「これはSAOであって、ソードアート・オンラインではない」
「またかよ」
2025年、5月16日。
春の柔らかな陽光に頬を撫でられて、椅子の硬さや机の角に腕が圧迫される痛みを全て忘れて……そうして窓際の席の机に突っ伏して、のんびりと昼寝をしていた一人の女子高生の肩に、ぼすりと何やら袋のようなものがぶつけられる。
「うわっ……ああ、なんだ、キリトじゃないか」
「なんだ、じゃないだろ。もう昼休み、終わっちゃうぞ。
あと、キリトじゃなくて和人な。ここじゃキャラネームを出すのはマナー違反だ」
唐突に起こされたその少女、鈴風春花が未だに眠気の残る目を擦りながら見上げると、そこには自身の黒い鞄を右手に持って困ったようにこちらを見つめる、一人の少年がいた。
桐ヶ谷和人。あのSAO世界ではラスボスを倒した英雄「キリト」だったとしても、そのリアルでの姿は何ら他の生徒と変わらない、やや中性的な顔立ちを持つ温厚な印象の少年だった。
「全く……明日奈と言い君といい、『キリト』って呼ばれる度にどこかしらから視線を感じるこっちの身にもなってくれよな」
「悪い悪い……ちょっと寝ぼけてたよ。こんなに平和に過ごす毎日っていうのも、何だか久しぶりな気がしてさ」
「……それには、俺も完全に同意するよ」
和人と春花は、その年齢が同じである事から現在、同じクラスに在籍していた。そんな中でも理系の科目を得手とする和人と、古文などの文系科目にある程度の素養がある春花は、その学業としての能力に上手いこと釣り合いが取れていて。お互いに授業後に出題される課題ファイルの答えを教え合ったりするのに都合が良く、そうして授業開始当時から知り合っていた二人は、今ではSAOの中で剣を振るっていた時以上にその仲を深めていた。
「あれ? 昼休みがもう終わるってことは、和人はもう明日奈に会ってきたのか?」
「……それも、あんまり大っぴらに言って欲しくはないんだけどな。まあ、そういう事。大丈夫、学校生活を送るくらいなら、問題ないみたいだぜ」
「そうか……それなら良かった。
リハビリ、本当に辛そうだったからな。心配してたんだ」
須郷伸之による三百人のSAO生還者の監禁事件の収束と共に、アスナもまたその枷から解放されて現実世界にて恋人である和人と再会するに至っていた。だが、現在和人や春花の通うここ……SAOから帰還した中高生を集めて開かれた臨時学校、通称「帰還者学校」の開校までに明日奈に残された時間は少なく、その日程に合わせるかのように行われた彼女のリハビリテーションはかなり過酷なものだった。
その現場に春花も何度か足を運んだのだが、何度も歩行訓練をしながら、その瞳に涙を溜めて痛みに耐える彼女に随分とハラハラさせられたものだったのだ。
「それじゃ、今日のオフ会には彼女も出られそうなのか?」
「おう。もしもの時のために俺ももちろん気を付けておくけど、もし良かったら……鈴風さんも明日奈の事、見ていてくれないか?」
「了解。そういうのは、みんなで協力してやるものだよな。……だけどさ」
ちなみに明日奈は二人よりも年齢が一つ上なので、そのまま一つ上の学年を集めたクラスに在籍している。その為に普段から顔を合わせるタイミングもそれほど取れず、和人も昼休みには明日菜と昼食を食べる時間を必ず設けている、という訳である。
―――通称、「姫」との謁見、だそう。そのバカップルぶりが実は学校中で既に噂になっている事を、春花も密かに耳にしていたのだが……それを言うのも野暮な気がして、今の今まで彼女はその事を和人に黙っているのだった。
更にちなみに、そのイチャイチャを遠目に見るMOREさんとDEBANさんがいたとかいないとか。気のせいだね、きっと。
「あのなぁ、いい加減その『鈴風さん』っての、余所余所しいからやめてくれよ。別に春花でいいって、前も言ったじゃないか」
「うっ……ま、まあ、そうなんだけどさ」
まあと言うよりハルくん、君は君でナチュラルに彼を和人呼ばわりしてるのどうかと思うのだが。いや悪くはないんだけどほら、彼つい最近までリアルでもソロプレイヤーだった人間だからね? そういうのハードル高いからね?
だが、その元ソロプレイヤーから次に発せられたひそひそ言葉は、少しそれとは意味合いが異なっていて。
「……その、SAOじゃ君は『ハルキ』だった訳だけど、何となく、春花って呼ばれて欲しくないのかなと、そう思ったといいますか」
なるほど? 確かに、自分の名前が性に合わなくて、そのアバター名をハルキにしたとか言ってたよね彼女。すごいじゃん和人、他人のそんなところまで配慮が出来るなんて、もうソロプレイヤーとは言わせないね!
