テレパシー実験は失敗だった。
はかせはムシャーナと、テレパシーで繋がることはできなかった。装置は正常に作動していたにも関わらず、はかせはただの一言も、自らの心の声をムシャーナに届けることはできなかったのだ。
はかせは、この結果に相当ショックを受けたようだった。
おれは、はかせは自分が完璧だと思っていた装置が完璧でなかったことにショックを受けたのだと思っていたが、どうやらそうではないようだった。原因が分からなければ、おれも慰めることはできない。
はかせはそのその日以降次第に元気を失っていき、活動的ではなくなっていった。四六時中ぼおっとしていることが多くなり、毎日行っていた研究もせず、テレパシー装置を持ってムシャーナの部屋に入り浸ることもしばしばだった。まるで一気に十年くらい歳をとってしまったみたいで、少年のように目をきらきらと輝かせてテレパシーについて熱弁を振るっていた彼とは、別人のようだった。
おれはそんなはかせを、見ていられず、出発の日取りをさらに延長して研究所に留まることにした。
しかし、おれの努力もむなしく、はかせは日を追うごとにムシャーナの部屋から出てこなくなり、やがて一日中閉じこもるようになってしまった。研究所に残ることを決めたところで、おれがはかせのためにできることは多くなかったのだ。
なぜおれはこんなにも無力なのだろう。はかせに元気になって欲しいだけなのに、そのささやかな目標はいまのおれにとって果てしなく遠いものに見えた。
理由は、わかりきっていた。おれがはかせのために何もしてあげられないのは、はかせという人間のことを、おれが何一つ知らないからだ。
結局、それが答えだった。おれははかせのことを何も知らない。はかせがなぜ大きなショックを受けているのかも知らないし、はかせがなぜテレパシーを研究していたのかも知らない。なぜほかのポケモンはモンスターボールに入れているのに、ムシャーナには部屋を与えているのかも、なぜおれみたいな生意気な少年を助手という名目で研究所に留まらせてくれているのかさえ、おれは知らないのだ。
せいぜいが、物置きにあった旅の日誌を盗み見たくらいで、おれははかせの内面についてあまりにも無知だった。ポケモンバトルでもそうだが、知っているということは大きな力だ。翻って、無知とは無力なのだ。だから、おれがすべきこととは、まずは自分の無知を自覚することだ。
おれははかせの何を知っているのか?
バッジを八個所有するエリートトレーナーであること。テレパシーの研究をしていること。研究内容のことになると話が長いこと。片付けが苦手なこと。陽気な性格で、バトルが趣味であること……。
どれも薄くて軽い情報ばかりだ。知ろうと思えば誰でも調べられる程度の、表面的なことばかり。上部だけのデータなど、いくらあっても今この場では役に立たない。
ならば、問いを変えよう。おれははかせの何を知る必要があるのか?
決まっている。彼の本質の部分だ。つまり、彼の欲望だ。はかせは本当は何が欲しくて、それはなぜなのか。彼が胸の内側に抱えている原動力を知らねばならない。
そのためには、いくら遠くから眺めていても仕方がない。
レントラーの巣穴に入らずんばコリンクを得ず。
大切なことは、本人に直接訊くしかないのだ。
おれはムシャーナの部屋から出てきたはかせを捕まえて、リビングルームで向かい合った。憔悴した様子のはかせを真正面から見つめて、単刀直入に問いかける。
「はかせ、本当のところを教えてください」
「……どうしたんだい、急に、改まって」
「あなたが、そこまでしてテレパシーの研究にこだわる理由です。おれには、あなたが純粋な興味だけでその研究をしているようには見えません。何か、別の理由があるんですよね?」
「なぜ、そう思う?」
「はかせ自身の言葉です」
「ぼくの言葉?」
「おれをここに連れてきた日、あなたは言いました。研究者にとって失敗は苦痛ではないと。失敗は前進と同じ意味なのだと。でも、今のあなたはまるでバトルに負けたトレーナーのようです。前に進むことを諦めて、うずくまってしまっている敗者のようだ」
「……なるほど。よく覚えていたね、そんな世間話を」
