※シリアス注意
※シリアス注意
※シリアス注意
「……おかえり。今日は長かったね」
目を開いて、頭に乗っかるアミュスフィアを両手で外したハルキ/鈴風春花に、その声はやんわりと掛けられた。
「……ん、ちょっと野暮用があって。今何時か、教えてもらえるかな」
「もう夜の六時だよ。ちょっと前に僕も会社から帰ってきたばっかりだけどさ。
君も早く帰らないと親父さん、心配するだろ」
「……そう、だな」
簡素な造りのベッドから起き上がって軽く頭を振るハルキと会話をするのは、ワイシャツに臙脂色のネクタイを合わせ、たった今黒塗りの背広をその上から羽織ろうとしていた長身の男だった。額の出たショートヘアーの髪型が如何にも若々しく、現在十六歳の春花と年齢こそ離れていても世代観はそこまで変わらない様子が見て取れる。
「その、芹沢さん。こんな事頼んじゃって本当にごめんな。本当はちゃんと親父にもみんなにも説明をしないといけないって、分かってるんだけどさ」
「ああ、いいよ。そんな事気にしないで。
君が心の整理を行いたいと言うなら、僕はそれを手伝うまでさ。随分久しぶりに会えたんだし、これくらいは協力させてくれよ。
……送ってくよ、車に乗ろう」
芹沢、と呼ばれたその男は、肩を竦めてその部屋……彼自身の部屋を後にすると、ぱたぱたと音を立てて玄関へと向かい、春花がここを来訪した際に着込んでいたダウンパーカーを取って再び戻ってきた。
春花がその甲斐甲斐しさに苦笑しながらも礼を言って、二人して玄関から外に出向くと、既に太陽がビル群の狭間へと沈んで夜の冷たさが辺りに立ち込め始めているのが分かった。新年になったばかりの現在はまだまだ冬真っ盛りだ、日没の時刻も早く、流石にこれ以上自宅を出てしまっては色々と不都合が生じてしまうだろう。
……とはいえ、春花の父親も自分の娘がどこに出向いているのか自体は承知であるだろうから、出たら目に騒ぎ立てる様なことはないと思われるのだが。
「しかし、六年ぶりの帰郷で、まさか春花が僕の事を覚えててくれたとはなぁ。あの頃まだ君は十歳足らずだっただろ?」
「……人をあんまり子供扱いするなよな。あれだけ立ち合いでボッコボコにされたら忘れるわけないだろ。芹沢さんが会社勤めを始めてから、あの道場では俺が一番強くなっちゃって。あの頃が懐かしいよ」
「なぁに、昔の話さ。今じゃデスクワークに追われてて昔みたいに上手く剣を扱える自信なんてないなぁ」
春花が助手席に乗ったのを確認した芹沢が車のキーを回し、その白いワゴンはビジネス街の明かりの中を走ってゆく。
芹沢というこの男、春花の言葉にも挙がっていた通り、実は六年前までは彼女の父親が師範を務める「鈴風流武蔵野伝水漱館」の門下生だったのだ。その実力は当時の春花を軽く凌駕しており、道場内ではいかなる状況においても手加減が許されないという方針によって春花は何度も、この男に立ち合いにて手痛く打ちのめされたものだった。
「なぁ。親父さんはまだ、あのやり方を続けるつもりなのかい」
「……ん、多分、そのつもりだと思う」
「あのやり方」にあからさまな心当たりがあったハルキは、それを問いただす事もせずにかつての先輩に応じる。その彼女の様子に、芹沢は長い息を吐くと、初めはぼやくように、そして最後にはしっかりした口調で言った。
「……やっぱり、あの親父さんは頭が固いところがあるからなぁ。
今日、一度ちゃんと掛け合ってみるよ。このまま放っておくわけにもいかないから」
春花はその芹沢の横顔をぼんやりと見つめる。
道場の稽古場では一瞬たりとも気を抜くことが許されない。基礎訓練から始まって様々な実戦の手解きを受ける日々だったが、それらを少しでも散漫に聞き流すものなら父親からの強烈な喝が飛んで来たものであり、また先程も言ったように練習試合の場であったとしても、常に真剣での戦いと思えというのが鈴風流の教えだった。
