おれがはかせの研究所に来てから、一週間が経った。
助手という名目で連れてこられたのにも関わらず、初日に「基本的に自由にしてくれていい」と言い渡されてしまっていたおれは、どうにかリサーチをして、研究所内での自分の仕事を見つけることに成功していた。
その仕事というのが、他でもない、掃除である。
根本的な問題として、はかせにはものを片付ける習慣がない。人里離れたねじ山近辺で、一人用には絶対に大きすぎる物件で暮らしていたことが原因だと思われるが、基本的にはかせはものを出したら出しっぱなしが当たり前の生活を送っている。
服や食器は言わずもがな、大切な研究資料であるはずの書籍や論文でさえ、元の位置に戻すということをしない。そもそもそういう思考回路が存在していないかのように、使用するたびに置く場所がころころと変わっていくのだ。
はかせはそれで特に困っていないらしいが、元々几帳面な性格のおれにはその適当さ加減がどうにも許せず、はかせに代わってものを片付けることを、己が使命として課したのだ。
すでにこの五日間ほどで、「研究室」と「生活スペース」をあらかたやっつけたおれの今日の戦場は、「それ以外」に区分される部屋の一つ、物置きである。
研究所の隅の方に位置する物置きには、おそらくここにはかせが引っ越してきたときに運び込まれて、そのまま放置されたのであろうダンボール箱が、大量にひしめき合っていた。おれの背丈を上回るほどに積み上げられたダンボール箱の山は、デパートの倉庫のような圧迫感を生み出しており、これまでのどのエリアよりもおそらく難敵であろうことがわかった。
時刻は朝の九時。
おれははかせに許可を取り、早速その難敵を切り崩しにかかった。相棒のコジョンドがダンボール箱を運び、おれはカッターナイフを使って箱を塞いでいるガムテープを切り開いていく。一年共に旅をしてきたおれとコジョンドのコンビネーションは完璧で、初めは城壁のようにも思えたダンボールの山は次々と陥落し、中身は分類されて然るべき場所に収まっていった。
遠くの方では、コジョンド以外のおれの手持ちと、チラチーノをはじめとするはかせのポケモンたちが仲良く遊んでいる声が聞こえてくる。
箱の中身は、何に使うのやらよくわからない実験器具の他は、ポケモンフーズやインスタント食品などの日用品がほとんどで、使い道に困るということはなさそうだった。そのおかげもあって、昼過ぎには室内のほとんどのダンボールは開封し終わり、ぎゅうぎゅう詰めだった物置きも、だんだん床が見えるようになってきていた。
おれがそのダンボール箱を見つけたのは、室内のダンボール箱も残りわずかとなって、ようやく戦いの終わりが見えてきたというときだった。
他の大量のダンボールに埋もれるようにして収まっていた、明らかに他のものよりも使い古された様子の、ぼろぼろのダンボール箱。角の辺りは擦り切れて丸くなっており、何度もガムテープを貼ったり剥がしたりしたような痕跡がそこかしこに残っていて、通販で買ってそのままになっていたような他のダンボール箱とは明らかに異質な気配を放っている。
これははたして、開けてもいいものだろうか?
何やらプライベートなにおいのするダンボール箱の登場に、おれはわずかに尻込みをする。はかせに直接聞ければ早いのだろうが、今日に限って彼は朝方から出かけていってしまっていたので、その選択肢は選べない。かといって、はかせが帰ってくるまで物置きは放置、というのもなんだか気持ちが悪い。
一応許可はとってあるのだから、開けても構わないはずだよな……?