「スクールの授業と違って、あなたの話は面白かったですから。少し長いのが玉に瑕ですけど」
「……そう、か」
「はかせ、気づいていますか。今のあなた、今にも死にそうな顔色をしていますよ。あの日からずっとそうです。ろくにご飯も食べないで、このままでは本当に死んでしまう。おれはそんなのごめんですよ。はかせ、お願いですから、はぐらかさずに本当のことを教えてください」
最後の方は声が震えて、うまく言葉にできなかった。
おれは、生まれて初めて誰かに心の底から懇願をしていた。スクールのクラスメイトはおろか、両親にだってこんなに真剣になって何かを訴えた経験はない。本気で人と接するということが、こんなに怖くて緊張するものだなんて、おれは全く知らなかった。
「……」
「はかせ!!」
なおも黙りこくるはかせに、おれは思わず大声をあげていた。
おれははかせの肩をつかんで、言い募った。がりがりに痩せて骨と皮だけになった肩はいかにも頼りなく、なにかの拍子に壊れてしまいそうだった。
「お願いです。あなたの力になりたい。おれはあなたの話を聞いて、すごい人だと思った。尊敬できる人だと、おれには想像もつかない世界を知っている人だと思ったんです。でも、今のあなたはそうじゃない。弱々しくて、とても見ていられない。今のあなたには、他人の助けが必要なはずです!」
胸の奥から、伝えたいこと、言わなければならないことが、「いわなだれ」のように押し寄せてきて、それらを全部吐き出してしまうまで、おれは自分の口を閉じることができなかった。
言いたいことを全部言い終わって、おれが息を整えていると、はかせが弱々しく笑って言う。
「参ったな……」
ずっと合わせようとしなかった視線を合わせて、目元に力を込めて。
「少年、ぼくはきみのことをずいぶんと見くびっていたようだ。今時らしい斜に構えた子だと思っていたが……」
息をひとつ、ふう、と吐いて、口角を上げて。
いつもとは違うぎこちない作り笑いで、はかせが言う。
「誠意には誠意で応えないといけないね。
おれは黙って、こくりと頷いた。
★★★
「ぼくとメア……ムシャーナが初めて出会ったのは、ぼくが五歳の頃だった。当時のぼくはカラクサタウンという田舎町に住んでいて、父と一緒に野生のポケモンが出る草むらによく遊びに行っていた。父の助けを借りて、ぼくが初めて捕まえたポケモンが、当時はまだムンナだった、メアだったんだ。
ぼくとメアはそれから、四六時中一緒に過ごすようになった。ぼくはメアを滅多にボールに戻さず、妹に接するように親しんだ。彼女もまた同様に、ぼくを気に入ってくれていた。ぼくらは初対面のころから、不思議なほどにフィーリングが合っていた。思えばこの頃から、ぼくと彼女は無意識のうちにテレパシーで繋がっていたのだと思う。例えるなら、そうだね……。きみの周囲に、双子はいるかい?」
「スクールのクラスメイトには、何組か双子がいました」
「結構。その何組かを思い浮かべてもらうとわかりやすいと思うんだが、双子というのはほかのどんな人間関係とも違う独特な関係だよね? 親や友人とも違う、完全に同じ遺伝子を分け合った者同士な訳だから。そして、双子には往々にして心の底で通じ合っているような特別な繋がりを見出すことができる。ホウエン地方にあるトクサネジムのジムリーダーなんかは、互いの心を読み合うような連携で精緻なダブルバトルを展開するというけれど、まさにそういった共鳴し合うような関係が、ぼくとメアにもあったんだ。ぼくらは言ってみれば、種族違いの双子だったわけだ」
「種族違いの双子、ですか」
「ああ。いや、むしろ一心同体と言った方がいいかな。ぼくらは互いに互いのことを、己が半身だと思っていた。生物としての『周波数』が合っていたんだね。人にもポケモンにも個体ごとに存在する、性格だとか好みだとか雰囲気だとかの細かい要素を決定づけている因子が、抜群に相性が良かった。そういうこともあって、ぼくは故郷じゃバトルは負けなしだったよ。ポケモンと深い部分で通じ合えるということは、より複雑な指示をよりスムーズに通すことができるということだからね」
おれはそこで自身のスクール時代を連想し、こくりと頷いた。
