「――アスナはもう聞いた?《ゼッケン》の話」
「ゼッケン? 運動会でもするの?」
グラント「運動会ってゼッケンしたっけ」
マソップ「さてはオメーリレー選手になれなかったクチだな?」
グラント「(´・ω・`)」
第1話 鈴風道場再建計画
2025年、12月30日。
あの落武者男がALOシルフ領スイルベーンにて盛大にやらかしてから、もうすぐはや一年。つい先日まで巻き起こっていたGGOでの大騒動からそれほど経っていないこの日、彼と春花が降り立ったのはALOでもGGOでもない、別の仮想世界だった。
「ここが……その?」
「うむ。俺も初めて見たときゃびっくりしたよねぇ」
そこは周囲を多数の扉に囲まれた、円形の空間だった。
天井は半球形のガラス張りで、その直下には日が差しているというのにグランドピアノが置かれていた。現実世界なら日光の紫外線によって楽器を痛めてしまう間取りだが、ここはVR空間なのでその心配もない。
―――何度も言うけどここは仮想世界である。今日の天気は冬にしては珍しく全国的に雨で、今もリアルでは玄太郎のいる病室の窓からは灰色の空と霧の様な雨が覗いているのだが、やはりそれもこの場所においては何の関係もない。
ゲーム内なんだからそりゃそうだろうと思ったそこのキミ。ところがどっこい、それは大きく違うのだ。
「これは、びっくりだな……いや、まあALOみたいなゲームができるんだから、これくらい簡単なのかもしれないけどさ。
そう。
ここはVRMMOゲーム内ではない。れっきとした一会社のオフィスの、エントランスホールなのである。
「うん、構造はALOとかGGOと同じで、ザ・シード規格のVR空間なんだけどさ。
現実世界じゃなくてこっちに職場を移そうっていう中小企業も結構多いみたいで、ここはそのモデルルーム的なアレも兼ねてるって聞いたぜ」
とは、グラント……じゃなくて玄太郎の言葉である。というのも、そうハルキ……ではなく春花に声を掛けたのはあのいつものロングヘアー男ではなく、背広を着た現実世界での玄太郎そっくりの短髪アバターだったからである。
もちろんそれは春花も同じことで、やはりリアルそっくりなアバターにいわゆるリクルートスーツを身に纏っていた。割と砕けた服装でいることの多い二人なので、それぞれの見慣れないフォーマルな服装に内心ちょっとだけどぎまぎしていたりする。
そしてその原因はもちろん、ここが立派ないち会社であり、いわばスーツや背広が社員のデフォルト装備だからである。
「……私まで来る必要はあったのか」
そして。
もう一人、彼等と共にここを訪れた人間がいた。玄太郎と同じく背広を着たその男は、その大柄な身体を居心地悪そうに揺らしながら二人の少し後ろで仏頂面を浮かべている。
春花は一つため息をついて玄太郎の腕をぽんと叩いて離れると、その自分の二倍近くの大きさの男のもとまで駆け寄って、腕をむんずと掴み寄せる。
「まったく、ほら! 親父の方だろ、道場の主として同席するって豪語したのは!」
「む……確かに言ったが、こういう場での引き合わせだとは聞いていないぞ」
一応はれっきとした中年の大人であるはずのその親父、こと鈴風秋ノ介も……この状況があまりにあんまりだったからか物凄く腰が引けている。まあよく考えれば彼が最後にVR空間に入ったのってあの紅玉宮での軟禁だったわけで、無理もないとは思うんだけど。
だけど、先の事件の一番の被害者だった春花が結構乗り気なのでもうどうしようもない。娘にぐいぐい腕を引っ張られながら彼は、その先で引き攣った笑みを浮かべている玄太郎に一睨みする。
「……本当に信じていいんだな。以前のように、娘に危害が及ぶ事はないんだろうな」
「しょっ……そこは間違いないと思いますよ。
少なくともハルくんと俺は自前のアミュスフィアを使ってるんで、何かあったらログアウトすれば親父さんも引き戻せますし、それに」
未だにこのガチツヨ親父にはビビりまくり噛みまくりな玄太郎だったが、しかし今回はこの父娘両方を安全にエスコートする事に関して、一定の自信があるようだった。
それは、なぜかと言うと。
「だって、向こうも、ハルくんや俺と同じで……VR世界の危なさを知ってる、あの世界の経験者なんですから」