心の中で自分に言い訳しつつ、おれは思い切ってカッターナイフを入れ、そのダンボール箱を開いた。
箱の中身は、思った通りはかせの私物だった。入っていたのは、山男が使うような本格的なバックパックが一つと大きめの寝袋、数冊の
中身を丁寧に取り出し、選り分けていく過程でおれの目に留まったのは、日誌と銀色の金属ケースの二つだった。金属ケースの方は、長財布くらいの大きさで、古いもののはずなのに光沢が陰っていない高級感のあるものだった。
「これって、もしかして」
おそるおそる開いてみると、予想通り、ケースの中に収められていたのは、異なるデザインの八つのバッジ――
おれの持っているバッジとはデザインが違うので、どの時代の、どの地方のものなのかまではわからないが、おそらくジムバッジで間違いないだろう。
かなり長い間置きっ放しだったのか、バッジはかつての輝きを失ってくすんでしまっているが、見るものを惹きつけるようなジムバッジ特有の雰囲気は未だに健在だ。
おれはしばらくその場に立ち尽くして、そのバッジに見入ってしまう。
ジムバッジが八つ揃って同じところに存在する光景は、そうそう見られるものではない。理由は単純で、それくらいバッジの制覇者というものが少ないからだ。ポケモントレーナーの中でも全てのバッジを揃えられるのは一握りのエリートだけ。誰でも手に入れられるものではないからこそ、コンプリートされたジムバッジとはそれだけで大きな価値を持つのだ。
驚愕の一方で、おれはどこかで納得もしていた。一週間前の初邂逅。あのバトルではかせは、おれのギガイアスを相手にチラチーノを巧みに指揮して勝利を奪い去った。あのときは深く考えることはしなかったが、今から思い出してみるとはかせのトレーナーとしての技量はとても「バトルが趣味のおじいさん」では済ませられないレベルだった。
だが、バッジコンプリートの経験があるトレーナーだというのなら、説明はつけられる。おれは初見ではかせのことを格下扱いしたが、本当ははかせの方がトレーナーとしておれよりもずっと格上だったわけだ。
「やべえ、そう考えるとおれってめちゃくちゃダサいな」
格上相手に舐めて力押しなバトルを展開した挙句、タイプ相性を引っくり返されて敗北する……。まるで初めてポケモンを貰って全能感に浸っている子供の所業じゃないか。黒歴史確定だぞ、くそ。
嫌なイメージを振り払うためにケースを閉じて、続いておれは日誌の方に目をやった。分厚い灰色の表紙で装丁された実用性の高いデザインの日誌は、昔から多くの旅のトレーナーに愛用されてきたクラシックモデルのものだった。
数冊あるうちの一冊を取り出し、目を通す。表紙のところには小さく「ニゲラ」と名前が書いてあった。ほとんど呼んだことはないが、これははかせの本名だ。中身は若かりし日のはかせが旅に出てからの日記とバトルの記録を兼ねているようで、どのページも上から下までびっしりと文字が書き込まれている。日記ははかせの一人称視点で描かれており、いろんな登場人物が登場していたが、その中でもことさらに目についたのは、「メア」という固有名詞だった。
人間なら女性の名前だが、日記の記述を見る限り、ポケモンのニックネームだろう。文章の端々からは、はかせがメアに向けていた愛情や信頼が読み取れて、彼と彼女はよき相棒同士だったことがうかがえる。
おれは日誌を読み進め、はかせの旅路を頭の中に思い浮かべる。
はかせは才能に溢れたポケモントレーナーだった。ポケモンと心を通わせることに長け、バトルにおいては直感的に最良の選択を下すことができた。ただ、彼はどんなポケモンを指揮してもその能力を十全に引き出すことができたが、彼が関わった多くのポケモンの中でもメアの存在は別格だったようだ。
旅を始める以前のはかせの記述はないが、察するにメアは、はかせの最初のポケモンだった。共に多くの時を過ごし、多くの困難を乗り越えた間柄だったのだろう。あるいはおれとコジョンドのように、幼い頃から兄弟のように育ったのかもしれない。
はかせはメアと始めた旅の中で、やがて仲間を増やし、ひとつ、またひとつとジムバッジを入手していった。はかせは旅を始めて二年という短さで、全てのジムバッジを手に入れた。ジムバッジの制覇は一流トレーナーの証であり、ポケモンリーグというトレーナーにとっては最高の舞台への挑戦権が与えられたということでもある。はかせはその舞台に上がるため、チャンピオンロードに挑む準備を整えた。
