シオの学習能力はあれからも上がり続け、間もなく成人のそれとほぼ変わらない程度の知識量と知能を手に入れた。
その過程はまるでAIが自己学習を通じて能力を向上させる様と似ていたが、彼女はあくまで人間らしさ、というよりも子供らしさだろうか。拙い言葉遣いもデフォルトのままだ。
抑々、言語とは人間が当たり前のように駆使しているが、本来難解を極める発明だ。その証拠に、一昔前に「エキサイト翻訳」といった揶揄が流行っただろう。人間よりも遥かに賢いAIでさえ、言葉とは十全に扱えるものではないのだな。
それを鑑みれば、むしろシオは賢過ぎるくらいだ。一応意味は伝わるのだから。
「ユーカ!」
「こんにちは、シオ」
「オナカスイタ!」
「おおっと緊急性も危機感も高い歓迎だね」
「うん、実はそうなんだ」
「コレの食糧が足りてねえ、と」
飛びついてきたシオを、ユウカが危うげなく受け止める。そのままジャングルジムになりつつもサカキへ向き直った。
呼び出されたかと思えば、そこそこ深刻なお話のようだ。
「いや本当に話が早いなー。そう、シオは以前から溜め込んでいたコアをご飯にしていたんだけど、つい昨日、それも尽きてしまってね。君たちにはシオをデートに連れて行ってほしい、って事なんだ」
「デート。デート?連れて行くっていうか、ついて来るの間違いじゃ、あはは、擽ったいって!」
「テメエ浮ついた気持ちで仕事してんじゃねえよ」
「ソーマさんだってちょっと思ったくせにーだだだだだ」
「いちゃつくのは後でにしてもらえるかな?はいコレ、作っておいた任務」
「はい、承りました」
「オイ勝手に受けるな!狩ってきてここで食えば良いだけの話だろうが!」
「でも情操教育の最中に部屋に閉じこもりなのは良くないし……」
「シオ、お外行きたいなー」
「だよねぇー。あの部屋狭いしねー」
「こいつを外に出す方がリスクだろ」
「いやパッと見普通……とは言い難いけど、完全に人間には見えるし、外ではこういうカッコは珍しくないから大丈夫だと思うよ」
「……いやに推すな」
目敏い。ユウカは肩を竦めてシオを一旦床に降ろす。
「まあね。サカキ博士、この子戦えますよね?」
「その通り。外でどうやって生活していたかと思えば、彼女は神機を扱う。いや、神機モドキ、かな。どうやってどこから出すのか、実際どんな仕組みなのか。彼女、全然見せてくれないからまだ解析できてないんだけどね」
「そうなの?シオ。見せたくないんだ?」
「……やだ」
「うーん、そうか。君から言ってもダメか」
サカキから、そしてユウカの視線から逃れるように、シオはササッと飛び退いてソーマの背中にピッタリくっつき、首を横へしきりに振った。
なんでもよく覚え、よく勉強し、よく話すものだが、シオには意外と「イヤ」が多い。自我がしっかりしている証拠だ。
嫌なものを強制するわけにもいかない。心が痛むのもあるが、腕力で物理的にシオに勝てる気がしない。ソーマなら余裕で勝てるだろうが、ゴッドイーターなりたてで適合率もそこまで高くもないユウカじゃまず無理だ。
滅茶苦茶嫌そうだが、流石に振り払わないソーマがユウカの手から端末を取り上げ、任務内容に目を通す。気を紛らわせようとしているらしい。
ともかく、シオの神機は未知なところが多く、今以上の事を知るには時間が必要そうだ。
「で、これでこいつを測ろうってか」
「人聞き悪く言えばそう。いざって時、この子には戦うにしろ逃げるにしろ、自分で自分を守れて欲しいからね」
「……そういう、言い方は卑怯だろう」
「そうだね。ごめん」
ユウカがフユキを守り切れなかったという事実を知るソーマからすれば、それは必殺の言葉に違いなかった。
そこまで、――フユキほどにまで、シオを大切にしているつもりは、ユウカにはなかった。重ねる事が、一度もなかったと言えばウソになる。彼女の無邪気さとか、人懐こいところは。そう、やはり彼に似ていたから。もうたくさんだ、と何度思った事だろう。
自身の名を呼ばれる度に。
「ねえユーカ」
