「たまには外さ出ねば、出るアイデアも出ねぇべさ!」
「……自然光が与える皮膚感覚のエミュレーションも考えないとな」
マソップ「ブッキーか茅場っち」
グラント「SAOの道産子女子率どうなってんの?」
神代凛子「宮城県民」
ここは東京某所、妖精郷アルヴヘイムを管理する大手電機機器メーカー、レクト本社の構える高層ビルの玄関前である。
時刻は定時である午後五時をとうに過ぎて、社員との新製品の開発及びALOの追加アップデートに関する打ち合わせを終えたその男は、ややずれ下がっていた眼鏡を中指を押し上げながらエレベーターから降りると、地上一階のロビーを闊歩して自動ドアを潜って、夜の冬天の下に繰り出した。
レクトは公的にひけらかしてはいないとはいえ、多数の子会社や部門を持つ日本屈指の巨大な一流企業であり、その形態はよく戦前に存在した財閥あるいは米国の株式会社に例えられている。ゆえにその本拠地たるビルも名前負けする事のない、東京でも有数の超高層階を誇る圧巻の外観を誇っていた。
その前に広がるロータリー状の停車場から自身の役員車に乗り込もうとした彼に……しかしその時、唐突に声が掛けられたのである。
「須郷君」
須郷、と呼ばれたその男……長身をダークグレーのスーツで包み、やや面長の顔に黒縁の眼鏡を掛けたその男が振り返った先には、停車場の雨避け用天井を支える柱に寄り掛かって彼を見やっている、一人の女性の姿があった。
水色のセーターの上から白いコートを纏った彼女は、名を神代凛子といった。
「これはこれは、神代先輩じゃないですか。何年ぶりでしょうか。
……ああ、思い出しましたよ。あれは二年近く前の事でしたね、フルダイブ型VRマシンの完成記念パーティー。
そこで会ったのが最後でしたね。神代先輩と、あの」
須郷はそれを認めるや否や開いていた車のドアを閉じると、両手を広げて彼女の元へ歩み寄る。その些か横柄な彼の態度に神代博士はやや眉を潜ませながらも、しかし目を逸らすことをしなかった。
「あの、茅場先輩と。……バカなことをしたものですねぇ。せっかくの世界初のVRテクノロジーを、ゲームに、しかも大量殺人に! 使ってしまうなんて!」
「驚いたわ。あなた、そんなに芝居掛かった性格だったかしら?
昔の須郷君はもっと謙虚な好青年みたいだったけど」
「いやだなぁ、先輩。僕は今でも謙虚で、真面目な男ですよ。ただ、同窓の尊敬する茅場先輩が、まさかあんな恐ろしい事を企んでいたかと思うと……神代先輩、あなたの事が少し心配になっただけです」
やはり、変わったわね。神代博士は内心でそう呟いた。本心がどうあれ、彼が自分と同じ研究室――茅場晶彦と神代凛子が当時交際関係にあった事は既に述べた通りだが、この須郷伸之という男は彼らと同じ大学、同じ重村研究室の後輩であった――にいた頃は、特に目立ったところもなく、それでも少しだけ気が利いており自分によくコーヒーを持ち寄ってくれるような、そんな大人しい印象の持ち主だった筈だ。
それが、今はどうだ。まるで演説でもするかのように大仰に話すその姿は、まるであの頃とは別人になったかのようだ。彼がそう変貌する要因があったとすれば、それはレクトでの彼の揺るがない権力的地位によるものか。
それとも、自分を常に上回っていた圧倒的な先輩の、失脚によるものか。
「……それじゃあ、今のあなたは茅場君とは違う道を歩んでいるって言うの? 須郷君」
「ええ、それはもちろんですとも。僕はあんな愚かな事はしない。
脳に寄せられる知覚を全てシャットアウトして、外的信号により五感を『操作』して現実とは異なる環境に誘う。その発想自体は天才的だ、流石は茅場先輩だった。
だが、彼はその革命的な発想を、たかがゲームに利用したんですよ。あんな生産性もない、実利もない娯楽の為に! 彼が元々大学入学時にはアーガスの開発部長だった事は僕も知っていますけどね、それでも茅場先輩はもう少し考えるべきだったんですよ。
そうは思いませんか? 神代先輩」
「……その言い方だと、あのフルダイブ技術の、ゲーム製作以上に有効な利用手段を、須郷君は知っている様ね。
