「なんでよりによってこんなところに……」
『いいの!朝陽が見えるならどこでも!』
珍しくきちんと横抱きにして貰って訪れた屋上は強い風が吹きすさぶ、何もない拓けたところだった。錆びれたフェンスとせめてもの貯水槽、そこに何も特別なものがないことを、ユウカはまだ自分の名前も思い出せなかった頃に知っていた。ここには何の思い入れもないし、何の思い出もない。それだから良いのだ。
あの部屋で、ソーマはこれから長い時間過ごす。そんな部屋に、悲しみの記憶をわざわざ残すこともない。それを言うなら起こさなきゃ良かっただろうと言われるかもしれないが、それは違う。
ソーマさんはきっと、私をまた探してしまうだろうから。
あの時探し続けてくれたように、ずっと。消えた瞬間を目の当たりにしてないのだから、と。それがとっくにわかっていたから、ユウカはちゃんと、目の前で消えることを随分前から決めていた。そしてソーマもそれを十分に理解している。
だから仏頂面引っ提げている彼にユウカができることなんて、もう彼にとっては痛くも痒くもないだろう頭突きくらいしかなかった。
初夏の午前四時の空は全体が昏い青で染まり、地平線だけが仄かに白と薄紅色で輝いている。
『ソーマさん』
「………なんだ」
『朝焼け見たいなーって思って適当な時間に起こしたけど、やっぱ早かったと思う?』
「馬鹿野郎」
単語で罵るソーマはそれなりに眠いらしい。最近ユウカのせいで睡眠時間を減らしているのが原因だろう。お馬鹿さんねぇ。握りしめようとした手が動かなくて変な心地だった。そこに四肢があるのに動かないというのは、なんとも可笑しな感触である。
『日の出まで本格的に暇だね……よし、しりとりしよう』
「またか?」
いつまでも突っ立ってるのもあれなので、敷物も何もない固い地べたに座り込む。ソーマの胡坐の上に乗せられるが、感触はもうとっくにないのでその気遣いは正直いらなかった。こうして見てみればやはりソーマはタッパがかなりあり、平均身長よりはおそらく大きいはずのユウカを脚に乗せたまま見下ろすという鬼の所業ができている。
『ソーマさん脚なっが背でっか、なんなの?』
「お前が小さいんじゃないか。あとしりとりどこいった」
『出張中。いやこの食糧難で大きく育つ方がどう考えても間違ってるでしょ』
「極東支部ゴッドイーターの平均身長は166.4だ」
『……男性込でだよね?ね?』
無言で首を振ったソーマにユウカは唯一自由にできる首で精一杯項垂れた。なんてこと。物が溢れていた最盛期たる前時代の平均身長よりおよそ8センチも大きい。どういうこっちゃねん。ゴッドイーターって高身長しかなれないのだろうか。
『はっ!』
「今度はなんだ」
『いや画面とかカッターが触れるなら、もしかして食べることとかもできたんじゃ……!?』
「どこに行くんだその口に入った食糧は」
『ブラックホールとか?でもよく仏壇の前に備えて置いた饅頭が消えたとか水が減ってるとかいう話があるじゃん』
「盗み食いと、気化か飼い猫の仕業だろうそれは。大体味覚あるのか?」
『わかんない。なんで試さなかったんだろう……くっ、プリンレーション食べてみたかった……』
「そのチャレンジ精神はおそらく誰も幸せになれないと思うが」
最終的に食べきれず泣きが入ってきたところでソーマが処理する未来が透けて見える。甘いものはそれなりに好きなはずだが、ソーマの眉間に刻まれたあの深すぎる皺は忘れられない。相当なゲテモノだったのだろう。
「甘いのが好きだったのか?」
『え?うーん、まぁそこそこ?フユキの方がそういうのは好きだったよ。あの金平糖も結局フユキが全部食べたし』
どちらかと言うとしょっぱい系の方が好みだった。ただそういったものは保存期間が短いものが多いのであまりありつけはしなかったが、その特別さがあるいは好きだったのかもしれない。どちらにせよ、偶に煎餅なんかを見つけた時は小躍りしちゃうくらいには好んでいた。
『ソーマさんは?好きな食べ物とかあるの?』
「さぁ、考えたこともないな」
『なら、これからたくさん考えてね』
ニンジン苦手なソーマさんとか、面白くてちょっとかわいいかもしれない。
思えば互いに知らないことだらけだった。ユウカはソーマの好きな食べ物一つ知らなければ交友関係だってあの赤い髪の、エリックという男の人以外に知らない。サリーガーデンの柳の葉だってびっくりな速度だったのだから、仕方のない。二人の感情はまだ稚拙で幼く、若すぎた。これから成熟していくはずだった、わかっていくはずだったのだ。