だからこそ、当時の春花はこの芹沢という男に一種の恐怖を覚えて、同時に強い憧れを覚えていたものだった。試合の場では酷い時は痣が出来てしまう程に強く打ち込まれた時もあったが、それは裏を返せば彼女を幼い子供とも、またか弱い女とも見下さぬ彼の真摯な姿勢を如実に表していた上、剣術に関する相談を持ちかけた際も親身に話を聞き入れ共に解決の糸口を考え、仕舞いには彼女の父親への直談判に付き添ってくれた時すらあった。
しかし、そんな芹沢は六年前のある出来事をきっかけに道場を去り、街を出て東京の企業に就職してしまった。彼がいなくなった道場においては、師範である父親を除いて気付けば春花は一人強くなってしまっており、その後あのSAOに囚われるまで自身の鍛錬の他に自分以外の門下生……殆どが小学生の、いわば彼女の弟や妹と呼べる存在である彼らの面倒を見る毎日が続いていたのだった。
そうして、彼女は幼い頃の淡い胸の高鳴りを忘れてしまったのである。
(……でも)
でも。春花は目を細める。その見上げる様な憧れを恋心とするかどうかは、彼女は未だに決めかねていた。
自分より強い人間を好くといった類の単純な思考は彼女も持ち合わせてはいなかったし、何よりも彼のこれまでの、こちらをどんどん置き去りにして行ってしまう様な先行的な人生のあり方が、春花には眩しすぎる様に感じるのである。
確かにあの鋼鉄城から帰還して初めて迎えた年越しに届いた一本の電話……芹沢からの数年振りの帰省の知らせを聞いた時は自分でも驚く程心がびくつき、あたかも恋する乙女の様に動悸が激しくなるのを感じたのだが。
だが、あの異世界で彼女がハルキとして追い続けた一人の男……呆れるほどに恐れ知らずで、困り果てていた自分を導くでも庇護対象として見るでもなく……ただその隣に立ち続けたあの落武者男の背中を思い出すたびに、その鼓動は鳴り止んでいたのである。
会えるなら、早く会いたい。春花はそう思った。そうでないと、自分の気持ちをしっかりと確かめる前に、心を決めてしまいそうだから。再び交錯したかつての眩しさに、心が眩んでしまいそうだから。
(世界樹に行けば、会えるよな、グラント)
その一つの希望に、春花はすがるしか無かった。その手掛かりを追う為に……もう一つの希望である芹沢を結果的に利用している自分に、軽く嫌悪感を覚えながらも。
「遅いぞ、春花。何をしていた」
東京都西多摩郡奥多摩町、白丸駅からさらに山道を車で二十分ほど登った先に、鈴風家は存在した。
道場の門下生が少ない理由としてまず挙げられるのが、その立地の悪さである。
曰く鈴風流は武家出身の剣客に由来するものではなく、戦国の世には隠密行動を、江戸の時代には諜報活動の為に訓練された、侍と忍の中間の位置に属する極めて異端な開祖によって開かれたものらしく、その伝承もあくまで後継人と認められた者のみが口伝と実技指導によってのみ成されてきた経緯から、その秘匿性を更に確固たるものにする為に人里離れた山奥にその道場を建てたそうである。
ごめんね、めっちゃ時代小説してて本当に申し訳ない。でもさ、「武蔵野伝(武蔵野の地に伝わる)」って言っておきながらめっちゃ限定的なのどうかと思うよね。
「ごめん、親父。もっと早く帰るべきだった」
「……今日もまた、あの男のもとへ出向いていたのか」
ともあれ、道場の前に止められた車から降りた春花は、その門を潜りやがて見えた玄関に立つ父親の姿を見て、素直に謝罪に徹することにしたのだった。
「こんな遅くまで、一人の男と行動を共にするという事に、はしたなさを感じないのか。何を勘違いされても文句を言える立場ではないだろう」
「な……ちょっと待てよ、そんな事あるわけないから! 親父、勘弁してくれよ……」
「そんな風に言われてしまうと、僕としても極めて心外ですよ、師匠」
だがそんな春花に助け舟を出すように、彼女の背後から芹沢が現れた。春花の父親、鈴風
「破門された身でよくも師匠とこの私を呼べたものだな、芹沢。
街を出て東京で働こうが勝手だが、娘を誑かしたらただでは済まさんぞ」
「何を仰いますか。確かにあの時はお互い気持ちの良い別れをする事が出来ませんでしたが、それでも子供の僕を育て上げてくれたのはあなたです。その愛する娘である春花を傷付ける様な真似は絶対にしませんよ、ここに固く約束します。