対して春花は、実は原因が自分にあったと言うまさかの展開に少し驚いた様子を見せたが……やがて軽く吹き出すようにその頬を綻ばせて。
「まあ、当時はそう思っててさ。だからハルキっていう名前も、気に入ってたんだけど。
……でも今は俺、春花って呼ばれてみたいんだよな。ちょっとした、心境の変化ってやつかな」
帰還者学校の女子生徒用の制服として支給された、白いラインと赤いリボンの映える深い紺色のショートジャケットとハイウエストスカートを見に纏った春花は、スカート装備が嫌いだと豪語していた頃とは完全に別人のように淑やかな雰囲気を纏っていた。一人称は未だに「俺」だけど。相変わらず男口調だけど。
SAO事件から生還後、その少女が一度病院から退院したのが昨年の12月末のことで。現実世界への復帰直後に一度整えて以来、手入れを怠らずも敢えて散髪をしなかった彼女の黒髪は、まだ長髪と言うにはあまりに短いが、それでも肩にギリギリ届く程度にはその長さを伸ばしている。
その髪を窓から吹き下ろす暖かな風になびかせながら、のどかな青空に目を細めて。そして何に思いを馳せたのか、次の言葉を言う春花を……和人は呆気にとられて暫く見つめる事となる。
「これでも俺、そろそろ考えた方がいいかなって思ってるんだぜ?
……可愛いって、どういうことなのかな、って」
帰還者学校に通い始めて、既に一か月以上が経過している。
その日々の中で、春花もようやく学校生活としての日常を取り戻しつつあったのだが、今日この日だけはいつもと違い……放課後に、逃す訳にはいかない用事があった。
「おっ、ハルキじゃなーい!! こっちこーい!!」
「……エギル、まさかアルコールを出してるんじゃないだろうな」
「一パーセント以下だから大丈夫だ。明日は休日だしな」
「こら」
カラン、と響くベルの音と共にその黒いドアを開いて店内に入った春花を、まず初めに迎えたのはリズベット……こと、篠崎里香だった。その既に出来上がってしまっている様子を見て、ジト目で店主の大男……エギルこと、アンドリュー・ギルバート・ミルズを見る。
どうやら既にその場……デスゲーム終了後初のSAOのオフ会はかなりの盛況を博している様で、見渡すだけでもあの世界にて共に戦った仲間たちが勢ぞろいしている。先に紹介したリズベットとエギルに加え、どっかの落武者男の主催したコスプレ大会の被害者となったシリカ/綾乃珪子、はじまりの街にて、短い間ながら共にその治政を行ったシンカーとユリエール、あのズムフトでの果し合い以降も度々デュエル相手として対戦した野武士男クライン/壺井遼太郎、他にも多くのプレイヤーが……そして、文字通りあの世界の英雄として、今でも彼等の中心にてその存在を光らせているキリト/和人と、アスナ/明日奈の姿が、ドアを開け放しにしたまま、そばの木樽に自身の鞄を下す彼女の前に広がっていた。彼等もその来訪者に向かって一度目を向けると、その名をそれぞれ呼んで手を振り、それに春花も笑って応答する。
「あ、ハルキさん! 遅かったじゃないですか! 学校は随分前に終わった筈ですよね?」
「ああ、こんばんはシリカ。……いや、俺も早く来ようと思ったんだけどさ。
……ほら、そんな所でもじもじしてないで、早く入りなって」
その彼女の言葉にリズベットとシリカが不審に思い、その視線の先……開かれたままの入り口の外を見やると、そこにはドアの端に掴まりながら、緊張しているのか入るのを戸惑っている一人の少年がいた。エギルもそれに気付いているからこそ、春花がドアを閉めなかったことに対し何も言わなかったのであり。
「……えっと、あの子は一体……?」
「あ、そっか……みんなあの鎧姿でしか見てなかったのか。
紹介するよ、彼は富井拓也。あの世界では全身鎧を着た……トミィっていうプレイヤーだった」
途端にそれを聞いた二人が、音速の速さでその少年を二度見し、驚愕にあんぐりと口を開ける。
「は……え、あの子が、あの全身鎧のトミィ!?」
「は……はわわ、あんな可愛い男の子が……全然気が付かなかったです……」
「ぅうう……ハルキおねぇちゃん、だからやだったんだよぅ……」
無理もない。他ならぬ春花だって、その素顔をあのはじまりの街で目の当たりにするまでは彼の中身を、まあせいぜいあの盾男と同じくらいの青年ならいい方かな、位に考えていたのである……というよりは、もうそれは鎧が体そのものの一種の小動物的なイメージだったのだが。
