天を泳ぎて地に戻りきよ   作:緑雲

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少女、と女の子

 

 今日も元気に仕事に励もうと任務受注して出撃しようとした矢先、背後からいきなり襟首を掴まれて引き戻された。首が締まってカエルが潰れた時の断末魔を出すユウカに、ツバキはもうこの新人が入隊して何度目かと思う程大きな溜息を吐いた。

 

「お前今日何個目の任務だ」

「えっ……ええと………さぁ……何個目でしょう……」

「休め」

「いや受注しちゃったんで、」

「休め。教官命令だ」

「や~、でもクアドリガの素材がちょっと足りなくて」

「そうか。で、行先は?」

「贖罪の街です」

「却下。私の権限で任務は突っ返しておく」

「いや~あははは冗談キツいですよ~~~」

「最後通牒は必要か?」

「桜庭ユウカ上等兵すぐさま休息行動に移ります」

「よろしい」

 

 素早く姿勢を正して敬礼するユウカに、ツバキがやっと満足そうな表情を浮かべた。しかしどういうわけか、掴んだままの襟首は吊り上げられるばかりだった。徐々に食い込んでいく首回りに、ユウカはいよいよ脂汗を流し始める。

 

「あの、あの……教官?」

「ユウカ、お前に三つ質問がある」

「えぁ、ハイ……」

「一つ、昨夜は何時に寝た」

「ええと………さ、さあ。ギリ空は暗かったかと思いますけど……」

「そうか。では二つ、ここ一週間で受けた任務の数は」

「うーん……三十?」

「六十七だ。三つ、そのうち第一部隊隊員と出た任務の数は?」

「………あー………えー……と…………一個くらいは、あったような……」

「ゼロだ」

「教官ギブッ、ギブギブギブッッ」

 

 ワハハ。ツバキの乾いた笑いと共に、ユウカの襟元がいよいよギリギリと悲鳴を上げた。布が千切れる以前に、ユウカの首が諸々ヤバイ。

 ツバキは腕輪を封じているだけの元神機使いなだけあって筋力は現役レベルだ。つまりどういうことかと言うと、ユウカより遥かに鍛え上げられているという事である。その握力はリンゴどころかスイカすら容易に破砕し、アイアンクロウはオウガテイル程度の装甲すら砕ける。ユウカの頚椎など紙も同然だった。

 

「スイマ、スマセンッ!休みます休みます!ホントです嘘じゃないです!」

「当たり前だ阿呆ッ!!」

 

 解放された首を抑えてゲホゲホと腹からクるタイプの咳を繰り返すユウカを、ツバキは冷たい眼で見降ろしていた。身体をくの字に曲げてさえ、へらりと情けない笑顔でツバキを見上げるその顔にすら腹立たしく思う。

 ここ一週間、どう考えても無理に思える行軍を一人繰り返しているにも関わらず、ユウカの顔色は然程悪くなかった。多少青白い事、眼の下に軽い隈がある事。驚くべき事に、それだけが彼女の疲労症状だった。

 「ユウカちゃんが少し疲れているように見えるんですが」と最も接する機会の多かったヒバリからの進言によりやっと表面化したこの問題は、瞬く間に極東ゴッドイーターに広がった。

 

「向こう三日は任務に出して貰えないと思え」

「大袈裟ですね……。でも、実はそんなに疲れてないんですよ、本当に。外で暮らしてる時なんて仮眠一時間とかザラにありましたし」

「運動量が違うだろうが……」

 

 ツバキは思いきり頭を抱えてしまった。つい最近まで、桜庭ユウカは優秀なゴッドイーターだった。いや、それは今もだが、この一週間彼女は、自分のリミッターを完全に度外視した生き方をしていた。止められないようにこそ走り続け、周囲をいつもよりずっと慎重によく見て行動し、その精神ばかりを磨り減らした。その結果が、先程ツバキが本人に確認した馬鹿みたいな仕事量だった。

 こんな事になった原因も、理由も疾うに分かっている。

 雨宮リンドウの捜索状況が芳しくないのだ。

 彼女の直属の上官であり、尊敬できる先輩であり、そして自分が指揮する部隊を伴っての退却による行方不明。気にするな等言えるはずもなく、また責任を感じる必要はないと言えるほどツバキは向こう見ずではない。