「その通りです。初めまして、鈴風様」
振り返ると、いつのまにかグランドピアノの前に人影が立っていた。
数日前に玄太郎が会った際の「彼」の外見とそっくりな狐顔のアバターだ。玄太郎や秋ノ介の背広とはまた別の迎賓用らしき黒スーツを着用しており、漂っている清涼なイメージを更に際立たせている。
「鈴風秋ノ介様、春花様。本日はお越し頂き、誠に感謝申し上げます。
玄太郎君もすまないね。ここからは本来、我々社員のみで対応するべきなのだけれど」
「いやいや、言い出しっぺの仲介人がいなくてどうすんすか。
まあ、二人ともちょっと頑固なところはあるけど、良い人なんでそこは安心してくれれば」
「余計なこと言うな落武者男」
「何か言ったかな玄太郎君」
「イッ……イエナニモ」
鈴風父娘揃ってのガン飛ばしである。オーバーキルである。玄太郎は小心者なんだぞ。ちびっちゃうぞ。
そんな様子の短髪男に苦笑いを浮かべながら、しかし「彼」はその隣まで歩み寄って鈴風親子の前に立ち、流れるような動作で名刺を取り出すと、二人と目を交互に合わせながら、殊勝に差し出すのだった。
「クローバーズ・ネットワークセキュリティ・コーポレーション、代表取締役社長の、暮井海正と申します。
……ハルキさん、お久しぶりです。クレーヴェルという名前に覚えはありますか」
「……はい、覚えてますよ。はじまりの街ではお世話になりました。
グラントから今回の件、伺っています。こちらこそ、魅力的なご提案を頂き、誠にありがとうございます」
みんなびっくり、上のはハルくんの言葉である。
地味にこれが彼女の初めてか二回目くらいの敬語セリフだったりするのだけど、SAO時代のグラント帝国の中では一番アクティブに活動していたのもあって実はスラスラである。普段から一緒の玄太郎はともかく、親父さんは娘の立派な姿にお口あんぐりである。
え? 玄太郎だってユーミルとか今回とか、結構色々コンタクト取ってんじゃねーかって? コイツ未だにいつもの人をナメた口調か、緊張ガチガチの噛みまくり敬語でしか話せなくて周りの大人から白い目で見られてるコミュ弱だけど何か?
「これは……ハルキさん、いえ春花さんも、また一段とご立派になりましたね。お父様も君の様な素晴らしい御息女をお持ちになって、さぞかしお幸せなことでしょう。
―――さて、立ち話はこれくらいにして。早速ですが、既に当社で
たった今、暮井海正と名乗った彼が言っていたように、今回彼らがここに来た理由は、一年近く前から宙ぶらりんになっていた鈴風家の問題……つまり道場の経営悪化を改善する為だった。
ちょっと思い出してみよう。SAOから復帰した春花を待っていたのは、新入門下生の一人もいない中で資金繰りに苦しむ父親だった。そんな彼女達に取り入ったのが、かつての同門でありながら絶縁状態だったあの芹沢という男で。
結局彼は端から鈴風家を破滅させることが目的であり、その野望は当時の玄太郎や春花を始めとしたALOプレイヤーによって食い止められたのだが、そうして芹沢を排除したところで、根本的な窮状は何も打破できておらず。
春花は気付いていた。今年の夏ごろから自分に隠れて父親が、ただでさえいい年だというのに無理して工事のバイトであくせく働き出していることを。本当は彼女自身も父に続いてバイトをしようと何度も検討したのだが、どうしても帰還者学校への通学時間の長さから都合がつかずに今日まで至っていたのである。
「……まさか、ここに来てまであの男の提案に乗る事になるとはな」
だが、そう秋ノ介の言う通り……あの芹沢が初めに述べていた「VR環境での道場経営」という提案自体は、皮肉にも正に今の鈴風家にもっともフィットした打開策だった。
そもそも彼女等の道場は奥多摩の山奥にある。かつて隠密として秘匿性を守らねばならなかった古の鈴風家としては持ってこいだったろうけど、そんな浮世離れした事情は現代では通用しない。どう考えても新規入門者を集うには立地が絶望的過ぎるのだ。
「ま……まあまあ、そんな事言わないでくださいよ。
取り敢えずまずは見るもん見ときましょ、それからでも遅くないですから、ねー?」
