グラント「もうちっとだけ続くんじゃ」
グラント「もう ちびっとだけ続くぞ!」
ハルキ「猛血虎」
空気に、匂いがある。
その事に気付いて、瞼をうっすらと上げてみると、視界一杯にややおんぼろな建物の天井が見えた。
横に首を向けると、夜の帳が下りて真っ暗になった外を映す、大きな窓があった。暫く澄んだ夜空を眺めていると、どうやらここが奥多摩の山地に存在する病棟である事が伺えた。
(……そうか、俺は道場から、病院に運ばれたのか)
意識ははっきりとしているものの、数日振りの現実世界に身体の調子がまだ戻っていない彼女、鈴風春花は、それでもひとまずはと身体に刺さる点滴の針を引き抜いてベッドから降り立ち、節々が痛むその全身を屈伸したり伸ばしたりして、その環境に適応させていった。
……数日間の昏睡状態から回復して、なぜそんなに早く行動を起こしているのかと言えば。
(何となく。何となくだけど、多分。
……あの人は、ここに来る)
やがて院内着のまま割り当てられた部屋を抜け出すと、ところどころにポツリポツリとしか明かりの付いていない、その仄暗い廊下を歩いていく。その過程で、どうやら父親には隣の部屋が割り当てられている事に気付いた彼女は、なるべく音を立てずにその前を通り過ぎてゆく。これは自分自身の問題だ、自分だけで解決できるのならば……なるべく親父を巻き込みたくはなかった。
(……そのほかのみんなはここにはいないんだな。小児病棟の方にいるのかな)
そう何となく予測を立てながら、目の前の曲がり角にあった女性用トイレに一旦入り、その掃除用具入れの中に立てかけてあったモップを手にする。そしてそのブラシの部分を足で引き抜くと、その棒部分を剣の様に順手で持った。ハルくんそれで気のせいだった、とかだとマジでヤベー奴だよ、大丈夫?
だが、やがてその用具入れから出て、女子トイレの半開きになっている窓から外を見やって……その駐車場を確認した時。その嫌な予感は確信に変わっていた。
あるのだ。あの白いワゴンが。彼の社宅から家まで送ってもらった際に彼女自身も乗った、あの乗用車が、既にここに。
(……芹沢さん)
その事実が何を意味するのかを、春花はよく分かっていた。当然だ、あれだけの事があったのだから、彼が取れる行動があるとすれば、逃走か、自首か。
……いや、暴走か。
(止めなきゃ)
右手のモップの棒を強く握って、春花はごくりと唾を飲む。あのALOでの時の様に、もう自分達は支配者と被支配者の関係ではない。現実世界なのだから、立場としては、あくまで対等である筈だ。
覚悟を決めて、女子トイレから一歩外に踏み出す。いつでも腕を返して棒で一撃を与えられるように右腕を曲げて、そして廊下をさらに渡って……その先にあった階段を降り始めようとして。
「死ね」
(―――っ!?)
その死刑宣告を聞き取る前に、自分以外の誰かの衣擦れの音を聞き取っていた春花は、すぐに右手首を返して棒で防御姿勢を取りながら振り返る。
そして、直後に腕に伝わった凄まじい衝撃に、思わずそのモップ棒を横にして、両手で押さえる事になった。
「ぐ、芹沢、さん」
「五月蠅いな。いいから、死んでくれ」
そのあまりに暴力的な力に、春花は意識を切り替えて、暗闇の中にシルエットのみが映るその男の腹を思い切り蹴りつけて……なんとか距離を取る事に成功する。そして、それによって彼もふらついてややその場から後ろに下がったことにより、火災報知器の赤い照明に照らされて……芹沢の姿が、仄かに浮かび上がった。
血走った眼を大きく見開きながらも、その口元からは一切の感情が読み取れない。だがその言動と、普段の彼からは想像もつかない衣服の乱れ、そして何よりも……そんなものを一体どこで手に入れたのか、右手に握る消防斧が、いかに今の芹沢が明確な殺意を彼女や、彼女の父親に向けているかがはっきりとわかる。
先程も、もし春花がその不意打ちにあらかじめ気が付かなければ……その後頭部をかち割られていたところである。
「もうやめるんだ。俺達に危害を加えても、自分の罪が重くなるだけだぞ」
「五月蠅い。何度も言わせるな」
