「先輩の後輩としましては、先輩がちゃんと友達が出来ているのか知る権利があると思うんですよ。これでもちゃんと心配してましたからねー」
ピッツァ屋に入り席に座った途端、開口一番に一色が言った言葉がそれだ。お前は俺のオカンか。
俺の内心の突っ込みなど気にせず一色がまくし立てていく。
「ということで川崎先輩、今日はなにする予定なんですか? ちゃんと先輩は予定組んでくれましたか? この人、唐突に帰りたいとか言ってないですよね? 映画を見ようとして別々の作品をそれぞれで見よう、とか意味不明なこと提案してないですよね? あとこれデートじゃないですよね? 友達ですもんね?」
ねえ、やっぱり以前の取材のこと根に持ってるよね? というか、ゴールデンウィークなのになんで普通にここにいるのこの子……。サッカー部はどうした。あ、どうせサボりですよねー……。
対する川崎は、頬杖をついてくすくすと笑っていた。後輩の一生懸命な姿に思うところがあるのだろう。まあ、その一生懸命の理由がすごく酷い気がするのは気のせいではないだろう。
「うーん、予定は秘密。でもちゃんと八幡が考えてくれたよ。帰りたいなんて一言も言ってないし態度にも出してない。映画はまだ見てないけど、うん、映画もいいかな? あと、これはデート。少なくともあたしはそう思ってる」
不意打ちでそういうこと言われると恥ずかしいんですけど……。よく考えれば、後輩に沙希と一緒にいる姿を見られてしまった。学校とかで噂されないよね? 恥ずかしいなあ……。
変なことを考えて口元がニヤつくのを必死で押さえている俺とは異なり、一色の表情がどんどん硬くなっていく。
「むむむ、突っ込みどころが多すぎます。先輩がちゃんとデートの内容を考えるなんて、天変地異でも起こったんですか? それに先輩が家に帰りたいって言うのは絶対のはずないのに……。しかも、しかも、川崎先輩が先輩を名前呼び……。一体なにがどうしてこうなってるんですか、先輩?」
「色々事情があったんだよ」
ひと言でまとめると、色々あったのだ。それを言うのは守秘義務に抵触するし、なにより俺が恥ずかしい。沙希に見やると、微笑ましい目つきで一色を眺めていた。と、思いきや、
「あ、ごめん八幡、一色、ちょっと席外すね。すぐ戻るから」
突然立ち上がると、沙希は店内の最奥部の方へ歩き出した。あれはうん、余計な詮索はやめよう。
沙希が居なくなってから一色の表情に憂いが生まれる。わずかに身を乗り出して桜色の唇を俺に近づける。
「本当に大丈夫ですか? 騙されてませんよね? 先輩の優しさにつけこんできて好き放題やられてるとかないですよね? これでも本気で心配してるんですよ……」
「沙希はそんな奴じゃない。あれだ、本当に色々あって、まあ、俺も信用してるんだよ」
「先輩まで名前呼びしてるんですか……。まあいいです。信用って、雪ノ下先輩や由比ヶ浜先輩、私くらいですか?」
「比べるもんじゃないが、まあかなり信用していると思ってくれ。小町もたぶん似たようなもんだろ」
「小町ちゃんまで……。分かりました。とすると……ごめんなさい。かなり邪魔しちゃいましたね」
しゅんとした一色が頭を下げる。いつも横暴なくせにこういうときは殊勝なのだから、やっぱり可愛い後輩だと感じてしまう。
「ま、気にすんな。沙希が戻ったらそれとなく謝っとけ」
「はい、本当にすみませんでした」
一色はもう一度ぺこりと頭を落とす。こんな一色など見たことないから面白くなってしまう。俺の口元が緩んだのを目ざとく見ていた一色が、いつものあざとさを取り戻してぷくーっと頬を膨らませる。
「なに笑ってるんですか。後輩が謝罪してるんですよ。威厳ある面持ちで受け止めるのが先輩の甲斐性ってやつじゃないんですか?」
「だったら後輩らしくもう少し俺に遠慮しろ。毎回仕事押し付けやがって」
にっこり笑顔を作り、ふわっとした声で一色が言い返す。
「責任とってくれるって言ったじゃないですか~?」
「言ってねえからな。あと生徒会選挙の件を持ち出すのやめてね。もう時効だ時効」
