思いのほか熱中してしまい、一時間もダンレボで過ごしてしまった。いつの間にか人だかりが出来ていて超恥ずかしかった。まあ、そのほとんどの視線は川崎に集中していたのだが。
そんなこんなで、その後クレーンゲームやらレースゲーム、コインゲームなどで遊んだ。川崎は大層楽しかったようで、終始ご機嫌状態だった。いまどきゲーセンでここまで喜んでくれる女子高生なんていないよ? 八幡うれしいわあ。
などと心中で感慨深く呟き、時間も頃合いなのでゲーセンを出た。
街は既に黄昏の海に沈み、長く影を伸ばしている。なんだか不思議な半日だ。こんな気分になったのは初めてで、言語化できなくてどこかもどかしい。
隣を歩く川崎は鼻歌を歌ってご機嫌だ。その様を見て微笑ましく思える自分に驚愕する。
なんなのだろうかこれは。隣に女子がいるのに変に緊張せず、落ち着いているのにどこか浮足立って、身体がほかほかと温かい。すぐ傍にある気配があることが嬉しくて堪らない気分にさせられる。
意味が分からない。すべてが初めてで、心の置き場所が分からない。
「もう帰る?」
川崎が俺を見上げる。その瞳は潤んでいて、見つめているだけで吸い込まれてしまいそうになる。思わず前かがみになるのをぐっと堪える。
帰りたくない。
なんて、あり得ない科白が浮かんだ。
慣れない事ばかりで頭がトチ狂ったのだろう。
そう、考えることにした。
「ま、どっかで飯食ってくか。そういや小町もたまには一人で食べたいとか言ってたしな」
ゲーセンにいる最中、小町から来たメールがこれだ。
「今日はひとりで夕飯を食べたい気分なので、夕食は作ってあげません。どこかで食べてくること。愛しの小町より。あ、これ小町的にポイントたっかい~☆」
見たときはイラっとしたが、正直いまはありがたい気分だ。ハーゲンダッツを買ってお供えしたくなっちゃう。
「ん、分かった。なに食べたい?」
目じりを下げた川崎が訊いてくる。まったくもう、どうしてこの子はいつも人の意見を優先させようとしちゃうの? ちゃんと今回の趣旨理解してるのかしら。困ったわあ……。
「俺に訊くな。川崎は何食べたいんだ? 千葉は俺のテリトリーだから、大抵は網羅してるぞ」
本当はサイゼを推したいところだが、過去の経験がそれは駄目だと訴えかけていた。千葉県一のサイゼリアンを自負する俺としては苦渋の決断だ。
そんな俺の考えを知ってか知らずか、川崎は途端に悩み始める。
「なんだろう、いつも弟とか妹に合わせてたから、ぱっと出てこない」
「好物のひとつくらいあるだろ。なんでもいいから言ってみな」
じゃあ、と川崎が恐る恐る口にする。
「オムライス」
「んじゃ、洋食屋だな」
しばらくふたりで街路を歩き、ペリエ千葉に入って目的の洋食屋を目指す。苦痛の欠片も感じられない徒歩の時間を川崎と過ごしているうちに、五階にある洋食屋に辿り着く。古き良きあの味を再現しているらしい店の店員に、二人掛けの席へと案内される。ちょうど俺たちで満席になったようだ。夕食にはほんの少し早い時間だったが、タイミングが良かった。
「ここ来たことないな。比企谷は来たことあるの?」
「小町とたまにな。懐かしきあの味って奴だな」
「そっか、楽しみ」
頬を綻ばせて川崎がメニューを開く。店員が持ってきたグラスを指先で突いて、楽しそうにメニューを眺め始める。
俺も選ぶかとメニューに触れたところで、川崎が困ったように「どうしようかな」と呟く声を耳が拾う。
「なに悩んでるんだ?」
顔を上げた川崎は悩んでいても楽しそうだ。
「うん、オムライスも色々あってね? このチーズクリームのとビーフシチューの、どっちがいいかな?」
「そういや、小町も似たようなことで悩んでたな。結局シェアするってことで落ち着いたが」
「そうなんだ。うちもそうかも」
自然と口が開く。
「んじゃ、そうするか」
きょとんと首を傾げる川崎。
「いいの?」
「俺も気になるしな」
浮かんだ焦りを水と一緒に飲み下して店員を呼んで注文する。
なにやってんだ俺は。川崎といるとどうにも調子がおかしくなる。いつもの俺がどこかへ飛び立ってしまったようだ。恥ずかしい科白も、行動も、考えも、簡単にまろび出てきてしまう。
まさか、浮かれてるのか?
