覚醒は穏やかだった。
もそもそと優しく肩を揺さぶられ、柔らかい声が俺を呼ぶ。
小町だろうか。いや、妹は普段起こしに来ない。ならば相応の理由があるのだろう。例えば、何か買って欲しいとかどこかに連れて行ってくれだとか、家から出てけとか。最後の奴はちょっと本気でありそうで困る。
よし、こういうときは二度寝に限る。それに、スマホの目覚ましも鳴ってないしまだ起きたくない。
お兄ちゃん成長期なんだ……。もうちょっと成長したいから起こすのは後にしてね。
「あと五年……」
適当に返事をして枕ちゃんに顔をうずめる。ふわあ、怠惰って素敵!
「いつまで寝るつもりなの。高校卒業しちゃうんだけど……」
「なら養ってくれ」
「あんたまだ専業主夫の夢あきらめてなかったんだ……」
声の主を見ると、ぴょこぴょことポニーテールが動いている姿が視界に映る。意思の強そうな目に泣きぼくろ、整った鼻梁の下に浮かぶ柔らかそうな唇は半弧を描き、見るものにクールビューティーな印象を与える。パーカーにジーンズ姿の彼女は、どうにも妹には見えない。
そこでようやく我が最愛の妹でないことに気づいた。
「っわっとぉっ……! びっくりしたあ」
驚きのあまり布団を引っぺがして壁まで後退する。俺を起こしに来た人物、川崎も目を剥いて仰け反った。
「き、気づかなかったの?」
「寝てる人間にそこまで高性能な認識能力求めんなよ」
「あんたって、寝てると意外と無防備だよね。ここまで近づいてるのに起きなかったし」
「気配で起きるとかいつの時代の剣客だよ。寝てるときまで警戒してたら休まらねえよ。人生苦いんだから寝てるときくらい休ませてくれよ」
「なんで寝起きにまで捻くれてるのさ……」
小町の言った通りだね、と川崎がこめかみを抑えだす。
いつの間に人の妹と呼び捨てする仲になってんの? 昨日の今日でもう篭絡されたの?
さすが、比企谷家の技術の粋を凝らして生み出されたコミュニケーションモンスター。小町の手に掛かれば川崎すらも手籠めにされてしまうのか。まったく恐ろしいものよ。
小町のすごさに改めて戦慄しながらスマホを探すも、いつもの場所にない。うーむ、どこだ?
「川崎、いま何時?」
「八時だけど」
ということは、両親は既に家を出ていったか。相も変わらず仕事が忙しいようだ。祝日にも関わらず働く社畜達に栄光あれ。
心中で敬礼しつつベッドから降りる。ふあっと欠伸がひとつ漏れた。
川崎が思い出したように口を開く。
「そういえば、ご両親に会ったよ」
「ん……あ?」
なんですかもしかして口説いてるんですか、先に両親から攻略して外堀を埋めてくのは非常に効果的でちょっと意識しちゃうけど付き合うのはまだ恥ずかしいので友達からにしてくださいごめんなさい。
おっと、一色の振り芸が移ってしまった。もう十回以上振られてるしなあ。告白すらしてないのに。恐るべしあざとい後輩……。
こほんと咳払いをする。
「で、なんか言ってたか?」
川崎は人差し指を顎に添えて天井を仰ぐ。
「んー、比企谷をよろしくとか、友達になってくれてありがとうとか、お願いだから愛想つかさないでねとか、そんな感じ」
「俺の扱い酷くないですかね……」
後半につれて両親の切実な想いが滲んでいて俺の涙も滲みそうだ。朝っぱらから微妙な気分にさせる両親マジ鬼畜。
「そう? 愛されてるなって思ったよ」
川崎の愉しそうな微笑を見ているのが恥ずかしくて顔ごと逸らす。
「どうだかな。んじゃ、顔洗ってくる」
「ん、ちゃんと寝ぐせも直しなよ? あと朝ごはんできてるよ」
「お前は俺の母ちゃんかよ……」
くすくすと笑う声を背中に受けながら部屋を出る。洗面所でのろのろと準備を終えてリビングに入ると、ソファーに座る川崎の膝に小町が乗っていた。きゃいきゃいとはしゃぐ妹を川崎が温かい眼差しで眺めている。なんだか絵に描いたような姉妹の姿だ。
……え、なに? どういう状況?