その点、VR空間にて道場を生成すれば、地理的な条件を飛び越えて募集を掛ける事が出来る。
むろんバーチャルなので筋トレ等の肉体鍛錬は行えないけど、武術の心得や身体の動かし方を「脳」で直接学ぶ事が出来るだけでも、十分に武道会としての存在意義は確立できるだろう。そもそも鈴風流で真剣術としての源流を正統に引き継いでいるのは現状春花ただ一人であり、表向きは一種の護身術として教え子にも簡単な武術しか教えていないので、カリキュラム的にも既存のやり方を引き継ぐだけで問題なく機能するのである。
とはいえ、そうしようと決めて玄太郎も混じってVR空間の提供元を探し始めたのが今年の二月ごろ。当時はまだザ・シードも出回っておらず、ろくにVR産業が充実していなかった為に捜索はもちろん難航を極めていた。あの沢登りをした八月の時点でも手応えは一切無し、玄太郎は最大手のVRMMO情報サイトを運営するシンカーに何度が相談していたのだが、彼の周辺もまだ急速なVR産業の浸透化についていっておらず……と言った状況だったのである、
「……君は相変わらず、調子が良い男だな」
「ヒィッ」
そんな長い苦難の末に唐突に光が見え始めたのが、つい二日ほど前のことだった。
玄太郎の入院に付き合っていた春花が一度実家帰りして数日経っていたその日、彼女は突如として彼から連絡を受けた。もしや容態が急変したのかと春花も随分肝を冷やしたものだったが、そこで耳にした情報は、別のベクトルで予想外なものだったのだ。
曰く、鈴風道場と提携を組んでくれそうな企業を見つけたと。自分が推薦しておいたから、近いうちに時間を作れないかと。
「クローバーズ・ネットワークセキュリティ・コーポレーション……失礼ですが、どういった業務内容をされているんですか?」
すらすら問いかける春花に、暮井はくすり、と口元に笑みを浮かべながら応じた。
「VRMMOにおける市場調査や流行の分析、そしてVR業界の新設企画に対するコンサルタント……今回の鈴風様との御一件は後者に当たりますね」
暮井海正ことクレーヴェルは、かつてグラントやハルキのようにSAOに囚われた人間である。
当時攻略組には参加せずに低層で安全第一に暮らしていた彼は、しかし最終盤に於いてはかの「アインクラッド解放軍」にてシンカーの補助を務めていた。結局あの「軍」は腐敗の憂き目にあってキリトやグラントの手によって解散にまで追い込まれたのだが、その後もはじまりの街の治政者として励んだシンカーに協力する過程で、グラントやハルキとも面識があったのである。
「……私はあの茅場晶彦を、断じて許す事が出来ません。
彼がこのVR業界の草分け的存在であった事も、天才プログラマーであった事も関係ない。彼は四千人ものプレイヤーを理不尽に殺した大量殺人者だ。
そんな一人の狂人の馬鹿げたテクノロジーという蜜を……しかし人間は、吸ってしまった」
その言葉は字面こそ凄まじいものの、声音はそれより幾らかは柔らかいものだった。恐らくゲストである春花や秋ノ介への配慮によるものなのだろうけど……しかしそこには、隠し切れない情念のようなものが滲み出ていた。
彼は言わなかった。実はかつての浮遊城で、一番の親友だった一人の男を失ってしまった事を。それに対する自責の念と周囲からの陰口に耐え切れずに、彼は復職して直ぐに、警察官を辞めてしまった事を。
「世に出てしまった仮想世界という技術自体は、一概に否定されるべきものではありません。今回の鈴風様の様に、それによって救われる人々もきっと少なくはない。
ですがそれと同時に現在、電子ドラッグの売買やバーチャル環境下での売春行為など、VR技術を使った新手の犯罪が増えているのも事実です。それらに対してまだ法規制も整っておらず、警察も介入するどころか、状況の把握すら困難であるというのが実情です。
―――そんな、未だ無法地帯に等しいこの環境には、
数日前までの、GGOでの騒動が記憶に新しい。
あの国内外を巻き込んだ大騒動も、仮に警察の介入があれば状況はかなり変わったに違いなかった。それが叶わなかった最たる原因がGGOのリアルマネートレード制度によるもので、一種自業自得な側面はあったとはいえ……いずれにしても暮井が言う通り、法整備の為されていない現状かつあの短期間では、やはりろくに対応できなかっただろう事は想像に難くない。