「今だからわかることだけど、ぼくはおそらく天然の感応者だったんだ。そのころはポケモンとの関係はそれが普通なんだと思っていたけれど、振り返ってみればぼくとメアの息の合い方は明らかに異常だった。十歳になったころには、カラクサタウンにぼくたちに敵うトレーナーはいなくなっていた。
ぼくとメアは自分たちの限界を試したいと思って、武者修行の旅に出た。各地のジムを巡り、ジムバッジを集める。そして、いつかはポケモンリーグにも挑戦する。あまりに漠然とした将来設計だったけど、当時のぼくらは不可能だとは考えていなかった。長い戦いになるだろうとは予想していたけれど、それでもいつかは頂点に立てる日が来るだろうと思っていたんだ。
ぼくらは順調に旅を続けて、ジムバッジを一つずつ集めていった。旅の過程で仲間も増えていったけれど、ぼくが最も深く繋がれるのは、相変わらずメアだった。不思議なことに、ぼくの感応者としての才能はメアと繋がることだけに費やされていたみたいで、メア以外の手持ちポケモンとの関係はいたって普通だったんだ。トレーナーとしての才能も、よくて並だった。戦術も知識も平々凡々としたものでしかなくて、だから、格上のトレーナーに追い詰められることもしばしばだった。それでも、どんなに苦しいバトルでも、メアを繰り出せば勝てないなんてことはあり得なかった。
メアとぼくなら、どんな相手にだって勝てる。ぼくとメアは天に選ばれた組み合わせなんだ。ぼくはそう思って、どんどんバトルにのめり込んでいったんだ」
はかせはそこで一度、カップに入った水を飲んで喉を湿らせた。瞳を揺らし、後悔の念に耐えながら、慎重に言葉を探っているようだった。
「……最初は、自分の可能性を試すことが第一だった。窮屈な田舎町から抜け出して、思い切り羽を広げて飛ぶことができればそれで良かった。ポケモンリーグという目標を掲げてはいたけれど、空気に流されて掲げていたというところが大きかったような気がする。チャンピオンという肩書きに憧れていたというよりは、多分、ポケモンとの絆を力に変えてそれで生計を立てるっていう在り方に憧れていたんじゃないかと思う。
だけど、当時のぼくはそういう自分の願望の細かい部分までは考えようとはしなかった。ぼくとメアに敵うやつはいないのだから、とりあえず進んで、つまらなそうだったらやめればいいと考えていた。そうして行き当たりばったりを繰り返していれば、いつかぼくの理想通りの場所にたどり着けると思っていたんだね。そのくらい、ぼくは完全に感応者の才能に頼りきりになっていた。才能に酔っていたとも言えるかな。それが絶対だと思い込んで、ほかの全てを疎かにしていた。その絶対性が崩れたとき自分がどうなるかなんて、考えもしなかった」
「旅に出てから二年が経って、ぼくは全てのジムバッジを集め終えた。その頃になってもぼくとメアのコンビネーションは未だに無敗で、ぼくは期待の天才ポケモントレーナーとして周囲から散々もてはやされていた。やっかみも当然あったけど、それ以上の称賛と羨望を向けられて、ぼくは気分がよかった。いつのまにか態度は尊大になって、生意気だと陰口を叩かれても、ならば実力で黙らせてみろとまで言うようにまでなっていた。思い出すのも恥ずかしい、ぼくの一生の汚点さ。あのときのぼくは、おそらくイッシュで最も嫌味なクソガキだっただろうね。でも、才能にあぐらをかいた勝利が、いつまでも長続きするわけはない。ましてや、ぼくは十二歳の子供でしかなかった。勝負の世界というものを理解しきれていない素人でしかなかった。だから、ぼくはその分大きな『しっぺがえし』を受けることになった。――チャンピオンロードでのことだ」
気づくと、はかせの細い手はふるふると細かく震えていた。表情は苦痛に歪み、瞳も記憶を掘り起こすことを拒否しているかのようにせわしなく揺れている。彼は、自分の記憶に怯えているようだった。
「ひとりのトレーナーに、出会ったんだ。背の高い男だった。黒いコートを着ていた。眼光鋭く、歴戦の強者だと一目でわかる雰囲気を持った、誇り高い戦士のような男だ。何が発端だったのかは思い出せない。ぼくらはチャンピオンロードのど真ん中でバトルをすることになった。