「いいじゃないですか。私も、きっかけがないと奉仕部に行けないんですよ……」
ふと、寂し気な顔で一色が笑って言った。
「別に、気にしないで好きなときに来ればいい。あいつらだってお前のこと待ってるからな」
「はい、分かってます。ただ、本当は頼りたくないんです。ちゃんとできるって証明したいんです。でも、やっぱりあの空間に居たいんですよ」
「複雑な心って奴か。まあ、がんばりたきゃがんばればいい。だが、息抜きくらいに来るのは別にいいだろ。理由なんかなくてもな」
「ありがとうございます」
この際だ、もうひとつ言っておこう。
「仕事振るのマジでやめてね。最近の俺の評価が大暴落してるから」
一色の笑顔が急に威圧感を放ち始める。あれ、変なこと言ったかな俺……。
「あの先輩? いま感動の場面でしたよね? なんでいきなり台無しにしてくれてるんですか? バカなんですか。アホなんですか? 八幡なんですか?」
「八幡は悪口じゃねえよ。小町に悪影響を及ぼしてると思ったら、小町からも悪影響もらってんのかよ。やっぱ会わせるんじゃなかったわ」
小悪魔とあざと女子を配合すると、小悪魔あざと女子が出来上がる。まったく、厄介なことになったもんだ。
「おまたせ」
ふわりとした雰囲気を漂わせて沙希が戻ってくる。俺と一色の様子を見てひとつ笑みを落とす。
「やっぱあんたら仲いいんだね」
沙希を見上げる一色が、恐る恐る切り出す。
「あの、川崎先輩……」
「うん? どしたの?」
「さっきはごめんなさい。勘違いして失礼な態度を取ってしまって……」
謝罪する一色に、沙希がゆっくりと首を振る。
「いいよ。気にしないで。八幡のこと知ってたら、客観的に見てあたしの存在は怪しいからね。単純に心配してるんだって分かってたから、気にしてないよ」
一色が目をぱちくりとする。
「そこまで分かってたんですか……」
「分かんないけど、なんとなくかな。あたしも八幡と似たような立ち位置だし、いきなり仲良さげに男子とデートしてたら騙されてるとか思われそうだからね」
だから、と沙希が続ける。
「あんたと八幡の仲が羨ましいとは思うけど、怒っちゃいないから。安心して。さ、注文しよっか。あんまり変に長居しちゃうとお店に迷惑だよ」
「はい、そうですね。じゃあ、何にしましょうか」
あっけらかんとした態度の沙希に、一色も平常運転に戻ったようだ。きゃぴきゃぴと女子らしく、ふたりでああでもないこうでもないと言い合ってメニューの上に指を滑らせている。
うん、なんというか。急に疎外感感じちゃったな俺。寂しいなあ。俺ちゃんとここにいるからね? はい、いつもいないもの扱いの俺です。
なんて、思ってる間があるわけもなく、
「八幡はなにがいい?」
「先輩~。今日は記念なんだからなんか奢ってくださいよ~」
沙希はやっぱり優しいし、一色はいつも通りどころか一層厚かましくなっている。
まったく、もう少し浸らせてくれないかなあこの子たちは。なんて、そんなことを微塵も思っていない事実にもはや驚きすら浮かばなかった。
「ではでは、私はこれで~。川崎先輩、今度先輩のエスコート内容を報告して下さいね~。私がばっちし採点しますので! あと先輩、その眼鏡とても似合ってますよ。学校に付けていったらモテるんじゃないですかね? それではまた」
食事を終えたあと、店の前で一色とは別れた。いちいち無駄な一言ばかりを付け足し、手をふりふりしながら小走りで去っていく一色の後ろ姿を少しの間沙希と一緒に眺めていた。
「……いい子だったね。あんたのことすごく心配してた」
「心配されるようなところ見せた覚えないんだがな」
「あの二人は、あたしのことをどう思うのかな」
沙希が呟いた言葉は大きくなかった。想像するまでもなく、あの二人がどう考えるかなど分かっている。沙希には言えないが、そもそも既に報告を入れているからだ。
「沙希のこと心配するだろ。変なことされてないかって、俺をからかいながらな」