ダメだ、まるで取りつく島がない。春花は棒を両手で構え直す。取り敢えずあの斧をどうにかしないと。
「……あなたが親父を殺そうとしているなら、芹沢さん。俺はそれを止めなけきゃいけない」
「冗談じゃない。君に、君ごときに」
そして、ただでさえ通常の精神状態ではなかった芹沢が、遂に痺れを切らした様だった。どうやら格下だと思っていた彼女に、自分を止めると宣言されたことが相当頭に来たらしく。
「君ごときに、負けてたまるか!!」
いくら錯乱状態にあったとは言っても流石の身のこなしである、武道経験者ならではの素早さで彼女の前へと詰め寄って、手にした凶器で彼女を豪快に切断しようとして。
だが。
(……あれ)
それを春花は、まるで焦る事もなく、避ける事が出来てしまったのだ。
「……なっ……!?」
「……これって」
どうやら芹沢だけでなく、春花自身もその事に困惑している様だった。彼女の中で印象付いた芹沢の剣筋は、あのALOでの彼の剣に匹敵する、極めて研ぎ澄まされた超越的なものだったはずなのに。
だというのに、今の芹沢の斧は、武器が違うとは言ってもあり得ないほどに、遅い。
「この……この野郎!!」
益々逆上する芹沢が、もはや周りで眠る他の病人達を起こしてしまいかねない程の怒号を放って、さらに手にした得物を振り回す。春花を袈裟斬りに、腕を斬り落としに、首を掻っ切るように、そして額から真っ二つに両断するかのように、色んな軌道を描いた斧が春花を襲う。
(……どういう事、なんだ?)
だけど。
(こんなに、こんなに遅かったのか? 俺があれだけ超えられないって思ってたこの人の攻撃は、こんなに)
そのどれ一つとして。
(……こんなに、
その刃が、春花の身体を掠ることはなかったのである。
「ど、どうして」
荒く息を吐きながら、芹沢は悪態をつく。肩を怒らせて、やや自棄気味にすら見える彼の様子を見て……ようやく春花は、思い当たる。
あの父親との試合の日の事だ。SAOに閉じ込められる前は受ける事すらままならなかった彼の一太刀を、しかし比較的容易に受け止めることの出来た。あの感覚に、今の自分は似たものを感じる。
それに……何よりも。今の芹沢によって振られる斧には、何の意志も乗っていないのだ。ALOでの彼の、強者としての自負も感じられず、ただ殺意をあらわにしているだけで……そこには何の具体性も、説得力もない。
「どうしてだ、こんな、二年間も寝たきりで、ただゲームをしていただけの娘に、どうして」
その指摘はある意味では的を得ていて、春花は思わず苦々しく顔を顰める。自分があのSAOで生きている間、されど現実世界では全身の維持管理を担当の医療スタッフや、父親の秋ノ介に任せっきりだったのだ。それに対して、その間も芹沢というこの男は必死にレクト内で汗水垂らして働いていたのである。
ゲームをただの遊戯としか捉えられない人間からすれば、その状況はあまりに理不尽に感じる事だろう。特にこの男のような、必死に自分のプライドを取り繕う類の人間なら尚更である。
(……でもな、芹沢さん。
あなたが考えるべきは、俺との差じゃない筈だ)
春花は息を整えると、冷静に芹沢の左手首に小手打ちを放つ。その洗練された剣筋を、彼は避け切る事が出来ずに思わずその斧を落としてしまう。
「……もういい、死んでくれよ」
だが、直後に芹沢は吹っ切れたようにそう言うと、右手で懐に忍ばせていたナイフを取り出し、春花の胸元に突き出す。
「死ねよ、春花ぁぁっっ!!」
……目の前の男の本質を看破した春花は、もう強がりでも何でもなく、本当にその刃に恐怖を覚えなくなっていた。縦持ちで突き込まれる刃物の腹を左手で右に押しながら、モップ棒を持った右手で拳を作って芹沢の腕を左側に抑え込み、その手からナイフを取り落とさせる。
そしてそのまま自身の身体を右横に流しながら、つい前にナイフを払った左手で芹沢の右腕を掴むと、柔道の浮落の要領で左腕一本で後方に投げ飛ばしたのである。
「げはっ……そ、そんな、馬鹿な」
「芹沢さん」
あまりに衝動的に突っ込んだ為、その勢いを利用して投げられた事で、地面に受け身も取れずに叩きつけられたその男は……それから暫く、あまりの痛みに息をするのもままならずに、そのタイミングで話し出した春花の言葉を遮る事が出来なかった。
