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『黒鉄一輝を学園から追い出せ』。
始まりは教師たちからのそんな頼み事で、自分はそれを快く引き受けた。
どんな事情があるのかまでは知らされていない。
ただ『出来損ないはこの学園に必要ない』という誘い文句は大いに嗜虐心をそそられたし、抵抗できないとわかっている相手を
Aランクのあいつと親しい仲だなんて話も聞いていたけれど、ただの噂話だと思っていた。
才能のあるヤツが落ちこぼれと馴れ合うなんて何のメリットもないだろうと、鼻で笑っていた。だって、才能のある自分ならそうするから。
出来損ないのFランクと本当に友達だなんて。
ましてここまで本気の
『ぎぃっっっ!?』
普段の彼の態度からは想像すらつかない苦悶の悲鳴。
王峰一真の
自分に完全なステルスをかける能力なんて何の役にも立たなかった。だって、逃げようとして透明になった瞬間、一帯をまとめて吹き飛ばされてしまったから。
『下らねえ奴とは思ってたけどよお。まっさかここまで救いようの無えカスだとは思ってなかったわ』
ごり、と骨の擦れる音がする。
『がっっ……な、なんで、君が……っ!? あんな出来損ないを
『誰を何つったコラ』
一真が脚に力を入れた。
桐原静矢の太腿に、関節が1つ増えた。
『ぎゃあぁぁあああぁぁああああっっ!!?』
絶叫。激痛。
ただ折ったのではなく、周囲の肉ごと文字通りに潰したのだ。
桐原のズボンの股間部分を急速に濡らしていく血でも汗でもない温かな液体に、一真は鼻を摘まんで露骨に顔を
『うわ汚え。漏らしたのかよ、大丈夫か?』
『~~~~っ!!! ~~~~~!!!!』
───どの口で!!
そう言いたいが、勢いのまま喋ったらそのまま舌を噛み切りそうだ。
とにかく逃げなければならない。
助けはどの位で来る?
もう口だけでいい、謝るなり何なりして時間を稼ぐしかない。
ごめんなさい。もうしません。命令されたから仕方無かったんです。
ここまでやったのだからひとまず気は落ち着いているだろう。今のうちに思い付く限り頭を下げれば何とか……!
『いや、本当に大丈夫か? この程度で漏らしてたら、
え? と一瞬、感覚ごと思考が止まった。
『え じゃねえよ。テメェがイッキに開けた穴と同じ数お前を潰して、そっからが始まりに決まってんだろ。嘗めてんの?』
言い終わると同時、間断も躊躇いもなく一真は桐原を踏み潰していく。
足、腿、肩、脇腹。黒鉄一輝が桐原に射抜かれた場所を潰していく度、桐原は喉から血を噴き出しながら断末魔とすら言える耐え難い悲鳴を巻き散らかした。
そうしてスタートラインに立った桐原の姿は無残なものだった。
壊れた操り人形のような無様さで、血だるまになって地面に転がる。生命の本能がこれ以上の痛みは危険と判断して痛覚を遮断するという瀕死の
『お、お願い……! お願いだからもう、もうやめてぇ………っ!!』
後ろから聞こえた声に一真が振り返ってみれば、そこにいたのは1人の地味な少女だった。
桐原の
ガタガタと震えながら必死に訴えたその少女に、一真は平坦な声で問いかけた。
『……あ? 何。お前こいつの肩持つの?』
それだけで反抗の意思は潰えた。
少女が腰を抜かしてへたり込むのを見た一真は、ややばつの悪そうな顔をする。
流石に無関係な奴をどうこうしたりはしねえよと宥めているが、正直説得力はない。
『しっかしお前みてえな蛆虫にもこう言ってくれる奴がいるんだなァ。うん、感動したぜ。気分がいい』
『………う、あ……』
『で、だ。あの
さっきまでの激情とはうってかわって落ち着いた声だった。涙や鼻水や涎や血で顔がグズグズになった桐原が、さらに顔をグズグズにして絞り出す。
『やべで………、やべでぐだざい゛……。なんでも、なんでも言うごど聞ぎますがらぁ……っ。
痛い゛、も゛う痛い゛のは嫌だぁあ……っ』
『そうかいそうかい。じゃあ1つ言うことを聞いたら赦してやんよ。なんせ気分がいいからなァ。あのへたり込んでる
鷹揚に頷きつつ一真は笑う。