「大丈夫だって、みんなそんな事で君を嫌ったりしないからさ。
全く、あの頃と変わらず恐ろしく方向音痴な上に、散々行きたくないって駄々こねて……連れてくるのに随分時間を使ったってわけ」
そういう事だったらしい。一応彼はまだ小学生であり帰還者学校にはまだ通う年齢ではない為、春花は彼の住む調布市まで足を運んだのだが、待ち合わせ場所を彼が間違えたせいで調布駅の地下通路を歩き回った挙句に、合流してみれば恥ずかしい行きたくないヤダヤダと抵抗に抵抗を見せた彼を何とか連れてきたらしく。
因みに本当に誰にも会いたくない……と拒絶していたというよりは、リアルの自分が受け入れられる自信がなかっただけの様で、それを見抜いた春花がそんな事はない、とその手を引いたというのが実のところだろう。彼女自身も性別を偽っていた経緯を考えると何とも感慨深いものである。
そして、彼女のその言葉と、シリカとリズベットがやがて向けた優しげな目線に……どうやら彼も観念したらしい。おっかなびっくりという様子で店内に足を踏み入れ、その扉を今度こそ閉める。
「よろしくね拓也君! っしゃあこれでわたしも妹卒業できる!!」
「ひ……ひゃああっっ!?」
……その瞬間に飛びついてその頭をナデナデするシリカチャァァンに猫の様にビクつくトミィ。そしてそれを見てはいけないものを見るかのように眺めるリズベットと春花。よっぽど妹ポジによるフラストレーションが溜まっていたらしい。あとはフツーにトミィが可愛いのか。
「……まあ、あのバカは置いておいて。
それで? ハルキ、あんたの方はどうなのよ~?」
「俺? 何のことだ?」
「まーたまた」リズベットはその据わった目つきで目の前の少女を見やると、その額をぐりぐり指で押しながら詰め寄る。
「あいつとどうなのかって聞いてんのよ。けしからんなあもう、あんたみたいなベッピンさんが、どうしてあんな男と……」
「あー……はは」
そんな親友の言葉に苦笑いしながら春花はお茶を濁す。このリズベットが一応言葉の上では、あの盾男をにっくき女の敵扱いして公言している事を彼女も知ってはいたが。だがその言葉の裏では……一応は彼の事を一人の仲間として認め、そんな彼とただの友人関係から一歩先に踏み出した自分に対する気遣いが感じられる。
だが、それにどう答えればよいのかは、春花自身も少々迷う事となり。
「ま、まあ、最近はあんまり会ってないからなぁ、あいつはあいつでかなり忙しいみたいでさ。ALOにもご無沙汰で、一体どこで油を売っているのやら」
そう、実際、春花はここ一週間近く、あの落武者男と顔を合わせていない。
現在あの男は東京都大田区大森に位置する信田家を離れて、小金井市にある予備校の学寮にその身を置いている。ただでさえ難関大学と評される東都工業大学にたった一年で合格しようとしているのだ、その日々のスケジュールの多くを受験勉強に割かねばならない状況には十分納得の余地がある。予備校の課題をこなしながら神代博士との連絡も取り合っていると言うのだからてんてこ舞いである。
だが、それでも一週間前までは、彼も寮から新たに生まれ変わったALOにログインして、彼女やトミィ、マソップと会う時間をそれなりに確保していたのである。ある時はマソップの口を借りてまで神代博士がALOでの彼に押し掛けて、勉強の厳しさから妖精世界に現実逃避しようとしたその盾男をヒィヒィ言わせてたりもしたものだ。
「な、なぬっ!? あのクソダサロングヘアー男、こんな純情な乙女をほったらかして……しかも」
だがやっぱりそれはリズベットの琴線に触れた様で。腕をブンブン振りながら怒りをあらわにした彼女は……しかし次の瞬間には、その手で春花の肩に手を置くと。
「……しかも、今日は、あんたの誕生日じゃない」
そう。
5月16日。それは、春花があのデスゲームから解放されて、初めて現実世界で迎えた、十七歳の誕生日なのである。
「……絶対に許さないんだから、女の子の誕生日を何だと思ってるのよ、あいつ」
「……」
そのリズベットの、トーンの落ちた心からの激情の声に春花は苦笑する。とはいえ最低限の連絡は今も取り合っているし、それまで殆ど女性扱いされていなかった彼女からすれば、それはそこまで悲観的なものでもなかったりはするのだが。
だけど、会いたいなあ。そうぼんやりと思うくらいには、彼女の思考も世俗的になっていたりしたのだった。
「よし!! 春花、今日は飲むわよ!! あんな奴の事なんか忘れて、パーーーッッと騒いでやるんだ!!」