『ね、ソーマさん』
「ああ」
ややなげやりに、ソーマが応える。夜明けまでは時間がある、彼の瞼は軽く伏せられて、少し眠気に負けた声音だった。だから、まだユウカの身体にも気づいていない。
『好きだよ、だいすき』
「………………………知ってる」
綻ぶ口元と同時に、そぅっと彼の眼が開かれる。ユウカとはまた違った青は深く、東の水平線近くの海の色をしている。さざ波の合間のような青が見開かれ、そこに小さな淡い光が移り込む。
「は…………」
『へへ、朝日までもたないかも』
ユウカの身体が強い、しかし眩くもないくらいの光に包まれ、足元から小さな光の粒となっていた。誰が見てもわかるだろう、ユウカが消えてしまうことなど。金色の粒子は美しく、資料で見たランタン祭りのような温かみがあった。
瞠目したまま固まるソーマに軽く頭突きを喰らわす。顎にクリーンヒットしたが痛みはまったくなく、その力無さがソーマを現実に引き戻した。
「ユウカ」
魚みたいに口を開閉させて焦燥感に追われて言葉にしたのは、ただ彼女の名前だった。
驚愕の表情に、そのひきつる頬に、ユウカは世界一美しく微笑む。
つたわらない感情も、触れられない身体も、あの日の一つも守れなかった約束も、喧嘩した後の孤独さえ、上手く喋れなかったあの日々すらも。
好きだった、全てが。
好きだった。
あなたの、全てが。
『ね、ソーマさん、まだゴッドイーター続けるんだよね?』
「……終身雇用だから、な」
『ふふ、そっか。なら、きっとたくさんの人に会うね』
「忘れないぞ」
『うん、忘れないで』
先手を打ったソーマの言葉に、ユウカはしあわせそうに笑った。
『私の事覚えててくれるひとがいてほしいから。だから後追いなんて絶対だめだよ』
ここに鏡があって、もしユウカの身体が動くならソーマの鼻先に突き付けてやっただろう。今にも死んでしまいそうな顔をしていた。ユウカよりよっぽど絶望している顔。ユウカはいつも置いて行くばかりで、置いて行かれることなんてほとんどなかったから彼の気持ちはわからない。置き去りにされるひとの気持ちなんて、全然。けれど。
『ソーマさんなら絶対だいじょうぶ』
そう、この人なら、ソーマなら大丈夫だ。だってこの人はとても強くて優しい。ソーマはユウカから一度だって目を逸らさなかった。目を逸らさず、ユウカの願い通り、傍にいてくれた。ソーマは自分で自分を勝手に救える。いつだってそう、ユウカの出る幕なんて最初からこれっぽっちだってなかった。どうかそんなこのひとがしあわせになりますように。
『大丈夫だからね』
体温は、愛だ。ソーマの体温に触れるとき、ユウカはいつだってしあわせだった。今も。例えもう膝から下がなくとも。あんなに感じていた恐ろしさは光と共に消えたかのように微かで、不安もあまりなかった。安らかだ。とてもさみしいが、満ち足りた気分だった。
ソーマは何か言おうとして口を開き、閉じて、それからしばらくしてようやっと口を開いて言った。
「お前が言うなら、そうなんだろう」
『へへ、でしょ?』
「だがもし、この先が大丈夫なのだとしたら、それはお前のおかげだ」
『え?なんで?』
自慢じゃないがユウカが役に立った場面など一つもなかった。幽霊として声だけで現れ、昼夜問わず騒いで強引に話を進め、時にくっだらない思い付きをしてソーマを振り回し、自分は何もできない癖に勝手にソーマの行動にキレて出てってひとさまの言葉に勝手に叫び散らして回収され、ひどい喧嘩をして死人探しに付き合わせ。待ってほしい考えてみれば彼の人生の邪魔しかしてない。さっさと消えた方がこの人の為なんじゃなかろうか。
割かし本気で聞き返したユウカに、ソーマは下手くそに笑った。
「お前がたった十四年でも、数年でも数時間でも、数瞬だって生きていたっていう世界なら、守る価値があると思えてしまうんだ。死にたがりの俺が、生きてみようとトチ狂える」
ユウカがいて、ソーマの周りの環境がさほど変わったわけではない。ソーマは今も化物扱いだし、父親との確執はあったままだし、同僚と話がしたいなどとはマッタク思えない。世界は変わらない。
相変わらず食事なんて十秒なチャージで良いと思っているし、不愛想だし部屋は少し散らかってるくらいが丁度良いと思うしあらゆることが面倒臭い。だが、話すこと自体はそう嫌いでもない事、誰かの話を聞くことだって悪くない事。誰にも言えない痛みを勝手に抱え込んで、ふてくされたただの馬鹿な男。そんなソーマを救えるのは世界で桜庭ユウカただ一人なことも。変わらないまま。