だけど、僕はそんな事をする為にわざわざこの懐かしの道場に出向いたわけじゃないんですよ」
そう、この芹沢という男は、この道場を破門にされているのだ。理由は後述するが、それによって鈴風家と芹沢との間の関係は殆ど断絶状態になったと言って良く、直後に彼が東京都心部へ引っ越したことも相まってそれは決定的になったのである。
「……それならば、一体何の用があってここに顔を出したと言うんだ」
「単純な話です。あなたが聞く耳を持てばの話ですが。
この道場は、現在通っている門下生を最後に、以後数年に渡って一人も新規で門を潜る人間が訪れないと聞きました。故に経営は火の車、このままではいずれ道場を畳み、何百年と続いた鈴風流が途絶えてしまう可能性まで出てきているそうですね」
事実だった。そもそも鈴風流の存在を知る人間も少ない為その様な内情が外部に漏れる事は無かったが、ここを知る人間なら、道場の運営状態を少し見ただけでもそれは明らかである。
春花の目から見ても同じ事だった。二年の眠りから覚めてリハビリを終え、随分久しぶりに帰宅して道場に出ても、自身の帰りを待っていてくれた門下生達……あのはじまりの街であった大切な妹分も含めてみんなが彼女の復帰を喜んでくれたのだが。しかし、そこには二年以上も席を開けていたにも関わらず、新たな顔は一人たりとも存在していなかったのである。
「……だから、何だと言うのだ」
「僕の意見は昔から変わりませんよ、師匠。
この道場は今、時代に取り残されつつあるんです。それを打開する為には、時代の波に乗った対策を打ち出す必要がある」
春花は人知れずごくりと唾を飲み込んだ。それを提言することで父親がどれだけ激怒するかを、あの世界に対する彼の怒りが如何ほどのものかを彼女はこの二ヶ月で充分に理解していたのである。
「具体的には、フルダイブ型VR空間を利用するんです。
うちの会社と提携を組む事が出来れば、わざわざこんな山奥でひっそりと道場を経営する必要もない。インターネットで門下生を公募して、日本どこからでもアクセスできるインスタントな仮想世界を利用すれば、少なくとも立地の問題はデメリットもなく解決するでしょう」
「春花、行くぞ」
「……親父」
「私の経営する道場だ、お前に口出しされる筋合いはない。これは六年前にも言い渡してある筈だ。
娘が命の危険に晒される原因となった、あの忌々しい機械の世話になんぞ受けてたまるか!」
当然だ。どうにかして父親を宥めようと口を開きかけた春花だったが、そう言われては押し黙るしかなかった。
その通り、彼女の父親は控えめに表現しても、仮想世界を強く忌避している。そしてその原因は言わずもがな……彼自身が親心で買ってきてしまったVR機器の為に、愛娘を二年間もの間仮想世界に閉じ込めてしまった事に由来する。
これこそが、親として当たり前の感情なんだろうなと、彼女は思ってしまうのだ。「ハルキ」があの仮想世界で剣を振っていたどの瞬間の間も、目の前にいた父親は春花の眠るベッドに毎日通い詰めては、その手を握って夜を過ごしていたそうなのである。その間、彼はどれだけ自分を責めただろうか。あのナーヴギアを持ち寄ってしまった自分の事を、何度責めたのだろうか。それは、あのはじまりの街にて幼い妹分を守りきれなかった彼女自身を照らし合わせてみても……極めて納得できる感情だったのだ。
「……あなたはあの時もそうでしたね。僕が何度もここの在り方を変えるべきだと言っても、あなたは聞き入れなかった」
だがそれは、あくまで親子の間だからこそ伝わる気持ちである。この場において唯一その繋がりのない芹沢は、それをお構いなしに言葉を続けてしまった。
「僕はあくまであなたの為を思って言っていたんだ。実利を軽んじる今までのやり方では、もうこの先やっていけないに決まっている。あの時もそう思ったからこそ、ここのホームページを作ってネット上に載せたというのに」
それはちょっとやり過ぎってものだ。幾らなんでも師範の許可もなくそんな事しちゃあまずいに決まっている。芹沢はこれを重く受け止めた秋之介に破門にされたのである。