呆けている俺を見つけた小町がものっそい適当な声を投げる。
「あ、お兄ちゃんおはよー」
「小町ちゃん? なにしてるの?」
「え、お姉ちゃんに甘えてるだけだよ?」
「ここにお兄ちゃんがいるんだけど」
「うえー、やだよ、無理だよ、絶対あり得ないよ、お兄ちゃんにこんなことするの」
「ねえ、なんで俺朝からこんなダメージ受けなきゃいけないの? しまいには泣くよ?」
兄を労わる日とか作ってくれないかなあ……。
目をドロドロとさせていると、川崎が困ったように頬を掻き、膝の上に座らせた小町を指差す。
「えっと、あんたも座る?」
「なんでそうなるんだよ。というか、一夜で随分仲良くなったな。小町はやらんぞ」
うわーお兄ちゃんキモイ、と小町が虫を見る目つきで呟く。朝からグサグサくるなあ。もう心が穴だらけでスポンジみたいになっちゃうぞ。
でも、変に緊張されるよりはいい。今回の計画、最初こそグダグダだったが、意外と良い案だったのかもしれない。やはり千葉県のお兄ちゃんに不可能はないのか。
「あ、お兄ちゃん、スマホ落ちてたよ」
ぽいっと小町がスマホを投げてくる。それを難なく受け取ると、そのまま寝間着のポケットに突っ込んで朝飯に取り掛かる。
朝食を食べ終える頃になると、小町がパタパタと家の中を走り回り始めた。家事の時間だ。俺もえっちらおっちらと食器を洗う。しばらくして、ぶえぇぇと掃除機の音が響き出した。
さって、今日は何をすればいいんだっけっか。食器を乾燥機に放り込んで振り返ると、川崎が掃除機をカーペットの上で走らせていた。
「おい、なにやってんのお前?」
きょとんと川崎は首を傾げる(可愛い)。
「ん? 見て分かんないの? 掃除」
「分かるから。なんでやってんの?」
「暇だから?」
「なんのために家出したんだよ」
ほら言ってごらん、はちまん怒らないから。
しばしの沈黙。
掃除機のスイッチを切った川崎が、顔を真っ赤にして言い訳する。
「く、癖になってんの、掃除するの!」
えぇー……。そんな科白吐く高校生初めて見たよ。どんだけ主婦やってんだよ。
川崎の主婦意識の高さに唖然とせざるを得ない。やばい。川崎といると主夫意識を上げて家事しないと、って気分にさせられる。
でも俺が家事すると小町怒るんだよなあ……。それに川崎も無駄に気を使いそうだし……。
なら家事しなくていいな。
自己完結を終えてソファーにずどんと座る。
「家事は小町に任せとけ。俺みたいにだらだらしてりゃいいんだよ」
「でも、あたし居候だし……」
「そりゃ勘違いだ。客だ客。お客様に家事させる家がどこにあるんだよ」
むぅ、と悩んだ末に川崎は掃除機を片付け始める。というか掃除機の場所よく分かったね。
ガタゴトと掃除機を仕舞い終えた川崎が近づき、俺の隣にすとんと座る。
ち、近い……。
「その、今日のことなんだけど」
は、はいぃ……。
「なに、しよっか」
お願い! 耳元で囁かないで! 恋人ができたらこんな感じなのかなーとか想像しちゃうから!
「あー……」
とりあえず感情を誤魔化すべく声を伸ばしてみる。川崎が期待の籠った視線を注いでくる。
えっとー、なんの話だっけ。今日のこと? あれ、今日って何やるんだっけ? 昨日風呂場で少し考えたような考えてないような……はい、なんも考えてませんね。
いま決めるしかない。がんばって、はちまん!
「ゲー……」
「げ?」
ゲームするとか無いよね。なに言っちゃってんのって感じだ。落ち着け。クールになれ。俺の思考はいつだって俺を助けてきたじゃないか。
「どー……」
「ど?」
読書とかマジないわあ。由比ヶ浜あたりに暗いとか言われちゃいそう。よく考えろ。息抜きだぞ。いつも俺は何をやってる……?
「アニー……」
「あに?」
アニメとかほんともう何考えてるの! 女子高生はアニメ見ないってはちまん知ってるよ!