 ユウカは立派にリーダーとして振舞った、その場で最善の判断をした。

 なのにどうしてその判断が報われないのだろう。

 

「無理をするんじゃない」

「だから無理じゃないんですってば。それに、リンドウさんの事は私の責任ですから」

 

 撤退命令を下したのはユウカだ。その責任から、部隊長の彼女が逃れる事は許されない。

 立派に微笑むユウカに、ツバキは懸命に溜息を堪え、毅然として通告した。

 

「本日を以て、雨宮リンドウをMIAとする事を上層部が確定した」

 

 ユウカはピクリと肩を震わせただけで激高するといったこともなく、憮然とした表情を浮かべた。まるでこうなることがわかっていたような仕草に、ツバキが眉を顰める。すると、ユウカはより一層嫌そうな顔つきになった。

 

「ここの上層部って、前から思ってたんですけど何を考えているんですか?マジで中途半端すぎて嫌になるんですけど」

「その心は」

「一週間で打ち切るくらいなら、捜索なんてそもそもしなきゃよかったんですよ。マジで探していたなら短すぎますし、探す気がなかったなら遅すぎます。一週間って……疑ってくれって言ってるようなもんじゃないですか」

「甘い。――最初からリンドウなんてどうでもよくて、神機が回収できればラッキー程度の期待だったんだろう。お前は意地の悪さが足らんな」

「ああそういう……」

 

 増々嫌になる上層部の意向である。ユウカはうんざりしながら盛大に表情を歪めた。人類共通の敵がいるにも関わらず、相変わらず人類は内ゲバばかり繰り返しているのだ。気分が悪くなってきたのは疲労だけのせいではないだろう。

 

「生体信号も腕輪のビーコンも消失したらしい。それでも生きていると思うか?」

「むしろこの状態でそれらを発してたらリンドウさんの正気を疑いますよ。入隊して一ヵ月しか経ってない私でもそんなの弄れますし」

「は?お前そんなのできるのか」

「え?はい。100割大騒ぎになるなと思ったので実践はしていませんが」

 

 ゴッドイーターの腕輪の最も重要な仕事は、むろんオラクル細胞の注入とコントロールだ。それら以外の機能はどうやら付属に過ぎないようで、機能は全てアプリみたいに分割されている。アプリを消去するか、電子媒体がないなら該当の基盤を物理破壊するか、もしくは発信機能を封じたいのだからキャンセラーを取り付けるなりオフライン状態にするなり方法はいくらでもある。

 あれやこれやとあまりに具体的な案を挙げていく少女に、ツバキはコイツまさか謀反でもする気じゃあるまいなと思った。大きく溜息を吐く。冷静な判断力はあるのだこの娘は。

 

「コウタが寂しがっているし、サクヤは増々気落ちしているし、ソーマなんか殺意に溢れている。なんとかしろ」

「う……わかってますよ。でも……」

 

 ツバキこそ彼女の心情は嫌になるほどわかっている。

 会いたくないのだ、顔を合わせづらいのだな。いつものように明るく振る舞えないのだろう。

 だが彼女の行いは、部隊長としての責任を取ると言っておきながら、現在の第一部隊への責任を放棄した矛盾極まる行動であった。例えその心の内を、ツバキがどれほど骨身にしみていようとも、痛い程彼女の気持ちを理解できようとも、教官故に諫めなければならない。ユウカの心を傷つけるのではないかという懸念があったとしてもだ。

 

「せめて逃げるのは止めてやれ」

「……はい」

「…………難しいか」

「少し。……あの、教官」

「なんだ?」

「……いえ、すみません。なんでもないです」

「そうか」

 

 ツバキは、今まで彼女と接したどんな時よりも柔らかな声を出した。

 本当は、ユウカを抱き締めてやりたかった。労わってやりたかったし、優しくして、しばらく部屋で養生していろと言いたかった。だが、相手が誰であってもそれを今のユウカは自分に許せないだろう。