……と勝手に盛り上がって、店の中央でトミィを中心に皆が驚きと歓迎の言葉を口にする場に特攻するリズベットを、まるで嵐が過ぎ去ったかのように呆けた顔で眺めていた春花だったが……やがて我に返って、辺りを見渡して。
そして、たった一人、店の端っこの木樽に座って、寂しそうに佇む少女を見つけて……その横まで歩いて行った。
「よっ」
そして、軽快に声を掛ける。初めはその少女も突然掛けられた呼び声に、やや困惑しながらこちらを見つめていたのだが。
だが、やがてそれが驚きの色に染まると同時に、
「あ、もしかして……ハルキ、さん!?」
「ご名答、こんばんは。鈴風春花って言います。
そういう君はリーファ……直葉さん、だな」
それに春花も落ち着いた口調で応じると、隣に腰掛けて一つ息を吐く。
「ALOじゃ、本当にありがとうな。君達のお陰で、危険な目に遭わずに済んだよ。ほんとに、どう埋め合わせをしたらいいのか」
「い、いえ……あたしは、そんな」
だが、直葉はその春花の感謝の言葉に両手をぶるぶる振ってそう謙遜すると、その瞼をほんの少しだけ落として、言った。
「……お礼は、あたしじゃなくて、お兄ちゃんにしてあげてください。あたしは……ただ、キリト君っていう、一人のプレイヤーを手伝っただけですから」
手伝っただけ。
それは、共に戦ったという認識より、あくまで彼の仲間ではなく、サポーターとして補助をしたという意味合いが感じられて。それにやや違和感を覚えた春花は、首を傾げながら直葉に問いかけてみる。
「そんな事はないよ。君は和人の妹さんなんだろ?
彼と一緒に、囚われたSAOプレイヤー達を助けてくれた。……それだけでもう、俺は嬉しかったし、君の事は大事な仲間だと思ってるんだけどな」
「そう言ってくれると、嬉しいです。
……でも、お兄ちゃん達は……あたしとは……」
直葉は、囚われた大多数のプレイヤー達を想って今回の行動を起こしたわけではない。身も蓋もない言い方をすれば、「大切な人を取り戻したくて苦悩する、好きな人の力になりたい」という、スケールとしては極めて個人的な動機で事に当たっていたのだ。そしてそれが、次第に「自分と、自分が恋い慕っていた兄が愛したこの世界を守りたい」という決意に変わっていくことになった。
だが、それからの数か月の間に、彼女は気が付いてしまったのだ。和人が大切に想い、大事にする人々の間には、あの二年間を経てあまりに強固な絆が出来上がっていて。
それはつまり、彼女が「取り残されている」ということ。二年もの間、和人達SAOプレイヤーが現実世界の様々な世相から取り残された存在となっていた事は火を見るよりも明らかだが、そんな彼等はしかし今……その失われる事のない強い絆を持ってどんどん世界に順応し、人生の次のステージに進もうとしている。
(でも、あたしはそのスピードには、ついて行けない。いくらALOで一番速く飛べる妖精になれたとしても……あたしは、お兄ちゃん達に追いつくことは出来ないんだ。
だって、あたしには、「あの城」の記憶がないから)
和人の気持ちを理解したくて始めたALOを、しかしいつの間にか自分の意志で愛する様になって。
でもその旅路の行き着いた先には……そんな、永遠の別離が待っていたのである。
「あのさ、話は変わるんだけど」
「ふえっ? あ、はい」
おうおう、ハルくんバッサリである。相変わらずのキレッキレである。それはあの男に取っときなよ。
「三年前の、夏の中学の……剣道の、全国大会。覚えてるか?」
「……え?」
実は、あの帰還者学校で和人と出会い、その特徴的な名字を知って、そして彼から妹の存在を聞かされてから……春花には一つ、いつかその妹さんと出会った際に確かめたい事があったのだった。
そんな彼女の唐突な言葉に、直葉は呆けたようにその場で固まる。それを見て、ツンとそっぽを向いて、春花は。
「……俺は覚えてるぜ。折角全国大会に出場したと思ったら、初戦から強い奴と当たっちゃってな。
その小手打ちが年下の女子の剣とは思えない位に速くて、こっちから何度仕掛けても、必死に全部防いで避けて、抑え込んで。
その執念にびっくりしてる隙に、一瞬で面を取られちゃったんだから、あの時の俺もまだまだだったよなぁ」
「……あ……!! もしかして!!」
その語られた試合の内容に、思わず直葉はその目を大きく見開いて、まじまじと目の前の女子高生の顔を見つめる。