仮想世界の変遷を観測し、調査して、それを利用する人々に助力する第三者機関。GGO編最後にグラントが言及したその概念に現時点で最も適した団体。それが、この元警察官が立ち上げた、たった社員五名のベンチャー企業であったのだ。
「確かに我々はまだ小規模ですが、個々の技術が最重視されるこの業界においてはさほど問題ではありませんよ。
……それを今から証明させて頂きます。さて、それでは」
そして。
エントランスホールの外周部にずらりと並ぶ、実に二十を超えた扉の中から一つ……その上部に「鈴風様」と記された木製風の扉の前に立ち、暮井はその指をノブにかけるのだった。
「それでは、ご確認ください。こちらが鈴風様に提案させて頂きます、VR稽古場のモデルルームです」
「う……わぁ……!」
―――それは、春花の事前の想定を、何倍にも上回るものだった。
「……おー、クレさん、これは頑張ったっすね」
「当然だ。大事なお客様に妥協はしないさ」
頭上には冴えるような青空と、申し訳程度の雲。
辺り一面に広がる、黄金に輝き風に揺れる稲穂の草原。
そして、そんな牧歌的な空間を竹垣が囲い、その中に静かに建っている、木造の建築物。
もし突然この場で意識を取り戻したとしても、ここがバーチャル空間だとは気付かないのではないか。それ程にリアルで、かつ幻想的な景色が広がっていた。耳をすませば虫の音や鳥の鳴き声、そして縁側についた風鈴の音が邪魔にならない程度に聞こえ、そんな燦々と照る日差しの陰……その木造の家屋の軒先の奥には、ちょうどあの奥多摩の実家のものと同じくらいの間取りの道場が、眠る様に待ち受けている。
「一応、リアルの君の家の稽古場とサイズは合わせてる筈だよ。クレさんに頼まれて、マソップ嬢とナッちゃんにあそこの大きさのデータを測って送ってもらっといたから」
とは玄太郎の言葉である。なるほど、そうしとけば勝手が良いというものだ。元々門下生全員いても結構がらんどうなところはあったし、狭すぎるという事はない筈である。
「こんな……こんな立派なもの、俺達ちゃんと使いこなせるかどうか……」
「いやいや、それはこれからどうとでもなるっしょ。クレさんの説明分かり易いし、ワレモノってワケじゃないし。
―――どんなもんです? 親父さん?」
ちょっと恐れ多くなったのか、一歩後ずさって尻込む春花を励ましながら、玄太郎はやけに得意げに親父さんへと振り返る。調子に乗んな、お前VR空間の生成に関しては測定のお願い以外何もしてねーだろ。
ただ、どうやらその、鈴風流の現師範である秋ノ介が抱いた衝撃の大きさは……それ以前にもVR世界に馴染みのあった春花なんて及ばない程だったらしく。
「……ただの、がらんどうの空間ではないのですか」
「それでは幾ら何でも、味気ないかと」
「こんな大層な土地を買うお金は、うちには」
「不動産ではありませんので、基本的には格安で……具体的には、これ位で如何でしょうか」
唖然としていた秋ノ介が、さらに呆然となる。暮井も説明した通り固定資産ではないので、賃貸という形にはなるけどもその貸与額はかなり安価である。
これまで色んな会社に打診して、VR空間の賃貸料の相場をある程度理解している玄太郎ですら、その暮井の手にした端末の画面に表示された金額を覗いて、すげーと唸ってしまうほどの格安である。
「し、しかし……どうして我々に、これほどなさるのですか」
こうなると威厳も何もあったもんじゃない。呆けたように尋ねる秋ノ介の瞳を、暮井は真っ直ぐに見据えて答える。
「そもそもVR空間の賃貸に関しては、十分に市場が定まるほどにビジネス自体が発展はしておりません。ですので、この額での契約であったとしても損だとは一向に考えておりませんよ。それに」
そこで一旦言葉を区切ると、その狐顔の男は、ふいに横に立っている例の短髪男に視線を移すのだった。
「それに……鈴風様は、あの玄太郎君が間違いないと推薦した、弊社としましても重要な御客様ですので」
SAOでの玄太郎と暮井の立場は、基本的に真逆だった。