その頃のぼくは方々に名が売れていて、放っておいても多くのトレーナーにバトルを挑まれる身だった。嫉妬から挑んでくるものもいたし、ぼくに憧れていると言ったトレーナーもいた。ぼくはその全てを返り討ちにしていた。当時のぼくは、男もその中にひとりでしかないと思っていたんだ。
バトルが始まると、いつもとは状況が違うことに気づいた。ぼくの放つ策が、放つ前からことごとく潰されていく。まるで未来を見ているかのように、あるいは思考を読んでいるかのように、彼はぼくのポケモンたちを冷徹に着実に沈めていった。気づいたときにはぼくの手持ちはメアだけになっていて、でも、そのときはまだ余裕があった。メアさえ残っているなら、ここからいくらでも巻き返せる。それまでの経験則がそう励ましてくれたからだ。
だけど、男は一筋縄ではいかなかった。ぼくとメアに正面からでは敵わないと見るや、あらゆる搦め手を行使してメアにプレッシャーをかけ始めた。状態異常、弱体化系の技、固定ダメージ戦法や持久戦術まで、本当に恥も外聞もなくあらゆる手段を使って、メアという一匹のポケモンを全力で仕留めに来ていた。
初めて味わう怖さだった。男は、ぼくがこれまで戦ったどのトレーナーよりも泥臭く勝利に執着していた。彼だけじゃない。彼のポケモンもそうだ。彼のポケモンたちは皆ギラギラと目を輝かせて、メアを倒すことに命を賭けているようだった。
ぼくはその有様に恐怖し、それがメアにも伝染した。それがトリガーとなって、全てが崩れ始めた。今度はメアの恐怖がぼくに流れ込み、それが原因でぼくの中にさらに大きな恐怖が生まれる。一度負のスパイラルが始まったら、簡単には止まらない。ぼくとメアの間で恐怖の感情は加速度的に膨張し、ぼくから判断力を奪い、メアの機動力を麻痺させた」
「トレーナーとポケモンが精神感応で繋がった影響で、特定の感情が二者間で急激に増大することがある。『感情暴走』と呼ばれる、感応者に特有の現象だ。ぼくはこのとき初めてそれを経験した。何が起こっているのかすら把握できず、ぼくは混乱してしまった」
「早急になんとかせねばならない。目の前で、メアはついに男のポケモンにクリーンヒットをもらってしまっていた。ぼくは焦って、とにかくまずは判断力を取り戻すことが先決だと考えた。恐怖が流れ込んでくる頭の回路を閉じる。そうすれば、再びメアに冷静に指示ができるはずだと思った。ぼくは自分の頭の中のチャンネルというチャンネルを、めちゃくちゃに弄り回した。もちろん、あくまで感覚の中でそういうイメージだったというだけで、実際に脳をいじったわけではないけれど、ともかくその試みは、成功を見た。ぼくとメアを繋いでいた経路が切れて、ぼくは判断力を取り戻し、――引き換えに、五歳の頃に出会ってからずっと繋がっていたメアとのテレパシーを、ぼくは失うことになった」
「切った直後に、ぼくは直感的に理解した。今ぼくが切ってしまったものは、実はとても大切なものだったのだということを、心の奥で理解していた。一度切ったチャンネルは、二度と繋がらなかった。ぼくらのコンビネーションはがたがたになった。ぼくとメアが以心伝心だからこそ可能だったいくつものとっておきの戦術も、もう使えない。ぼくらはそのとき、すでに天才ポケモントレーナーとその相棒ではなくなっていた。そうなるとぼくは一介の、ただバトルが上手いだけの無個性なトレーナーでしかなかった。そんなやつはチャンピオンロードを見回せば、掃いて捨てるほどいた。男は急に弱くなったメアを訝しみながらも、何かの作戦かと疑い、徹底的に勝ち筋を潰す戦術で、周到にメアを痛めつけた」
「目の前でずたずたにされていく彼女を前に、ぼくは何をすることもできなかった。まともなトレーナーがそうするように、回避や防御を指示することも、パニックに陥った彼女をなだめることも、『降参』を宣言する事さえも。あのトレーナーが自分の判断で攻撃をやめてくれていなかったら、彼女はほんとうに、あのとき死んでしまっていたかもしれない」
「『スクールのガキでも降参くらいは言える。お前は本当に、バッジを八つ集めたトレーナーなのか?』」