 強靭で精神面も強く、聡明で諦めが悪い。あんなにも安定しているユウカであっても、本当は疵付き易い、ただの十六歳の少女であるのに。

 

 

 ツバキにより本日の業務から解放されたユウカであったが、完全に手持無沙汰に陥っていた。出社したと思ったら、今日は非番だったみたいな気分だ。改めてつい今まで熟したこの一週間の任務一覧を見て苦笑する。これじゃ止められて当然だ。

 行き場のないもやもや感を抱えたまま、一度部屋には帰って来たものの、二度寝をする気にもまたならない。

 第一部隊の他面々は今日は全員任務だろうし、他の隊員に接するのもなんとなく気が進まない。いや、なんとなく、なんかではない。本当はまったく、顔を見たくなかった。

 責められているような気がするのだ。断じてそんなことがないとしても、ユウカの罪悪感がそう思わせるのだった。

 自室の扉に背を預けてずるずると腰を落としていく。徐々に下がっていく視界にすら気落ちしながら、溜息とも吐息ともつかない呼吸を繰り返した。

 

「………はー……しんど」

 

 他者のどんな優しい言葉でも、どんなに思いやりに溢れた行動でも、卑屈にしか受け取れない時がある。それはきっと仕方のない事だった。

 瞼を下ろすと、なんだか随分昔に思える二人の並んだ姿が蘇った。見目麗しい、とても似合いの恋人たち。近い将来にきっと苗字を同じくしただろう二人だ。

 首を思いきり横に振って思考を放棄する。駄目だ。今これを思い出しては、立ち上がれない気がする。何か別の事を考えよう。

 そういえば、アリサどうなったかな。

 数日前医務室の前を通った時は、とても面会できる状態じゃなさそうだった。ユウカの手が届かなかった者の一人。会わなきゃならないだろうか、会わなきゃいけないんだろうな。

 それにやっぱり、心配だし。

 

「あ゛ーーー……うあ゛ーーー……」

 

 名状し難い呻き声を上げながら、ユウカはゆっくりと非常に緩慢な仕草で立ち上がった。頬を二回叩いて自意識を呼び覚ます。あまり効果はなかったが、やらないよりはマシそうだったのだ。

 

 日中の廊下は、所属の神機使いがみんな出払っているらしくがらんとしていた。偶に人とすれ違ったと思えば研究員や医療従事者である。

 静かな廊下を、誰にも呼び止められず歩く。硬質な足音のみが響く冷たい廊下は真っすぐで、何の面白味もなければ物凄くわかりやすいという事もない。退屈なものだ。

 視界に映る鉄色を眺めてぼんやりと物思いをする。胸に巣食う追い立てられるような焦燥とひたすらな仕事量に歯止めをかけられて、思考にエネルギーが割かれるようになったのだ。

 その矢先、医務室の扉を視認できた。入室しようとして、その扉が不意に開かれる。向こう側から開けた人物は、極東支部所属の医療従事者、大車医師だった。ユウカはかかった事はないが、評判は良く聞いている。

 

「おや、君は新型の。……アリサのお見舞いかな?」

「はい。面会できそうですか?」

「今はよく眠ってる。よく効く興奮鎮静剤を打ったから、当分は起きない筈だ。それでも良いかい?」

 

 構いません、と首肯する。どうせ行くアテもないのだし、隠れ場ついでにお邪魔させてもらおう。病室で煙草を吸う不届き医者に苦笑しながら、ユウカは足音忍びやかにアリサのベッドに近付いた。

 アリサの顔色はまさしく紙のように白かった。髪はボサボサで、着ている入院着もよれて皺になっている。相当な大暴れの跡がそこかしこに見て取れた。

 しかし静かに眠るアリサは、いつもより一層幼く無垢だった。いつ見ても綺麗な顔をしていると思う。菫のような少女だ。ロシアの大地で育まれた、透き通るような白い肌には、隈はあっても染みは一つもない。

 こうまで白いと、有色人種より体温が低そうな感じがする。まったくそんなことはないのだけれど、やっぱり気になって、ユウカは投げ出されたアリサの左手を握ってみた。

 

「ッな、―――?」

 