茅場の創ったSAOに一定の理解を示した上で更に作り替えようとしたグラントと、親しい人間の死を経験してSAOを、茅場晶彦を根本から否定したクレーヴェル。あのSAO編最終盤のはじまりの街にて幾度となく親交を深める中で、そう言った意見の違いをお互いに自覚しながらも……少なくとも洞察力の鋭いクレーヴェルの方はグラントの秘める野望の一端を見抜いていた様なのである。
彼は気が付いたのではないか。SAOを否定しようがSAOを作り替えようが、理不尽な死や苦難から人々を救いたいという考え自体は、二人とも同じ様に持っていたのではないかと。
そして、そんな彼と志を共にして、ぶっちゃけ彼以上に精力的に人々に貢献していたハルキの心象が、悪い訳もなく。
「……お互い様だから言いますけど、ちゃんとVR業界に懐疑的な視点を持てるクレさんみたいな人はこれから、きっと必要不可欠になると思いますよ。倫理観もマトモだし、良い人だなーって、うむ」
安心して欲しい、この暮井ことクレーヴェルという男、実は極悪人だったとか言うオチはないキャラクターである。
というかむしろ逆で、この数ヶ月後には彼の前に一人の女子高生が現れるのだが、その彼女との交流を重ねつつも……ムフフを企むどころか事案を疑われたらどうしようと戦々恐々とするくらいには律儀で良質な男なのである。どっかの野武士男は見習え。
いやまあ、元警官だし当たり前だけどね?
「だから、ハルくんも親父さんも、今回は信じてみませんか。
だいじょぶ、きっと上手くいくよ。何かあっても、この俺がついてるから」
「何だよ、偉そうに」
可愛い女の子みたいに人差し指をピンと立てて、少し前屈みがちにそう締め括った割とキモい玄太郎に……案の定春花の咎め文句が刺さる。
いや、厳密には咎めてなんて、いないんだけど。
「……お前がついてるってのが、一番心許ないんだよ」
「うわっ、ハルくん、ヒドいっ」
―――玄太郎が意外と凹んでいない理由は明白だった。
目の前の春花は、ご機嫌斜め顔でぶっきらぼうな事を言いながらも……そのままぼすっと、彼の肩に頭を預けてきたのだから。
「何て言えば良いか、分からないんだよ。ありがとうなんて言葉じゃ……こんなに、こんなにしてもらったのに、俺は何も」
「いまさら水臭いよ。俺だって親父さんや道場のお世話になってんだし、ハルくんにも……色々助けてもらったんだし」
「そんな事、気にしなくても」
「そ。君も気にしなくていいの」
むぐ、と微かに言葉に詰まった春花の後ろ髪をぽんぽん撫でてあげながら、そんな自分達を微かに眉を上げて見守る暮井に向かって、パチリとウインクしやがる。調子に乗んな殺すぞ。
「……おい」
「あ」
お、どうやらこっちが落武者男抹殺の為に動く必要は無くなったらしい。というのも、今度はこの作品の実質ラスボスである男こと、鈴風流当代師範である秋ノ介が……なんかすごいオーラを纏いながら玄太郎に迫ったからである。
「アッ、いや、その、こリェはっ……!」
「疑って、すまなかった」
「いや違うんです決して下心があったわけじゃ……って、ん゛!?」
あれ。ちょっと風向きがおかしい。
唐突に謝罪を口にしたラスボスに、思わず玄太郎も聞き返すにしてはドスの効いた声を上げてしまう。
「春花も言っていた通りだ。
君の努力は聞いている。この一年、我々の為にここまでしてくれた事を、心から感謝したい」
……どうやらそこを忘れるほど、彼も頑固な男ではなかった様だ。
彼なりにこの一年、玄太郎を観察していたのだろう。まあどう見積もっても頼りねぇクソダサ男である事は変わらないのだが……それでもその全てを否定するには惜しいくらいには、結局はコイツを評価してしまっていると言ったところか。
嘘だろ。父娘二人ともデレちゃ誰がストッパーになるんじゃい。
「私はまだこの世界に疎い。だが全てを春花に任せるのは心許ない。
我々には、君が必要だ。どうかこれからも……春花を、頼む」
……初めて聞いた親父さんの素直な言葉。
玄太郎の脳内は、完全に思考停止状態に陥っていた。
「そして、暮井殿。
私はこの様な、時代に取り残された不躾な男です。それでも我々を信用して頂けるというなら、何卒、今後ともよろしくお願い申し上げたい」