「俺は、あなたに憧れてた。強くて、優しくて、いつでも真面目で。そんなあなたのように、なりたいって思ってた」
……実際はそれらは全て彼の本質ではなく、所詮は演技による産物だった事は最早否定の余地はない。事実春花もその事にあの紅玉宮で気付いてからは、今まで騙された様な、弄ばれた様な感覚に陥っていた訳なのだが。
「……でも、今のあなたを見て、分かったよ。
あなたはただ、
「……は……るか、きみに……まで、負けて……しまったら」
彼女の言葉にどこか心に刺さるものを感じたのか、芹沢は仰向けに横たわり、苦悶の表情を浮かべながら……途切れ途切れに声を絞り出す。
「ぼくには……なにが、のこるって……いうんだ。
あのころ、たしかに……ぼくを尊敬……してくれていた……そんな、きみに、負けたぼくは……。
それじゃあ、ぼくの……いままでの、意味は……いったい」
それはつまり、芹沢も自分自身で、初めから自分の弱さに気が付いていたという事を表していて。だからこそ全力で虚勢を張る様になって……気が付けば、彼は
彼にとってもあのレクトで働く日々は、歪みつつも彼なりの信念の戦いだったのだ。上へとのし上がり、自分に屈辱を味わせた人間に復讐を果たして。そうして、誰よりも強い自分を創り上げるという目的だけが、彼にとっての唯一の希望だったのだ。
(俺だって、ただ力だけを求めていた時期が、あったじゃないか)
グラント帝国を離れて、ただ我武者羅にレベリングをしていたあの頃の自分は、彼と同じだったのではないだろうか。誰かの為と頭で思って、口にはしていたものの……それは本当に他人の為だったか。あの娘を置き去りにした、そんな弱い自分から逃げたくて、忘れたくて、嫌で……そして、強くなることで周りから頼られて。そういう自分のプライドの為に強くなろうとしただけではないか。
だとしたら。春花は思った。とてつもなく遠い存在として感じていたかつての先輩に、されど自分にも理解できる身近な接点があったとしたら。
「……なあ、芹沢さん」
そう、穏やかに呼びかけながら、廊下で未だに横たわる芹沢の周囲から消防斧とナイフを遠ざけると……彼女は彼の隣まで歩み寄って、その場でしゃがみ込んだ。
「そのやり方じゃ、ダメなんだよ。ある程度は上手くいくかもしれないけど、いつか絶対にガタが来ちゃうんだ。
だって、それじゃ、周りに誰もいなくなったら、自分を認めてくれる人間がいなくなったら……もう、立ち上がれないじゃないか」
そして、茫然自失となっている、在りし日の憧れに向かって……彼女は微笑んだのだった。
「だから、芹沢さん。
他人がどうとか関係なく、まずは自分がどうありたいかを、考えようよ」
「強く
呪いから、誓いへ。
それが、あの二年間で春花がハルキとして出した、結論だった。
「それが、いつかあなたを強くする。いつかそれが自信になって、誇りになっていくんだ」
……ああ。芹沢は思った。
こんな事があったというのに。弱い自分の本性が、完全に露呈しているというのに。だが、目の前の彼女の瞳は、偏見も軽蔑もない、純粋ないたわりに満ちている。
弱さをさらけ出すことは、そのまま人生の汚点を意味すると思っていた。それが孤立を招き、自身の存在意義を損ねると思っていた。
だけど、これは。
「……こんな、ことも、あるんだね」
その時、初めて。……いや、本当はとっくに気付いていて、それを今の今まで見ないふりをしていたのだが、この瞬間に、漸く。
彼は、自分の脆さを、受け入れたのだった。
「……
……耳を澄ませば、微かにサイレンの音が、建物の外から聴こえてくる。
「それじゃ、詳しい話は署で聞かせてもらうよ」
数分と経たずに病院には警察が押しかけて、芹沢を拘束して連行しようとしていた。どうやら彼女が彼を止めている間……あるいはそれ以前から、この病院に不審者が向かっているという通報があった様だ、そうとしか考えられない程には、その対応が迅速だった。