「ほんと、あんた偽ぼっちだよね。しかも周りは女の子ばっかり」
「待て、戸塚を忘れるな」
沙希の呆れ顔。
「あんた……本当に戸塚が好きなんだね」
「当たり前だ。戸塚は俺の天使だ。崇め奉るまである。別のクラスになったと知った日なんて枕を濡らしたくらいだ」
「あんた、意外と泣いてるんだね……」
「俺を泣き虫みたいに言うのやめてね」
ふーんだ、と沙希がぷいっとそっぽ向く。どうやらご機嫌斜めのようだ。理由が分からないから困る。
若干慌てふためいていると、ちらりと俺を見た沙希が破顔した。
「なーんてね。冗談だよ。さあ、続き行こっか」
沙希が右手を差し出す。その手を自然と取れるようになったのは、彼女への信頼の証か。それとも、やはりそうなのだろうか。
まだどこかに恐怖は残っている。いつも失敗してきたから。いつも間違ってきたから。自分の想いすら満足に理解できてこなかったから。
もっと考える必要がある。心の動きを紐解く必要がある。俺には感じることはやっぱり難しくて、理論立てて消去法で真相を掴んでいくことしかできない。
「お互いね」
ふいに、握った手の感触を確かめていた沙希が小さく言った。
「もっと素直になろうね」
難しいこと言ってくれる。あれだけ醜態をさらした後だって、俺はやっぱりどこかで感じているのだ。人の心は恐ろしいと。
そして、いまは相手が沙希であれば余計に恐怖を覚える。それは決して沙希が怖いとか嫌いとかそんなものなんかではなくて。
沙希が俺のことをどう想っているのか。少しでも良い感情を抱いていて欲しいという願望から来る、真反対だったときを想定した先回りの恐怖だ。
これもう、落ちてんじゃねえかな。
思わず顔を覆いそうになって、無理やり右手の力を抜いて落とす。
結論付けるのはまだ早い。まだ時間はある。まだ一緒にいられる。なら、余計なことを考えて無駄に時を過ごす暇はない。
「んじゃ、適当に回るか」
沙希の手を少しだけ強く握る。ぴくりと動いた沙希の手が、心を繋げんとばかりに握り返してくる。
これだけの動作で、心の底がわっと騒いだ。こみ上げてきたものは、きっと歓喜の噴水だ。体中が潤って世界すべてが輝いて見える。この世は嫌なことばかりではないと言い切れる。
無上の喜びを感じながら、沙希とららぽ内のテナントをハシゴしていく。沙希は色々な表情を俺に見せてくれた。俺も同じだろう。
楽しかった。昨日よりもずっと。明日もそうだろう。その次も、またその次も。楽しさがどんどん膨れ上がって、幸せで身体が破裂してしまうのではないだろうか。
下らない妄想を垂れ流していると、沙希が俺の肘に触れる。唐突の感触に目を向けると、俯いた沙希が恐る恐るというように繋いだ手をほどき、俺の腕に右手を回す。更に左手も添えて身体を預けてくる。
「このままでいい?」
こくん、と喉を鳴らす。
艶のある瞳で見上げられ、囁きに動く沙希の唇がどこか扇情的で。一瞬で思考が吹っ飛ばされた。
なにも言わない俺に沙希の顔に不安が滲みだす。俺はぐっと奥歯を噛んで空白を取り戻そうと口を開く。
「ま、やってみるか。やったことないから知らんけど」
沙希の顔に光が生まれる。
「うん、あたしも初めて。八幡だったらいいよね」
「あの、俺を実験台にするみたいな言い方やめようね?」
「八幡優しいもんなー。これくらいじゃ怒らないよねー」
あらやだこの子、態度が小町に似てきたわ。やっぱひとつ屋根の下で暮らすと似てくるのかしらん。
沙希に腕を絡められながら先へ進む。視線があちこちから刺さっている気がして身体がちくちくする。気のせいかな、とちらっと周りに目をやる。
本当にみんな見てるよ……。まあ見るよね。沙希ってかなり美人だしね。俺なら彼氏側の男を呪い殺す勢いで睨みつけて家に帰って藁人形と五寸釘を用意するまである。って、彼氏じゃないのに呪い殺されちゃうよ俺。
うすら寒いものを感じていると、沙希が更に身体を密着させてくる。自動で仰け反りそうになるのをぎりぎりのところで堪える。
ほんとにやめて! 心臓に効くから!