やっぱり思った通りだわ。あなたは何かを隠しているわね。そうでもなければ、あなたが開発主任を務めているこのレクトという会社が、わざわざSAOサーバーというリスクの高い産物を引き継ぐ筈も……そしてたかがゲームであるALOの運営に乗り出す筈もないわ」
須郷はその神代博士の言葉に一瞬言葉を失った様子だったが、すぐに笑みを戻して切り返す。
「……どうやら神代先輩は誤解をしているようですね。
確かにあの技術をゲームなどに利用するのは勿体無いと僕は言いましたが、それとゲームの必要性は別の話です。ああいう分かりやすい娯楽があるからこそ、うちはそれを遊ぶ為の電機機器を売り込む事が出来る。その程度の広告塔にするには、ALOを始めとしたゲームはちょうど良い餌なんですよ。人々を囲い込む為のね」
「それだけかしら? 須郷君」
肩を竦める須郷に、神代博士は詰め寄って言葉を続ける。
「先日、ALOのコミュニティサイトで、数枚の画像データが拡散されたのは知っているかしら。そしてその中に、一人の少女が映っていたことを」
「ああ、あれか」
しかし須郷は余裕の表情を崩さなかった。つまらないものを聞いたと言わんばかりに大きく息を吐いて、手のひらを上に向けながらぼやく様に返答する。
「神代先輩はあんなデマを本気で信じるんですか? 根も葉もない噂やら陰謀やらを騒ぎ立てて、運営側に楯突こうとする連中っていうのはいつだっているものですよ」
ああ、何て事。神代博士は唸った。
あの写真を撮ったのが他ならぬあのグラントであり、更に彼には神代博士のサポートAIであるマソップが協力していた以上、それは実際にデマでも陰謀説でもないのだ。数日前に彼らから聞いた話ではそのアスナと呼ばれた少女はれっきとしたSAO生還者の一人であり、それをレクト・プログレスの開発主任である目の前の男が事実無根だと切り捨てた時点で……それはつまり確信犯、という事になる。
つまり、この須郷伸之は意図的にSAOサバイバーの一部をALOに引き込んで、何らかのプロジェクトをレクト内で推し進めている。それがこの瞬間に決定的な事実として浮き上がったのである。
「あなたのしている事は許されざるものよ、須郷君。三百人もの人間の意識を仮想世界に閉じ込めて、一体何をする気なの」
そして、関与を否定したにもかかわらずなお食い下がるその彼女の姿を見て……どうやら須郷も、知らぬ存ぜぬで通すことを放棄したらしい。くるりと後ろを向くと、後頭部をガリガリと掻きながら。
「……NERDLESというVR技術が、娯楽市場の為だけの技術ではないのは、神代先輩も十分に理解している事だとは思いますし、僕も先ほど言ったばかりですが」
その彼の台詞を静かに聞く神代博士は、ここに足を運ぶ前には既に一連に事件に対してある程度の仮説を立てていた。その真偽を見極める為にもこうしてレクト本社ビルの前で須郷を待ち受けていたのだが。
だが、その予想が的中するどころか、それよりもさらに悪質で非道な企みがそこには存在していた事を、彼女は思い知ることになったのだった。
「あのナーヴギアという機械は電子パルスのフォーカスを脳の感覚野のみに限定していますが、その枷を取り払ったら……何が起こるのでしょうね」
「……須郷君、あなたという人は」
後頭部の端から見える彼の黒縁の眼鏡がどこか危険な光を灯している様に感じ本能的に恐怖を覚えながらも、神代博士は叫ばずにはいられなかった。
目の前の男は、あの茅場君がつくりあげた仮想世界を、欲望のままに弄ぶつもりなのだ。
「あなたはSAO生還者の一部の人々を、自身の人体実験の被験体にするつもりなのね……!!」
「……まだわかっていないんですねぇ、神代先輩」
そして漸く振り返った須郷は、今度は獲物を捕らえる獣の様な鋭い目つきで、義憤に震える彼女を凝視して更なる事実を突き付けるのだった。
「
この僕がたかが三百人程度の実験サンプルで、満足するとお思いですか」
「――――――っ!?」
神代博士の脳裏に、数時間前に目にした夕刊の一つの項目がフラッシュバックする。
それは、目覚めたはずのSAO生還者が、再びVR機器を使って意識不明に陥ったという、奇怪な事件。