 キン、と鋭い頭痛。同時に、頭の中に記憶が流入する。知らない場所、知らない人、知らない声、―――埃臭いクローゼット。隙間から見える外の景色。そして白い部屋の、鼻につく消毒液の臭い。

 

 

『もーぅいいかぁーい』

『まぁーだだよぉー!』

 

 

 大人の声がする。パパとママだ。自分の口からは、まだほんの幼い、舌ったらずな高い声が出ていた。

 

 

 ハ、と我に返った。薄暗がりにいる。そうだ、クローゼットに隠れたのだ。パパとママが遊んでくれないから、こっちを見てくれないから。ちょっとでも困らせちゃおう。

 隠れたら、見つけに来てくれる。

 漠然としてはいたが、確かな期待と信頼がそこにあった。

 

 遠くでなんだか大きな音がしていた。パパとママの声も聞こえる。わたしを呼ぶ声だ。どうして今日は、いつもみたいに「もういいかい」と言ってくれないのだろ。せっかくのかくれんぼなのに。

 

 ほんの少しだけ、扉を開ける。隙間から外の様子を見ようとしたのだ。遠くにいたと思った両親は思ったよりも近くにいたようで、声のボリュームはグッと上がった。

 スグに二人の姿が見えた。優しいパパとママ。本当に見つかったわけではないけれど、見つけに来てくれたという事実自体が嬉しかったんだ。二人の懐に飛び込もうと扉に手をかける。小さな白い手。

 フッ、と、一陣の風が吹く。共に、真上から漆黒が降って来た。さして音もたてず、それは軟着陸の後に身体を丸めた。

 これ、一体なんだろう。そう一瞬思考した後、パパとママはどこへ?と首を傾げた。ちょうど漆黒の居た場所にいたはずなのに。

 

 おかしいなあ。

 

 少女は視線を動かして、それを、見た。

 

 真っ赤。真っ赤っ赤。

 つぶれたトマトみたい。ひしゃげたポストみたい。ちぎれた人形みたい。

 あれ、なんだろう。あし。うで。なんだかビロビロと伸びているピンク色のぬらぬらしたもの。

 

 漆黒はそれらに顔を埋めていた。微かに上下するそれと、鋭い牙が生えた口らしき場所が開閉するから察するに、たぶん咀嚼中であることが少女にもわかった。だが、何を食べているのかまでは理解が及ばなかった。魚か肉か、この漆黒もあのマズいゼリーを食べるのかしら。

 そうして、それ、を見た。

 それを、見た。

 

 あたま。かお。

 

 人間だった。人間を食べていた。アリサが昨日焼き魚を食べたみたいに。あぐあぐ。下品に犬喰いしていた。

 人間。人間。人間を。誰を?そこにいたのは誰?ここにやってきたのは誰?目を見開いているあれは誰?誰だったモノなのだ?誰が、誰で、誰と、誰、だれ、だれ、だれ?わたし、わたしは、わたわたわわわわわたしわたしは―――――――

 

 それが、こちらを見た。

 見ていた。

 ギョロギョロ。真っ赤なおめめが止まっている。何かを見つけたらしい。足元の肉はサッパリ平らげられていた。残さず食べれてえらいね、パチパチ。

 

 

『もういーかい?』

 

 

 ―――ああ、みつかっちゃった。

 

 

 

『いいかい、こう言って引き金を引くんだ』

 

 男が言った。不思議な臭いが部屋に充満していた。なんだか心地よい。ずっとここに居たい。どこにも行きたくない。

 扉を見るのが恐かった。だって開いてたらどうしよう。開いていたら、見つかってしまう。見つかってしまう。見つかってしまう。見つかってしまう。見つかってしまったら。

 

『oдин два три!』

 

 いち、にの、さん。

 

『そうすれば君は、誰より強くなれるんだよ』

 

 

 

 

 

「――ッは」

 

 今のは。

 ユウカの記憶ではない。では、これは誰の記憶だ。

 死んだのは、誰と、誰と、誰と、誰が――

 トリップから明滅する視界を堪えつつ現実に戻ると、美しいヴァイオレットと眼が合った。

 目を覚ましている。しかもそれだけではない、その眼には理性の灯があった。

 