「あーーっ!! あの時の!! あれ、ハルキさんだったの!?」
「……やっぱりか。苗字が独特だからそんな気がしてたんだよ」
そう、デスゲームが始まるほんの数か月前の事だ。春花は中学二年生で、晴れて出場できた全国大会の初戦で……今彼女の前で大声を出した少女、当時中学一年生だった桐ケ谷直葉と剣を交えていたのである。その際に勝利したのは直葉で、その事があまりに悔しかった春花はその後SAOが始めるまでの間やたらめったら剣を振りまくる日々を送っていたとか。
「い……いやいやいや、あの時のハルキさん強すぎてあたし怖かったんですよ!? 何と言うか、殺されそうだって思って、剣道とか関係なく必死に身体を守ってたと言うか」
「ほー、そう言いながらもちゃんと最後は一発決めちゃうんだからなあ、よっぽど手癖が悪いんだなあ」
「そ、それはだって、あたしだって勝ちたかったですもん!!」
「俺だって勝ちたかったさ!!」
お……おお? なんか白熱してきたぞ? やたらおでこを近づけて当時の試合の文句を言い合う二人は……しかしやがてその顔を離して、気が付けば集まっていた他の人達の視線に作り笑いを浮かべて応じた。
「……まあ、いい。もう終わった事だ、負けた俺が何かを言うのは道理じゃないよな。
でも、そういう訳だから直葉さん、ALOで……いつか、また勝負してくれよな。今度は絶対、負けないから」
コホン、と一つ息をついてそう静かに啖呵を切る春花に、直葉も引き攣った笑みを浮かべたまま応じる。
「ええ、いつでも受けて立ちます、受けますとも。その時は絶対、あたしが勝つんですからね」
……っていうか何コレ。ハルくんは一体何しに直葉のところに来たんだよ。てっきり励ますつもりなのかと思ってたんだけど。
だが、次の瞬間、春花はその顔の険を解いて、言ったのだった。
「それでいいんじゃないかな、直葉さん」
その声音の変化に話し相手が振り返るのを横目で見て、続ける。
「俺だって一応、SAO組なんだぜ。でも……こうやって、腹を割って話は出来るだろ?
たかが二年間の思い出くらい、踏み倒してみせなよ。君だって、誰とも知らないALOプレイヤー達と一緒に絆を結んで……俺を助けに来てくれたじゃないか」
何なんだよ。結局何がしたいんだハルくん。やっぱり励ましてあげたかったのか。そのビミョーな感じ、まじであの落武者男の影響を受けてるぞ、ヤバいぞ? あ、それとも親父譲りか?
「大丈夫。だって君は……あの、黒の剣士の妹さんなんだから」
だが、そのやや不器用な彼女の言葉に、直葉は少し驚いて、次に苦笑いして……やがて、小さく頷いた。
「ありがとう、春花さん」
(……あとは、君の役目だぞ、和人)
そうふわりと笑って見せた直葉に、しかしまだ翳が残っている様子を見て……春花は、店内のカウンターにてクラインやシンカー、エギルと何かを話している和人を、遠目で見てそう、心の中で呼びかけたのだった。
さて、話しておかねばならない事がある。
あのALOでの不祥事があった際、世界樹の枝の先の鳥籠に監禁されていたアスナを助けに向かったキリトが、そこに現れた須郷伸之を打倒して……その後の事だ。彼は何と、二か月前に長野の山荘でその死亡が確認された茅場晶彦の思考模倣プログラムから、あるものを託されていた。
すなわち、「
そしてその中には、小規模なサーバーでも稼働できるようにダウンサイジングされたカーディナルシステムや、ゲームコンポーネントの開発支援環境がパッケージングされていたのだった。
つまりは、通常のVRゲーム開発に掛かる膨大な手間と比較して、圧倒的に低費用、低コストで一つのVR環境を作成することの出来る、完全権利フリーを謳うコンパクトなVR制御システムが、その瞬間キリトという一人のVRゲームプレイヤーに託されたのである。
それを、彼から更に託されたエギルが全世界に向けて完全に解放したのが……今年の、三月の事。
(話には聞いていたけど、すごいことになったもんだよなあ。
何せ、あれだけジャンルの衰退は確定的って言われてたVRゲーム業界が、これだけ息を吹き返したわけだし)
エギルの店で行われたオフ会を、そのお開きよりも早く退出し、トミィを自宅まで送り届けてから二時間近く掛けて実家の奥多摩まで戻り、自室に備えてあったアミュスフィアを被って。そうして現在……インプ領及び山脈を抜けて、空に飛び立ったハルキは、そのまま世界樹の聳えるアルンに向かうべく羽根を広げていた。