この頃のはかせはかなり野心に溢れたトレーナーだったようで、日誌には今のはかせからは考えられないような不遜な言葉もうかがえた。
『
驚くべきことに、はかせがチャンピオンロードに至った年齢は、現在のおれよりもさらに年若い頃だったようだ。トレーナーズスクールにも通わず、独学で旅に出たクチなのだろう。はかせはまさに有頂天だったに違いない。才能と直感で、自分よりも経験豊富なトレーナーを打ち負かす快感は、おれもよく知るところだった。
そして、おれと違って折れることも曲がることもなかったはかせは、強烈な野望を抱いたままチャンピオンロードに挑み、――。
「――あれ?」
そこから先のページは、白紙だった。ぺらぺらとページをめくってみても、日誌にはそれ以上の記述はない。明日いよいよチャンピオンロードに挑むのだという無軌道な興奮を書き連ねたページで、はかせの旅の記録は終わっていた。
おれは日誌から顔をあげ、前方の虚空を見るともなく見た。
日誌を頼りに思い描いていた想像を補完するように、若かりし日のはかせの「その後」を推測してみようとする。
日誌の終わり方と、はかせの現状を考えれば、答えはひとつだ。つまり、
――間違いなく天才ポケモントレーナーだった彼に、ポケモンリーグ挑戦を諦めさせてしまうような、何かが。
「……」
おれは日誌を置き、物置きの入り口に目をやる。
相変わらず遠くからポケモンたちの遊ぶ声が聞こえてきているだけで、人の気配はしない。
はかせはまだ、帰っていないのか。
おれは日誌を元に戻し、物置きの片付けを再開した。
★★★
はかせの研究所に滞在して、そろそろ二ヶ月が経とうとしている。
すでに冬は去り、研究所がある7番道路では、地面を覆っていた分厚い雪が溶け始めて、春の気配が漂っていた。
研究所へ来た当初は、フキヨセシティでのジム戦とはかせとの野良試合での思わぬ連敗によって、トレーナーとしての自信を失いかけていたおれだったが、研究所での規則正しい生活と、ねじ山での訓練を繰り返すうちに、調子を持ち直すことに成功していた。手持ちのポケモンたちも、一年間の旅路で溜まっていたストレスを解消できたようで、最近は皆すこぶる調子がいい。
だけど、いや、だからこそ、おれはいつまでも、この場所に留まっているわけにはいかない。
今の季節なら、ねじ山を攻略するのも二ヶ月前ほどには苦労しないだろうし、二ヶ月の掃除代行で、はかせに対する借りもしっかり返済できていると思う。ならば、いわゆる潮時というやつだろう。
「……さて、いくか」
この研究所を発つときが、やってきたのだ。
お別れの挨拶をするために、はかせを探す。
朝なので本来なら寝室にいるはずなのだが、ここ最近のはかせは何やら忙しく研究にのめり込んでいるようで、研究室で寝ていることも多かった。
金属製のドアをコンコンと二回ノックして、室内に呼びかける。
「はかせ、起きていますか?」
返事はない。
室内にいることは確かだと思うのだが、まだ寝ているのだろうか?
「はかせ、失礼しますよ」
ノブを回すと、案の定施錠はされていなかったようで、ガチャリと音を立ててドアは開いた。
相変わらず、紙類の散乱した研究室内はカーテンが締め切られて薄暗く、おれは電灯のスイッチを入れて明かりを確保した。
はかせは、ソファに身を投げ出して眠っていた。片方の手が縁からはみ出して床についており、とても寝やすそうな姿勢とはいえないが、よほど疲労が溜まっていたのか、はかせはベトベトンのように眠ったままぴくりともしない。
おれははかせを起こそうと思い、
「はかせ、こんなところで寝ていたら、腰を悪くしますよ」
それでも起きないはかせの体を、今度は両手で揺すって、強く呼びかける
「はかせ、起きてください」
すると、ばちり、と音がしそうなほどの勢いではかせが目を開け、がばっと身を起こした。周囲をきょろきょろと見回し、おれを発見すると、おれが何か言うより早く、摑みかかるようにして叫んだ。
「完成した!」
「は、はかせ。どうしたんですか、急に?」
「聞いてくれ、少年! 完成したんだよ、『テレパシー装置』が、ついにできたんだ!」
要するに、そういうことらしい。
はかせはここ数週間の没頭の末に、ようやく彼の研究目標である、外付けの精神感応補助装置「テレパシー装置」を形にすることに成功したのだ。
「すごいじゃないですか、はかせ!」
「うむ、ありがとう」
はかせはいつもの五割増しくらいの笑顔で、にこにこにことしている。全身から溢れんばかりの上機嫌だった。
