刻な問題とやらはどこにいった?」
「先輩の深刻な問題を聞きに来たんです」
一色が続ける。
「たまには、後輩を頼ってください」
長く息を吐く。
どうやら本当に俺の話を訊きに来たらしい。あの一色にここまでさせている自分に呆れ、相談に乗ってくれると言う彼女の申し出が嬉しかった。
確かに、誰かに吐き出したい気分だった。この渦巻く感情を誰かに伝え、理解してもらいたかった。そんなこと、今までなかったというのに。まったく、人間変われば変わるものだ。
「昨日、ディスティニーランドに行ってきた」
「はい。先輩にしてはいいチョイスです。合格点を差し上げましょう」
「そりゃどうも。で、ふられた」
「端折り過ぎですね。もう少し細かくお願いします」
一色に指摘され、今一度昨日のことを思い出す。
「最初はヌーヌーのゴー&ライドに乗った。沙希が乗りたいって言ってな。楽しそうだった」
「腕を組んだり手を繋いだりしましたか?」
「ずっと腕を組まれてた」
「ほうほう、それから?」
「掃除のキャストさんが絵を描いてるところに遭遇した。ふたりで写真撮って、それからサーリン城に行ったな」
「いい偶然ですね。なかなかレアな体験です。川崎先輩の様子はどうでした?」
「終始はしゃいでたな。あんな姿を見るのは初めてだった」
「本当に楽しかったんでしょうね。それから?」
「ムクムクに抱き着いて、軽食を食べたな」
「食べさせっこしたり?」
「そうだな」
「それから?」
「パレードを見て、キスされたな」
「大胆ですね。それでそれで?」
「急に沙希の様子がおかしくなった、そんな気がした」
「心当たりはありますか?」
「ないな」
「そうですか。それから?」
「色々巡って、ポップコーンを食べたり、列車に乗って夜景を見たりした。沙希がふたりになりたいって言ってきてな。ロザリロンドの願い井戸に行った」
「あそこは夜なら雰囲気最高ですからね。人も少ないですし、いいチョイスです。満点を差し上げましょう」
「そりゃどうも。で、告白した」
「告白の感触はどうでした?」
「たぶん、良かったとは思う。ただ、急に表情が強張って、ふられた」
ふむ、と一色が言葉を止めて考え込む。
「なにかおかしいところはあったか?」
一色が首を振った。
「いえ、なにもないです。わたしだったら……そうですね、普通にOKしてますよ。というより、川崎先輩側の反応を見る限りNOを言う理由がないですね」
「だが現にふられたぞ」
「ええ、そうです。だから別の要因でしょう。絶対に先輩は好かれていますよ」
それは間違いないです、と一色が太鼓判を押した。
顎に指を添えて考え込んでいた一色の表情が変わった。一瞬だけ目を見張って、そういうこと、と息を吐いた。
「なんか分かったのか?」
「……いえ、ただ。先輩が原因ではないことは分かりました。たぶん、川崎先輩の自信の問題でしょうね」
自信の問題、と一色の言葉を胸の中で繰り返す。すぐには思考を辿れない。
「どういうことだ?」
「先輩は自覚ないでしょうけど、先輩の周りには雪乃先輩に結衣先輩、それにまあわたしもいるじゃないですか? 美女揃いですし、過ごした時間も川崎先輩より遥かに長いです。それが何かの理由で告白のときに頭に過って自信が無くなった。そう考えるのが妥当だと思います」
「それでふるっていう決断になるのか?」
「怖くなったんだと思います。本当に自分でいいのか。雪乃先輩や結衣先輩の方がふさわしいんじゃないか、あるいは、あの二人から先輩を盗ってもいいのか」
女心は複雑なんですよ、と寂し気に一色が言った。
つまり、と一色が表情を真面目なものに変えて言葉を重ねる。
「まだ先輩の恋は終わっていません。諦める必要はありません。押して押して、押しまくればいいんです。他の誰よりも川崎先輩が一番だと訴えればいいんです。川崎先輩の不安を吹き飛ばす勢いで」
