ある少女の追想
人間が嫌いだった。
楽しかった事も嬉しかった事もあるけれど、自分が幼い頃の自分の記憶を追想するとき、真っ先に思い浮かぶ感情はその一言に尽きる。
──何をやっても許されてきた。
他の子供を殴りつけても、おもちゃを奪っても、奪ったそれを壊しても、ごめんなさいと頭を垂れるのはいつも向こうの方だった。
それは何故か? 決まっている。
自分がその当時から
自分がいじめた親戚の子供が、その親に
どいつもこいつもくだらなかった。
力の前に正しさを曲げる子供も、力の前に間違いを許す大人も。
強い者に頭を垂れ、心にもない謝意や誠意を舌で弄する人間という生き物が自分は心底から嫌いで、しかし自分もまたそれと同じ人間であるという事実は抑え難く不愉快なもので。
その苛立ちを自分より弱い者にぶつけ泣かせた。
大嫌いな生き物を傷付けその心を踏みにじり、少しばかりの溜飲を下す。
それが自分のささやかな気晴らしであり、自分を囲む『大嫌い』に対する反抗だった。
自分も同じように反抗されるかも、とは考えていなかった辺り、幼かったとはいえ愚かだったと思う。
あれは何の集会だっただろうか。
自分の家………『本家』の屋敷に、いつものように血縁の者が集まった時の事だ。
いい加減に自分に近寄ろうとする子供がいなくなってきたような頃、その少年は自分に話しかけてきた。
初めて見る子供だった。
何かを自分に話しかけてきたが、どんな内容だったかは流石に今は覚えていない。
ただ、後はいつもの流れだった。
いつものようにおもちゃを奪い、殴りつけ、壊す。
するとその子供が怒り声を荒げ、それを聞いた子供の親が血相を変えて駆けつけて、早く謝れと我が子を
そして理不尽に震える生き物の泣き声なり謝罪なりを聞いて、少しだけ気を晴らしておしまい。
そのはずだった。
その少年は頑として頭を下げようとしなかった。
急かす声に怒りが滲み、叩く力に大人の本気が混ざり始めても、歯を食いしばって怒りに満ちた瞳で強く自分を睨みつけていた。
自分はそんな人を、この少年みたいな人を探していたはずだ。
間違いに対して間違いだと言えるような、間違いを前に自分を曲げないような、そんな当たり前の人を……人間として尊敬できる人を求めていたはずだった。
しかしその時の自分は、その目がどうしても気に食わなかった。
今まで怒られた経験も叩かれた経験もない自分は初めて経験する剥き出しの敵意に怯み、そして自分より弱いはずのくだらない生き物にそんな思いをさせられた事を腹立たしく感じてしまったのだ。
『おまえがあやまれ!!』
そう叫ぶ少年に歩み寄り、自分は考えた。
殴るのでは足りない。
こいつにはそれ以上の屈辱を与えたい。
いよいよ窮したらしい親に髪を掴まれ無理矢理頭を下げさせられようとしている少年の顔を正面から見据えて。
自分は、その顔に唾を吐いた。
人は本気で怒った時は顔から表情が消えるらしいことを、自分はこの時はじめて知った。
吹っ飛んだ────ように思う。
一瞬何が起きたかわからなくて、正気に戻った時には顔も頭も背中も全部が痛かった。
直後に自分にのしかかってきた重圧と、頭に降り注ぐ硬いものの雨霰。
後から聞いた話によると、自分は少年に顔を殴り飛ばされた後、馬乗りになって何度も頭を殴られていたらしい───必死に腕で顔と頭を庇い、やめて、やめて、ごめんなさい、と泣きながら何度も何度も謝った。
それは今まで自分が相手に言わせていた台詞だという事に、その時はまだ気付けなかった。
この時の少年の両親はさぞや顔を青くしていただろうが、しかしこの大喧嘩を止めたのは大人ではない。
自分の兄だ。
騒ぎを聞いて駆けつけてきたらしい兄が、自分に馬乗りになっている少年を思い切り突き飛ばしたのだ。
自分の上から少年が転がり落ち、解放された自分は思わず兄の背中に取り縋っていた。
その後はずっと兄の背中で泣き喚いていたので、この騒ぎがどのように鎮圧されたかは見ていない。
ただ大人たちの怒鳴り声や、必死で謝る男と女の声、そして少年の叫びと暴れる音だけがずっと続いていたのは耳が覚えている。
汚い人間いわく、自分は悪くないらしい。
冷静な思考能力を取り戻し、兄に事情を聞かれた。罪を告白する恐怖を知ったのもこの時だったはずだ。そして兄からも厳しい叱責を受け、
怪我をさせられた恐怖。悪に対する報い。
叱られる罪悪感。正しい事をした者が貶められる汚さ。
色んな初めての感情に翻弄され、その日は疲れ果てて眠った。
その日から、その少年の姿を見る事はなかった。
何とか謝りたくて親戚の集まりがある度にあちこちを歩いて探しても、彼はどこにもいなかった。
周りの大人は答えてくれず、ようやく家に姿を見せた彼の両親も口を閉ざしていたが、皮肉にも自分の「強さ」は有効だった。
だが、教えてくれてよかったとは思えない。
何度も頼み込んでようやく返してくれた『
人間は今も嫌いだ。
だけど、それ以上に自分が嫌いだ。
くだらないと睥睨していた人間たちと同じことをして一人の人生を狂わせた自分を。兄からの愛情を貪るだけ貪り、兄の背負っている苛烈な環境と孤独の冷たさに気付かないふりをしていた自分を、呪いすら込めて罵倒する。
そんな過去が夢に出たのは、始業式という節目と言うべきイベントのせいだったのかもしれない。
成長ホルモンがいつからかボイコットしたんじゃないかと思わなくもない矮躯を新たな制服で包む。髪型を整える際に、前髪を大きく掻き上げて『それ』を見つめる。
生え際の近くに刻まれている『それ』は、幼い頃に少年に刻まれた古傷だ。
普段は髪に隠れている、消えない自分の愚かさの証。
新たな場所で、新たな生活が始まる。
敬愛する兄が進学して家からいなくなった後も、自分は己を鍛え続け、《
正直それでもまだ足りないと思っているが、どうあれここがようやくのスタート地点だ。
誰からも愛されなかった兄に、その分の全ての愛を与えるために。
もう兄を独りにしないよう、隣に並び立ち支え合うために。
詫びることも償うことも出来なくなった過去に対して、せめて自分は変わったのだと言えるようになるために。