「ユウカ、愛している」
口にしてみて、その重さに思わず笑った。小説の中みたいな薄っぺらくて安っぽいそれとはまるで別の言葉のようだ。おそらくソーマは今の台詞を何度も頭で反芻して、胸に抱えてこれから生きていくのだろう。この重みも熱さも苦しさも後悔も痛みも恐怖も幸福感も充足感も何一つ色褪せず忘れないまま。最期の最期まで。彼女が確かにここにいたことを、証明し続ける為に。
「という訳ですぐに帰って来い」
『…………へ?』
「輪廻転生というものがこの地方にはあるんだろう。俺はしぶといからな、長生きするだろう。お前が帰ってきた方が早い」
『はーーー!?そんな無茶な!いや最速で帰ってきたってソーマさんと私十六歳差じゃん!?』
「なんだその程度。キッチリ娶ってやるから安心しろ」
『んなアホな……』
ユウカが無事最速で生まれ変わって十五歳になったときソーマは三十一である。ユウカが二十歳になったらアラフォーだ。アラフォー、アラフォーか……アラフォーになったソーマさんはさぞダンディなイカしたオッサンになってるだろう。絶対に惚れる自信しかない。そう考えればそんなに無茶な歳でもない、か?と若干洗脳されかかったところで正気に戻る。
「男だろうが犬だろうがバッタだろうが、いっそアラガミだろうが他の何からも守ってやる」
『男前すぎて手に負えない!』
「だから、さよならなんざ言うな」
とうとうユウカに影響されてバグったかと泣き真似するユウカに、静かな声が落とされる。そっとその顔を窺えば、光の粒子の合間に彼の端正な顔立ちが歪んでいるのが見えた。涙を堪えて、笑おうとして失敗している顔。
「はやく。はやく帰って来い」
その言葉は、夢物語だった。あり得ないこと、奇跡よりも儚いこと、つまり、嘘だ。嘘でも良い、嘘で良いから。それでも、別れの言葉を言ってほしくなかった。
それがユウカには、痛いほどわかった。ユウカだってそうだから。別れの言葉なんか言いたくない。口が裂けたって言えない。動かせなくなった腕も光と消え、最早胸像もどきになった身でソーマの首筋に擦り寄った。縛り付けたいわけじゃない、けれどさよならは寂しくて。
『うん、うん、いってくるね、いってきます』
すぐに帰ってくるから、どうか待っててね。
この人の事が好きだなぁと思った。思えたことが、幸せだった。
好き。好き。好き。大好き。愛してる。
二人とも、いちばん言いたいことは言わなかった。言っても相手を困らせるだけだとわかっていたから。ごめんね。口の中だけで言ったその言葉が聞こえたかのように、彼も苦く笑う。
そっと、どちらからともなく影が重なり、唇が合わさった。
それは殆ど一瞬で離れ、お互いにお互いの顔をじっと見つめた。
その瞬間、朝陽が世界のすべてを照らし出す。逆光になった彼女の顔はよく見えないはずだった。そのはずだったが、まるで夢みたいに破顔したユウカがはっきりと見えた。
「ソーマさん、」
――続いた言葉は、ここに記すまでもないだろう。
慈愛に満ちた残酷な囁き。ソーマを未来永劫縛るだろう言葉。
光が彼女を包み込むまでは笑顔でいられた。けれどその浅瀬色の眼が閉じられた時に笑えていたかはわからない。粒子の残滓を握りしめた時には涙が地面に小さな海を作っていた。
どんなに願っても、祈っても、朝は来る。
魔法が解けた世界に独り蹲るソーマは、他人から見ればさぞ滑稽だろう。けれどこんな早朝に、人などいるわけがない。
それがわかっていたから、ソーマは躊躇わず涙を流した。声を上げて叫んだ。
苦しくて苦しくて仕方なかった。今までの全てを後悔し、世界の全てを呪い罵った。
だがそれでも、ソーマは生きなければならない。
彼女を愛した日々を忘れないために、彼女を愛せている日々を離してはならない。彼女が愛した日々を。大事に。
生き続けなければならない。
いつか彼女が帰ってくるまで。彼女の元へ行くまで。泣いて泣いて泣き喚いて泣き叫んで泣き止んだらきっと、あの部屋にもう一度愛していると言いに行くから。
だから今だけ、今だけはこのかなしみを叫ばせてほしかった。弱くて愚かで騒々しく強がりでどうしようもないユウカ。能天気なくせに、生き急ぐのだけは一丁前な、恋人にもなれなかった愛しい女。
どうかいつかまた会おう。
おかえりを用意して、待っているから。