奥多摩の山奥で発生したという、集団昏睡事件。
「……利用したのね。SAO生還者という社会的に不安定な立場の人々に狙いを定めて、SAO事件終了時に取り零して目覚めたプレイヤーを、もう一度仮想世界に引き込んだ」
現在の社会全体のSAO生還者に対する見解は困窮を極めている。
無論、安全性の確保が大前提のゲームで死傷者を出し、彼等の社会復帰を困難にした茅場晶彦に対する非難は揺るがないものとなっているが、それでも依存的にゲームに飛びついて危険にさらされたSAOプレイヤー達を疎ましく思う人間は少なくない。ゲームなどの娯楽とは無縁の人々からすればその一万人に上る被害者に「自己責任」を問う気持ちが無いとも言えないだろう。
そんな状況で、
自業自得、と。
「あなたは……あなたはなんて酷いことを」
「現在、記憶に新たなパーツを組み込み、それに対する情動を誘導する技術の体系がほぼ完成間近にまで近づいているんですよ。でもこの技術を『商品』にするには、その性能の裏打ちをするだけのデータが必要だ。
だから、僕は利用する事にしたんですよ。今手元にいるSAO生還者も、手元から溢れ出たSAO生還者の事もね。そうして外部からどんどんSAO生還者を取り込んでいけば、いずれ世間は彼等に対するヘイトで埋め尽くされて、僕の実験が公に漏れる可能性がどんどん小さくなっていく。
そうして! 僕は! あの茅場先輩が積み上げたものを! 一つ残さず踏みにじるんですよ!」
そう、陶酔めいた声を張り上げて宣言しながら、須郷は……次の瞬間、神代博士に向かって詰め寄ると、その身体に掴みかかった。
「あ……っ!」
「……いけませんね、先輩。こんなものを持っているなんて」
そうして、身体の重心を崩してこちらに倒れかかる女博士を抱きとめながら、その彼女のコートのポケットから須郷が取り出したのは……掌サイズの、ボイスレコーダーだった。
「あの抜け目のない神代先輩が、まさかそんな話を手ぶらでする筈がないですものね。大方ここで僕に白状させて、世間に公表するつもりだったのでしょうけど」
「くっ……離しなさい! あなた、自分が何をやっているのか分かっているの!?」
だが、必死に彼を引き離そうと両手を前に押し出す神代博士は、その眼前の男の目を見て、そこに広がる怒りと衝動的な狂気を感じとって、竦み上がってしまう。
「ええ……分かっていますとも」
そして、須郷はその口を裂けるくらいに横に歪め上げると、まるで神代博士の心に刻み込むように囁く。
「これが、僕の復讐なんですよ。先輩の愛した、茅場先輩へのね。
すぐに、貴女も何もかもを忘れますよ。僕を盲目的に愛して、服従する日はきっと近い。
その時は、あの『ティターニア』と一緒に、妖精王の妃として侍らせるのも悪くはない」
「ポリスメン、こっちです」
「ポリスメンポリスメン、我が愛しのリンリンを、なんかヤバそーなメガネが髪をクンカクンカしたり、鎖骨prprしたりしてるんだぜ」
「自重しろ鎖骨prpr女」
「……チッ、良いところだったのになぁ」
唐突にその場に聞こえてきた別の一組の男女の声に、これ以上は大事になると神代博士から離れる須郷。よく考えたらお前自分の会社の前で何やってんの。流石にクンカクンカしたり鎖骨prprしたりする暇はなかっただろうけど。とばっちりである。
「まあ、そう言うわけで、貴女は僕を止める事も、いずれは僕に逆らう事も出来なくなる訳です。
……なので、せいぜい元恋人が真の意味で社会から抹殺される様を見て、次会う際にはもう少し従順になってもらいたいものですね、先輩」
同窓の後輩が遂に見せたその異常性と変態性に対する衝撃と恐怖に、神代凛子はひたすら耐える事で精一杯だった。やがて高笑いしながら自身の役員車に乗って、彼がその場を後にしたのを確認すると……彼女は目の前のベンチに崩れ落ちるように座り込む。
「神代さん、大丈夫です?」
だが、やがて軽やかに刻まれる足音と共にその場に誰かがやってくるのを認めた彼女は、再びのろりと顔を上げた。
そこにはノートパソコンを片手に抱えて茶色のジャンパーを着た、あの短髪男……グラント/玄太郎がいて、彼女の只ならぬ様子に表情を強張らせていたのだった。