「勝負が終わった後、あのトレーナーがぼくに投げかけた言葉だ。ぼくは何も言い返すことが出来なかった。彼の言っていることは、この上なく正しかったからだ。
ぼくがあのときすべきことは早々に降参を宣言することだったはずだ。勝ち負けよりも彼女の安否を優先するのなら、それが正答だったはずだ。なのに、ぼくはとっさにその判断が下せなかった。そしてぼくは、そのトレーナーから逃げ出すようにして、チャンピオンロードを降りた」
★★★
「メアは、ポケモンセンターに長期入院することになった。ドクターが言うには、メアは急所に深手を負っていて、完治は難しい状況だった。例え退院できたとしても、もう一生バトルをすることはできないだろう、と言われて、ぼくはぼくの中で、あんなに楽しかったバトルへの情熱が、急速に萎んでいくのがわかった。
ぼくはバトル自体が好きだったのではなくて、メアと一緒にするバトルが好きだったということに、ようやく気づけたんだ」
「ぼくはトレーナーをすっぱりと引退して、故郷に戻った。ポケモンセンターからメアを引き取り、自宅で世話を続けた。医療系のポケモンブリーダーに預けることも提案されたけれど、自分の半身として育った彼女を、人の手に委ねるのはどうしても気が進まなかった」
「トレーナーをやめてしばらくは、解放感があった。どんなに自信があっても、勝負事にはストレスがつきまとう。トレーナーを引退して、気を張り詰めなくてもよくなったぼくは、しばらくはのんびりと過ごすことができた。だけど、時が経ち、解放感がだんだん薄れていくにつれて、代わりに胸の中には寂しさが居座るようになった。いままでずっとメアが埋めてくれていた部分にぽっかりと空きができて、そこを寒々しい風が吹き抜けていくんだ。彼女と繋がっていられないのがどうしようもなく心細くて、夜も眠れなくなった。彼女が生きてさえくれればそれでいい。何度もそう自分に言い聞かせたけれど、彼女の心と繋がれないことの空虚感は心に穴をあけて、その穴は日に日に大きくなっていった」
「ある日、ぼくはとうとう耐えきれなくなって、両親に全てを話して学校に通わせてくれと頼み込んだ。研究者になるためだった」
「なぜ、研究者に?」
「チャンピオンロードでの試合でメアとの繋がりが切れたあと、ぼくはそれをどうにか戻す方法はないかと探し回ったんだ。書籍を読み漁り、その筋の研究者を訪ね歩いて得た結論は、現状その方法は存在しないというものだった。携帯獣心理学は人気の高い学問とは言えず、さらに精神感応の分野ともなると専門の研究者は数えられるほどしか存在しなかったからだ」
「それで、はかせ自身がその方法を見つけようと思った……」
「そうするしかなかった、という方がより正しい。幸いにも、トレーナーとして旅をした二年間で知り合った人たちから、色んな援助を受けられた。ぼくは大学を卒業して、研究に必要な環境を整えることにも成功した。そういう意味では、研究者としてもぼくは恵まれていた。研究活動の過程でかけがえのない友も何人もできたし、ポケモンたちとの出会いもあった。色んな地方を巡って、色んなトレーナーに話を聞いた。研究は進み、ぼくは前に進んでいった。
……白状するとね、テレパシー装置の試作機というのは、あれが初めてではないんだ」
「そうなんですか?」
「うん。これまで、百近くは試作したかな。その度に助手を雇って、実験を手伝ってもらったよ。もしも実験がうまくいったとき一人で彼女の心と向き合う勇気がなかったから、試作機の完成が近づくと外に出て、旅のトレーナーに声をかけるんだ」
「そうだったんですか……」
「だけど、それも今回で最後だ」
「なぜですか?今までも何度も失敗してきたのに、なぜ今回に限って諦めてしまうようなことを」
「……何度考えてみても、今回のテレパシー装置は完璧だったはずなんだ。ぼくの五十年の集大成だった。今回でだめなら、もうぼくにこれ以上のものは作れないと直感していたんだよ。今回こそはと、本当に久しぶりに期待したんだ。だけど、だめだった……。装置に原因があるのか、それとも彼女が心を閉ざしているのか、どちらだとしても、ぼくにはこれ以上手の施しようがない」
「だから、それは諦める理由には!」
「――寿命なんだ」
時が、凍りついたようだった。