「それで、その装置はどれですか?」
「これだよ」
そう言ってはかせが差し出した装置は、奇妙な形をしたヘッドギアのようなものだった。ポケモンに被せて、ほかのポケモンの戦闘経験を追体験させる「がくしゅうそうち」と似た形状で、いくつもの球形アンテナが飛び出ている。人の頭に合わせたものと、ポケモン用のとの二種類があるようで、二つ一組で使うもののようだった。
「片方を人間が、もう片方をポケモンが着用して使うんだ。それぞれの装置が使用者の深層意識を読み取り、装置間では精神感応の経路が結ばれる。理論上はどんな人間とポケモンの組み合わせでも、これでテレパシーを送受信することができるはずだ」
はかせは興奮した様子で、早口で説明をまくし立てる。
よく見ると両目の下には濃いクマが広がっており、髪は長い間洗髪していないためかボサボサで、肌もどことなく青白い。もともと小柄な見た目と相まって、生命感が希薄になっていた。
きっと徹夜で、何日も装置の開発に没頭していたのだろう。おれははかせを宥め、とりあえず一度寝かせることにした。はかせがシャワーを浴びている間にタオルと着替えを用意し、はかせがシャワーから出ると寝室に連れて行く。
ベッドに入った後もはかせは気分が落ち着かない様子で、目を爛々と輝かせながら、しきりにおれと話そうとした。いつも穏やかなはかせの豹変した様子に、おれは気圧されてしまう。
「少し休んだら実用実験を執り行うんだ。少年、きみにはぜひ実験を手伝って欲しい」
「えっと、実際にポケモンと精神感応するということですよね。でもぼく、何の役にも立てないと思いますけど」
「いや、手伝いと言っても、何か難しいことをしてくれというわけじゃない。側で見届けてくれるだけでいいんだ」
「まあ、見ているだけでいいなら……」
本当なら今日のうちにでも研究所を発つつもりだったのだが、はかせをがっかりさせたくないという気持ちが働いて、おれは気づいたら出発の日取りを延期していた。
おれが了承すると、はかせはほっとした様子でひとつ息をついた。
「誰で実験するか、決めているんですか?」
「ああ、うん。実験するのはぼくと……。そうだね、もう決めているんだけど、実験のときに話すことにするよ」
それだけ言い終えると、はかせはすぐに寝息を立ててしまった。
★★★
はかせが向かった先は、研究室でも実験室でもなく、研究所の最奥に位置しているまだおれが入ったことのない部屋だった。
というのも、この研究所に来た初日、はかせに研究所を案内される途中ではかせがおれに「この部屋には入らないでね」とわざわざ念を押した部屋だったのだ。部屋の掃除をするときも、おれははかせの言いつけを守り、この部屋に近づいたことはなかった。いわば、この研究所の「開かずの間」だったわけだ。
はかせはその部屋のドアの前に立つと鍵を取り出し、ガチャガチャと音を立てて解錠する。
「入っていいんですか?」
思わず訊くと、はかせは振り返って、
「うん。この中にいるポケモンと、テレパシー実験をするんだ」
おそるおそる足を踏み入れたその部屋は、研究所のどの部屋にも増して「明るい」部屋だった。四方の壁紙はおろか床や天井に至るまで、ステンドグラスのようなカラフルで不規則なパターンがあしらわれており、非現実的な雰囲気を醸し出している。
インテリアは少なく、部屋の中央に設置されたポケモン用の小型ベッドの他には、いくつかクッションが転がっているだけだ。ほかの部屋の散らかりっぷりからすると殺風景とも言えるほど整然と片付いていて、はかせの部屋の主に対する思い入れのほどがうかがえた。
その、部屋の主――ポケモン用ベッドの上で丸まって眠る一匹のポケモンが、きっとはかせの言う実験対象なのだろう。
ピンク色の体表を持ち、頭部からは同じくピンク色のけむりを黙々と吐き出している特徴的なポケモン。そのポケモンは、ムシャーナだった。
ゆめうつつポケモン、ムシャーナ。イッシュ地方に生息するエスパータイプポケモン「ムンナ」の進化形で、人やポケモンの見る夢を食べるというかなりユニークな特徴を持つポケモンだ。おれの故郷のサンヨウシティからほど近い、「夢の跡地」と呼ばれる廃研究所では、ムンナがよく出没していたということもあり、おれにも馴染みのあるポケモンだった。
「――メア」
いつか、
このムシャーナが「メア」なのだろうか。はかせの最初のポケモンで、共に旅をしたというあの?