「ね、ゲーセンやめてカラオケ行こ?」
沙希が甘え声を出して上目遣いに俺を見る。
死ぬかと思った。
隙を見せたら殺られる。なにがどうしてそうなるのか分からないが、本気でそう思った。それくらい破壊力がある仕草と声だった。
「うん? どうしたの?」
沙希が小首を傾げる。
ぐっ……。
この人はこれを無自覚でやるから困る。一色とは違う天然畑の可愛さだ。
「あれだ、カラオケな。分かった。行くか、うん、カラオケな、知ってる知ってる。あの歌って踊るやつだろ」
「歌うのは知ってるけど、踊るの? え? カラオケってそんなところなの? 行ったことないから知らないんだけど」
腕を抱いたまま沙希が俺に詰め寄ってくる。大きな胸が潰れて俺の腕を包み込んでくる。迷走した会話を戻そうとしていた頭がぶっ飛ばされる。
落ち着け比企谷八幡。現状を確認しろ。いま把握すべき大事な科白があったぞ。
頭をフル回転して沙希の言葉を思い出す。
うん、行ったことないから知らないんだけどって言ってたね。
沙希さん、カラオケ初めてなのね。一体どうして……ああ、友達がいなかったんですね。分かりますぅ……ぐすん。
沙希がカラオケを知らない理由が悲しすぎて涙がちょちょぎれそうだ。ついでに心臓が過負荷で止まりそう。
誰か! 誰か俺を助けて!
馬鹿なことを考えながらも足は止まらず先へ進んでいく。この辺にカラオケがないのが分かっているので自動で駅へ向かう。おかしいな、頭が死んでるのに足が勝手に動くよ。
「八幡? どうしたの? それより踊るの? 殴るの?」
「待て、どうしてお前はすぐに殴りたがるんだよ。それにカラオケは踊らないからな」
「なんだ、驚いたよ。踊らなくていいんだね、良かった」
「あんだけ昨日踊っといて言う科白か」
「あれはゲームでしょ。さすがに歌いながら踊れないよ」
「歌いながらじゃなきゃ踊りたいって科白に聞こえるな」
「うん、あれまたやりたい」
昨日の楽しそうに踊る沙希を思い出す。もう一度あの光景を見られるならダンレボがあるゲーセンを探してもいいかもしれない。最悪もう一度千葉まで行くか……。
そうこうしている内に駅に着き、電車に乗って稲毛海岸駅に着く。その足で駅前のカラオケボックスへ向って受付を済ます。
ここはフリードリンク制だから歌っている途中で店員が入ってくるという悲劇は回避できる。
あれ嫌なんだよなあ。電波ソング歌ってるときに店員が来た時のあの気まずさといったら、冷や汗で水たまりができるレベルだ。
俺は甘いコーヒーを、沙希は冷茶を入れて部屋に入る。室内はふたりには程良い広さだった。ひとまずソファーの隅っこに腰かける。隅っこってやっぱ落ち着くよね。すみっこぐらし最高、なんて考えていると沙希がすぐ隣に座る。
うん、分かってたけどね。そんな気がするって。でもさっきまで密着してたから妙に居た堪れない……。
女子特融の身体の柔らかさがまだ左半身に残っているから、すぐ傍に沙希の身体があることが少し、というか大変気まずい。大いに気まずい。
自然と身体を密着させようとする無意識を意識的に止める。近づきたいけど離れたい。誰か分かってくれないかなこの複雑怪奇な俺の気持ち。
俺の脳内が変な懊悩をしている間でも、沙希は興奮気味に部屋の内装に目をやっている。良かった、俺の挙動不審具合がバレなくて。
沙希がタブレット型リモコンを手に取って、しげしげと興味深げに熱い視線を注いでいる。
「ね、これどうするの?」
「とりあえず先に言っとく。カラオケで殴る要素はどこにもないからな」
「失礼だね。あたしは暴力は振るわないよ」
「自分の発言をいま一度思い返せ。ことあるごとに殴るの? とか訊いてきただろうが」
本当に覚えていないのか、むー、と沙希の目が虚空を睨みつけている。うん、あとその真剣な目が少し怖いかな……。