おれはその言葉の意味を咀嚼するのに数秒をかけ、それでも飲み込みきれずに、はかせに訊ねた。
「いま、なんて?」
「寿命なんだ、彼女。ドクターが言うには、もともと後遺症の影響で長くはないはずだったけど、もういつ死んでもおかしくないらしい」
ぼくは応える言葉を持たず、目を見開いたまま無様に固まってしまった。
「彼女ともう一度だけ、心で繋がって話すことができたら。あの時のことを謝ることができたらと思って、今まで研究を続けてきたけれど、ぼくにはそれは過ぎた夢だったらしい。たくさんの人とポケモンに助けられてきたけれど、彼らに報いることも、もうできそうにない。全く、情けない限りだよ」
弱音と自虐は、精神の猛毒だ。はかせはいま、弱り切っている。最後の希望であったテレパシー装置ではメアと心を繋ぐことは出来ず、制限時間が迫る中で、もうこれ以上自分にできることはなにもないと諦めてしまっている。
おれは、彼の本音を聞くことは出来た。それで、次は? 本音を聞き出すことに成功して、その次はどうなる? おれに一体、何ができる? 半世紀の間戦い続けて、傷つき、弱り果ててついに膝を屈してしまったこの老兵に、おれは何と言葉をかけてやるのが正解なんだ?
「――……」
分かりきったことだ。おれにかけられる言葉なんてない。この人の半分も人生を生きていないおれみたいな若造が、ここでどんな言葉をひねり出そうと、そんなもので救われるほどこの人が抱えているものは軽くない。
立ち尽くすしかないおれに、はかせは弱々しい笑みを向ける。
「ありがとう。やっぱり人に話すと全然違うね。少し気分が楽になったよ」
そんなの嘘に決まっている。この人はいま、おれを励まそうとしている。満身創痍で今にも死にそうなこの老人は、この期に及んで自分ではなく他人の心配をして、おれに負担を押し付けまいとしているのだ。
唐突に、胸の内側に火傷しそうなほどの怒りが湧いた。何に対するものなのかは定かではない、衝動的で無秩序な怒り。今すぐ何かに向かって叩きつけて発散しなければ、気が狂ってしまうかもしれないという予感がして、でも、おれにはこの怒りを手放す資格はないのかもしれない、という気もする。おれは拳で何かを殴りつける代わりに、痛いほど両手を握りしめて、怒りがおさまるのを待った。
そして、決めた。
出発はやめだ。おれには、ここでやり残したことが多すぎる。
★★★
翌日から、おれははかせに許可をもらって、はかせの研究室の資料を読み漁り始めた。
はかせ自身が掻き集めた携帯獣心理学の専門書や、はかせが自分で書いた論文。研究室を埋め尽くすほど積み上げられたそれらを、はかせの努力の軌跡を追うようにひとつひとつ紐解いていく。
幸いにも、精神感応に関する基本的な知識を手に入れるのはさほど難しい話ではなかった。五十年の研究の末にはかせが纏めた論文はどれも読みやすく工夫されており、膨大な参考資料を無視してはかせの論文に集中すれば、それで基礎は出来上がるということに気づいたからだ。
問題はそのあとだった。
はかせとメアがテレパシーできない原因を特定するには、仮説を立ててひとつずつ検証していくしかないが、おれが思いつく程度の仮説は、そのことごとくがはかせの手によって反証済みだったのだ。
当然といえば当然だが、ひとつの研究に五十年もの歳月をかけた専門家に、一介の素人が一朝一夕で追いつけるわけはない。注意すべきなのは、はかせはそれでも、メアと心を繋ぐことはできなかったということだ。
それは、単にはかせの挑んだ課題が、五十年という時間では解決できないほど難しいものだということを意味しているのか。あるいは、どこかに見落としがあって、それさえなんとかすればクリアできるものなのか。仮に前者だとしたら、もうおれができることなんて、ほとんど残っていないだろう。はかせとメアが穏やかに最後の時間を過ごせるように、早々に研究所を立ち去ることくらいだ。
しかし、後者である可能性がわずかでも残っているのなら、おれはその可能性に賭けたい。ああ、そうだ。意味なんて無いのかもしれない。こんな努力をしても、もうとっくに世界のどこかで運命は決まっていて、何もかも手遅れで、次の瞬間にもメアに最期の時が来てしまうのかもしれない。おれのあがきは、何の実も結ばない徒労になるのかもしれない。だけど、そうだとしても。今はまだそうなっていないのだから、諦めることなんてできるはずもない。