お互いに引っ込みが付かなくなってしまったのだ。春花は思う。お互いの理念が理解出来ずに、それぞれの腹の内をきちんと話してわかり合う前に袂を分かってしまった。それが、六年経っても未だに彼らを縛り付けている。
だがそれももう起きてしまった過去、今ここですぐにその確執をなくす事は不可能だった。現に秋ノ介は目の前の春花の腕をムンズと掴むと、そのまま玄関の戸を潜るべく歩き出してしまったのだから。
「……また来ますよ。師匠のこともそうですが、何より門下生と、春花が可哀想だ」
その謗りを聞いて、秋之介は一瞬、動きを止めた。だがそれに怒号を重ねる事なく……玄関の戸を、ピシャリと閉じたのだった。
春花は、芹沢の社宅の中からALOにダイブしている。
父親の言う通り、それは側から見ればあまりに不健全と捉えられてもおかしくはないものだった。当然である、芹沢自身は仕事等の都合でほぼ間違いなく外出しているとはいえ、男一人の住む部屋に女が立ち入り、しかもフルダイブをして無防備に身体を投げ出してしまうのだから。
だが、春花はそんな自分たち二人が、言わば一線を超える様な関係になる事だけは絶対にあり得ないと確信していた。芹沢は彼女にとって、そのような面に於いては十分に信頼に足る男であったうえ、おそらく彼が六年前の当時から、自分の事を良くて妹の様にしか見ていない事を痛い程に分かっているのである。
そして当の芹沢もその様な春花の無理な頼みを快諾し、彼女の持っていたナーブギアからそのメモリーデータのみを移植する形でアミュスフィアの設定を組み込んでくれたのだった。無論、彼女の父には共に東京観光に出向いている、と口実をつけて。
毎日通い詰めているという訳ではない。春花は父親と共に道場の門下生たちの世話も担わなければならず、たまたま最近は頻繁にログインしているだけで基本的には彼女もALOよりも実生活を優先させるつもりだった。
(……それでも、幾らなんでもこんなやり方を続けるなんて……おかしいよな)
詰まるところ、春花にはまだ父親に自分の過ごした仮想世界について、しっかりと告白する勇気がなかったのである。自分があの世界で得たものがあるように、この二年間であの父親も多くを考え、想った筈なのだ。それを考えると……自分が必死に積み上げて固めた信念を、いとも簡単に拒絶されてしまいそうで、それが彼女には堪らなく怖かったのである。
(俺は卑怯者だ。自分の気持ちをちゃんと伝える事もしないで、芹沢さんや妄想の中でのグラントに甘えて、その場を凌いでいるんだ)
だけど、だからこそ。
だからこそ、確かめたいのだ。何度も言うが、あの世界の事で自分がどこまで真剣になれるのか、知りたいのだ。自分の中であの二年間に一つの意味を見出して、その上でその事を父親に理解してもらいたくて……。
(……あれ)
翌日のことだ。朝の稽古を終え早めの昼食を取った後に、春花は再び私服に着替えて、芹沢の社宅へと出向こうとしていたのだが。そう何度も反芻するかの様に考えていた思考が、一瞬別の方向に飛んだ様な感覚に陥って困惑した。
(……それが何で、こんなにグラントに会いたいって事と繋がるんだ)
仮想世界での思い出を肯定したいというだけならば、もう一度仮想世界に……ALOに降り立った時点でそれは叶うはずのものではないだろうか。それでも飽き足らず、彼女があの盾男を探している意味は、一体。
だが、それを彼女が考える前に、道場の廊下に低い声が響き渡った。
「今日も行くのか、春花」
「……親父」
見ると、目の前には口を真一文字に引き締めた険しい表情の父親が立ち塞がる様にして立っている。昨夜もあの様に喧嘩別れをした男の元へ娘が向かおうとしているのだから、止めようとするのも無理はないよな……と、他ならぬ彼女自身が苦々しく思う。
「……行かせて欲しいんだ、親父」
「春花、お前が」
だが、彼女の出かける明確な目的を白状する訳にもいかず、口を詰まらせていた春花に……秋之介は言った。
「お前が、芹沢がここを出る前から……あいつに想いを寄せていた事を、俺は知っている」
彼女は一瞬、茫然自失となってその場に立ち尽くした。何だって、俺が芹沢さんを、慕っていた?
