下手なモーニングコールは、当然だが聞こえなかった。ソーマは自力で起床して、もぞもぞと病室のベッドで胎児のように丸まった。寝てるときに身を丸めてしまうのはソーマの昔からの癖だったが、まさか起きてすらすることになろうとは、仄暗い布の中で苦笑する。時間が経てば機嫌が直るのではと期待したが、この分では時間がかかりそうだった。
溜息を堪えながら体を起こし、今が何時か確認しようとしたその時、自動で開くはずの扉が勢いよく開いたかのような感覚を覚えた。
「グッモーーニン!やっと起きたんだねシックザールくん!」
もしかしたらという期待を見事に打ち砕いた、昨日の青年が犬っころのように飛び込んできたからである。
「いやあの時はほんとに悪かったね。なんせまだアラガミが生まれるところ見た事なかったから驚いちゃってさ」
騒々しい。彼女と同じくらい、いや鬱陶しさでは彼女の完全勝利だが、それくらい喧しい。おそらく彼女とこの青年はハイテンションじゃなきゃ喋れない人種なのだろう。ソーマとはおそらく種族すら違うに間違いない。
「あっ、自己紹介を忘れていたね。ボクはエリック。エリック・デア=フォーゲルヴァイデ。エリックでいいよ」
「そうか、フォーゲルヴァイデ」
「君、意外とノリが良いね……」
顔を引き攣らせるエリックを尻目に、ソーマは舌打ちしたい衝動にかられた。彼女がここ一ヵ月、ずっといたから。似たような空気を持つエリックに重ねてしまうのだろう。苛立ちのまま眉根を寄せ、口を引き結ぶ。
「まあとにかく、あの時はどうもありがとう。助かったよ。悪かったね、傷を負わせてしまって」
サングラスの奥にあるブラウンの目が僅かに細められる。おそらく、後悔しているのだろう。かなりパンチの効いた格好をした男だが、脳内はそれなりに常識人らしい。――いや。そこまで考えてソーマは思考を止めた。一ヵ月共に過ごした彼女の事すらわからないのに。それ以外の人間を推し量ろうなど、できるはずかない。
「別に」
反射でソーマの口から言葉が滑り落ちる。やめておけ、と理性のストップを、ソーマは意図的に無視した。
「お前を助けたのは誤算だった。取るべきではない行動だった」
出て来る言葉はかつてソーマがそう考えていたかったこと、すべきだったこと。つまり、八つ当たりだった。そんなことをする自分に反吐が出そうだし、今すぐに彼女を探しに行きたかった。
「けど、君はボクを助けた」
飄々とそう口にするエリックに、ソーマは目を逸らした。
「結果論だ」
「それでも結果だ。いちばん大事なのは経過でもイフでもなく、結果だろう?」
成程道理だ。
ソーマはやっと、エリックとまともに視線を合わせた。赤茶の髪を好き勝手に跳ねさせ、売れないロックバンドのような恰好をした男だった。
「……なんでサングラスをかけてるんだ?」
「かっこいいだろう?」
薄々感じていたが、変わり者だろうと容易に想像がつく答えだった。そもそもソーマにわざわざ礼を言う時点で相当だ。
「それにしても五日ぶりだっていうのに、元気そうで良かった」
「……五日?」
「え、うん。気が付かなかった?君が気を失って、今日で五日だよ。昨晩計器に起床記録が残っていたってドクターに聞いて訪ねてみたんだ」
思わず馬鹿になったように言葉を反芻した。
―――『私も、いま起きたとこ』
すぐバレる嘘だ。端末を確認すればすぐにわかる嘘。そんなこと彼女にだってわかっていただろう。下らないと理解していて、それでも彼女は嘘を吐いた。何のためか、――そんなの、ソーマの為以外に何があっただろう。五日。そんなにも、ソーマは目を覚まさまなかった。
その間、彼女はどれほど、どんな気持ちで、ここで起きるのを待っていたのだろう。無機質な、消毒液の匂いが充満するこの白い箱の中で。
「……もし。もしも、特定の個人が傷つくことで、そいつじゃない誰かが傷つくとしたら。それはどんな理由なんだ?」
口が勝手に言葉を紡いだ。自分の考えを整理するために形作られたそれは問いかけできていて、だからこそエリックは誠実にそれに応えた。
「きっとその誰かさんは、キミの事がとても大事なんだろうね」
「何故だ」
「ひとがひとを思いやるって、とても難しいことだよ。だって、ボクらは所詮他人だ、そうだろ?血が繋がっていたって、自分じゃないひとだ」
