パシュ。空気が圧縮される音と共に、扉が開かれる。帰宅したばかりなので当然と言えば当然だが、その沈むような暗闇の奥に、淡く光る少女が膝を抱えて蹲っていた。廊下から差し込む以外に光源がない部屋で、両腕に顔をうずめている。
あの日から、彼女はずっとこうしたままでいる。
何も見ず、何も話さず、何も聞かず。どこへ行くということもなく、立ち上がる事さえしない。
背後で扉が閉まり、真実室内で光を宿すのは彼女だけになった。
「いつまで、そうしているつもりだ」
扉のすぐ前に立ったまま声をかけるが、彼女の顔が上げられることはない。わかっていたことだが、自分の無力さが嫌になる。よく、心の傷は時間が解決してくれるなどということを聞くが、それが嘘であることをソーマは知っている。受けた傷は見えなくなるだけで癒えることはなく、痛みに慣れるだけで消えることはない。過ぎ去ったものと書いて過去なのに、どうしてかずっと、こころに留まって、貫いたまま消えやしないのだ。
けれど実のところ、ソーマは少しだけ安堵もしていた。彼女はどこへだって行けた、誰にも見つからない場所へだって行けただろう。けれどそうはしなかった。彼女は彼女の意思で、ここで膝を抱えた。一人で居たいくせに独りは嫌いなユウカに安心して、ソーマは任務に出かけては時たま彼女を本当に一人にし、帰ったら寄り添うように隣に座る。
不意に、『約束事』を思い出した。
――一つ、部屋の外で俺に話しかけない
―――ふたつ、部屋の外に行くときと帰って来るときは一声かける!
―――三つ、騒音にならなくとも大声は出さない
―――よっつ、なるたけ、会話を続かせようという努力はする
―――…………それは必要か?
―――記憶喪失には脳の刺激でしょ?まあ脳あるかわかんないけど』
―――そこに立て。物理で行ってやる
―――やめて?記憶が戻ったら納得して成仏できそうじゃん!だから決定!はい決定!
―――大声は出さない
―――はい
―――五つ、夜は静かに
―――はーい
今にして思えば、どれ一つとして守れていない約束事だ。部屋の外で誰もいなければユウカはソーマに遠慮なく話しかけるしソーマも応えるし、この前の喧嘩時には喉が枯れるほど大声を出した。夜だろうが昼だろうが無意味に会話が弾むときだってあったし、ユウカがエミ〇ム完コピしたりソーマがイッツマイライフ絶唱したりもした。冷静に考えれば何をやってるんだ俺達は馬鹿か?といった具合だが、ソーマだってまだ16歳なのだからセーフである。若気の至りということで。
この部屋は二人の思い出で溢れている。
たった一ヵ月と少しの僅かで、なのに苦しくなるほど濃密な時間。ソーマにとってその時間は掛け替えのないものだった。今までの人生のどの時間よりも美しく、これからの長い道のりの中の時間よりもずっと愛おしい。
嬉しかったのだ。この記憶だけで、生きてゆけると思えるほど。
――ユウカがどれほど頑張ってきたかなど、ソーマにはまったく推し量れない。唯一の肉親の手を引いて、どれほど強がっていたかなど、ひとつも。けれどそれが報われなかったということだけはわかる。努力に応じた結果は得られず、尽力を無駄と切り捨てられ、献身を偽善と罵られた。生物はみな全て愚かだ。所詮相手のことを理解するなどできず、自分の痛みにだけ敏感なくせ他者の痛みには鈍感で、押しつけがましく傲慢で、完全な善など存在しない。
ユウカだってそうだ。
しかし。
それでも。ソーマはユウカを愛しているのだ。
「ユウカ」
彼女の前に仁王立ちして、毅然とした声で彼女を呼んだ。彼女は顔を上げず、ぴくりともしないまま動かない。そして唐突に、――腹が立った。
「立て」
端的に、強い語調でそう言った。そうだ、らしくない。彼女も――自分もだ。穏やかに接していたのが間違いだったとは思わない。ユウカの優しさを真似たものが、偽物だとは言わない。
だが、それでは彼女に届かない。
「立て、ユウカ」
もう一度、ソーマは怒気を漲らせて、しかし静かに言い放った。怒鳴るのも叫ぶのも不適切だ、そんなもので人は動かない。そしてソーマが動かしたいのは紛れもなくユウカ只一人であり、ユウカこそを引っ張り上げたいのだ。
「いつまでうじうじしているつもりだ、たかが家族が死んだくらいで」
わざと彼女が怒るような言葉を使って挑発した。だがそれは一種の真理でもあった。この時代、家族を失った話など巨万とある。斯くして沸点の低い彼女は肩を震わせながらも顔を上げる。だがそこにあった表情は怒りではなく、悲しみでさえなく、滂沱の涙をただ流し続ける、能面のようなそれだった。
『ぜんぶだったんだ』
いつもの無駄ハイテンションの声でもなければ、あの桜の木の前の時のように落ち窪んでいるわけでもない声は、およそ彼女の声とは思えなかった。平坦で、低く、虚無を抱え込んだような声。僅かな震えだけが彼女らしさを辛うじて保っている。
『フユキはわたしの全部だった。フユキの隣からだけは、いつだって世界は綺麗に見えていたんだ』
あの頃、桜庭ユウカに情緒などないに等しかった。両親がそもそもド理系だし、学ぶものの殆どが数理学系統でありながら文系に育つ方が難しい。そんな桜庭家の突然変異、見た目も思考もそっくりなのに見えるものが違う双子の弟。彼がいたから、ユウカは。
