だから俺は彼女に恋をした   作:ユーカリの木

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こう見えて、比企谷八幡は成長している 4

 太陽が南中高度を到達してしばらくした頃合い。少し暑いかなと感じる程度の比較的過ごしやすい陽気だ。

 

 ゴールデンウィークだからなのか、千葉駅前はいつも以上の賑わいを見せていた。仲睦まじげに手をつないでいる年頃のカップル、遅れて登場した少女に何でもないと言ってぎこちなく笑う少年。見ているだけ脳がやられてしまいそうな甘酸っぱい空気があちこちで発生していた。

 

 まーったく、いくら黄金週間だからって浮ついてんじゃねえよ。こちとら受験生なんだよ。勉強しなくちゃならねえんだから空気読めよ。ついでに下げ下げで空気が悪くなって破局すれば大変メシウマまである。

 

 とか心の中で悪態をついてみるも、冷静に考えると俺も似た立ち位置にいることを思い出す。

 

 袖口をめくって時計を確認する。約束の時刻の五分前、一三時五五分だった。なんというか、なんで待ち合わせしてるんですかねえ。川崎の生活用品と服を買いに来るのは分かる。持て成すつもりではあるし、彼女が満足するだけ付き合う気力も持ってきた。だけどわざわざ時間をずらす意味がまったく分からない。

 

 元をただせば小町の発言が原因だ。

 

 曰く、

 

「デートなんだから待ち合わせだよね? え? 一緒に出ればいいって? これだからごみいちゃんはごみいちゃんなんだよ。女の子には準備ってものがあるんだよ? なに? 準備してから一緒に出ればいいって? まったく、女心すら理解できないごみいちゃんに期待した小町が馬鹿だったよ。いいからさっさと行って。服は用意してあるからそれ着てね。それじゃあ、さっさといってらっしゃ~い」

 

 ザ・イミフである。

 

 どうやらよく分からない計算式でもって、同じ家にいるのに時間をずらして待ち合わせをするという不可解な行動をすることになったようだ。本当に分からない。由比ヶ浜辺りに確認したいものだが、彼女たちも遊びに出ているためこれ以上邪魔できない。つまり、自身で考えなければいけないのだが……男の俺には無理ゲーだ。

 

 ふいに、視界に一輪の花が現れた。まず目を引くのは白。そこに青と黄が合わさり淡く儚い雰囲気を漂わせ、気品すら感じさせる存在。花か、それとも妖精か。そんな錯覚を覚えるほどの美女が歩いてくる。

 

 緩くウェーブさせた青みが掛かった黒髪を後ろでロープ編みにし、服装は白い七分袖のサマーニットにイエローフレアスカート。一見すると大人の女性に見えるが、よくよく観察すればその表情には高校生特有の幼さが残っている。

 

 見知った顔であるのに誰であるか分からない。

 

 吸引力の変わらないただひとつの掃除機がごとく周囲の視線を独り占めにしている美女は、俺の姿を見つけると途端に立ち止まり、顔を赤くしながらもはにかんで手を振ってきた。

 

 なにあれ、可愛い……。

 

 いつの間に俺あんな可愛らしくも大人びた美人と知り合いになったの? というか、絶対俺見てるよね。

 

 後ろを振り返るも、あるのは無機質なビルだけだ。もう一度前を見る。美女は明らかに俺に近づいてきながら少し頬を膨らませている。やがて、永遠にも思える時間の後、傍で立ち止まった美女が少し震えた声を掛けてきた。

 

「ごめん、待った?」

 

 ……聞き覚えのある声だ。家を出る前に聞いた声だ。え、まさか小町? 待て、最愛の妹はここまで身長は高くないし髪も長くない。

 

「いや……」

 

 つまりは……。

 

「まさか、川崎か?」

 

「うん……変、かな?」

 

 唖然と吐き出した俺の科白を受け取った川崎が、困ったように身体をひねりながら自分の服装を見直している。その様は花畑で舞う可憐な少女。

 

 口が勝手に動いた。

 

「いや、美人過ぎて驚いただけだ」

 

「え?」

 

「え?」

 

 時が止まる。川崎は驚いた表情のまま固まっている。

 