俺が?
はっ。
あり得ん。
一体どれだけ苦渋を飲まされてきた。黒歴史を思い出せ。いまの俺は俺じゃない。俺に似た別の何かだ。これは俺じゃない、俺じゃ……。
「ありがと」
落ちていた視線が上がる。川崎と視線が交錯する。彼女は俺をしっとりとした目で見つめて、もう一度言った。
「ありがと、比企谷」
思考が止まる。
「……なにがだ?」
「今日のこと。昨日のこと。それと、明日からのこと」
今度は言葉が出ない。喉に何かが詰まってしまったように。身体が意思を喪失したように。ただただ呆然として、川崎へ視線を注ぎ続ける。それ以外のすべてが、どうだっていいとばかりに。
「ね、あんたといると、楽しいね」
顔が燃えたかと思った。いきなり首から上が熱くなって、目をしばたたかせる。
泣きそうだった。誰もいなかったら大声で泣いていると思った。心が何かを叫びたがっているのだと感じた。
「そうか」
かろうじて声が出せた。震えていたかもしれない。当たり前だ。
嬉しかったのだ。
そんなこと――だれも言ってなどくれなかったから。
互いに言葉が消えた。無言でもいいと思った。ただ傍にいてくれさえすれば、なにもいらないと信じられた。過去の失敗も、濁った感情も、すべてがどうでも良くなった。
現実が戻ってくる切っ掛けは、しばらくしてからだった。店員が注文の品を持ってきたのだ。外食に来ているのだから当然なのに、理不尽にも邪魔をするなという言葉が浮かんだ。
アホか俺は。どこまで脳内お花畑になってんだ。冷静になれ。夜になったら布団被ってジタバタするんだからいまは落ち着こう。ほら、いま体力使うと夜バタバタできないし。やだ、もう黒歴史確定なのこれ……。八幡もうこれ以上黒歴史作りたくない……!
よし、いつもの調子が戻ってきた。
ひとまず軽く深呼吸だ。
ひっひっふー……って、俺は妊婦さんか。うん、自分でノリ突っ込みなんてやっぱりおかしいですねえ。さては、これは病気かな? 明日病院行かないと!
駄目だ。いつもが戻ってこない。おかしいな、変わったとしてもまだ拗らせていたはずなのに、いつもとやらがどんどん分からなくなってくる。果たして、いまの俺はなんなのだろう。
思考の渦に嵌りかけたそのとき、弾んだ声が俺を呼んだ。
「ひーっきがや」
「ん、あ、どした?」
川崎がおかしそうに微笑む。
「なに難しい顔してるの? 食べよ? おいしそうだよ?」
ビーフシチューのオムライスを一口サイズにスプーンで掬った川崎が、ひょいと俺の口に差し出す。
「はい、どうぞ」
「……っ!」
これにはたまらず口元を抑えて仰け反った。いきなりハードルを二つくらいすっ飛ばしてきやがったぞこいつ。いや、ハードルってなんだよ。
疑問符を浮かべていた川崎だったが、ようやく自分の行為の意味に気づいたか、視線を彷徨わせる。
「えっと、その、あの……」
唇を開いては閉じを繰り返し、やがて……。
「あ、あたしのご飯が食べられないって言うの?」
顔を真っ赤にして言った。言いやがった。意味が分からない。なに言っちゃってんのこの子?