『ほんとうに愛してた。――こころから、愛していたんだよ!』
嘘じゃない。嘘じゃないのに。
『なのに、今まで思い出せなかった。あまつさえ、思い出してさえ、ソーマさんとの時間が―――楽しかったんだ!』
やけくそのように、八つ当たり染みた悲鳴が木霊する。
終わりを分かっていて尚笑い合った日々。墓場に埋めまでした愛を思い出しても、尚、確かに楽しかった瞬間が、温かな時間が。
『そうだ、楽しかった!嬉しかった!しあわせだったんだ!最低だ!』
もしかしたらこんな人生もあったんじゃないかって、もっと早くフェンリルに来ていたなら、そうなれたんじゃないかって。ほんのわずかな未来を見てしまった気がして。堪らなく泣きだしたかった。
もういやだ。あの時、私はどっちにしろクソ野郎だった。姉ぶることを選んだんだ。自分の命使って弟を守るなんて最低、悪魔の所業だ。結果、ぜんぶ亡くした、自業自得だ。何一つ、なにひとつ守れなかった。父さんも母さんも、ナオミさんも、自分の言葉も、約束も、あの子も。それなのにのうのうと、ユウカは温かな日々よ続けと泣いた。いっそ無様なくらいそう叫んで、消えたくないと泣き喚いた。
ソーマは呆気に取られて固まった。彼女ははなから自分の成仏を念頭に入れて漂っていた。世の理に反することなく、流れに任せて完膚なきまでに死のうとしていた。ソーマのことなんて、なんとも思ってないだろうと思っていたのに。
気づけばソーマは笑っていた。何笑ってんだよ、と非難の眼で彼女が睨む。ソーマは悪いと思って笑いを堪えながら、ユウカと同じ目線になるまで身を屈めてしゃがんだ。
「ユウカ、悪かった」
『なんでソーマさんが謝るのっ、前の時もそう!なんで、』
「お前が俺の事であんなに悩んで苦しんでいたって言うのならな、こんなに浮かれることはないだろうよ」
いつも仏頂面、鉄面皮が標準装備なソーマが珍しく上機嫌に顔を綻ばせた。面の良い男の破顔をモロに受けたユウカはしかし、彼限定で少しばかり慣れていた。慣れていたのに、赤面した。だってそれは、殆どあいの告白だった。
『い………ままでだって散々私を悩ませておいてそれ!?』
「そういう意味ではまさかないだろうと予防線を散々張っていたんだ、気付かなかったか?」
『ばかなの!?ソーマさんのことなんて優しいくせに上手く言葉に出来なくて勝手にふてくされてるところからウザ絡みしたときに咄嗟にさっさと成仏しねえかなコイツって思っちゃうところまでぜんぶ好きだよ!』
「悪かったな短絡的思考で」
違うー!と騒ぐユウカにまたソーマはくつくつと笑う。そうして聞いてみれば、まるでソーマは普通の少年のようだった。ユウカにとってソーマ・シックザールとはふてくされたばかな少年でしかなく、だからこそ恋ができたのだ。ソーマもそう、ユウカは有り余るくらい明るく陽気でどこにでもいるただの少女で。黒髪碧眼なんてこの世界で腐るほどありふれた特徴に、極東でも上位に入るだろうというレベルの容姿で。
だからこそ、彼女を世界で一番美しい少女と断言できるのだ。
『ソーマさんと居たいよ、まだまだこれからずっと!昨日よりも今日の方がずっとそう思って、あの頃よりずっと幸せだと思っちゃってたことがつらくて、申し訳なくて!もう何が言いたいのかよくわかんなくなってきちゃったけど、とにかくつらいんだよ!』
桜庭ユウカはぽんこつだった。情緒の発達という面で同年代より遥かに遅れ、なのに数式とか医術とかばっかり覚えて、映る世界全て数字で出来ているかのようなデジタル人間だった。それを、普通の人間にしてくれるのがフユキだった。ユウカを救えるのは、世界でフユキだけだと思っていた。思っていたのに。
ソーマの言動ひとつで一喜一憂して、美味しいもの食べたかったこととか、我慢していただけでほんとは運動なんてちっとも好きじゃなかったこととか、歌うことが結構好きだってこととか、痛みとか、嬉しさとか、ぜんぶ、本当は最初からユウカの中にあったこと。
泣き疲れて、途方に暮れて、もう終わってしまった事と、とっくに変わってしまっていたことに気づいて。しかもちっともフユキはあれから会いにきてくれないから謝れもしないし。しにそうなほど、死にたくないと思ってしまうのだ。
「ユウカ」
彼の声が、私を呼ぶ。たったそれだけで世界を救えなそうなほどうれしい事なんて、きっと誰にもわかりっこない。
どちらからともなく腕を伸ばして、互いの背中を掻き抱いた。触れ合える。温かい。大きい。硬いし、力が強くてちょっと痛い。けどそれが、この人の愛なんだ。涙がぼろぼろ零れる。長く流れなかったくせして気分屋なやつだ。言葉が足りない二人を埋めるように雄弁に流れるそれは、今ははっきりとかなしみの色をしていた。まわらない呂律でそれでも伝える。
『こわいんだぁ、こわいんだよぅ、ソーマさん。立ち上がるなんて無理だよ。だって帰ってきてからずっと、』
――ちっとも足が、動いてくれないんだ。
別れの時は、すぐそこに近づいている。
ユウカちゃんとソーマさんが幸せになれますようにという気持ちで常時書いております(ニッコリ)