「そんなことして迷惑じゃないのか?」
「いえ、そんなことはありません。好きな人から好きと言われて嫌な女の子なんていません。絶対に嬉しいんです。それだけで幸せになれます。だから言っていいんですよ」
自信を持ってください先輩、と一色が微笑んだ。
後輩の言葉が胸に染みた。まさか一色に相談に乗ってもらえる日が来るとは思わなかったから、足元を揺るがすような感動すら覚えた。
そんな風に感慨深げに一色を見ていると、当の本人は微妙そうな顔をする。
「先輩、なんですかその後輩が成長したなーっていう目は」
「いや、実際そうだろ。感謝と感激を同時に感じてるぞ」
「先輩はわたしのことをなんだと思ってるんですかね……」
「あざとい後輩。あと面倒事ばかり投げてくる後輩」
「はあ、まあそんなことだと思ってましたけど……」
一色がこれ見よがしにため息をつく。
いや、ほら、それ以外だと可愛い後輩とかあるけど、さすがに本人を前にして言うのは恥ずかしいしね。
なんだかおかしくなって、くつくつと喉の奥で笑う。
「なんで笑うんですかー! ひどいです!」
「悪い、でもサンキューな。だいぶ気が楽になった」
目をぱちくりした一色が、ふふっと笑った。自然な微笑みだった。
「お役に立てたなら良かったです。これでようやく先輩と肩を並べられるようになった気がします」
「そんなことないだろ。もともと頑張ってたしな」
「先輩に頼ってばかりでしたけどね」
「まあ、そうだが。悪い気はしてなかった」
「急に素直になりましたよね先輩……川崎先輩効果ですか?」
「だろうな」
なら、と一色が遠くを見る。テニスコートを越えたその先を。いつの間にか雲間から太陽の光が零れ落ちていた。煌びやかに地上を照らすその光は、天使の梯子だ。
「また告白するしかないですね」
「だな」
「さて、お昼食べちゃいましょう。可愛い後輩とふたりきりでお昼できるなんて、先輩は幸せものですねー」
急に調子に乗り出した一色に、俺は適当に棒読みで返す。
「はいはい、幸せ幸せ」
「なんですかその適当な返事は!」
ぷんすかと一色が怒ってぽかぽかと俺を殴ってくる。その姿がなんとなく本当に可愛らしくて、思わず俺も笑ってしまった。
唐突にスマホが鳴る。一色の攻撃を避けつつ画面を見ると、雪ノ下からのメールだった。
――放課後、奉仕部に必ず来なさい。これは部長命令よ。
なかなか高圧的な言い方である。緊急事態でもあったのか。今日の放課後は沙希に時間を割きたかったのだが、仕方がない。緊急招集であるなら行かざるを得ないだろう。
「なにかあったんですかね?」
堂々とスマホをのぞき込んでいた一色が訊いてくる。こら、人のスマホをむやみやたらに覗いたら駄目って教わらなかったの?
「さてな。一色が知らないのなら別の面倒事だろ」
「本当にいい性格してますよね先輩は……」
まったくこれだから先輩はとかなんとかブツブツと一色が呟いていたが、急に苦笑して俺を見た。
「何かあったら言ってください。微力ながら力をお貸ししますよ」
「助かる」
「ではでは、そろそろ本格的にお昼と行きましょうか。可愛い後輩とお昼ですよー」
きゃぴきゃぴし始めた一色が弁当箱をぱかんと開く。
「そのくだりはもういいだろ……」
げんなりと言うと、一色もどうようにうぇぇと気持ちの悪いものを見たかのような顔をする。その表情は心を抉るからやめてね……。
「ノリ悪いですね……そんなんじゃモテませんよ」
「人がこれから告白するってときにそういうこと言うんじゃありません」
まったく、やはり一色の相手は大変だ。お砂糖も素敵な何かも与えてもらえたが、スパイスが効きすぎては堪らない。
沙希はどうなのだろうか。
女の子はお砂糖とスパイスと、そして素敵な何かでできている。
このマザーグースの歌に、沙希を当てはめるとどうなるのだろう。そんなことを考えながらパンを口に放り込んだ。