「いや、それ川崎が作ったやつじゃねえだろ」
「確かに……でもとりあえず食べて」
「納得したのに食べさせるのかよ」
「こ、こっちも引き下がれないの! そう、これは勝負。あんたとあたしの勝負」
「いや、なんのだよ」
「互いのプライド?」
「この行為のどこにプライドが関係するのかが分からん」
「いいから、ひねくれてないで食べる!」
ぐいぐいと押し付けようとする川崎を避けることができず、仕方なしに口を開く。超恥ずかしい。羞恥心で焼けこげる。周囲の視線が集まってる気がする。
口の中にスプーンが滑り込む。ビーフシチューの香りととろりとした卵の感触、チキンライスの味が舌の上を転がる。なにより、幸せの味が口の中に広がって心が痛いくらいだ。
「ん、おいし?」
こくんと頷く。口を開けば変なことを言いそうだった。
俺の反応に満足そうに微笑んだ川崎は、スプーンで掬って口に運ぼうとし、止まる。その視線の先は手元。視線を左右に動かしして一度目を強く瞑ると、いざ勝負とばかりに口に突っ込む。
「……んーっ!」
途端、顔を綻ばせ両肩を交互に上下に動かす。
「すごい、おいしい!」
「そりゃよかった」
息も絶え絶え言う俺に対し、川崎は大層ご満悦だ。まったく、嬉しそうにしちゃって。こっちも喜んじゃうだろうが。
俺はチーズクリームの方へと食指を伸ばす。一口分をスプーンに乗せて口に運ぼうとしたところで、ふと顔を上げた。川崎が俺を凝視していた。いや、正確には俺が持つスプーンの先端だ。
「……どした?」
「ん、食べる」
「そうか、好きに食べてくれ」
左手でチーズクリームのオムライスを川崎へと近づけるも、首を振って視線を俺のスプーンへと注ぐ。
「……違う。それ食べる」
川崎が俺の持つスプーンを指差す。
「……俺はプライド無いから負けでいいぞ?」
言って、そのまま口に放り込もうとしたところで川崎の手が伸びて、俺の手首を掴んだ。
「な、ナンデスカ?」
「私の勝ち。だから食べさせて」
「その理屈だと勝とうが負けようが結局食べさせなきゃいけないのかよ」
「うん、だから……ちょうだい?」
川崎が上目づかいで眉を下げてお願いしてくる。この人はこれを計算でなく天然でやるからたちが悪い。これを断れる男がこの世界に居るのだろうか。いや、居るまい。
震えそうになる手を強固な意識で固め、スプーンを川崎の綺麗な唇へと向ける。彼女は顔を赤くしながらも目をつぶって口を開いてスプーンを受け入れる。
ん、と川崎の甘い吐息。心を直接指で撫でられたような恍惚感。咀嚼を終えた彼女の喉がこくんと鳴る。
しばらく余韻に浸っているのか、川崎は目を閉じた状態でいた。やがて、まぶたを開いてへにゃりと笑った。
「おいし」
頬を抑えた川崎がチーズクリームーのオムライスをひと掬い。ようやく普通に食べるのかと思いきや、スプーンの矛先を俺に向けてくる。
「はい、どうぞ」
「待て、そろそろ普通に食おう。あれだ、時間が掛かる。というか、恥ずかしくて死ぬ」
「うん、あたしも恥ずかしい。でも……これで最後だから」
悲し気に言われては断ることなどできない。最後の一口とやらを羞恥に燃やし尽くされながら食べ、ようやく俺は一息つくことができた。
食べるって、疲れるんだね。
なのに悪い気分じゃない。むしろ……。
間欠泉のように湧き出した感情は一体なんなのか。まだ答えは出ない。
千葉の街に夜の帳が下りる。人工灯火によって明るい道を川崎と共に無言で歩いた。気まずさから来る沈黙ではない。言葉が出なかった。たぶん、川崎もそうなんじゃないかと思う。なにを言えばいいのか、なにか言っていいのか、言葉に発するだけで、いまのこの空間を徹底的に破壊してしまうのではないのかと恐れて。
そんな風に思い悩むほど、ふたりで歩くいまが心地よかった。調子が狂う、普段と違うどころの話じゃない。まったく別人になったような心の情動。なのに、やっぱり気持ちの悪さや居心地の悪さなど微塵も感じられなくて、宝箱に仕舞って一生大事にしてしまいたいと願いたくなる。
もしも、もしもである。
この想いが本物であるならば、俺はこの道を進んで良いのだろうか。
過去の経験は引き返せと叫ぶ。黒歴史は期待するなと冷ややかに指摘する。
ならばいまの俺はどうだ。なにを考えている。なにを思っている。なにを感じ、一体どうしたい?