その言葉は冷徹で、真実だった。どんなに近しくても、親しくても、どうしたって相手は自分ではない人だ。血が繋がった父親でさえ、ソーマは理解されないし、したくもない。今までかかわってきた人間も、そう。
「他人の傷が痛いと思うのは、その誰かさんがキミのことを、自分の事よりもおもいやれているからだよ。キミが傷つくより、自分が傷ついた方がマシだと思ったからだ」
彼女に傷つく身体はない。涙を流す身体も、ない。それがどれほどにさみしいことなのか、ソーマには想像がつかないが。
「ひとは誰だって自分が大事だ、当たり前のことだ」
空は青く、太陽は昇る、それくらい当然の事だ、とエリックは柔らかく微笑む。
ソーマに彼女の事なんて何一つだってわからない。わからないが。
「だからこそ、自分より誰かをおもうのは、素晴らしい事なのさ。天候を思うままにして、太陽を空に縫い付けるくらい、奇跡的なことなんだよ」
その言葉が本当なら、真実ならば。
今彼女を想えているこの感情だけは、決して間違ってはいないはずだ。
*
月の綺麗な、晩が続いていた。朝も夜も嫌いだ。恐ろしいことが起こりそうな予感がするから。
幽霊になってよかったと思うことは二つある。一つは感情が大きく高ぶらないことだ。心臓もなければ胃も脳だってない。だから頭に血が上ることも脳の血管が切れることもないし、誰かさんの傷で胃が痛くなることも、痛む胸だってない。ない、ないのだ。この思考がどこから来るかわからなくとも、流れる血にない呼吸が止まりそうになっても、蹲る青年にのどが締め上げらるような感覚に陥っても。痛みなんて、ない。苦しくなんて。ない、ないのに。
『バカ。私の馬鹿。馬鹿すぎる……死んだほうがマシ……』
ここで、「もう死んでるだろ」という突っ込みがほしいところだが、完全なる自業自得によりその言葉が聞こえることはなかった。
幽霊は今日、馬鹿みたいなことを言った。どうしようもないことだ、わかりきっていたことを、わざわざ言った。見えている地雷の上を駆け回るような所業。全身吹っ飛ばされてお陀仏になっても文句なんて何一つ言えない身だった。体ないけど。
『………いたい』
全身――特に腹部が、燃えるように痛かった。お兄さんの部屋を飛び出してきてからずっとそう。どこもかしこも痛くて、動けないのだ。ほんとは今すぐ謝りに行きたいのに。足が凍り付いて、脇腹に火がついて、一歩だって踏み出せやしないのだ。ない身体が痛いってどういうことだ。ないんだからおとなしくしててほしい。痛覚なんてない。脳もない。身体もない。だから傷も火傷もするはずない。こんなのはただのファントムペインだ。なのに。
そもそも、会ってなんと、謝れば。
あの時の言葉は彼女の本心だった。紛れもない、今まで溜め込んで、飲み込んできた類の。不満、ではない。仕方のないことだった。いいやむしろ、彼の判断は最善だったとすら言えよう。
なのに、今更。今更、その線を踏み越えたいような顔を、あんな顔を、するから。
ふと目線を下げた先に石ころがあった。何の変哲もない石ころ。幽霊はそれに向かって思い切り拳を叩きつけた。八つ当たりだった。拳は石を通り抜け、地面に埋まる。八つ当たりさえまともにできない。それが、幽霊だった。
『……もう、いやだ……』
燃え上がる熱に苛まれるわが身を焼き尽くすのは、太陽ではなく、見守るような月だった。月光が幽霊を照らす。はかないスポットライトは、誰も照らし出すことはなかった。誰も。誰も。
そうやって、どれほどの時が経ったのかはわからない。そこは屋外で、時計なんてなかったし、月も太陽もまともに見上げなかったから。顔を上げようとも思えなかった。
ここがどこだか、幽霊はわからなかった。知る必要のないことだ。だって幽霊はもう二度とあの場所に、あのあたたかい部屋に戻るわけにはいかなかった。だってそもそも、
『いいトシして迷子とか』
我武者羅に飛び続けたので、そこがどこだとかは幽霊自身にだってわからなかったから。けれどきっとこれで良かったのだ。彼女は本来居てはならない存在、生きているひとに固執してはならない者なのだから。死人は死人らしく、この世を儚んでいればいい。あるべき姿に戻っただけ。だって最初から、
『なーんにも、ない、しー』
歌うようにそう口遊む。
灰色がかった青い眼を思い出す。駄目だよ、お兄さん。そんなに本気みたいな眼をしたら。こころを砕いたりなんてしたら。
『私みたいなのに、先なんてないんだから』
あぁ、今日も朝が来る。