あれだけ不遜だった秋ノ介の、玄太郎と暮井に向かって深々と下げられた頭。
大人になると言うことがどういうことか。その一端を玄太郎はそこに見た。
……見て、素直に尊敬すりゃ良かった。
「……あはは、いや、もう困っちゃいますよ親父さん。
そんな、
……ポーカーフェイスが、少し崩れる暮井。
最後の最後に地雷を踏んだ事に、未だに気が付いてない玄太郎。
春花がその体勢のまま、ちょっと耳を赤くしながら腰に拳を溜めて。
「……あれ、何すか、この雰囲気、ちょっ、ちょっと!? おやっさん!? ハルくんまで、え、なん」
「だぁぁもう!!」
翌日。つまりは大晦日。
ここはALO上空。それもかなり上空である。
「全く、全く……まったく!!」
誰もいない真っ青な空の中で、何かプンスカ叫んでるのはお察しの通り、ハルキである。
ここは新生アインクラッド最前線、二十四層。リスポーン元のズムフトのギルドルームからすぐに出て、羽根を使ってうわーって飛び上がって、しばらくして着いたのがここだった。
つい先日、クリスマスイヴの時点で二十一層のフロアボスと戦っていた事を考えると、なんとまあ凄まじい攻略スピードだ。キリト達とは違ってグラント帝国はいわゆるトップギルドでも何でもないので、そのフロンティアに立っている訳ではないが……それでもハルキはたまにキリト達と並んでフロアボス戦に参加していたりするし、何より一度SAOにて訪れた事のある上層がどんどん解放されていくという現状は何というか、むず痒いようなちょっとした複雑な思いを抱くというか。
「ああもう、ちくしょう……あいつはほんとに、なんなんだよっ」
違った。んなコト微塵にも考えてなかった。ただの煩悩バカだったわ。
どうやらこのポンコツ、昨日の玄太郎のやらかしをまだ引きずってるらしい。まあね? ただでさえ恋人感やや希薄な関係性だったのに、数日前のGGO編で急接近した挙句に婚前とか言われたら……まあ、恋愛弱者なハルくんならこうもなるかはわからんけども。
忘れたのか。お前は一応まだヒロインじゃねぇんだぞ。目を覚ませ。
「……本当にどうしたんだろ、俺……。
ちょっと駄目だ、いったん落ち着こう……」
最近解放されたばかりの二十四層だけど、ここは主街区のちょっと北にちょっとした観光エリアがあるのをご存知だろうか。
ようやく冷静さを取り戻したらしい彼女は、そのままとぼとぼと拙く羽根を羽ばたかせながら……半ば無意識のうちにそこにある、遠目から見ても目立つスポットに降り立つのだった。
「はぁ……こんな事してる場合じゃないのになぁ」
そのまま力ない足取りで少しだけ歩くと、そこに聳えている巨大なオブジェクトに背中を預け、おもむろにずるりと座り込む。
―――ハルキの言う通り、もともと今日彼女がALOにログインしたのには、普段とは別の用事があってのことだった。
『ところで、春花さん。
今回のお取引とは別件で一つ、我々からお願いしたい事がございます。もちろんご都合が宜しくなければ断って頂いても結構ですが……こちらはこちらで、弊社でのバイト活動として報酬を用意させて頂くつもりですよ』
報酬、なんてものはハルキに取ってどうでもいい事だったのだが、暮井にも大きな借りが出来た直後である。断れないと言うよりは、むしろ喜んで力になりたいと彼女が自ら協力を申し出たのだった。
……詳しくはまた、後で話す事にしよう。というのも、である。
「あれ? もしかして、ボクとデュエルしに来たの?」
穏やかな風の吹く中で。
湖畔に浮かぶ小島。その中央に立つ、ハルキのもたれている巨大な大樹の影から。
「あははっ、こんなに早く来てくれるなんて嬉しいよ!
でもちょっと早いかな? デュエルは来年の元日からなんだ!」
「……え? デュエル?」
青いワンピースの上から、黒のブレストプレートとアームを備える姿は、まるで和袴を再現しているかの様だ。
そしてさらさらと流れる紫色の髪にヘルメット系の軽装備である鉢金を巻いた、そんな少女が……ひょこりと飛び出して、ハルキに笑いかけるのだった。
「でもせっかくだし、まあいっか!
ボクはユウキ! お姉さん、ボクとデュエルする?」
―――その名を、ユウキと言った。