「いや……親父、それは」
「隠さなくたっていい。今では大分ましになったが、昔からお前は感情が顔に出る人間だ。お前の母親もそうだったからな。
だが、この際俺とあいつの事は傍に置いてもいい、幾らそう言う関係の相手でも、して良い事と悪い事が……」
「……そうじゃ、ないんだって!!」
その言葉をかき消すかの様に、気が付けば春花は怒鳴っていた。そんな言葉を、他ならぬ父親から聞きたくは、なかった。
でも、そこから、俺は何で言えばいいんだ?
「そうじゃないんだ、親父。
上手く説明できないんだ、これじゃ理解しろって言っても意味不明なのは良くわかってるんだけど……。
でも、せめて親父にちゃんと話せるくらいに、考えを纏めたいんだ。きっとそれはきっぱり跳ね除けられちゃうのかもしれないけど、それでも……」
「……その為にお前は、あの男に会うのか」
ああ、くそっ。これじゃあ俺自身も無茶苦茶だ。何で芹沢さんのところに行くことが、自分の気持ちの整理になるのかが全く伝わらないじゃないか。やっぱり、ここらで洗いざらい全て話すべきなのか。
そう彼女が観念しかかったところで、そんな娘に父親はこう、声を掛けたのだった。
「春花、出掛けるのは後にしろ。今すぐ稽古場に来い」
春花が驚いて見上げると、鈴風流現師範の秋之介は、その瞳に強い光を称えて娘に言い渡した。
「お前の言う事はよく分からん。考えるのが面倒だ。だから、剣で確かめてやる。お前の心が濁っているのか、どうかをな」
「さあ、選べ」
そう言う父の足元には、竹刀の他に竹製の薙刀を始め、小太刀や長槍など実に数種類の練習用の武器が並べられている。鈴風流は、それらの武器を多彩に使いこなす事で真価を発揮するとされ、その戦い様は剣道のそれと言うよりは護身術や格闘術に近いものがあるのだ。……最も、実際に剣道として鈴風流の剣士が他の流派と試合をする際は、あくまで剣道のルールに則って剣を振るのだが。
「俺は、これで」
そう、自分に言い聞かせる様に呟くと、春花は剣道として最もオーソドックスな竹刀を拾い、腰に挟んで父に向き直る。今から行うのは戦術的に探り合う試合ではなく、自身の気持ちをぶつける為の儀式の様なものだ。そこに、細かい小細工は必要ないだろう。
「……ふむ」
迷いなく武器を取った娘に少しだけ眉を上げた秋之介だったが、やがて彼も同じ竹刀を手に取る。そしてお互いの準備が整った事を確認し合うと、道場の中央で向き合って、一礼をし。
……その刹那、秋ノ介の剣は、瞬きをする間もなく春花の面に飛んでいた。
(……はは、相変わらず、容赦ないなぁ)
鈴風流の特徴の一つとして、基本的に防具をつけないという極めて時代錯誤なものが存在する。
一応理念としては、あくまで徹底的に実戦を意識したこの流派において、剣を振る際に必ず甲冑や兜を身に付けているとは限らない事から採用された措置であるらしい。流石に小学生の門下生達が試合をする際は面法や剣道着等の着用を命じるものの、鈴風家直系の娘である春花は今まで一度も、外部との試合を除けば防具をつけた事がなかったのである。そんな自分の子供に躊躇いもなく面を打つ父親に、春花は懐かしさすら覚えた程だった。
そう、逆に言えば、懐かしさすら覚える程には、彼女には余裕があったのである。
「……何っ……?」
秋ノ介は目を剥いた。その一太刀はあくまで春花を本気にさせる為の、いわば牽制の役目を持たせて振るったものであり、殆ど力も込めてはいなかったものの……二年前までは受けこそ出来ても到底避けることの出来なかった自分の剣を、たった今彼女は特に焦る様子もなく回避してみせたのである。