「ああ……さっきの声は、あなたとマソップのだったのね……助かったわ」
「ALOからログアウトしてすぐ、リンリンがニュースを見て家を飛び出したーって、マソップ嬢が神代さんの携帯端末から居場所を探知してくれましてね。急行したらアレですよ。
……それで、じゃあ、今の人が」
『間違いないね。あれがレクトPCソリューション部門開発主任、須郷伸之だぜ。
ワイも何度か顔を合わせたことがあるけどリンリン、その度にあれはヤベーやつだって忠告したよな?』
「……ええ、そうね。ごめんなさい、あの時あなたがネットから拾ってきた、変なバラ色の同人誌を読んでたからその影響かと思って」
「マソップ嬢SAO前から生粋の腐女子じゃねーか」
「フヒッ」
神代さん、あなた結構早いタイミングで育児放棄したな? そりゃ生後数ヶ月の赤ちゃんAIに自由にネットサーフィンさせたらそうなるわ。いやならないか。どうだろう。
ともかく、パソコンを開いたまま玄太郎は神代博士の横に座って、眼前に聳え立つレクト本社の超高層ビルを見上げた。この一大企業が抱える資産や職員は自分の予想を遥かに超えるものだろう。そんなスケールの大きな存在に、今ここにいる三人……いや、正確には二人と一つのなんかよくわかんない何かで喧嘩をふっ掛けようとしているのだ。それは些か馬鹿げた挑戦であると言われてもおかしくないものであり。
「神代さん」
「……?」
「これ、誰にも内緒ですよ。実は俺」
だが、それでも玄太郎は尻込みはしつつも、その選択自体に一寸もの躊躇いを感じる事もなかったのだ。
なぜなら。
「……俺さ、告白されちゃったんですよ」
神代博士は振り返ってその横顔を見やる。
「SAO内で出会った子なんですけどね。初めはゲームもやった事ないし、状況も状況だったから色々と無理していたみたいだったけど……それでも最後にはあの世界の事を好きになって、なんとALOの中でもまた会う事が出来たんですよ。
俺の無茶に散々付き合わせて振り回したっていうのに。よく考えたらアーちゃんやリズ姐さん、シリカチュワァァンに引けを取らない良い子だったんだよなあ。本当に」
『……パイセン、それってもしかしなくても』
「マソップ」
もちろん、そりゃもちろん心当たりのあるマソップが問いただそうとするが、それを気を利かせた神代博士が遮る。
「……だっていうのに。まだ俺はその返事もしてないのに。あの子はまた遠いところに行っちゃって。それどころじゃない、このままじゃあ、あの子は社会的にも厳しい立場に追い込まれるわけで。
だから、俺。どうやら今、猛烈に怒ってるみたいなんすよ」
そこには大人になって久しい自分が長いこと忘れていた、静かに燃え上がるような衝動を秘めた玄太郎の顔があった。口調は普段の何ら変わりがなくとも、その様子からは彼が病院でリハビリを行なっていた頃から今まで、一度も見せたことの無い強い意志を感じさせた。
若者ね。神代凛子は苦笑いした。彼からすれば身分もキャリアも関係がない。ただ自分の意思に忠実に物事を感じて、動くまでのこと。
「……そうね。私もね、すごく怒ってる」
『ワイはあの須郷伸之が「受け」に回って、レクトの他の男性社員に襲われて喘ぐところが』
「いい加減そこから離れようかマソップ」
「ごめんなさいね玄太郎君、うちのマソップが」
とはいえマソップもいい緩衝材である。彼女まで怒っちゃ冷静な判断が出来ないもんね。いや怒るとかそこまでAIとして発達しているのかも怪しいのだけれど。
「だからさ、神代さん、作戦会議しましょうか。このレクトをぶっ倒して、ALOからトミィ氏達を解放して。……もう一回、ハルくんに会って。
そうして、今度こそ、SAO事件を終わらせましょう」
そうしてベンチから立ち上がり、こちらに気持ち悪いウインクをかますその青年を、神代凛子は少しの間、呆気にとられたように見つめていたが。やがて小さくクスリと笑った彼女は、
「……したっけ玄太郎君、もう少しけっぱるさ!」
普段の淑やかな印象の彼女からは考えられない快活な口調で、そう意気込んだのだった。