桐原から足を下ろし、血と体液にまみれた爪先を桐原の顔面の真ん前に差し出した。
『
屈辱だなどと思う余裕などない。
それだけでこの地獄から解放されるなら安いものだ。
動かない身体を必死に蠢かせ、差し出された一真の
『汚えな殺すぞ』
バギャッッッ!!!と、その爪先が直接、桐原の口内に蹴り込まれた。
全ての歯をへし折り、歯茎と顎を割り、喉を強かに突いて漆黒の鎧は口から引き抜かれる。
『お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛っっ!!?』
『あー
一応自分で言った事は守るのか、一真は今度こそ桐原に背を向ける。
恐怖で同じように失禁している少女の横を通り抜け、次なる目標のある方向に目線を向けた。
『さて、と。仕上げは教師共か……まともなのはユリちゃん先生と……後は……』
『カズくんっっっっ!!!』
桐原には見ている余裕など無かったが、生徒会はその時に駆けつけた。
彼女らがどんな顔をしていたのかはわからない。ただ、一真をカズくんと呼んだ声の主は、その叫びと同じように悲痛な顔をしていたのではないだろうか。
一斉に向けられる
ホールドアップの姿勢で生徒会の面々を見遣り、一真は苦笑いを
『……そんな顔すんなよ。正しいのはお前らだ』
桐原静矢の悪夢は、そこで終わった。
「うわぁぁあああぁあああっっ!!!」
決闘当日の早朝、桐原は汗だくで起床した。
少しだけ久し振りに見た夢だ。このところは落ち着いていたが、今日が決闘の日だという事実が少なからず影響しているらしい。
夢と
「……クソッ!」
冷や汗でずぶ濡れの服を叩き捨てるように脱ぎ、悪態をつく。
脳内に過るのは、頭にこびりついて離れなくなった試合の映像だ。
過去の試合と最近の試合。
王峰一真とステラ・ヴァーミリオン───Fランクと嘲っていた相手が、霞む程に遠いAランクを倒すという、この世の摂理を引っくり返す冗談のような光景。
今になっても信じ難いし、受け入れたくない。
そんなバケモノと自分が今日、戦わねばならない事が。
(………逃げてしまおうか)
そんな考えが頭を過るし、事実勝てない相手にはそうしてきた。
だが、今回ばかりはそれでは駄目だ。
こんな惨めさの中で生きるのはもう嫌なのだ。
ああ、でも。だけど。
恐い。怖い。
恐い怖い恐い怖い!!
「……大丈夫だ。いける。僕の《
形無い恐怖を正しい理屈で追い払うように桐原は自分に言い聞かせる。
自分を蹂躙する王峰一真の姿がそのまま黒鉄一輝に変わるようなイメージに、それでも苛まれながら。
◆
視界が揺れる。色彩が滲んだ絵の具のようにぼやける。水分を失った喉が砂漠のようだ。
いよいよ始まった《七星剣武祭》予選。
控え室の中で始まりの時を待っていた黒鉄一輝は、極限状態に陥っていた。
(落ち着け、落ち着け……)
心臓の上を押さえ一輝は自分に言い聞かせる。
出来る対策は全て整えてきた。
───ここで負ければ全てが終わる。
後は最善を尽くすだけだ。
───勝たなきゃ全部が無駄になる。
(…………───────)
足元がふらつき、思わず机に手をついた。
身体の感覚すらおかしくなってきた事実に、いよいよ自分に異常事態が起きていると認めるしか無くなった。
ショッピングモールでアリスに言われた……『貴方は痛みに慣れすぎている』と。
(これが、その『痛み』なのか────?)
「何つー顔してんだお前」
「っっっ!?!?」
心臓の鼓動に合わせて絡まる思考に横槍を入れる声。慌ててそちらを向くと、そこには王峰一真が立っていた。
「えっ、ちょ……いつの間に、何でここに?」
「ドアの音にも気付かなかったのかよ。大丈夫かなって勝手に入ってきたけど……重症だな、こりゃ。………怖いか?」
答える事が出来なかった。
遥か頭上にある一真の顔を、一輝は見上げることも出来ずに俯く。
そんな一輝の両肩を掴み、一真は諭すように優しく励ます。
「安心しろ。お前は皇女様に勝った。俺にも勝った事がある。そんで俺らはアイツより遥かに強ええんだぞ?