思考がまとまらない。感情がぐちゃぐちゃだ。客観的に見れば吐き気がするに決まっているはずなのに、どうしても負の感情が出てこない。経験も歴史も過去のなにもかもが役に立たない。
俺は、未知の世界にいるのではないか。
「比企谷」
比企谷家まであと百メートルばかり。川崎が突然俺の名を呼んだ。思考に滑り込んできたその声に、俺はぎこちない動作で彼女を見る。
川崎は前方を見つめたまま唇を緩めていた。
「ありがとう。楽しかった。すごく、すごく楽しかった」
「……ああ」
「夢みたいだった」
「……そうか」
「だから、だから……」
川崎が言葉を止める。
先が気になる。もっと声を聴いていたい。
川崎が首を振る。一度唇を噛みしめると俺を見上げ、言った。
「明日も、明後日も、その次も、またその次も……一緒に居て」
瞠目する。冷静な思考はもはや紡げない。ただ、言葉の意味をかみ砕いて、少しつらくなった。
「……ああ、分かった」
依頼だ。そう、これは依頼だ。川崎を助けるために俺は動いているのだ。
忘れるな比企谷八幡。
自惚れるな。
川崎沙希は、どうしようもない孤独の深淵で助けを求めていた。その手を掴んだのがたまたま俺だっただけだ。
だから……、だから――。
これは錯覚だ。
たまたま何かが噛み合ってこうなったに過ぎない。一時の感情。気の迷い。助ける人に、助けを求めた人に、好意を感じていると勘違いしているだけだ。
分かっている。
理解している。
人の心など俺は計算できない。
きっとこの答えも間違いなのだろう。
なら、もう少しだけ。神か仏か、それとも悪魔か、なんだっていい。
誰か、この時を止めてくれ……。
◇◆◇
家に戻ると、小町はいなかった。リビングにあった置手紙には、友達と夕食を食べてくると書いてある。
小町ちゃん? ひとりで食べたかったんじゃなかったの? ボロ出過ぎだよ? お兄ちゃんやっぱり将来が心配だよ……。
風呂場にお湯を張って遠慮する川崎を押し込んで、俺はひとり自室に引っ込んだ。いまひとりになりたいのは俺だ。
心はまだ落ち着かない。心臓は狂ったように早鐘を打ち、身体は火照って仕様がない。
勉強机に投げ出していたスマホが突然震える。小町かと思って画面を見ると、雪ノ下の名前が表示されていた。
「ごめんなさい、遅くなったわ」
「いや、今日は何とかなった。色々考えてくれたみたいで助かる。訊いていいか?」
「あなた……」雪ノ下が言葉を詰まらせる。「いえ、なんでもないわ。本題だけれど、答えは意外と簡単だったわ」
「というと?」
「川崎さんの行きたいであろう場所に、あなたが決めて連れて行きなさい。誰が考えたわけでなもなく、あなたの意思で」
「なんだそりゃ」
「いまは分からなくてもいい。そうしなさい。誰かが味方をしてくれる。誰かが自分を見ていてくれる。心配してくれている。それが伝われば、なんだっていいのよ」
「俺は別に……」
「あなたは、それができる優しい人よ。自分で気づいていないだけ。あなたの不器用な優しさは、きっと川崎さんに伝わっているわ。私が、そうだったから」
別に優しくなどない。自分勝手に捻くれているだけだ。雪ノ下と由比ヶ浜の存在、奉仕部で過ごした一年で少しは成長したように見えるだけ。そう思っているのに、雪ノ下の言葉は神水のようにすんなりと心に染みわたる。
「そうか」
「ええ、そうよ。今日は楽しかった?」
「ああ、そうだと思う」
「よかった。あなた、いい声してるわよ」
「そうなのか?」
「一体どれだけあなたの捻くれた声を訊いてきたと思ってるの。間違いないわ。あなた、今日一日でまた成長したわ。本当に、羨ましくなるくらい」
「雪ノ下も成長してると思うぞ」
「そんな意味じゃないわ。いえ、気にしないで。それより最後に由比ヶ浜さんから伝言よ。
あたしたちは絶対にヒッキーの味方だから。それだけは絶対に忘れないで。
これは私も同じ気持ちよ。決して忘れないで。あなたはひとりじゃない。私たちがいる。何かあれば、なにもなくても、連絡してきなさい」
「……サンキューな」
「気にしないで。それじゃあ、そろそろ切るわ。少し早いけれど、おやすみなさい」
「ああ、おやすみな」
通話が切れる。俺はなんとも言えない妙な気分になって、そのままベッドに倒れ込んだ。
泣きそうだ。
もう、大声で泣きわめきたい。
目じりが熱くなって、涙が頬を伝った。シーツに染みる冷たさが、自分が泣いている事実を教えてくれた。
嗚咽が漏れた。でも、決して声は漏らさないように両手で口を塞いだ。
川崎が風呂を出るまであと何分か。
それまでにはこの喜びを押し込め、受け入れ、普通の顔で迎えなくてはならない。
今日一日で感じたこの感情の名を、まだ俺は決めたくはなかった。