(あれ、おかしいな。親父の剣筋が、見える)
それはハルキにしても同じ事だった。つい二年前までまるで歯が立たなかった父親の剣が、どういう訳か極めて遅く感じるのだ……いや、それは確かにやっとの思いで避けられるくらいの速さは持ち合わせていたのだが、昔の自分ならその軌道を読む事すら叶わずに、何とか先読みを働かせて数合打ち合う事が出来れば上出来、という程度だったのが。
(まさか……あの世界で)
あの世界で、あの世界で命を賭けて剣を奮っていた事で、自分の反応速度もまた鍛えられていたとしたら。二ヶ月前まで体力も筋力も驚く程衰えていて、昔の実力を取り戻すのにも苦労しそうだと思っていたが、もしかすると、これは逆に。
春花は試しにと剣を中段に構え、手首と肘をしならせながら立て続けに面胴の二段技を放ってみる。やはりそうだ、目の前の父親は、その剣の速さにかなり驚いている様子で、それらを難なく防ぎ切ってはいるもののニ撃目の後に反撃するのを忘れて、そのまま一歩半後ろへ後退していたのだ。
「親父」
「……黙れ! 最後まで気を抜くな!」
その声音から、父親の意識が一段階上がったのを察した春花は、今度は両手で竹刀を構えて……春花としてではなく、「ハルキ」として父を迎え撃つ事に決めた。
大上段に竹刀を構える秋ノ介に対し、春花は……いや、ハルキは敢えて自らも近づく事でその距離の目算を誤認させる。小さく鳴った舌打ちと共に父の剣は更に速く、彼女の身のこなしに対応して振り下ろされたが……ハルキはそれを、わずかに剣で弾く様にして逸らすと、まるで相手に体当たりをするかの様に上体の右半分を打ち付け、右足を父親の両足より左後方に突き出す。
そして柔道の大外刈りの様にそのまま右足で父の両足を刈ると、彼の身体を腰に乗せて大きく投げた。
「お……おおっ!?」
今までの彼女からすれば考えられなかった様な豪快かつ手際の良い戦い方に、秋ノ介は宙を舞いながら感嘆する。それでもこのまま御する訳にもいかず、不本意ながら娘の襟首に手を、胸元に足をかけてなるべく大きく吹き飛ばさない様に手加減をしながらも巴投げを放ち返す。
「う、うわっ!?」
これは流石に娘も予想外だったらしい、受け身は取っても大きく距離を離したまま詰める事を忘れて、その場で一瞬呆然としたかと思うと……されど直ぐに手元の竹刀を構え直して試合続行の意思をこちらに叩きつける。
大した根性だ。宙を舞ったというのに武器を手放す事もなく、即座に立ち直ってみせた。実際の戦闘経験でも積まない限りは、この様な対応を取る事は難しいだろう。秋ノ介はその変わらぬ仏頂面の中で只々驚いていた。
一方でハルキは……いや、春花はそんな父の様子を介して自身の変化に困惑していた。今自分は確かに、何の抵抗も違和感もなく、春花でなく「ハルキ」として動いた。鈴風流の立ち回りや決め事に囚われずに、あのアインクラッドで培った臨機応変な我流戦法を極めて自然な形で織り込んだのだ。
心の整理はついていなくとも。春花は確信する。それでも、身体はあの世界を忘れていない。あの世界で見た景色、嗅いだ香り、聴いた音、触れた感覚……その全てが、今の春花に力を貸している。今の投げ技だって、あのはじまりの街でキバオウに対してグラントが行った一本背負いの亜種の様なもので……。
(……また、だ)
春花は一瞬目眩のように思考がざわつくのを感じた。やっぱりだ。あの世界で自分の得た記憶のほとんどに、あいつがいる。一度はあのギルドを離れて、一人で強くなろうと画策した時期もあったというのに、その時の事よりも、彼等と一緒にいた時期……もっとあからさまに言えば、あの落武者男と共にいた時に学んだものの方が、確かに自分の中で息づいている。