(それにしても……やっぱりうちから学校に通うのは厳しいかな)
元々オフ会を早退したのも、そこから帰宅するまでの時間の長さを考慮しての事で、帰還者学校の生徒の中では圧倒的に通勤時間が長い、そんな彼女の事を他の仲間たちはそれを良く理解してくれていたのだ。
だが、やはり健全な学校生活を送らねばならない身としては、ちょっと無理のある距離かもしれない。一応全国からやって来る生徒用に学寮が存在するので、彼女もあの落武者男の様に寮に入るのも一手ではあるが……だがやはり、彼女の父親をあの道場に一人、取り残す訳にはいかない。
(……でも、あいつがわざわざ小金井までやって来てくれたのは……トミィや、俺とリアルでも会えるようにって事なんだよな)
どうやら折角都心に住み、勉強する環境も整っている筈の彼が二十三区を離れるという選択をした際には、随分と家庭内で議論になったらしい。結局は神代博士の説得と、何と彼女が予備校にかかる費用の一部負担を見返り無しで受け持った経緯から……晴れてそれは成立したのだが、口には出さずとも彼がその選択をした理由が、なるべく彼女やトミィと気軽にリアルでも会えるようにという配慮にあった事は想像に難くない。先日も夏期講習前に空いた数週間の空き時間を利用して、自動車免許を取ろうかと意気込んでいたが……恐らくそれも彼女の長い通学時間を考えての事だったのだろう。
それを考えると、何だかんだであの男に現在、いかに自分が大事に扱われているかを考えてしまい、どうもむず痒い気持ちになる。
(だって言うのに……どうしたんだよ。もう、そろそろ時間になっちまうぞ。
お前が愛した、あの世界が……折角復活するってのに)
須郷の人体実験を始めとした一連の事件によって完全に運営を停止させる筈だったALOは、しかしそのプレイヤー達が構成する複数のベンチャー企業によって新たに生まれ変わる事となった。
というのも、彼等は共同出資で新たな会社を立ち上げ、レクトからALOの全データを無料に近い金額で譲り受けたのである。これによって新生されたアルヴヘイムには以前のプレイヤーデータも当然引き継がれ、さらにそれまでのALOに存在した滞空時間のシステムが廃止され、結果としてあの事件以降、ALOを辞めたプレイヤーは全体の一割にも満たなかったそうだ。
そして、今夜のことだ。そのALOに、新しいサーバー群を丸々一つ使って、
(お前と一緒に、見たかったなあ……グラント)
……だが、そんな少女の儚い祈りも届かずに……アルヴヘイム中に、それは響き渡った。
幾重にも連なった鐘の音。世界樹内部、以前はあのグランドクエストのドームがあったその場所に新たに配置された、アルンと世界樹中腹部に存在するイグドラシル・シティを繋ぐエレベーターの設けられた大空洞上部の鐘の音。それは、その妖精世界の現地時刻が、零時になった証であり。
……そして、それを耳にしたハルキが、飛行を止めることなく頭上に浮かぶ満月を見やると。
「……また会ったな。アインクラッド」
それは、やはり、アインクラッドだった。
満月を背後に、再び彼女の眼前に姿を現したその浮遊城は、しかし当時の雄大さをやはり損なうことなく天空に揺蕩っていた。
それは、後に多くのALOプレイヤーによって、「新生アインクラッド」と呼ばれる、高難度ダンジョンだった。そのデータ追加作業は本来のALOのデータとの接続や内部データの刷新も相まってかなり困窮を極め、何よりも倫理的な問題でそれを実装すべきかがギリギリまで運営側で検討されていたそうだが……どうやら、匿名による強い希望と運営への協力体制、そしてそのプレイヤーが集めてきた、アルヴヘイム中の九種族領主によるアインクラッド追加希望申請書によって……晴れてその実装が実現したのだとか。
(物好きも、いるもんだな)
ハルくん、苦笑いしてるけどさ。分かんないの? その匿名プレイヤーってのが、誰か。
「おーい、ハル公!!」
その時、上空から聞こえてきた声に思わず顔を上げると、そこには赤い髪に黄色と黒のバンダナを巻いて、腰に長刀を刺したクラインがいた。
「遂に、遂に!! 実装されたぜ!!
実装されたんだな!! 俺達の、アインクラッドがよぉ!!」
その、クラインの言葉を聞いて。「俺達のアインクラッド」という言葉を聞いて。
(……やっぱり、あそこは……本物の、異世界だったんだな)
ハルキは笑みを浮かべて、その野武士男の後を追随した。
(本物の異世界だったんだよ! グラント!!)