 あっれー、いま俺なんて言った? とんでもなく恥ずかしくて穴に入りたくなること言った気がするんですけど。よし、ちゃんと思い出そう。

 

 うーん、うーん……。

 

 ……これは恥ずか死ぬレベルですねえ。

 

 穴があったら入りたいどころか今すぐ削岩機で地面掘って埋まりたいまである。なんなら生コンで埋めてくれ。やばい、顔が見れない。

 

 全身がかっと熱くなり、首筋と手のひらに汗が滲んで思わず視線を外す。いつもなら出てくるはずの言い訳がなにひとつ言えない。頭が真っ白になって、ただ綺麗だという言葉だけが脳内を埋め尽くす。

 

「あれだ、服と髪が似合っててな、ほれ、普段と雰囲気が違ってだ、あー、なんだ、綺麗だと思ってな」

 

 なに言ってるの俺⁉

 

 そんな軟派なキャラじゃないのに勝手に口をついて出てくる。普段の化粧気なく飾らない川崎とのギャップに頭が混乱してんのか。リアルにメダパニ食らっている状態だ。FF風に言えばコンフュ受けた感じ。発した科白が全部俺に帰ってきてダメージがデカい。

 

 川崎は俺の言葉を受けて顔を真っ赤にすると、片手で顔を覆って視線をうろうろとさせる。

 

 やばい、なんか分からんけどこの空気はやばい。とにかく話の流れを変えるしかない!

 

 時よ止まれ。君はだれよりも美しいから。って科白はなんだったかなあ。駄目だ、美しいとか綺麗とかいう単語が頭から離れん。

 

 ん、待て。川崎って服持ってなかったよね? その服どうしたの? 小町とは体形違うから借りたわけでもないだろうし。うーん。

 

「そういえばその服、どうしたんだ?」

 

 また思わず口出ちゃったよ。今日はどうしたのお口さん! お願いだから俺の言うこと聞いて!

 

「え、あ、うん。小町が友達のお姉さんから借りてきてくれたみたい」

 

 小町ぇ……。どこまで仕事ができる女になるんだ。お兄ちゃん、もはや驚きや尊敬を通り越して戦慄しちゃうよ。いつかカリスマ女社長とかになっちゃうのかしらん。

 

「こんな服初めてだけど、あんたにそう言ってもらえて良かった」

 

 わずかに手を落として口元を隠した川崎が、目じりを下げて嬉しそうに微笑んだ。

 

 その姿にも見惚れる。ずっと見ていたくなるほどに可愛らしく、美しかった。

 

 雑踏が聴覚から消える寸前、なんとか自制心でもって顔を逸らした。今日の俺はおかしい。いや、元から変である自覚はあるが、輪をかけて変だ。こういうときは素数を数えるといいってハチマン知ってるよ!

 

 一、二、三、五、七、一一、一三……あれ、一って素数じゃないっけ?

 

 一度細く息を吐き出す。

 

 よし、落ち着いた。

 

「んじゃ行くか」

 

 よし、声もいつも通りだ。クールだ八幡。クールになれ。

 

「……うん、行こっか」

 

 小さく、それでいて心くすぐる声で囁く川崎が隣に立つ。心臓が飛び出るかと思った。

 

 なにこれ、存在だけじゃなく声ですら人の心を無理やりひっ捕まえるのか。ダイソン超えてない?

 

 気を取り直して足を踏み出す。なんだか左側が妙に温かい気がするが無視だ。俺はただの歩く葦である。うん、意味が分かんないね。

 

「ね、あんたの行きたいとこってある?」

 

 あれー、こいつから話振ってきたぞ。しかも内容が思い切り趣旨に反してる。

 

「いや、川崎の服買いに来たんだろ……」

 

「うん、そうなんだけど。そうだったね」

 

「とりあえず行きつけの店とかあるならそっち行くか。案内頼めるか?」

 

「いいよ。行こう?」

 

 自然な動作で川崎が手を伸ばした。その出された手のひらを俺はじっと見つめる。少しして何をしているか気づいたであろう川崎が、慌てて手を背中に隠して、唇をへの字にしながらも愉しげに笑う。

 

 一色がやりそうな仕草なのに、川崎がやると微塵もあざとさが感じられない。

 

 なんなのこの可愛すぎる生き物。 

 

 あなた、昨日まで死にそうな顔してましたよね? 俺が知らない間に一体何があったの? まさか小町、仲良くなるだけじゃ飽き足らず、川崎を男にデレるような女に仕立て上げてしまったというのか……!