混乱している俺の隣で、なぜだかふんふんと頷いた川崎が、意を得たとばかりに言ってくる。
「ゲド戦記見たいの?」
「……なんでそんな結論に達したんだ?」
「だってあんた、げーどーあにーとか言ってたし。ゲドのアニメってことでしょ? だからゲド戦記」
どんなもんよと川崎が胸を張る。ただでさえ大きい果実がよりおっきく見えるからそのポーズやめてね。
「小五郎のおっちゃんも顔負けの迷推理だな」
「違うんだ……」
がくんと沙希が項垂れる。
なんで落ち込むんだよ。
ああ、と思い出す。必要なことがあった。
「そういえば、着替えとか無いんだよな。買いに行くか」
「ん、そだね。でもあのお金ホントにいいの?」
「気にすんな。というかそれは昨日終わった話だろ」
「必ずお礼するから」
「対価って言ったろ」
「そんな高い女じゃないよ。お礼したいの」
「ま、それは色々片付いたらな」
うん、と頷いた川崎が微笑んだ。いつもメンチ切ってる癖によく笑う。まともに見ると顔が赤くなるからなるべく見ないようにする。
小町は家の中を走り回っていたが、俺と川崎はテレビを見ながらソファーでぐでーっとする。
スライムばりに溶けていたら、二時間も経っていた。横では川崎がこっくらこっこらと船を漕いでいる。
掃除と洗濯を終えた小町がどでーんと川崎の隣に座った。
「今日なにするか決めた?」
小町が寝ている川崎を起こさないように小声で聞いてくる。
「まあな。川崎の着替えでも買ってくるわ」
「もう出るの?」
「こいつ寝てるし、午後でもいいだろ」
「うん、そうだね」
それきり小町は黙ってテレビを見ていた。俺ものんびりしていると、玄関のチャイムが鳴った。
新聞屋さんかな? アマゾンは頼んでないし。
小町は動く気配が無いため俺が玄関に向かって扉を開けると、お団子ヘアの女子が立っていた。五月の太陽が少女の輪郭を輝かせている。
「おはよーヒッキー」
たはは、なんて笑って、由比ヶ浜がお団子をクシクシする。突然の訪問に理解が及ばない俺も、ふへへっと空笑いを返した。うん、なにしに来たのかなこの子。
「いきなりどした?」
当然の疑問を投げると、由比ヶ浜の頬がぷくーっと膨らんだ。
「昨日メール送ったじゃん。今日ヒッキーの家行くって」
うーん知らないですねえ。というか見てすらないですねえ。
「知らんけど」
「やっぱ見てなかったんだ……」
がくっと由比ヶ浜が全身で項垂れる。
まったく、これだから報連相を知らない現代っ子は困る。何事も報告・連絡・相談しないとだめですよ。しかもちゃんと相手に伝わらないと意味がないからね? そんなんじゃ将来社会に出て苦労するよ?
なんて意識高いことを考えながらスマホを見る。確かに由比ヶ浜からメールが届いていた。
「いま見たわ」
「もう遅いから!」
フグばりに頬を膨らませた由比ヶ浜がツッコむ。
「で、なんか用か? 悪いが今日、というかしばらく予定あるんだが」
「え、そうなの? ヒッキーが?」
目をまん丸くして由比ヶ浜が驚く。その言外に用事があるなんて珍しいよねって言うのやめてね。まあいつも暇なんだけど。
「ま、まあな」
「そっかー。ごめんね、いきなり押し掛けちゃって」
「いや、こっちも見てなくて悪かった。昨日バタバタしててな」
「そうなんだ。なにかあったの?」
由比ヶ浜がきょとんと首を傾げる。くりっとしたその瞳の奥には、少しだが不安染みたものがちらちらと顔を出している。
すっと視線をリビングにやる。いずれ相談するつもりだったし、丁度いいだろう。
「送るわ。ちょっと待ってろ」
リビングに戻り小町に声を掛ける。川崎はまだ夢の中のようだ。
「小町ー、ちょい出てくるわ。すぐ戻る」
小町の空返事を受けながら由比ヶ浜のもとに戻り、適当な靴をひっかける。
「んじゃ行くか。駅まででいいか?」
「え、あ、うん。ありがと」
由比ヶ浜が笑いながらお団子をクシクシしていた。
家を出て駅までの道をふたりで歩く。思い返してみると、由比ヶ浜とふたりで明確な用もなく並んで歩く、なんてことは久しぶりだ。殆どにおいて由比ヶ浜と雪ノ下はふたり一緒だ。だから、こんな風にどちらかひとりと時間を共にすることは多くはない。
まあ、だからなんだという話なのだが……。
「で、なんか用だったか?」
「今日ゆきのんと遊ぶ予定でね、ヒッキーもどうかなって」