かたわらで、未読の資料と既読の資料をより分けてくれているコジョンドを見やる。彼と最初にあったのは、夏休みに祖父の家に遊びに行ったときのことだった。ポケモントレーナーだった祖父に連れられて、草むらに入り、祖父のポケモンを借りて飛び出してきたコジョフーとバトルをし、自分でボールを投げて捕まえたのだ。
初めて自分でゲットしたポケモン。旅を始めてからも、ずっと一番の相棒だったポケモン。はかせにとってのメアは、おれにとってのコジョンドだった。
もしコジョンドが不治の病に侵されて、次の瞬間にでも死んでしまうかもしれないとドクターに宣告されたら? おれはその場面を想像し、胸が張り裂けるような痛苦に襲われた。耐えがたい悲劇だ。いまはかせが見舞われているのは、そういう状況なのだ。
「……そうだ、諦めるなんて、できるわけがない」
おれは両手で自分の頰を張り、気合いを入れ直した。
思考を切り替えろ。発想を逆転させろ。
おれはこれまで、はかせの論文を読み漁り、はかせと同じ文献を参照してはかせと同じように問題に対してアプローチしてきた。いわば、はかせの後追いをしてきたに過ぎない。だけど、それではだめだ。はかせと同じことしかしていないのでは、遅かれ早かれはかせと同じ結果になるのは目に見えている。努力の量では、五十年のアドバンテージを持つはかせに追いつけるはずもない。ならば、おれがすべきことは、努力の質を変えることだ。はかせの努力に欠けた部分を補うように、はかせと異なる視点から異なるアプローチで回答を導き出すことだ。
はかせが見たことのないもの。あるいは、はかせが忘れてしまっていたもの……。
頭をよぎったのは、物置きの奥でほこりを被って眠る、
「そうだ、はかせの旅の日誌」
あれならば、はかせとメアについてなにかおれの知らないヒントを与えてくれるかもしれない。前回読んだときは斜め読みだったし、テレパシーについての知識も持っていなかった。今読み返せば、何か見えてくるものがあるかもしれない。
おれは研究室を飛び出して、研究所の隅にある物置き部屋へと走る。一分一秒が惜しい。メアの命があとどれだけ持つかは、誰にもわからないのだ。はかせの気持ちを思えば、時間を無駄はできない。
物置きに入り、例の古びたダンボールを見つけると、おれは両手でそれを抱えてすぐに来た道を戻る。廊下を小走りに渡る途中で、視界に開かずの間のドアが入った。今日もはかせはあの中で、一人でメアの世話をしている。心を繋ぐことはできなくとも、せめて最期の瞬間には立ち会いたいという思いからそうしている。自分の一番の望みを放棄して、最善の結果を諦めて、妥協してしまっている。
誰が責められることでもないだろう。はかせが今まで積み上げてきら努力は、すべて彼自身の願いのためのものだったのだ。諦めたからといって、誰かに迷惑をかけるわけでもない。だから、はかせが諦めたことに関して、糾弾するようなことを言うのは完全に的外れだ。
だけど、ひとつの願いのために五十年もの時間を費やしたその結果がこれというのは、納得がいかないのも事実だ。だったら、おれが何とかする。自分の力で、納得のいかないものを納得のいく形に変える。それだけの話だ。
研究室に戻ったおれは、数冊に及ぶ分厚い日誌を、特にムシャーナの記述に注意を払いながら、冒頭から読み込んでいった。
五歳の頃から双子のように育った一人と一匹。彼らの間にあった関係がどういうものだったのか? チャンピオンロードでの戦いで繋がりが失われたのはなぜなのか? はかせが言うようにテレパシー装置に不具合がなかったのだとしたら、メアは本当にはかせに対して心を閉ざしてしまったのか?
日誌の文章から、彼らの辿った旅路を頭の中で再現する。記述の足りない部分はおれとコジョンドの関係性を当てはめるなどして補完し、手探りをするように想像の枝葉を伸ばしてゆく、伸ばしてゆく、伸ばしてゆく……。
「――あ……」
そうしておれは、その「影」を捉えた。