我輩は幽霊である。名前は今ない。
気がつけばそこにいた。名前もなければ肉体もない。見えもしないし聞こえもしない我が身の不幸は悲しいなんていう言葉では語り尽くせない。それはまさしく絶望だった。
はじめ、私は自分が死んでいるなどとはわからなかった。目を開けて、ただそこにいて。ここどこだろう、うーん困ったな、と。それくらいしか思えなかった。どうしようと思う内に自分のことが何一つわからないことに気がついて、ああこれが噂の記憶喪失、と手を打った。
次いで、今は何月だろうと考えた。どことなく肌寒いので春先かな、と。その予想は奇しくも当たっていたが、残念ながら私は本当の現実の気温を感じられたわけではなかった。なぜなら、とりあえず開けようとした扉のドアノブを、この手はすり抜けたのだから。
『…………………は??』
わたしの頭から「は?」以外の言語文明が死滅した瞬間だった。何度試しても、強弱を変えても、手はドアノブをすり抜けるばかりだった。え、なにこれ意味わかんない……突然のホラーやめてよ……。
こわい……と混乱していたところで、私は天啓のように閃いた。すり抜けるからドアノブを掴めない。けれどドアノブをすり抜けられる、ならばドアもすり抜けられるのでは?と。リアル狂人はほんと何を考えつくかわからない。みんなも注意してほしい。
結果から言えば、それは成功した。
ついでに言えば空中にぷかぷか浮かぶこともできた。これもう完全に霊体。
廊下に出た私は、誰彼構わず襲いかかった。
呪い殺してやるー!とかそんなではなく、お願いします助けて!!!!とかそういう感じに。通りがかりの白衣のおじさんの子泣きばばあと化したこともあった。けれど、それでも誰にも、私は気づいてもらえなかった。泣いた。
泣きながら私は、何が悲しいのかもあまりわからなかった。自分でさえ自分がわからないのに、今更他人にわかられなくなったくらいで、とさえ心の奥で小さな私がせせら笑っていた。そして、さ迷い漂って、誰もいない部屋に着いた。部屋のなかは乱雑に物が散らかってて壁には人間の的、銃痕が壁中に広がっていて中々やべーやつの部屋だとは薄々わかっていた。けれどもう、誰にも気づいてもらえないなら、もう、どうでも。声をあげて泣いた。この世のすべてを呪い罵った。
「うるさい」
それでも、届いたのだ。
あなたに、あなたにだけは。
*
『ちゃんちゃん、って感じですかね!』
「五月蝿い。落ち着いて喋れないのか?」
『テンション最高潮ですから!第一村人ならぬ第一発見者を発見!ひゃほー!会話ができるー!!』
こいついらんことばっか覚えてるな、とソーマはげんなり顔をしかめた。何十年か前のバラエティ番組の企画内のお決まりの言葉である。
「出ていけ、と俺は言ったはずだが」
『幽霊相手に先住権を主張できると思ってるの?お前のものは俺のもの俺のものは俺のものという名言があってだね――あウソウソごめんなさいすみません調子乗りました』
無言で立ち上がろうとすると物凄い勢いでへりくだり出したので、渋々再度ベッドに腰を下ろす。彼女曰く、腰かけるソーマの目の前の床で正座しているらしい。幽霊に体重も足のしびれもクソもないと思うので何一つ誠意が伝わらないが、彼女なりに精一杯なのだろう。
『ごほん、そういうことで、お手数ですがわたくしめが成仏できるべく力を貸してくださいませんかね』
「他を当たれ」
『当たれる他があるなら私だってそうしますーーっ!誰がこんな顔だけ良い無愛想男に好き好んで頼むか―――ああーーーージョークですう本心じゃないんですぅ!!』
「それでよくその歳まで生きられたなお前……」
口にローションでも塗りたくってるのかと思うほどの口の滑りっぷりだ。苛立ちを通り越して呆れさえする。このくそったれな世の中でよく撒き餌かなにかに使われなかったものだ。
『お願いします助けて……私にできることならなんでもします……』
「何ができるんだ……」