「いきなり当日に来るとか珍しいな」
あはは、と由比ヶ浜がばつが悪そうに笑う。
「ヒッキーなら暇かなーって」
「まあ、大体間違いじゃないな。今回は特別だ」
本当に、色々な意味で特別だ。奉仕部の枠外での相談事。他人を家に招き入れる行為。一昔前を考えればあり得なかった、自発的に休日を使ってまで他者を助けるという行動。何からなにまで俺らしくなく、それらが凝縮されたこの連休は、まったくもって奇怪の一言に尽きる。
こんなこと、俺の働かない精神を知っている由比ヶ浜が怪しまないはずがない。
由比ヶ浜は一度俯くと、遠慮がちに俺を見上げてぽしょりと言った。
「何があったか、訊いていい?」
ガシガシと頭を掻く。言えない事が多くて言葉を選ばざるを得ない。
「あー、なんだ。いま川崎が泊まっててな」
「え? 沙希がヒッキーの家に?」
自分でも訳の分からないことをやっている自覚はある。由比ヶ浜が驚くのも当然だ。だが、それを的確に説明する言葉が無い。納得させ得るものがない。
相談内容は言えない。原因も言えない。いま俺に起こっている表面的事実しか言えない。
「やんごとなき事情があってな……他に選択肢がなかった」
「理由、訊いていい?」
「悪いが言えん。川崎に口止めされててな」
「そっか……」
殆ど独り言のように小さな声で言って、由比ヶ浜は視線を前へと向けた。
たぶん、由比ヶ浜は俺のことを心配しているのだと思う。なにせ前科がありまくりなのだ。過去を振り返ったら黒歴史でのたうち回るまである。
色々あってようやく、本当にようやく、過去の行動を他人が見たらどう思うかという簡単なことに気づいた。たとえ当人がどう思おうが、どう心の中で折り合いをつけようが、他人が見てそれを痛いと思えば痛い。
「これは俺が受けた依頼だ。それに、詳細も話せない。だから、虫の良い話なのは分かってるんだが……」
「ヒッキー?」
そんなすれ違いはもう嫌だ。なにも伝えずに分かり合える相互理解の関係は理想だ。でもそれは甘い幻想だ。幻はいつか晴れる。現実に生きている以上、事実を直視しなければならない。
言葉は何のためにある?
きっと、共通認識を持つためだ。なら、言葉を尽くして伝える以外に方法はない。
「助けてくれ」
情けない言葉。
つまりは降参宣言。
俺は自分のやり方が好きだ。誇りすら抱いていると言っていい。これはいまでも変わっていない。
でもそこに他人が深く関わるなら、そして俺のやり方を見て悲しいという感情を持ってくれる人がいるのなら、俺は俺のやり方を盲目に信仰するのをやめよう。思考を疑い、信頼できる人に助けを求めよう。
由比ヶ浜が立ち止まる。数歩先で俺も足を止めて振り返る。由比ヶ浜は、俺の言葉をうまく飲み込めないのか、何度か瞬きして瞳を揺らした。
怖くなった。
「……駄目か?」
「駄目じゃない、駄目じゃないよ!」
俺の恐怖など軽く吹き飛ばすように、由比ヶ浜が胸の前で拳を握って強く言った。
「ヒッキーが頼ってくれるなんて珍しいから。あたしにできることならなんでも言ってよ」
「助かる」
出した声は、たぶん震えていた。由比ヶ浜は気に留める様子もなくただ言葉を重ねた。
「あたしはどうすればいい?」
「なんつーか、あれだ……川崎がいい感じの気分になる場所とか、そんなとこあるか?」
言っていて自分でもよく分からなくなる。案の定、由比ヶ浜も「いい感じ?」と繰り返しながら空を仰いで困っている。
うん、だよね。分かんないよね。相談するのに内容が定まってないとか、だらしねえ。
俺もどう伝えればいいのか考えている折、由比ヶ浜がはっとする。
「えーっと、テンションがあがるーって感じ?」
なんで分かるのこの子。やっぱりこの子、奉仕部のコミュニケーションモンスターだわ。
「そうそれ。そんな感じで頼む」
そっかーと瞳を輝かせた由比ヶ浜が、一転して真剣な表情になる。だが、何か迷ったように目を泳がせて儚く笑った。
「……なんだろ、すぐに思いつかないかも。ゆきのんにも相談していい?」
「頼む。雪ノ下には話は俺からも通しておく」
「うん、分かった」
唇で半弧を描き、由比ヶ浜があーでもないこーでもないと思考を巡らせ始める。その優しさがありがたく感じ、俺はぼそりと礼を告げる。
「ありがとな」
「ううん、でもひとつ約束して」