因みに迅速だったといえば芹沢も随分早くここに来たなと思ったかもしれないが、そもそも彼は春花たちを昏睡状態に落とし込んだ後は、彼女達のリアルでの状態確認のために経費で近所の旅館に滞在していたのである。そうしてレクト本社からは遠ざかりながら、オフィスの彼のデスクPCに取り付けられた内蔵カメラから須郷のただならぬ様子を確認して、予め把握していたアドレスとパスワードを使って管理者アカウントを乗っ取ると……満を辞してALOにログインして、鈴風家への復讐を敢行したのだった。
「……芹沢さん」
警察官二人に脇を囲まれて、病院の玄関からパトカーまで連れられる彼を見ながら、春花は小さくその名を呼んだ。恐らく彼は彼女達を監禁した罪と、レクト内にて須郷の起こした人体実験に携わっていた責任を糾弾されることになるのだろう、もう一つ、ALOの全プレイヤーの監禁未遂という重罪も存在はしているのだが……どうだろう、彼女には予感があった。恐らく、それに気付いたALOプレイヤーがあの場所でのメンバー以外にいたとしても、ALO自体の存続を考えれば、その総意として積極的に彼を断罪する動きはそこまで現れないのではないだろうか。
(だから、償いを終えたら、また会おう。今度は対等な、友人として)
……一瞬、彼が春花の方に振り向く。そして、しばらくその彼女の瞳を覗きこんでいたが……やがて憑き物が落ちたかのように穏やかに笑うと、その口を動かしたのだった。
―――全く。君は、五月蠅い奴だ。
それを読み取った春花は、腕を組んで、頬を緩ませながら…………。
「で? いつまで柱の陰で、様子を窺ってるんだよ。バレバレだぞ?」
「…………いないよー」
「子供の言い訳か」
やがて数秒後に返ってきた情けない返答を、さらにバッサリと切り捨てる。
「お前なんだろ、ここに芹沢さんが来るって、通報してくれたのは」
「……分かっちゃいますかー、うん、そりゃそっか。
いやね? 今日の昼の時点で、アミュスフィアを持ってここの近くのネットカフェまでこっそりやって来てね? それで折角サプライズ的な登場をしようと思ったのに、何か入り込めない雰囲気だったし」
「ばかいえ」
背後からテクテクと聞こえてくる、微妙に堂々としていない足音が、自分のすぐ近くまでやって来たのを確認した春花は。
……一瞬だけ自分の唇に両手を当てて、短く息を吐いて、振り返った。
「こんばんは。……信田、玄太郎です」
「……こんばんは。鈴風、春花です」
天空に浮かぶ鋼鉄の城で。世界樹の聳える妖精の世界で。
二つの世界で、共に並び立ったパートナーと。そのトレードマークである筈のロングヘアーをバッサリ切った短髪男と。
……武器を持たない男と、「ソードスキル」を使わない少女は、言葉を同時に重ねた。
―――はじめまして。
「って感じで、ひとまずは落ち着いたって訳ですねー。須郷の方もひとまずは捕まったって聞きましたし、もう俺達に出来る事はやり切った、って事で良いんですかね」
「ええ。思えば途方もない大事件に玄太郎君を巻き込んでしまって……申し訳なく思ってるわ」
「だったら今後とも家庭教師の方をどうぞよろしく」
『自重しろ落武者男』
さて。玄太郎と春花が、あの病院で邂逅してから一週間後。2025年、1月29日の事である。
「あのねぇ玄太郎君。家庭教師って言っても、そんな頻繁に東京に来られないし、本当に続けるんだとしたらリモート回線を介してになるのよ? それでもいいの?」
「どうぞどうぞ、それで毎週神代さんに勉強を教えてもらえるなら願ったり叶ったりっすね。まあでも、たまにはこっちに遊びに来てくださいよ。グラント帝国のみんなで歓迎しますよ。ねぇ、マソップ?」
『ぐぶぐぶぐぶ、ワイはAIだから、リンリンのPCにはもちろん、パイセンの電子機器にもひとっ飛びな訳で、特にここ東京に目新しさは感じないんだZOY』
「少しはまともに空気を読もうか鎖骨prpr女」
ここは東京都千代田区丸の内一丁目、東京駅。その巨大なターミナル駅を使って、自身の役目を終えた神代博士が居住地である宮城県に帰郷するのを、玄太郎は見送るべく彼女に連れ添っていた。
「……ねえ、神代さん。