身体もない、顔も見えない、声だってソーマ以外には聞こえない、記憶もない、ないない尽くしのただの幽霊ごときが。
『悩みとかない?聞くだけとかならできるよ!具体的なアドバイスとかはあんまりできないかもだけど』
「ない。いらん」
頼り無さすぎてもういっそ哀れにすら思えてきた。初対面で打ち明ける悩みなどないし聞いてももらいたいと思うほど女々しい性格もしていない。
『悩みないとかまじか??私はこんなにも悩みに溢れてるのに??ちくしょう私に何の恨みがあるって言うんだ……これだからイケメンは嫌い……この世の全て何もかもをちょっと人に優しくするだけで乗りきってきたんでしょ……イケメンフェイスでアラガミもイチコロ……ゴッドイーターいらずじゃん世界平和にしてきてよ……』
「お前こそ何の恨みがあるんだ」
顔の整った奴に親でも殺されたのか。
見えないのに負のオーラを大量生産する彼女に思わず言葉が口について出る。もう面倒だからヘッドホンつけて無視決め込んでしまおう等の企みが二秒でおじゃんになった。ほんとなんなんだこいつ。
『ノブレスオブリージュでしょ……老い先短い矮小な乞食を助けてくれたって良いじゃん……』
「老いも先もないだろ……」
『例え話じゃん現実をつきつけないで……』
「成仏したいのかしたくないのかどっちなんだ」
『成仏しなきゃいけないのはわかってます、けどこわいです』
加えて馬鹿正直。流れる水のようにさらりと本心を口にした彼女は、そう言ったきり黙りこんだ。
もうとっくに死んでいるのに、彼女は現世にしがみついている。今まで数多の幽霊を見てきたが、いつもいつの間にかふっと消えるばかりで、そこに不安だとか、恐怖の表情は読み取れなかった。いつもただ、目を細めて彼らは立ち尽くし、瞬きの間に消えてしまう。けれど本来なら、あってしかるべきなのだ。自己の消滅、それよりも恐いものがこの世に存在するだろうか。
『死んだら終わりだよ。脳がないんだから思考できるはずないもの、消滅するただそれだけ。なら、終わった先のわたしは、何?』
「俺が知るか」
『あははっ、だよねー!』
楽しそうな笑い声だけが部屋に響く。字面だけ見るとホラーのようだが、彼女にはそんなものよりもずっと恐ろしい目に合っていた。
知覚されないということがどういうことなのか、ソーマには完全に理解できない。良い評判などないが、何かと目を付けられやすい出生と育ちなものだから、むしろ執拗なまでに意識され続けた。心底、それが煩わしかった。いっそ消えてしまえたら―――その願いの答えが、今ソーマの目の前に広がっていた。
成仏。口の中だけでそう呟く。
「おい」
『……なに?』
「手伝ってやる」
絶句しているのが感覚で分かった。さんざ難色を示してきたくせ、今になってなぜ、というところだろう。案外疑り深い性格の彼女に、ソーマは口元を持ち上げて答える。
「いずれ遠くない未来に俺も行く場所だ、そこへの情報が多いに越した事は無い」
こんなくそったれな世界で老人になるまで生き永らえようなんて大層な事は考えたことさえない。大人になったら死ぬのだろうなとさえ思っている。同時に、そう簡単に死んで堪るかとも。どちらにせよ、いずれソーマも至る場所だ、知っておいて損は無かろう。その道中がどれほど面倒でも。それに、彼女に同情したのも事実だ。ソーマも中々に厄介な体質だが、彼女よりはよほどマシだろう。
すぐに『是非!』とでも返って来るかと思ったが、彼女は思ったよりも驚いていたようで、少なくとも十秒は黙ったきりだった。そうしてようやく、吐息が、次いで静かな声が落とされた。
『いいよ、あなたは。ゆっくりで良い。なるもんじゃないよ、幽霊なんて』
その言葉に、ソーマは内心で舌打ちした。面倒なタイプだ、と思ったからだ。説教臭い人間は嫌いだ、小賢しいのも偽善者も。
けれど、この時は何故だか、不思議といつもよりは苛立たなかった。
今回はここまで。これはかなり個人的な好みなのですが、ソーマにはクソほど明るい女の子がお似合いだと思います。もしくはソーマ以上のコミュ症か。