 

 いまの川崎は問答無用で男を落とし、近づいてきた男を振りまくるフラれ男製造機に違いない。

 

 しっかりして八幡! 負けちゃだめだよ!

 

 川崎が俺に惚れる要素など、欠片はおろか胞子ひとつ分すらありはしないのだから。

 

 頭をガシガシと掻く。

 

「とりあえず、案内よろしく」

 

 うん、と頷いた川崎は、手を後ろに回したまま歩き出す。いつも通り俺は斜め後ろを歩いていく。その様子をちらちらと川崎が目を向ける(可愛い)。

 

「比企谷はなんであたしの後ろを歩いてるの?」

 

 少し考えるふりをしつつ宙を見上げる。いまの川崎は目に毒だ。

 

「……残り物には福があるっていうだろ? なら後から歩いた方が幸福になるってことだ。つまり、人の後ろを歩くことは楽ってことでもある。楽なことは好ましい。怠惰最高。働きたくねえ」

 

「相変わらずだね」

 

 くすくすと川崎が笑った(超可愛い)。

 

「……場所が分からないんだよ。そういう場合は後ろついていくだろ普通」

 

「それもそっか」

 

 首を傾けた川崎が肩を震わせる(語彙喪失)。

 

 誰か! 誰か俺を正気に戻して!

 

 依頼人が可愛すぎて死ねるとかなんだ。しかも相手が川崎とか想像もしてなかった。戸塚ならあり得るし、思わずプロポーズしてフラれるまである。フラれちゃうのかよ……。

 

 どうやら今日の買い物は前途多難になりそうだ。主に俺の精神が……。

 

 

 

 服屋にたどり着くと、川崎の行動は早かった。女性あるあるで、連れ添いの男性にどっちがいい? と訊く話があるが、川崎は既に決まっていたのか特に意見を聞かれることなく服を選び、サイズと値段を見て次々と買い物箱に放り込んでいく。十分もしない内に会計を済ませ、紙袋と一緒に俺の傍に戻ってくる。

 

「ん、お待たせ。時間かかってごめん」

 

「いや、小町に比べれば数段早い。というかいつもそんな感じですぐ決めて買ってるのか?」

 

「雑誌とかウィンドウショッピングとかで流行は押さえてるからね。あとはサイズと値段だけ確認すればこんなものだよ」

 

 世の女性方、是非とも川崎を見習ってください。こんなに短い女性の買い物は八幡初めてだよ。あ、そもそも俺の経験値が少なすぎましたね。

 

 感心と落ち込みを同時にこなしつつ、川崎と共に店を出る。当然ながら時間が掛かっていないことで、日も明るいし夕食まで余裕もある。つまり、やることがない。

 

 由比ヶ浜さん、雪ノ下さん……そろそろ助けてくれませんか……? まだ連絡が来ないんですが……。

 

 このままでは服屋の前で待ちぼうけだ。待っているのが救援の連絡というのが他力本願過ぎてまさに俺らしい。が、今回の俺はホストだ。つまりは川崎を持て成さなければならない。

 

 しかたない、この冴えわたる頭で考えるしかない。がんばって八幡! こんなときは可愛い後輩を思い出すんだ!

 

 去年の冬に一色と取材の旅に出たことを回想する。のっけから駄目出しされ、別々の映画を見ようとして呆れられ、卓球では姑息な手を使われ、嫌そうな顔しながらも黙々とラーメンを食べ、カフェに行ったら副会長(仕事しろ)と書記ちゃんが一緒にいるところを見つけ、そして写真を撮ってアイスが溶けた。最後は点数が一点だった。いいのか悪いのか分からん……。

 

「卓球かボウリング、もしくは映画、カフェ。それかゲーセンとかあるが、どこか行きたいとこあるか?」

 

 んー、と川崎が顎に人差し指を添える。

 

「……ゲーセンがいいかな。行ったことないから。大志もよく行ってるみたいだし」

 