リラックスしろ。お前が負ける道理はねえ」
下手な励ましだった。
正直心は休まらないままだ。だけど、わざわざ自分を心配してここまで来てくれたという事実は有り難かった。
───大丈夫。心配いらないよ。
多少無理でもきちんと感謝と共に応じようと一輝は顔を上げて一真の顔を見上げる。
一真は渾身の変顔をしていた。
「…………、カズマ? 励ましてくれてありがとうと言おうとしていた僕の心は、その顔を見てどんな感想を抱けばいいのかな」
「冗談だから真顔やめろや。……ほら、これ見てみろ」
一真から投げ渡されたのは彼の携帯電話。
見てみろ、とは? 誰からの何だ?
困惑しながら見た画面に映っていたものは一真の渾身の変顔の写真であった。さっきと同じ表情である。
「───────」
「おい待てやめろ握り潰そうとすんな! 変えたばっかだって知ってんだろお前!!」
「知ってんだろじゃないよ本っ当に何しに来たんだ君は。まさかとは思うけどこんな小ボケをかますためにここまで来たとか言わないよね?」
「いやァ……」
「いやァじゃないよ! 見てたならわかるだろ
「あァ、ようやく吐き出したな」
苛つかせた甲斐がある、と。
やれやれとばかりの一言に、一輝は衝撃を受けた。
──今叫んだのは、自分か?
一真の胸ぐらを掴むこの手は、自分のものか?
自分は今、何を口走った?
「お前とことん愚痴らねえからなァ。外面は笑ってても、俺には空気入れすぎた風船に見えてたよ。戦ってる最中に破裂されてもつまらねえし、ここで割れてよかった」
「あ……ご、ごめん……」
「謝るな。言わせたのは俺だし、むしろもっと言った方が健全ってもんだ。……そりゃお前の苦悩は俺にゃわからないものが多すぎるけどよ、話してもくれねえって苦悩もこっちにはあるんだぜ」
するり、と一輝の手が一真の胸ぐらから離れ、一真は乱れた服を直す。
「力は抜けたか?」
「……………………」
「確かにお前にゃ全てがかかった戦いだし、しかもそれがこれっきりじゃなく長いこと続くときた。そりゃァ怖えだろうし、不安にはなるだろうけどさ」
あるいは、それは。
幼い頃から試練の中を生きてきた黒鉄一輝という少年が、ずっとずっと誰かに言って貰いたかった言葉なのかもしれなかった。
「そう悲観するんじゃねえよ。たとえ負けても、
『1年・黒鉄一輝君。2年・桐原静矢君。試合の時間になりましたので入場してください』
アナウンスが響き、一輝はリングへと続く扉を見た。
地獄に繋がっているのかというような威圧を感じていたその扉が、今はただのドアでしかない。
いよいよ始まるのだ。
やる事はやったと控え室から出ようとしていた一真の背中に、一輝の声がかかる。
「カズマ。最後に1つ頼んでいいかな」
「何だ?」
「………背中を、押してほしい」
目が丸くした一真の顔が、段々と嬉しそうな笑顔に変わる。
少し弾んだ足取りで出入り口に背を向け、一真は一輝の後ろまで歩く。
そして一真は、自分より随分と小さな背丈の少年の背中を、
「~~~~~~~行ってこい!!!!」
ドッバァァァアアアアアン!!!!と。
全力で。
ブッ叩いた。
「────~~~っっああ! 行ってくる!」
肺から酸素が全部吐き出されるような力。
押すというよりかは発射するような勢いに突き出され、一輝はその勢いのまま扉を開けた。
アリスに言われた。
貴方が貴方の心の悲鳴を、貴方の代わりに聞いてくれる人の存在に気付きますように、と。
あの時は困惑するばかりだったが、今ならその意味がわかる。
もう否定はしない。
恐いし、怖い。不安でしょうがない。
だけどそれでも、もう大丈夫だ。
背中に張り付いたこの痛みが、自分は1人じゃないと教えてくれるから。
この話でバトルに入れるって思ったんですけどね。そしてやっと最新刊が届きました。