VRマシン研究家として、これからのフルダイブ型VRゲームの情勢は……どうなると思いますかね」
その女博士は、そう疑問を呈した隣の短髪男に振り返る。
「……まだALOでの不祥事が発覚して直後だから、世論も固まっていないし何とも言えないわ。
でも、今回の事で……恐らく仮想世界の存続の是非に関しては、未だかつてない程に危機的状況に陥るでしょうね」
今回発生した事件は、主に二つに分類される。
一つは、須郷信之の起こした、三百人ものSAO生還者を利用した人体実験。基本的に世間が危険視し、VR環境そのものに対する懸念の声が上がるのは二つの内こちらの問題に対して、である場合が多い。
幸い被験体となっていた三百人に人体実験時の記憶はなく、かつそれによる精神異常を来たしたプレイヤーはいなかった為、その全員がリハビリの後に社会復帰が可能だとの事だったが……それはあくまで結果論であり、娯楽市場として存在していた筈のゲームを利用した極めて非道な犯罪行為である事には何の変わりもない。
そして二つ目は、芹沢を始めとした「営業担当」のレクト社員による、SAO生還者で現実世界に復帰している人間を、再び仮想世界に取り込むという一連の誘拐事件。こちらはその手口の悪質さが騒がれることがあっても、仮想世界そのもののリスクというよりは通常の監禁事件の監禁先が仮想世界だったという認識をされることが多く、そこまでVR市場に影響を及ぼしているとは言えないだろう……少なくとも、現状では。
『だがしかし、レクト・プログレスは責任を取って解散、レクト本社も事業縮小を行って、社長以下の経営陣を刷新する大打撃をこうむる事になってるんだぜ。
フルダイブ型VR業界じゃあ国内最大手だったレクトの事実的な崩壊で、その市場の規模が圧倒的にしぼみ込むことはもう決定的ンゴww』
それだけではない。根本的に、SAO事件とALO事件を通して、あらゆるVRワールドが、運営側の都合によって犯罪に利用される可能性が、これで完全に否定できなくなってしまったのだ。その震源地となってしまったALOは既にサービスを停止しており、その他のいくつかのVRMMOゲームタイトルも、その厳しい社会的批判によって中止せざるを得ないと言うのが、現在の一般的なVRゲームに対する見解なのだ。
「……じゃあ、もう一つ質問。
神代さん。フルダイブ型VR技術が、今後再注目される可能性は……あるんですか」
起きてしまった事は仕方がない。玄太郎は思う。あの日、相棒と共に失われた筈の鋼鉄城をもう一度眺めたあの日、彼は決めたのだ。もう未練を引きずるのは止めると。これから起こる出来事に対して、あの二年間の日々を活かしていくと。
そして、そんな彼の変化に、どうやら神代博士も気が付いていた様で。どこか肚の座ったその若者をほんの一瞬だけ眩しそうに見つめた彼女は……立ち止まって、一言でその答えを言い表す。
「それは、今後の、私達次第よ」
気が付けば、そう言って微笑む彼女の背後には改札口が見えており、いよいよ別れの時がやって来たことを玄太郎は察して。
……察して。
「……神代さん」
意を決して、玄太郎はそれを、宣言する事に決めたのだった。
「東都工業大学、今年一年で受験勉強して、受けます。
それで、俺は……あなたのような科学者になります」
世紀を揺るがす大事件を起こして、その非凡な才能を若くして費やし切ってしまった、茅場晶彦。
その生き様はあまりに刹那的なもので、印象には残っても、玄太郎や和人の様な一部の人間を除けば批判的な見解を持つ人々が殆どだろう。
そうではなくて。仮想世界ではトンデモムーブをかましていても。現実世界では、革新的でなくていい。先進的でもなくていい。それでも、人々の理解できる範囲で技術を開発し推し進め、その分野の発展に貢献できる研究家。
―――つまりは、神代凛子のような科学者に、玄太郎はなりたいと思ったのである。
「……あなたって子は」
その言葉に、彼に目標として指定された女博士は、ほんの少しの間時が止まった様に凍り付いていたが、やがてその顔を綻ばせて……そして一瞬、くしゃりと歪める。
「……私、玄太郎君にだけは話したわよね。