「分かった。ちょうど近くにあるな。行くか」

 

 脳内検索してアドアーズ千葉店を発見。川崎が右手に持っている紙袋を取り上げて歩き出す。

 

「あ……ありがと」

 

「癖だ。妹に仕込まれててな」

 

「さすが小町だね」

 

 マルシェ通りから脇道に外れ、外房線沿いに歩くとオレンジ色の建物が見えてくる。雑多な電子音が混じり発せられるその入口に、川崎を連れて入っていく。途端、ゲーセン特有の小うるさい騒音が耳に叩きつけられた。ゲーセン好きとしては少しワクワクする気分だ。なんか新台出てないかなーと見まわしたくなるが、今回は案内のために我慢する。

 

 横を見ると、川崎が不思議そうに視線をきょろきょろとあちこちに飛ばしていた。嫌そうな表情は見えず、ただただ目の前に広がる遊び場に純粋な興味を示しているようだ。間違いでなかったようで安心する。

 

「なんかやってみるか?」

 

「うん、おすすめある?」

 

 そうだなー、とそろっと店の奥を見てびっくり。おいおい、ダンレボあるじゃねえか。久しぶりに見たぞ。また流行り出したんだろうか。運動神経よさそうなら川崎なら大丈夫かもしれん。

 

「ダンレボでもやってみるか」

 

「だん、れぼ? なにそれ?」

 

「リズムに乗って踊るゲームだな。上下左右の矢印が下から上がってきて、リズムよくタイミングよくそれに対応した足場を踏むってやつだ。ま、行ってみるか」

 

「うん」

 

 先に進む俺に川崎がしっかりと付いてくる。

 

 二台のマシンが鎮座された場所に辿り着く。どうも人気がないようで誰も使っていない。まあ、恥ずかしいもんなああれ。俺もやったことないし。恥ずかしがり屋の可能性が高い川崎には難易度が高かったか……?

 

 恐る恐る隣を見るが、川崎は興味津々に煌々と光るディスプレイを熱く眺めていた。

 

「やるか?」

 

「やる。やろ!」

 

 即答すぎる。んもう、サキサキったらはしゃいじゃって!

 

 いきなり袖口を掴んだ川崎が俺をぐいぐいと引っ張っていくと、マシンの上に立つ。俺が硬貨を投入するとディスプレイの表示が切り替わり、「きゃっ」と川崎が可愛い悲鳴を上げる。

 

「え、なに? もうピコピコ始まったの? え? どうすればいい?」

 

 ピコピコとかお前はオカンか。ニヤニヤしちゃうじゃないか。

 

「落ち着け。曲の選択画面に移っただけだ。最初はローテンポの曲からやって感触を確かめていけばいい」

 

「わ、分かった」

 

 川崎に指示を出して曲を選定。ゲームが始まる。

 

 初心者に優しい遅い曲で、楽譜も少ない親切設計だ。

 

 画面上部から矢印が落ちてくる。

 

「ひ、比企谷! こ、これどうすればいい? 殴るの? 殴ればいいの?」

 

「待て、殴るな。これはそういうゲームじゃねえよ。踏むんだよ」

 

「なに踏むの? あんた?」

 

「お前はドSなのか? ちげえよ。矢印に対応した床を踏むんだよ。足元見てみろ。矢印あるだろ」

 

「あった、あった比企谷! これを殴るの⁉」

 

「なんで殴っちゃうんだよ。踏むんだよ。ステップだステップ」

 

「わ、分かった。ステップだね」

 

 最初の譜面をいくつか飛ばすものの、ぎこちないながら川崎はタイミングを合わせていく。

 

「ね、ねえ。いつ殴ればいいの?」

 

 この子、テンパるとりあえず何か殴りたくなるの? やだ、なにそれ怖い。

 

「その拳は一生封印しとけ」

 

「分かった。ステップだけにしとく」

 

 ようやく集中してきたのか、変な発言はせずに成功ステータスが加算されていく。楽しくなってきたのか、鼻歌を歌いながら上半身を躍らせステップを踏んでいく。

 

「あはっ、楽しっ」

 

