沙希を昇降口で待たせてひとり屋上に行くと、フェンスに寄りかかった小町が俺を待っていた。小町を俺の顔を見るや否や、あははと空笑いを浮かべた。
「やっぱり怒ってるかぁ」
「そりゃあな」
小町の傍まで近寄って、同じようにフェンスに背を預けた。いまや雲が消えて晴れた空から、五月の日差しが比企谷家の兄妹を照らしていた。
「私もね、やりすぎだって分かってた。間違いな方法だって知ってた」
「ならなんでやった」
当然でしょ、と小町が苦笑する。
「お兄ちゃんのためだよ」
幸せになってもらいたかった、と小町は続けた。
「どれだけお兄ちゃんの不景気な面眺めてきたと思ってるの。そろそろ明るい表情のひとつでも見せてほしくて。だから、今回は頑張った」
「無駄に張り切り過ぎだ。雪ノ下と由比ヶ浜、あの二人についてはどうすんだよ」
「ちゃんと話して協力してもらったよ。そうだね、ていのいい人身御供だよ」
あはは、と小町が笑った。それが俺の怒りを振り切らせた。小町の胸倉を思い切り掴み上げる。小町は抵抗ひとつしなかった。
「やって良いことと悪いことの区別も付かなくなったか?」
決して妹に向けたことのない、ドスを効かせた声を出す。小町は無表情だった。
「そうだとしたら?」
はっ、と息が漏れた。小町から手を離す。小町は少し困惑した顔をしていた。その様が、まるで自分の無能さを突き付けられているようでつらかった。
思わず顔を覆って俯く。
「俺はまたなにか間違えたか?」
小町が息を呑む。わなわなと身体を震わせて言った。
「な、んでそうなるの」
そして、大喝した。
「なんでそうなるのさ!」
「お前、バカだけど人の気持ちが分からないような俺とは違うだろ」
小町の目が泳ぐ。そうだ、当人が言った通り、どれだけ非道なことをしたか小町は分かっている。だというのに、敢えて実行した。なぜだ。兄貴が愚かだからだ。幸せを拒絶するほど臆病で、生きることに不器用だったからだ。全部俺のツケを小町が支払ったに過ぎない。
「俺の所為か……」
「違う!」
小町が叫ぶ。もはやそれは悲鳴だった。
「違う違う! お兄ちゃんは悪くない! 今回のことは、私が全部悪い! それでいいでしょ! なんでそこで自分が悪いって思うのさ!」
「やったのはお前でも、動機が俺じゃ俺がやったのと変わらんだろうが」
その場に崩れ落ちる。膝を抱えて頭を落とした。
何が妹を叱るだ。
阿呆か俺は。
全部俺が悪いんだろうが。今まで生きてきた十七年間の積み重ね、それが巡り巡って罪となって小町が背負ったに過ぎない。まさに因果応報。愚かここに極まれりだ。
妹にあんなことをさせてしまった。あのふたりを傷つけてしまった。どうすればいいのか分からない。自分のあまりの最低さに吐き気がした。
「お兄ちゃん!」
小町が俺の名を金切り声で呼ぶ。なんだ、お兄ちゃんいま考え中なんだから黙っててくれよ。ちょっとこれ、正直どう償っていけばいいか皆目見当もつかないんだよ。
そのとき、屋上の扉が開いた。反射的に俯かせていた顔を上げる。そこには、雪ノ下と由比ヶ浜の姿があった。
宇宙の中心でも体現するかのように、ぴんと背筋を伸ばした雪ノ下が俺を見て開口一番鼻で笑った。
「無様ね比企谷くん。あまりの無様さにその頭を踏みつけてやりたいくらいよ」
空気が固まった。否、完全に凍てついた。
「ゆ、ゆきのん……それはさすがに……」
隣の由比ヶ浜はドン引きしていた。
そこでふっと雪ノ下が微笑む。
「冗談よ。ちょっと言ってみたかっただけ。ふられた腹いせと言ったところかしら? これくらいは勘弁して頂戴」
雪ノ下が由比ヶ浜を連れて俺の前まで歩いてきて、すぐ傍で立ち止まって膝を落とした。俺と同じ目線になった雪ノ下が、困ったように俺に笑いかけてくる。
「どうやら、小町さんの作戦は上手く行かなかったみたいね。もともとそんな気はしたのだけれど、どうやら比企谷くんの性根の部分はさほど変わってないみたいね」
「だねー。えーっと、内向的で捻くれ屋で自罰的、だっけ? やっぱり予想した通りだったね」
由比ヶ浜も俺と同じ視線の高さになって言った。
いきなり現れて言いたい放題の二人に俺は何も言い返せない。というか、普通こんなところで登場する? さっき告白受けて断ったばっかだよ?