「……予想以上っすね」
「ええ」
さて。
作戦会議、という訳で場所を移して、ここは東京都大田区大森北一丁目、大森駅近辺のカフェ内である。
玄太郎の実家である信田家の最寄り駅がここ大森駅で、また現在宮城県在住の神代凛子も、今日は比較的ここから近所のビジネスホテルを利用している予定だという事から、この場所に落ち着いたという訳なのだが。
しかし現時刻は既に午後八時を過ぎており、明らかに信田家の家族が玄太郎の不在を不審に思い始めている事は想像に難くない為、ひとまず事前に連絡をしたうえで、解散後に神代博士直々の釈明をしてもらおうという玄太郎のえげつない魂胆がそこにはあったりする。
『ナーヴギアを作り上げた、脳の感覚野に電気信号を送り込むNERDLES技術を拡張して、被験者の脳に外的な干渉を試みて、その思考、感情、記憶を思うがままに操作する。
可能性としては、不可能な話じゃないぜ常考。ナーヴギアにはもともと、人間の脳を焼き切る程のマイクロウェーブを発生させる出力性能があったんだからな。ぐぶぐぶぐぶ』
そこで玄太郎は熱いブラックコーヒーに舌を火傷させながら、ミルクティーを啜る神代博士から先程の須郷との会話で判明した衝撃の事実を聞かされることになった。もしそれが真実なら……いや須郷が直々に言ってるんだから間違いなく真実なのだが、そうであればこの一件は世界を揺るがす規模の大問題へとなりかねないのだ。
すなわち、世界中のフルダイブ型VR市場に大打撃を負わせ、壊滅にまで追い込む大事件に。
「……でも、だからって公開しない訳にはいかないわね。人命や尊厳を損なってまで、このVR技術を推し進める道理はないわ。……残念ね」
自身もVRマシンの研究家であるというのに、そう言い切った神代博士の事を、玄太郎は一瞬驚いたように見つめた。あの茅場晶彦は彼女とは正反対に、人命を切り捨ててまで仮想世界の可能性を押し広げようとしていたのだ。そこに、元恋人であった筈の二人の、決定的な違いがあるのかもしれない。
「……それで神代さんはボイレコをもってレクト役員で後輩である須郷伸之にダイレクトアタック、その実を聞き出そうとしたけど、彼に作戦を看破されちゃったって訳っすかー」
『ワイらが拡散したあの写真に写るアーちゃんも意図的に画質を下げてるから、あれから客観的に本人だって証明する事は不可能だと思うぜ。だからって逆に画質そのままで公開しちまったら、それはそれでアーちゃんのプライバシーにも関わるわけで。
そう考えると、訴訟にしてもマスメディアへの垂れ込みにしても、リンリンやパイセンだけでレクトに立ち向かうのは無理ってもんだな常考』
「そうね、悔しいけど……決定的な証拠が何一つ公に出来ない現状では、声を上げてもすぐにもみ消されてしまうわ」
しばし重い沈黙が流れる。マソップや神代博士が言う通り、要は現状ではあまりにこちら側の勢力が小規模すぎて、取れる行動自体がほぼ存在しないのだ。かといって誰かに協力を仰ぐものなら、人によってはそれを向こうに密告される危険性もある。仮にも相手は日本有数の巨大株式会社である、こちらに切り札がない限りは、下手したら国家でさえ向こうの肩を持ちかねないのだ。
「ねえ、青いこと言うようですけど、それだったらもう直接、ALOでSAO生還者監禁の証拠を見つけ出す方が早いんじゃないですかね。この際不正だろうが何だろうが、写真とか撮っちまえばこっちのもんな気もしますけど」
「……それで玄太郎君、あてはあるのかしら?」
「グエッ」
玄太郎、大敗北である。暗にキサマは役に立ってねぇと言われているようなもんである。いやまあ、グラントだって頑張ったんだよ? スイルベーンに特攻したり、飛べねぇのにグランドクエストに挑戦したり。……常にどこか欠けてるようなプレイスタイルはどうにかならないものか。
だが、そうして打ちのめされてテーブルに突っ伏した玄太郎は、しかしこの時、いつもながら鋭い事を考えつくのだった。
「……ねえ、神代さん。
「どういう状態、というと、その人体実験をするにあたって、レクト側がALOにおいて彼等をどう扱っているか、という事かしら?