 なんだろう。残念な男が高難易度をプレイしている動画とかあるが、いま俺が見ているのは見目麗しい美女が初めてのゲームで楽しそうにステップを刻んでいる姿だ。ときどき失敗して悔しそうにしている横顔も、タイミングばっちしが重なって嬉しそうに弾んだ表情も、いままで見たことのない気分にさせられる。川崎が踊る様を阿呆のように眺め続ける。

 

 やがて、1STステージが終わり、2NDステージに切り替わる。ふんふんとハミングを弾ませながら川崎はもうノリノリだ。

 

「見てて比企谷、次は完璧にするから!」

 

「おう」

 

 曲調が変わる。さっきよりもアップテンポな曲だが、やはり譜面は少なく難易度は低い。川崎も前奏時点で感覚を掴み、最初から違えることなく足を動かしながら腕を広げる。

 

「ね、初めてにしてはすごくない?」

 

 頬に軽く汗を滲ませた川崎が俺を見て言う。

 

「まったくだ。俺を越えたな。弟子に越えられる師匠の気分が分かったわ」

 

「やったっ!」

 

 喜び踊る川崎に、それを眺め褒めたたえる俺。初めての構図だが違和感はない。逆にしっくりくるくらいだ。この状態をなんと言えばいいのか分からない。ただ、胸の奥が熱く、でも妙に安心するような温かさが全身を巡る。

 

 時が止まればいいと思った。ずっとこうしていたいと思えるほどに。そんなこと、いままで一度たりとも感じたことがなかったというのに。

 

 完全クリアで川崎は2NDステージが終わり、Lastステージが始まる。前二曲よりも少し難易度が上がった譜面を、川崎はそれでも軽快にこなしていく。

 

 調子に乗った川崎がくるりと一回転。ふわりと広がるフレアスカート。満面には太陽と見まごう輝く笑顔。

 

 幸せだと思った。なにがどうしてなど、そんな理由を考えるのが無粋だと思えるくらいに。ただこの光景を心のフィルムに焼き付けておきたかった。

 

 気づくとゲームは終わっていた。肩で息をした川崎が、んふふ、と微笑みながら俺を見つめて手を差し出す。

 

「ね、一緒にやろ?」

 

 答える間もなく川崎に引っ張り上げられる。たった一度の俺の動きで理解したのか、硬貨を投入して画面を操作していく。

 

「じゃあ、次は中級っぽそうなのやろっか」

 

「おい、待て。俺はこのゲーム得意じゃないぞ?」

 

「じゃああたしと一緒に踊って。勝ち負けなんてどうでもいいから」

 

 卑怯だ。そんな可愛い顔で言われちゃ断れないだろ。

 

「じゃ、スタート!」

 

 画面が切り替わる。想像以上に譜面が難しく、のっけから大量にミスをする俺。川崎は既にコツをつかんだか悠々とステップを踏み続ける。やべえ、この子、才能あるんじゃないの?

 

「ふふっ、へたっぴー」

 

「うっせ。これは準備運動だ」

 

 あははと川崎が笑い、手を伸ばしてくる。

 

「呼吸合わせて。ね?」

 

 自然とその手を掴んでいた。絶対にあり得ない行動がすんなり出来てしまった。恥ずかしいとも怖いとも、そんな負の感情が欠片も浮かばない。徐々に俺の方もリズムに乗ってくる。

 

「うんうん、その調子。うまいね」

 

「師匠がいいからな」

 

「崇め奉る?」

 

「調子に乗るな。だがまあ、素直にすげえと思うわ」

 

「うん、ありがと」

 

 重ねていた手を川崎が握る。思わず目を見開いて川崎を見るも、彼女は画面をみたままゲームに興じている。

 

「ん、ほら、楽しんで?」

 

「あいよ」

 

 意を決して握り返し、俺も集中する。世界のすべてが消え、ただ俺と川崎だけがいる錯覚。なにもかもがただこの一瞬のためだけに存在したのではないのかと思う、妙な高揚感。

 

 たぶん、これが他人といて楽しいと感じる感覚なのだろう。由比ヶ浜や雪ノ下に感じる安心感とは違う別の感情。これがなんなのかは分からない。怖いのかもしれない。だからすぐに蓋をして、いまを楽しめればいいと強く信じた。

 

 

 

 


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