茅場君は、もう死んでいるって。いずれ近いうちに彼の遺体が発見されて、私は彼の介助をしていた重要参考人として拘留されるって」
「……ええ」
そう、この時点では、茅場晶彦の遺体はまだ発見されていない。それが為されるのは三月に入ってからの事で、その際に神代博士は茅場晶彦の潜む長野の山荘で、彼の身辺の世話をしていた経緯から、それから一か月もの間その身柄を拘束されることになるのだ。
「……私は、茅場君の……晶彦さんの凶行に気付いていながらも、彼を止める事が出来なかった。殺すつもりであの山荘まで押し掛けたのに……殺せなくて。それで、多くの人の命が失われてしまった」
今度ばかりは、流石のマソップも茶々を入れずに、女博士の抱えるPCの中で沈黙している。
「……そんな私の事を、玄太郎君は、どうして」
「
ほろほろと涙を零し始めた神代博士に、思わず玄太郎はコートのポケットからハンカチ……が無かったので、その代わりに自分の手袋を取り出して差し出す。
ちょっと待て、お前正気か。それで涙を拭けってか。その奇行に、思わず彼女も涙を引っ込めてドン引きする。
その様子を見て、ばつが悪そうにそれを再び仕舞うと、玄太郎は続けた。
「仮想世界でも、現実世界でも。どんなことがあっても、刃を持って人を殺さない。それが、俺の流儀ですから」
さっきのがなければ名言なのに。何だか上手く決まらずにビミョーな雰囲気が流れる。おまけに神代博士のPCから、やたらめったら溜め息が聞こえてくる。
だが、やがて神代博士その人は、玄太郎にその言葉に込めた気持ちに思いを馳せながら。
「……それで、大学では、どんな勉強をするつもりなのかしら?」
「うーん、そっすね……工学系はなんかムズそうだけど、脳科学と関連する系はカッコよさそうかなって」
……でも。
彼女は知っていたのだ。その裏に存在する、彼の本心を。
「……実はね、ご両親から聞いちゃったの。
脳の研究をしたいって言うのは、それが理由ね?」
「……なんだ、バレちゃってたんですか」
ちょっとだけ、玄太郎の表情に陰りが生じる。
「ええ。ごめんなさいね。
難しい問題だと思うわ。誰もが心のどこかで感じる事だと思うし、でもそれが理解されるには、
異常か、正常か。あなたが突き詰めたいのは、その中間、なのよね」
『……? 何の話だぜ? リンリン』
その姉貴分の言葉の意味が掴めずに、マソップは疑問を呈する。だが、そこで神代博士は敢えて多くを語らず、目の前の、苦笑いしながらも表情を引きつらせている将来の後輩を見やると。
「……そういう事なら、私も全力で応援するわ。
昨日指定しておいた分の宿題、ちゃんと明日には終わらせるのよ?」
―――賭けてみよう。そう、思ったのだった。
若者の力に。VR世界を本気で想う、これからの若者達の信念に。
「……ええ、まあ、やるだけやってみますよ」
「返事ははい、で充分よ。……それじゃ、玄太郎君、またね」
何とも気の抜けた返事だが、まあいい。彼女はその青年の瞳を見てそう確信して、その場に立てて置いていたスーツケースを再び引き摺ると、別れの挨拶を口にしようとして。
「そうだわ。一つだけ、ヒントをあげようかしら」
―――彼女がマソップと共にレクトのデータベースにハッキングを仕掛けた際に見つけた、一つの会話ログ。
ALOサーバーのものではなく、当時レクトが受け持っていたSAOサーバーの中に存在したそれは、その記録日時からしてあらゆるログの中で最後になされた会話であり、そのあまりに特徴的な彼……元恋人の言葉に思わずその複製を自身のPCに移してしまっていたのだが。
「あなたが、『阿修羅』としての玄太郎君……いや、グラント君との間に、決着をつける事。
その為に、茅場君があなたに求めている事は、きっと―――。
『これは、ゲームであっても遊びではない』。
その
「……真意? ええ? どうして、そんな事が分かるんです?」
そして、今度こそ難しい顔で唸りだしたその青年を見て。
(……さしずめ、女の勘、ってところでしょうね―――キャプテン・アインクラッド君)
……神代凛子は、あのSAO事件が終わってから初めて、心から笑顔になれたのだった。