「ん、なぁに?」
「デートってなにー?」
「シオにはまだちょっと早いかなー」
「えー。じゃあじゃあ、デートってイイ事か?」
「楽しいことだよー」
「じゃあイイ事だなー!」
「そうだねえ」
成人と同程度の知能を持っていようと、彼女は已然として幼稚なままであった。当然だろう。人間性というものはすぐには育たない。
善悪を指針にして思考している点は現状幸いと言えるだろう。本物の子供なら、まずその善悪すら曖昧で苛烈だ。
このまま良い子のまま育ってくれるだろうか。そうだと良いな。
心からユウカはそう祈った。それが到底ありもしない未来だとわかっているのに。
シオを伴っての任務は、彼女を極秘裏にアナグラから連れ出すという条件を除けば、滞りなく進んだ。
討伐対象が荷電性とはいえただのシユウだし、シオ自身がかなり強いのもある。神機は何の素材で出来ているのか、彼女自身のように真っ白だ。
敵を見つけた途端、シオはわざわざぴゃっと物陰に隠れて、出てきたら神機を携えていたのである。本当にどうやってどこから出したのかわからない。彼女の神機で分かっている事とと言えば、どうやら新型と同じ性能を持っている事と、見た目と性質からメイン武器はショートブレードだろうと言う事くらいか。鶴の恩返しを思わせる隠匿さだ。
ソーマの一太刀でシユウの身体が崩れ落ち、うまい具合にコアが剥き出しになる。
「さっすが、器用~」
「このコアはコイツが食うんだろう。もう一体探すぞ」
「ちょっと休んでからにしようよ。シオが食べてる間くらいはね」
食事とは生物の一番無防備になる瞬間だと言う。ならばそれを守るのが着いて来た者の役目だろう。
ソーマもそれがわかっていたので、だから研究室の奥で食えと言ったんだ、とでも言いたげに溜息を吐いた。効率を考えれば、確かにそれが最善だ。
しかし、目を輝かせてぴょこぴょこ元気に跳ねまわる少女の姿の前にそんな言葉は無力だった。
「もうイタダキマス!して良いか?」
「良いよ、召し上がれ」
「わーい!それじゃー、イタダキマス!」
神機をどこぞに消したシオが軽やかな足取りで倒れ伏すシユウに駆け寄る。満面の笑みを浮かべた彼女がそのコアに手を伸ばし、ピタリと急に動きを止めた。腰を屈めたまま振り返り、ソーマを見やる。
「そーだ!ソーマ!いっしょに食べよ!」
「あはは。シオのご飯なんだから、シオが全部食べて良いんだよ」
サラッとソーマに生身でアラガミ捕食の付き合わせようとしてくるシオの提案を軽く笑い飛ばす。せめて飲用に耐えうるものならフリくらいはしてあげるよう促したかもしれないが、体液まみれのコアを口元に近付けるのは少々憚るものがある。
「えー。でも」
シオは少女らしく、あるいは子どもらしく、口を尖らせて首をかしげる。
それにしても、割合ソーマといる時間が長い(100%ユウカのせいで)とはいえ、存外懐いているものだ。ソーマにしても、邪険そうにはするが本気で拒絶まではしていない。なんとも不思議な二人だな。
「ソーマのアラガミは、たべたいって言ってるよ」
えっ。
思わず声を漏らしたユウカは悪くないだろうが、悪手ではあった。
瞬間、背後の空気が冷たく、鋭いものへと急変する。
ユウカにとって、ソーマは初めて会った時から冷たいけれど寛容だった。不愛想だけれど親切だった。それにあの頃ユウカには身体がなかったし、威圧感とかはへっちゃらだった。
だから、ソーマがこんなに全身で拒絶している姿を初めて見た。
「テメェみたいな化物と一緒にすンじゃねえよ」
ソーマさん、と声を掛けようとしたけれども。身体ってやっぱり重荷だ。思わず足が竦んで、喉が締め付けられるようで、それは言葉にならずに空気と溶けた。
幽霊だった頃なら息を吐くように茶化して空気を混ぜっ返しただろう。ちょっと前までなら、純粋にソーマの身体の調子を心配したと思う。
けれど今は。
『それ』が最も、ソーマが触れられたくなかったものであると知っている。
ねえソーマさん。私、そこに踏み込んで良いの?