そうね……恐らく実験に必要なのは脳の機能だけでしょうから、アバターを与えずに位置情報だけ用意してALO内に固定させて、五感を完全に切り離しているんじゃないかしら。そうしないと、被験体に余計な外的な刺激が与えられて、精度の高い実験データは得られない筈だもの」
「……うーん、だとして、ですよ?
じゃあ、
玄太郎のこの質問に答えたのはマソップである。
『もちろん、無事な訳はないぜ。一切の外的な刺激のない状況で一定時間放置されれば、それによる精神的なダメージは甚大、さらに自身の感覚器と知覚との再接続が困難になる可能性まであると推測されるZOY。
だからこそ、恐らく定期的に実験サンプルとしてのSAO生還者が精神崩壊しない為に、レクト側も定期的に電気刺激をその脳に与えてると思われ』
「ふむふむ、なるほど? およ? ……でもさ」
玄太郎、質問の三段活用である。何か面白いから次もルビふっとこ。
「それっておかしくね? だって、ある出来事に対してどう思うかって人それぞれだろ?
それにさっきの話も、幾ら何でも深夜になればレクトの社員は全員退社してるだろうし、夜間は彼等の脳の維持はどうしてるわけ? コンピューター制御に任せたりしてるの? そんなデリケートな実験サンプルを?」
「……それは」
『つまり、何が言いたいんだパイセン』
遂に神代博士もマソップも返す言葉が見つからなくなったようで、その彼の質問の真意を聞き返す。それに組んだ両手をテーブルにおいて身を乗り出した玄太郎は、続ける。
「つまりだよ、人間の感情は、『経験』に結びついてるって考えるのが妥当なんじゃないかなって。だから、人の思考を操作するって言っても、それをやるにはその人その人の経験を把握しないといけないんじゃないかなって。
だから、ただ外的刺激を与えるだけで、SAO生還者の脳の機能を維持したり、研究したりできるのかが、しっくりこないというか……まあ、トーシロの意見ですけどね、うむ」
「ああ」
神代博士が一瞬固まり、直後にそう、声を漏らしたのはその時だった。
『お、どうしたんだぜ?』
「何か、思いついたんすか?」
それに気付いた玄太郎とマソップが彼女に尋ねるが、しばらくの間神代博士はそれに応じることが出来ずに、その場で右手を額に当てて俯いてしまった。その不可解な行動に短髪男は思わず目の前のパソコンに映し出されているマソップの音声データウィンドウを見る(そうすることで何となくマソップと顔を見合わせているような気持ちになっている)。
「……そう、そうなのよ。玄太郎君。
なんで、こんな簡単な事に気が付かなかったのかしら」
だが、一分と経たずにゆらりと顔を上げた彼女の表情は、覚悟に満ちた様な決然としたもので。
「いい、玄太郎君。よく聞いてね。
あなたの言う通り、被験体たちの脳を活性化させる為には、彼等のそれまでの経験を把握する必要があるわ。そうじゃないと、それぞれの持つ脳の個性を把握しきれないし、その中から一般的と思われる刺激を特定して体系化する事が出来ないものね。
でも、彼等はレクトに囚われるまでの間の二年間、
「…………え」
神代博士の言わんとしている事に察しがついた玄太郎は、二の句が継げずにその場でコーヒーのカップを口に当てたまま、固まってしまう。マソップも黙ったままだ。
「答えはそこにあるのよ。レクトは、『そこ』で彼等が経験した感情を再現しようとした。不可能じゃないわ、だって。
だって、ALOは、SAOのコピーサーバーなんですもの。
そして一呼吸付いた後に、彼女は。
「……つまり、あのALOには、まだ存在するんだわ。