ムシャーナがベッドの上で身じろぎをし、目を瞑ったままふよふよと浮かび上がる。
ムシャーナは基本的に瞑目しているポケモンで、覚醒と睡眠の境界が存在しないとも言われている。常に夢を見つつ、目覚めてもいるポケモン。ムシャーナはいわば、夢と現実のはざまに生息しているポケモンなのだ。
とはいえ、今のムシャーナはどちらかといえば覚醒寄りの状態だろう。先ほどよりも意識がはかせとおれに向いているのを直感的に理解できる。
「ああ、いいよ。そのまま、無理はしないで」
はかせは、彼の声に反応したムシャーナを制止して、その頭部にポケモン用のテレパシー装置を装着していく。
「少しくすぐったいかもしれないけど、我慢してね」
その手つきは過剰なほどに丁寧で、はかせがムシャーナを大切に思っていることが伝わってきたが、おれは同時に違和感を覚えていた。はかせのムシャーナに対する態度は、おれがコジョンドに向けるような対等な相棒に対するものというよりは、親が子を慈しむようなものだったからだ。
「少年、それを渡してくれ」
はかせに言われ、おれは手に持っていた人間用のテレパシー装置をはかせに手渡す。手早く装置をつけ終え、はかせはムシャーナの正面に座り込む。これで実験の準備は、全て完了だ。
「はかせ」
「うむ、それでは、――これより実験を開始する」
はかせの宣言から、しばらく沈黙の時が流れた。
おれは壁際に立って、少し緊張しながら実験の成り行きを、見つめ合う一人と一匹の姿を見守っていた。
チクタク、チクタクと、部屋にかけられた壁時計の針の音が、やけに大きく聞こえる。部屋には厳粛な雰囲気が漂い、この場ではどんな音も、神聖な静謐を汚す行為のように思えてくる。
おれは唾を飲み込むのもはばかられて、息を吐くのにさえ細心の注意を払わねばならなかった。
はかせは、瞬きもしないで宙に浮くムシャーナを見上げている。胸の中で一心に何かを訴えようとするその姿は、場の空気も相まって神に祈りを捧げる敬虔な信徒のようにも見えた。
五分を経過したあたりから、おれは胃腸が引きしぼられるような感覚を味わっていた。
果たして、テレパシーは繋がっているのか。実験は成功なのか。それとも、時間がかかって当たり前なのか。
はかせもムシャーナも相手から意識をそらそうとはしていないけれど、活発なコミュニケーションが交わされているようにも見えない。
うまくいってほしい。はかせの努力が報われてほしい。
この二ヶ月間、おれは一番近くではかせの研究する姿を見てきた。寝ても覚めてもテレパシーのことを考えていて、本当に研究が好きなんだなと思っていたけれど、今ならそれだけではないと分かる。
はかせがあれほど熱心になってテレパシーの研究に打ち込むことはできていたのは、きっとムシャーナのことをそれほどまでに愛しているからだ。研究者の好奇心だけでは説明できない、あの鬼気迫るような努力は、きっとムシャーナへの思いから来たものだった。
うまくいってくれ。繋がってくれ。
おれは心の中で祈って、直後にそんなことをしている自分に驚く。
スクールから人よりもポケモンと接して生きてきたおれが、まさか他人のために祈ることになるとは。しかも、二ヶ月一緒に過ごしただけの、年齢の離れた奇妙な老人のために。その程度には、おれはこの老人に敬意を抱いているということだろうか。
チクタク、チクタク。
時間は経過する。
はかせは、決して目を逸らさない。ムシャーナも、はかせから意識を外そうとはしない。
繋がっているのか、いないのか。じりじりとした焦げ付くような沈黙が、肌を焼く。
しかし――。
目だけを動かして、おれが壁時計を見た。すでに開始から三十分が経過していた。全てが静止したような部屋のなかでは、無限にも等しい体感だった。
限界だ。流石にそろそろ、声をかけるべきだ。
おれはそう判断して、声を出そうとした、そのとき。
ばっ!! と、白衣の裾を翻して、急にはかせが立ち上がった。
「は、はかせ……?」
はかせは俯いていた。被ったテレパシー装置が陰を作って、表情は見えなかった。
はかせは震えていた。雪の寒さに耐えるように、静かに震えていた。
おれは、はかせを呼び止めようと思った。だけど、おれが動き出すより先に、はかせは荒々しい足取りで、開かずの間を後にした。
おれは呆然とはかせの背を見送った後、ムシャーナの方に目をやった。
相変わらず閉じたその双眸で、彼女はじっと、はかせの残像を見つめているようだった。