「シオ、ずっとひとりだったよ」
背を向けたソーマに、シオが唐突に語り掛ける。
「だれもいなかった」
壁の外に住む人々は数を減らしているが、それでも存在しない訳じゃない。決して少ないわけでもない。それなのに、シオが一度も会わなかったというのは確率的に在り得ないだろう。
だから彼女の今言う「ひとり」というのは、「独り」ということなのだろう。
アラガミの少女に、仲間など居ない。彼女は真実、この世界でひとりぼっちなのだ。
「だから、ソーマをみつけて、うれしかった」
わかるよ。その気持ち、痛いほどよくわかるんだよ。
でも違うのだ。ユウカは見つけてもらった。受動的だ。
シオは違う。彼女が、見つけたんだ。
ユウカは、ソーマを理解したいと思う。でも同時に、彼の事を理解するなんて一生かけたって無理だろうとも思っている。別々の人間なのだから、当然の事だ。
でももしかしたら。シオになら、もっと本質的なところで、ソーマの事が理解できるのかもしれなかった。
「みんなをみつけて、うれしかった……」
だから、うーんと、エーと。少女が両手で頭を抱えてしゃがみ込み、ウンウン唸り始める。
そういえば、仲直りの仕方は教えていなかった。
羨ましくて、でも輝かしい小さな女の子の隣に跪いて耳打ちする。
こういうときはね、こう言ってごらん。
「だから、シオ、いまのはえらくなかった。ごめんなさい」
お代官を前にしたみたいにシオがぺたんこになる。そこまでしろと言った覚えはないが、多分コウタあたりの入れ知恵だろう。
そして心から誠実な謝罪を受け入れぬほど、ソーマは狭量でもなければ、捻くれ過ぎてもいない。
息を深く吐いて、頭痛を堪えるように額を抑え、ソーマは本当に渋々といった風体で身を翻した。口には出さないが、許した、という事だろう。
「ソーマ、もうおこてないか?」
「………………」
「怒ってないって」
「なんでお前が言うんだ…」
「顔にそう書いてあるもん。さ、シオもご飯おたべ」
「ユーカ」
「うん?」
シオがユウカの服の袖をくんっと引っ張る。それから、ユウカとシユウのコアを交互に見た。
ソーマがイヤならユウカと半分こ、といった感じではない。金色の眼が切なげに歪められ、正に困っているかのような顔。
「アレ、イタダキマスするの、バケモノっていうのか?」
「……そうだね。人間じゃないのは事実だよ」
そんなことないよって言うのは簡単だけど、それはどんなに優しくてもどうしたって嘘だ。ユウカはシオを曲がり何にも一応、育てているようなものだから、嘘を教える訳にはいかなかった。
「でもそれを理由にシオを嫌いになんてならないよ。私も、ソーマさんやアリサたちもね」
「バケモノ、えらくないのに?」
まるで化物にはそんなこと許されない、と言っているようなシオに、ユウカは僅かに微笑みながら応えた。
「私はシオが明日突然暴れ出して人類の半数を消し飛ばしたって、怒るし叱るけど、どうしてそんなことしたのか理由が聞きたいと思うよ」
「どーして?」
「シオが良い子だって知ってるから。貴方の事を大切にしたいなって思うから」
言葉にしてしまえば、それは重みをもってユウカの双肩に圧し掛かった。今まで明言を避けていたけれど、そんな躊躇は今や必要なくなった。シオが重要な存在であるということが、最早無視できなくなったからだ。
「シオね、自分のじんき、出せるよ」
「うん」
「でもそれって、みんなはできないんだな?シオ、みんなとちがう」
「そうだねえ。でもそんなこととっくの昔に知ってるよ」
「バケモノってこと?」
「シオは私にとって、」
脇の下に両腕を突っ込み、そのまま猫の子みたいに抱き上げる。シオはその見た目通り、人間よりいくらか低い体温をしている。恒温動物である必要性はないからだろう。
体温を分け合う必要のない彼女に、人間とは温かいものなのだと教えるように。子ども抱っこしておでこを合わせた。
「最初からずっと、特別な女の子だよ」
シオに名前を呼ばれる度、ユウカは何度も何度も、もうたくさんだ、と思った。見て見ぬフリをするのは、もうたくさんだった。
シオは人間になりたいと願っている。ならその願いを叶えてやるのが、人間としての自分の責務である。
でも、今はもう一つ理由を見つけていた。