雪ノ下がこてん、と首を傾げる。
「もしかして、小町さん話してないのかしら? 比企谷くん、あまり事情が分かっていないみたいだけれど」
雪ノ下の視線が小町へ向く。小町は急にバツが悪くなったように顔を逸らした。雪ノ下が纏う空気の温度が百度は下がった。目に見えて小町が怯える。
「はあ……小町さん。ひとりで背負おうとしたわね。そんな勝手を許すと思っていたの? 甘く見られたものだわ。比企谷家のやり方はもう散々見てきて知ってるのよ」
「うんうん、結局ぜーんぶ自分で抱えちゃうんだよね」
由比ヶ浜も雪ノ下に同意する。
雪ノ下が俺に向き直る。
「比企谷くん。先ほどの私たちの告白は紛れもなく本心。川崎さんへ聞かせていたことも当然知っている。ここまでは小町さんの考え、それは分かる?」
「お、おう……」
「では次ね。あの告白は、正直私たちにとっては願ったりかなったりでもあったのよ。比企谷くんと川崎さんが付き合うのはもう秒読み段階。なら、伝えるならあの場面しかなかった。だから、あれは私たちの我儘なの」
分かるかしら、という雪ノ下の問いに首を振る事しかできない。
「でしょうね。つまり私たちと小町さんの関係は一方的なものではない、いわゆる共犯なのよ。そうなるとどうなるかしら。一体だれが悪いのかしらね?」
「誰も悪くないね。強いて悪いとしたら、私たちかな? というか、やっぱりあれは卑怯だったよね……」
答えない俺に変わって由比ヶ浜がしみじみと言った。
「ええそうね。比企谷くんの傷心に付け込もうとしたのだから、罰せられるべきは私たちでしょうね」
「じゃあ小町ちゃんとヒッキーはどうなるかな?」
「無罪放免ということかしら」
「やったねヒッキー。前科つかないよ!」
勝訴だとばかりに由比ヶ浜が喜んでいるが、何かがおかしい。これって裁判だったの? そもそもなんでこの人たち俺がふられたこと知ってるの⁉
雪ノ下が一度苦笑して、表情を真面目なものにする。
「比企谷くん。先ほどは黙っていたけれど、やはりちゃんと話すわ。昨日比企谷くんが告白するとき、運悪く私たちが出くわしていたのよ」
「は?」
驚愕だ。え、なに、いたの? ていうか見てたの? そういえば沙希がそんなことを言ってたような……。
由比ヶ浜が申し訳なさそうに眉をハの字にした。
「ごめんねヒッキー。その前にも実は遭遇してて、沙希に気づかれてたんだけど、まさかもう一度会うなんて思ってなくて……。告白を台無しにしてごめんなさい」
立ち上がった由比ヶ浜が深々と頭を下げた。おい、待て、なんだこれ。全部が繋がった気がするぞ。沙希が途中おかしくなったのは二人を見つけたからで、告白の段になって様子が変わったのは二人に見られていたからで……。つまり、
「マジでお前らが原因だったのか……」
一色さんマジですげえ。当たったよ。大当たりだよ。沙希も確かに言ってたけど、色々な意味でドストライクだよ。まじパネェよあの後輩。
「崇め奉ってください☆」と脳内で一色がウィンクする。いまなら本当に崇め奉っちゃう! なんならお供え物だってしちゃうし仕事だってガンガンやっちゃうまである!
俺の言葉を変に受け取ったのか、雪ノ下も悲痛の表情で立ち上がって頭を下げる。
「本当にごめんなさい。あなたが怒るのも無理はないわ。言い訳の余地も……」
もはや処刑される寸前の様相を呈してきた雪ノ下と由比ヶ浜に、慌てて答える。
「待て待て、別に怒っちゃいない。一色の洞察力の鋭さに崇め奉ってただけだ」
「お兄ちゃん……それ意味分かんないから」
小町が呆れ顔で言う。
小町ちゃん、ちょっと黙っててね。
「あれだ、今日葉山やら戸塚やら一色やらが来たのは、小町の策略か? それともお前らの手か?」
「それは私たちね。伝手を総動員したわ」
調子を取り戻した雪ノ下が、少し誇らしげに胸を張った。伝手が少なすぎる……。
由比ヶ浜が雪ノ下に抱き着きながら秘密を明かす。
「ヒッキー。ゆきのんね、隼人くんにまで自分でお願いしたんだよ?」
絶句。未だ遺恨のある葉山に対して自ら依頼したというのか……。
俺の視線に気づいた雪ノ下が恥ずかしそうに頬を赤らめる。
「ま、まあ、それくらいしないといけないと思って……。あなたのことだから考えてはいたと思ったのだけれど、一応周りに対する牽制要因は必要と考えてね」
あと、一色さんへのお灸を据える意味もあったのだけれど……という言葉は聞かなかったことにしよう。確かに一色が一番割に合ってねえ……。
なんにせよ……。
「助かったわ。連休が終わったあとのことは何も考えてなかったからな」
くすくすと雪ノ下が笑う。
「なら良かったわ。あなたはどこか抜けたところがあるから」
そこでパンっと由比ヶ浜が胸の前で手を合わせる。
「これで一件落着、でいいかな?」
一件落着。問題になっていた事象に決着がつくこと。川崎家の問題、俺と沙希との問題、これらは解決した。雪ノ下と由比ヶ浜の件だって、ふたりはちゃんと納得して彼女たちなりの利を得て動いていた。
なら、残るはひとつだけ……。
膝を打って立ち上がる。俺の表情を見た雪ノ下と由比ヶ浜が一歩後ろに下がった。俺は小町に向き直る。妹は困ったように頬をかいていた。
「小町」
「うん?」
「悪かった。それから、ありがとう」
俺の言葉を受けた小町が一瞬だけ驚いたようにして、すぐににこりと笑った。
「いいよ。妹だからね」
妹のその科白と微笑みは、たぶん一生忘れないと思う。
次が最終話……のはず