「今のは、貴方の記憶……?」

 

 アリサは呆然と呟いて、見透かすようにユウカを見つめる。アリサも、同じようで違う体験をしたようだ。つまり、ユウカの記憶を断片的に見たのだろう。見た、というよりも、あれは追体験であった。

 だからきっとあれは本当に起こった事で。

 そして小さなアリサがどんな思いだったのか、余す事なくユウカは理解してしまった。

 心臓が痛い。

 痛くて痛くてたまらない。あまりに痛くて、涙が止まらなかった。

 ソーマに似ていると思った。誰かと関わるのが不得手で、いつも気を張っていて、周囲を誰も信頼していないような。それは間違っていないのだろう。

 だが、本当はきっと。

 

 ユウカは彼女に、自分自身を幻視したのだ。

 

 握ったアリサの手を力に任せて引っ張る。その小さな頭を腹部に抱き込んだ。

 

「『どうして、』」

 

 ユウカとアリサは互いに互いを見た。一番深い部分。過ぎ去って尚癒えないままの、敢えて言うならばそれは、『痛み』と形容して差し支えないそれを。

 最早現在において、ユウカとアリサは一つであった。

 口が勝手に動き、声が喉奥から零れ出てくる。それがどちらのものなのか、どちらの心だったのかは、神様にだってわかりゃしないだろう。

 ぼたぼたと水滴が寝ぐせがついた髪に落ちて滑っていく。月の雫のようだった。

 

「『どうして私が、』」

 

 年を経るにつれ、忘れた事が増えていく。日々を重ねるにつれ、思い出せない事が増えていく。昔日は遠く、毎秒色褪せていく。

 忘れてはならない事を忘れ、信じてはならない事を信じた。忘却の化物だった。

 ユウカとアリサは『あの日』、間違いなく死んだのだ。木っ端みじんに砕け散った。

 ユウカは背を押した人がいた。手を引いてくれる人がいた。

 けれどアリサは、あれから生きているフリをするだけだった。それしか出来なかったのだ。

 だって背を押してくれた誰かを喪って、手を引いてくれた誰かとも手が離れてしまったのだから。

 どうしてそうなってしまったのだろう。どうすれば良かったのか、ユウカにもわからなかった。

 そうだ、アリサはソーマに心を明け渡す前のユウカに似ていた。嫌になる位ソックリだった。

 今でも尚思うのだ。

 理不尽な事に打ちのめされる度に。誰かを喪う度に。傷つく度に。

 闇にふと怯えるその夜に。

 

 嗚呼、どうして。

 

「――――『どうして私が、死ななかったのだろう』」

 

 何重もの層で覆ったその奥の奥の、奥底で、いつも、沈んでいる言葉だった。

 それは誰にも、特に―――には絶対に言えない言葉だ。生を望んでいない訳じゃない、けど、時たまフッと思ってしまうのだ。

 すぐに聞こえなかったフリをして、そんなことを思わなかったフリをするけれど。生きている日々は幸せだけれど。

 

 それでも、死んでくれない疑問なのだ。二人は永遠にこの疑問から逃げる事を許されないのだった。

 

 なりふり構わず天を仰いで泣き声をあげるユウカの腹を、細い腕がぎゅうと抱き締める。ユウカもそのまま彼女を力の限り抱き締めた。

 だがそれでも、死にたくても。明日が見えなくても。誰を喪っても。生きている者は責務を全うしなければならない。生きていくのだ、その為に戦うのだ。そう誓ったのだから。

 しかし、過去とは過ぎ去ったものと書くくせに、胸をザックリ貫いて刺さったままなのだ。だから、こんななんてことない悲劇でも立ち上がれなくなる。

 自分が殺したも同然な『誰か』を思って。泣く資格などないのだと百も承知で、それでも零れ落ちてしまった、それを無様と呼ぶのだろう涙を誰の目からも隠して。胎児を庇うように小さな女の子の顔を腹にうずめて抱きしめる。ばかやろうしんじゃえしんじゃえとわあわあ喚きながら自分の涙は野ざらしにして。

 

 それでもアリサの朽ちかけのプライドを、ユウカは守り切った。

 




感応現象大事故

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