「とにかく教えて? それとも先に歌ってくれる?」
「世の中にはレディーファーストってあるだろ。だから先に歌っていいぞ。ぜひ歌ってくれ。なんなら最後までオンステージでも構わないぞ。俺はタンバリンでも叩いてるから」
ふーん、と沙希の目が細くなって口元がニヤつく。
「自信ないんだ?」
「誰かと行ったことかあんまないんだよ」
まあ、材木座は別だが……。
くすりと沙希が笑う。
「ん、別に下手でもいい。あたしも初めてだからね。だから下手っぴでも笑わないでね?」
「人の歌を笑えるほど上手くねえから安心しろ」
再びタブレットに目を落とした沙希に使い方を教えていく。沙希がを探している間、俺はマイクを取って彼女に渡す。しばらくすると、沙希がそわそわし始めた。
「まずどうすればいいの? やっぱ――」
「殴るなよ? 頼むから」
「違うから。その、一緒、一緒がいい。一緒に歌おう?」
俺の腕を掴んだ沙希が俺に縋ってくる。その一生懸命さがあまりに可愛くて、思わず胸を押さえそうになった。危ない。最近俺の身体が反抗期だ。もうちょっと落ち着こうね。
「そもそも何歌うんだよ。分からない曲なら歌えんぞ」
「八幡なら知ってるはず。小町が言ってたし」
「あいつが教えた曲とか悪意しか感じられないんだけど……」
嫌な予感がしつつ沙希が持ち上げたタブレットに目を落とし、思わず咳込んだ。
「おまっ、おま……! なんでこれ……?」
沙希が不思議そうに目を丸くする。
「なんでって、けーちゃんがいつも見てるから覚えちゃって」
まさかここでけーちゃんが出てくるか。さすがけーちゃん。ナイスすぎるぞ!
何を隠そう、沙希が示した曲はプリキュアの主題歌だ。やっぱりこれを歌わないとカラオケに来た意味ないよね。しかも歌って引かれないどころか逆に誘われているのだ。ここで歌わなきゃいつ歌うの? いまでしょ!
「よし、任せろ。むしろやらせろ。やるぞ沙希」
「急にやる気出した……。小町の言った通りだ」
曲を入力すると、しばらくして前奏が始まる。
わあ、始まったあ……!
ハートキャッチ!
……。
歌い終わった後に沙希に訊いたところ、このときの俺は相当テンションがおかしかったらしい。曰く、たぶん八幡じゃなかったら引いてたとのこと。やっぱり沙希の前でも歌うのやめようかな……。
かなり凹んでいる俺を横目に、沙希はソファーの上でひとり笑い転げている。
ひどい。
さっきは笑うなって言ってたくせにいまめちゃくちゃ笑ってるじゃん!
「それ以上笑うのはやめてね。いまなら井戸の中に飛び込んで一生出てこなくなる自信があるぞ」
「ごめんごめん。なんか面白くって」
目じりに浮かんだ涙を拭って、沙希が俺の腕を両手で掴む。
「ほら、機嫌直して次歌おう?」
「穴があったら入りたい……」
相変わらず落ち込んでいる俺を見て、沙希が困ったようにため息する。
「もう、これで機嫌直して、ね?」
頬に熱い感触。思わず目を剥いて沙希を見る。交錯した視線がすぐに外れる。赤面した沙希が恥ずかしそう目線を外していた。
「えっと、その……駄目?」
突然のことに言葉が出ない。沙希と瞳が合う。沙希の手が伸びて指先が俺の頬に触れる。人肌が触れている感触が気持ちよくて、思わずその手を握った。
「八幡……」
沙希が手の握りを変える。互いの指を絡める。沙希の濡れた唇が動いた。
「なんだか……ね。すごく……胸が熱いの」
目を潤ませた沙希が恥ずかし気にはにかんだ。見ていられず思わず目を横に流した。これ以上見つめていたら、自分を制御できそうになかった。
こてん、と肩に沙希の頭が乗った。
「少し……このままで」
しじまの中で、沙希の体温の熱さと自分の心音が、痛いばかりに室内に響いていた。
ええ、このために初めて歌聞きましたよ……