(なんでだ)
どうやら春花の意識の揺らぎを見抜いた秋ノ介が、摺り足で近寄りながら竹刀を霞の構えに則って持ち、一撃必殺の小手打ちをせんと動き出している。
それでも、春花は考えるのを止めなかった。今止めたら、その答えは……恐らく二度と手に入らない気がする。
(あいつと一緒にいる時が、一番楽しかったよな……本当に最初から最後まで何しでかすか分からない奴だったけど。
でもあの世界を憎んで、そんな自分自身をも憎んで無茶に強くなろうとした俺に……あいつは、どんな環境でも受け入れて、辛い事に立ち向かって、そんな中に散りばめられている楽しさを味わう方法を教えてくれた)
それを考えている時の春花は、確かに意識は剣から離れていたとは言え……その心は極めて穏やかだった。あの最終決戦の場にて彼女がちらりと思った様に、奇想天外ながら自分には無いものを持つあの男に間違いなく春花は憧れを抱いていたのだが。
だがそれは、彼女が芹沢にかつて抱いていた強烈な憧れとはまるで相反した、静かな憧れだった。その開いた差に途方に暮れる事なく、ぼんやりとその距離を眺めている内に自然と彼と一対の存在へと手繰り寄せられていく、そんな一体感。
それを自覚した時、もう、彼女に取ってそれは憧れではなくて。
ああ。
そうか。
(俺は、グラントの事が――――――)
瞬間、無意識のうちに春花が放った胴打ちを、秋ノ介は防ぐ事が出来なかった。
それは恐らく、鈴風春花と言う一人の剣士が一生に数度しか打てない、命そのものが乗った様な剣筋だった。そんな娘の会心の冴えをみせた一撃をもろに受けた父親は……思わずその場から横っ飛びに吹っ飛んで道場の床を転がり、しばらく起き上がる事が出来なかった。
「……あっ……」
我に帰った春花は慌てて竹刀を取り落とし、蹲る父親に駆け寄った。秋ノ介は詰まった息を整え、娘の手を遮って何とか立ち上がる。
「春花、お前」
父と娘の瞳が交錯した。
父は気付いていた。今この瞬間に、娘に何かしらの悟りがあったのだと。そして彼女は、その悟りの導くままに動いているだけなのだと。
「……終わりに、しよう」
春花はそんな父の様子に一抹の不安を覚えていた。普段の父が自分から試合を中断した事は、彼女の記憶の中では一度もなかったのだ。
だが、春花がそんな父に声を掛けようと動く前に……彼は打たれた腹部を抑えながら、一礼の後に道場を去って行ってしまったのだった……。
「それで、親父さんは引っ込んじゃったってワケかー」
「ああ。その、俺もまさかあんな風に打ち込めるとは思わなかったんだよなぁ……。
親父頑固だし、変にヘソ曲げてなきゃ良いけど……」
「うーん、まあ起きちゃった事は仕方ないんじゃないか? それよりも、ほら、昨日に比べて時間もないから、早くダイブしなよ……僕はちょっと今日は会社の件で急用が入ってるから帰ってくるの五時ごろになるけど」
「ああ、うん、分かった。俺もその頃にはログアウトする事にするよ。
お勤め、頑張ってな。俺もなるべく早く、これとケリを付けて……ちゃんと親父と話をするからさ」
「そうしてくれると助かるよ。それであの親父さんも少しは柔軟になったら、うちがいつでも力になるからさ」
「ありがとな。何だっけ、芹沢さんの勤めてる会社……このALOを運営している会社なんだっけ?」
「ああ。大手電気機器メーカーで、ここだけの話沢山子会社を持ってるんだぜ。
名前くらい聞いたことあるだろ?
『レクト・プログレス』って」