首を振った由比ヶ浜が視線を俺へ注ぐ。過去の結果を見てきたその瞳が、真剣さを持って現実の俺を射抜く。
「なにかあったら……ううん。なにもなくても。あたしたちに話して、相談して? 絶対、絶対だよ?」
「分かった、約束する」
「うん、約束だ」
しばらくふたりで頭をこねくり回すもいい案はでず、由比ヶ浜が「ここでいい」といって駅近くのファーストフード店の前で別れた。ひとりになった帰路の中で、道中スマホを操作して雪ノ下の番号を呼び出した。一度目の呼び出しで、もはやなじみ深くなった声が耳朶を打つ。
「あら、比企谷君。あなたから掛けてくるなんて珍しいわね。ついに地面から這い出してきたの? 生憎、あなたの全身を巻ける包帯の持ち合わせはないのよ。薬局にでも行きなさい」
……しれっと人をゾンビ扱いするのやめてね。
声の向こうから街の雑音とスマホと耳が擦れる音が聞こえた。由比ヶ浜との待ち合わせ場所に向かっているのだろう。
「開口一番罵倒はやめろ。俺に効く」
「あなたに効くからやっているんじゃない」
喉の奥で笑った雪ノ下が声質を落として続ける。
「それで、用件の緊急度は? 場合によっては予定をキャンセルするから早く教えて欲しいのだけれど」
俺が電話をしただけで、雪ノ下にとっては超弩級の緊急事態らしい。理不尽である。
「待て、緊急だがそこまでヤバい状況じゃない」
「そう。ならいいわ。あまり時間はないのだけれど、それでいいかしら?」
「ああ。由比ヶ浜と待ち合わせだろ? 本人から聞いてるしこの件も通してある」
雪ノ下が関心の声を漏らす。
「用意がいい、というより元々そのつもりだったのかしら? まあいいわ。訊きましょうか」
促す雪ノ下に今回の件を端的に伝える。余計な言葉を挟まず相槌を打っていた彼女は、話が終わってから小さくため息した。
「そう、なかなか大変な状況ね。詳細が気にはなるけど、無用な詮索はやめておくわ」
「怒らないのか? 女子を家に泊めるなんて」
正直雪ノ下が一番怒りそうだと思っていたのだ。こうも理解あるされる返しをされると反応に困る。
「他の男性ならいざしらず、あなただもの。その判断も人間性も信じているわ」
言葉に詰まる。雪ノ下からの強い信頼が、心の敏感な部分を強く打つ。
俺の動揺を察したのか、雪ノ下がふっと優しく笑った。
「安心しなさい。間違ったときは必ず正してあげるわ。それは、あなたも同じでしょう?」
想像して思わず笑ってしまう。雪ノ下が道を踏み外したとき、俺は絶対に動くだろう。もちろん、そんなこと恥ずかしくて直接は言えないから、歪曲した言い回しをする。
「そうだな。由比ヶ浜あたりが突撃するんじゃないか?」
ふふふ、と雪ノ下の愉し気な声が耳をくすぐる。
「裏ではもちろんあなたが策謀を企てて、でしょう?」
「人をフィクサーみたいな言い方するな。かっこよくて嬉しくなっちゃうだろうが」
「あら、意外と様になっているわね。今度からそう呼ぼうかしら? フィクサ谷」
「雪ノ下にしては切れ味の鈍いネーミングだな。嬉々として呼ばすぞ?」
「まったく、すぐ調子に乗るのだから……。それより本題に戻りましょう。そうね、気分が高揚する場所というなら、ディスティニーランド、ペットショップの猫巡り、猫カフェとかどうかしら? 個人的にはパンさんと猫が見れて触れられる場所が最高だと思うのだけれど」
「……お前、昔は隠してたくせにもう堂々と晒すようになったな」
去年までの雪ノ下なら絶対に口にしない提案だ。ただ……。
「それより猫は駄目だ。川崎は猫アレルギーだからな」
「そ、そうだったわね」
どうやら忘れていたらしい。記憶力の良い雪ノ下にしては珍しい。大方自分が行きたい場所を羅列したのだろう。
さすがに羞恥心が芽生えたか、咳ばらいをして雪ノ下が続ける。
「とにかく、考えておくわ。少し時間を頂戴。由比ヶ浜さんはなんて?」
「あいつもすぐには浮かばなかったみたいだ」
「あら、彼女ならすぐに出てくるようなものだと思うのだけれど。そうね……とにかく、考えておくわ」
「助かる」
「いいのよ。たまには頼りなさい」
「……助かる」
それじゃあもう切るわと言って、最後に挨拶を加えると雪ノ下が電話を切った。先ほどよりも僅かに熱を持ったスマホをポケットに仕舞い、川崎が眠る自宅へと足を進める。