やがて暫くすると、そんな先頭を飛ぶクラインの横には巨大なバトルアックスを背負った、ノームのエギルが。
銀のハンマーを下げて、純白とブルーのエプロンドレスを着た、レプラコーンのリズベットが。
艶やかな黒い耳と尻尾を伸ばして、肩に水色のドラゴンを乗せたケットシーのシリカが。
ユリエールとシンカーが。サクヤが、アリシャ・ルーが。ユージーンが。そして彼等に続くプレイヤー達の中には、あの共に世界樹を登ったフカ次郎やマロンもいる。
(ああ……これが)
そして、その先には……お互いの温もりを確かめ合う……キリトと、リーファがいた。
(これが、お前が見たかった景色なのか)
「行こう? ハルるん」
そして……その先に浮かぶ鋼鉄の城が……その外観を一度に光らせて、黄金に輝いたのを見て……全身を迸るカタルシスに、しばらくその場で立ち尽くしてしまっていたハルキに、そっとその声が掛けられた。
振り向くと、そこには白のチュニックとミニスカートに白銀のレイピアを吊るした、ウンディーネのアスナが……その肩にピンクのワンピースの様なドレスを着たピクシーを乗せたまま、こちらに笑いかけていた。
「大丈夫、あの人は、絶対に、ここに来るわ。
あの城がある限り、私達は絶対に……ここに来る。帰ってくる」
その言葉には、普段の彼女らしからぬ熱が籠っていて。その暖かさが、ハルキに心に沁みわたっていく。
「……ああ。そうだな」
先に行ってるからな。ハルキは少しだけ俯いて、そう呟いて。
(でも、ずっと待ってるからな。そういうのは性に合わないけど……少しくらいなら、お前のために我慢してやるから)
そして……次の瞬間。彼女の遥か前方で、その場に飛んでいるあらゆる妖精に向けて、キリトが叫ぶのと同時に。
「よし―――行こう!!」
ハルキは、羽根をはばたかせた。
「ちょっと、待ったああぁぁぁっっ!!」
「―――おわっ!?」
全速力で新生アインクラッドに向けて翼を広げ、やがて妖精たちの先頭に立ったキリトは、その怒号を聞いて、思わずその場で急ブレーキをかける。
「な。なに!?」
「き、キリト君!? 今のも仕様なの!?」
続いてアスナとリーファが彼の横で止まり、まるで波が伝わっていくように妖精がその声に反応してその場で前進をやめて滞空する。
「ま、まさか……」
その時、キリトの脳裏にフラッシュバックしたのは、あのSAOでの茅場による、デスゲーム宣言の出来事だった。まさか。このALOはレクトからも解放された、真に安全で自由なゲームの筈だ。
「だとしたら、今のは一体……っ!?」
彼の周りにシリカやリズベット、クラインにエギルまでも集まってきて、それぞれが疑問を呈する。このままアインクラッドに降り立つことに、何か問題があるのだろうか。いや、そもそも今の声は、どこから聞こえてきたものか?
そう思って、そのスプリガンの剣士が、眼前に広がる浮遊城アインクラッドを見やると。
「……あっ」
―――ぽつり、ぽつりと、やがて見えてくるそれは、その背後からの黄金の光に浮かび上がる、三つの影法師だった。
一つはその身に纏うローブの様な装備のせいでシルエットでは性別が判断できず、しかしその頭に生える耳と後ろに伸びる尻尾から、ケットシーとしての姿を持っている事が分かる。
もう一つは、これは分かり易く……その身長が小さく、自信満々に踏ん反り返っている様子から、その正体がまだ子供である事が見て取れる。だがその全身は質感のあるフルアーマーで覆われている様で、顔と身体のシルエットが妙にアンバランスだった。
……そして、最後に一人、中央に立つその長髪を夜風になびかせ、腰に手を当てて仁王立ちをするその男は。
ああ、そのALO最大の馬鹿野郎は。
「だーれに許可貰って、アインクラッドに立ち入ろうとしてるんだか!!
ここを通りたきゃ、この俺様……
「……また、あいつか」
サクヤが、額に手を当てて。
「ヒュー、やっぱ旦那、最高だぜ!!」
「フカにゃん、あんまり褒められたものじゃないにゃん」
フカ次郎とマロンが、それぞれマイペースに言い合う。
「オフ会に来ないと思ったら……何してるんですか」
シンカーが隣のユリエールと共に苦笑いして。
「あ……はは。でも、あの人らしいや」
リーファが、苦々しさを通り越して呆れ笑いを浮かべる。
「呆れた、まだあんな調子なのね」
「はー、何だかあたしはもう、慣れたわ」
「……わたしはまだ、慣れないですよ……」
そして、主に彼を忌避する系女子、アスナとリズベット、そしてシリカが苛立ちを隠さずにそう言う。あのアスナさんが未だにプログレッシブレベルの冷たさである事がミソである。
だが、そんな中、その無謀な三人組を目指して……ただ一人、羽根を使って前に進むプレイヤーがいた。
「……行っちゃうんだな、ハルキ」
その紫色の羽根の持ち主に、先頭のキリトが、彼にしては珍しく寂しげな感情を乗せて、呼びかける。
すると、その女剣士は振り返って、頬の紅潮した顔で、返したのである。
「……ああ。
だって、その方が楽しそうじゃないか!!」
「久しぶり。連絡なくて、ごめんよ」
「……流石にちょっと、心配したぞ」
「うん。心配してくれて、ありがとね」
「……でもさ、
「……え?」
だから、遅いんだってハルくん。漸く彼女の中で情報が一つの線となって、一つの結論をはじき出したようだった。
「じ、じゃあ……お前だったのか……運営に掛け合って、アインクラッドを復活させた匿名のプレイヤーって」
「ぐぶぐぶぐぶ、パイセンここ一週間は現実世界でも運営の会社の方に出向いて、プレゼンまでしてそのアップデートに対して社内の理解を広げようとしてたんだぜ」
「ぼくはね、テレビのかっこいいお侍さんみたいに、おかねをそでの下にもって行ったほうがいいよって言ったんだよ。
なのにグラントにいちゃん、まっさおになってそんな訳にはいかないって」
トミィ氏とんでもねぇ勘違いをしてるぞ。それは悪代官と越後屋のアレだ。やったらヤバいやつだ。
「まあ、そういう訳だったから、ほんとに忙しくってさ。……それに。
それに、今度こそ、サプラーイズ、ってわけ」
「え? サプライズって、何が……?」
実はこの一週間ですげえムーブをしていたらしい、その落武者男……グラントから唐突に飛び出したその言葉に、ハルキは一瞬わけが分からずに思わず小首を傾げる……が。
「……まさか」
「うんにゃ」
良かったね、ハルくん。
どうやら、君の祈りは、ちゃんとこの男に届いていたみたいだよ。
「……お誕生日、おめでとう、ハルくん。
そんな君には、この新生アインクラッドを丸ごと進呈するぜぃ!!」
「ぐぶぐぶぐぶ、今回は、ワイもちゃんと言わせてもらうぜ。
おめでとうだぜ、ハルキニキ!」
「おめでとう! ハルキおねえちゃん!!」
「……へへ」
何かを堪える様に一瞬俯いて……でも、すぐに顔を上げて。
「……俺、みんなに会えて、良かった」
そう、震える声で言って。
「……それじゃあ、何としてもこの城は、守らないとな」
小さく鼻を啜りながらも、左手で目頭を押さえて、拭って。
「ありがとう。……大好きだからな、みんなのこと。……お前の事も」
その顔を見られないように、彼等を未だに訝しげに見やる多くのプレイヤーの方へクルリと振り返ってしまったそのサブリーダーに、その他の三人は顔を見合わせて小さく笑う。
(ほんとは、オルス氏。君もいてくれたらなあ)
そう、まだ、グラント帝国の復活を宣言するには、一人足りない。ただでさえ五人しかいないメンバーである、その内の一人でも欠けてしまっている状態では……それは、まだ完全体とはいえないだろう。
「……絶対に、見つけ出してやるからね」
彼はまだ知らない。今後、世界中に広まっていった「世界の種子」が、各地で様々なゲームタイトルとして、その花を咲かせる未来が……もう、そう遠くない事を。
「……これが、その第一歩だ」
「ああ」
さて。ここらで無駄話を終えないといけない。流石にそろそろ目の前のALOプレイヤー達が、痺れを切らし始める頃だろう。
「援護は任せろ。今日はポポポポ~ンとぶっ放したい気分なんだぜ」
「ぼくはとにかく、にげまわってる!」
マソップはともかく、トミィはまだALOにやって来てから日が浅く、まだそのビルドも確立していない。せめてもの救いは、グラントが自腹を切って買い与えたそこそこのレアリティのアーマーによる防御力と、意外と随意飛行が上手い事だろうか。これで、今のグラント帝国でまともに飛べない残念なヤツがグラントしか居なくなった。笑える。
……だけど、それでいい。
「いくよ、ハルくん」
だって、勝たなくたっていいのだ。彼等が行う戦いは、基本的に負けない戦いなのだから。
この城を、守りたい。そう想う人間が、いる事を伝えられれば良いのだから。
それが彼等の……彼の、シールドアートなのだ。
「任せろ、グラント」
……いや、そんな彼等の想いは、もうALO中に伝わっているのかもしれないけれど。
お互いに声を掛け合い、グラントは盾を、ハルキは剣を構えて。
―――それを見据えたキリトは、口元にニヤリと笑みを浮かべた。
そしてその落武者男と、剣客少女に向けて、自身の大剣を突き出して……あの、オフ会にてシンカーの口から聞いた、その二人を指す呼び名を呼んだのだった。
「……いくぜ、
「来いよ、ゴキブリトめ」
「こんな時くらい相手を立てろ落武者男。
……来い! 黒の剣士!!」
……ここに、かつての浮遊城を求める望郷の物語は、幕を閉じる。
そして、新たな浮遊城と、数多の仮想世界が入り乱れる、可能性の物語が、今ここに、幕を開けたのだった――――――。