第2話
いくら暦の上では春とはいえ、3月下旬の早朝はまだまだ肌寒い。
春休みがもう幾日で終わろうという今。一部の殊勝な者を除き、一般的な生徒はもう数回で終わりを告げる心地好い微睡みとの逢瀬を惜しみながらも堪能している頃だろう。新生活が幕を開ける直前の人々から発せられるどこか浮わついたような空気も、この時ばかりはまだ静寂に包まれていた。
どこかで小鳥がチチチと歌い、空は段々と太陽が存在感を強めていく。眠っていた人や営みが緩やかに目覚め始めるこの時刻に、明らかに熱気と運動量が違う者が2人いた。
アスファルトで舗装された道の上を2人の青年が疾駆している。
姿勢は低く、静止した空気を引き裂き、全身を全力で駆動させるその全力疾走は、一流のアスリートも目を剥く速度を叩き出していた。しかも登り坂も一切ペースを落とさず、曲がり角でも重心移動の妙で最高速度を保ち続けている。
一体何が彼らをここまで駆り立てているのかと疑問に思うだろうが、2人の形相を見れば2人が互いに走力を競い合っているのだと察しがつくだろう。
やがて2匹の駿馬は最後の直線に突入、ゴールに設定した彼らの住まう学生寮の入り口を遠方に目視した。
「─────────!!!」
「─────────!!!」
途端、さらに速度を増す2人。
重心を前方、身体の外に放り出し、倒れるように地を駆ける。
つむじ風を巻き上げ、されど静かに。足音を立てるような無駄なエネルギーは全て前方への推力に注ぎ込まれ、2人の身体を疾風の域に押し上げていく。
公式なルールに照らし合わせれば世界記録を軽々と塗り替える速度を両者ともに記録しているが───しかしこれは競走。
勝者と敗者が明確に決定するものであり、そしてそれは既に明らかになりつつある。
最後の直線に入ってから、片方がぐんぐんともう片方を置き去っていくのだ。
その片方も負けじと速度を上げるが、しかし相手の方が速い。着実にその差はひっくり返しようのないほど開いていき、しかし2人は欠片も速度を緩めることはなく、そして──────
「ッッッッア゛ーーーーーーーぃ!!!」
勝敗は決した。
直線で突き放した方が設定したゴールラインを跨ぎ勢いのままたっぷり20メートルはオーバーランしつつ、ヒトの言語として成立しているか甚だ疑問な勝利の咆哮を上げた。
そしてもう片方も1秒ほど遅れてゴール。天を仰いで荒い息を吐きつつ、先にゴールした方に並んだ。
「また、ここで、負けか……! やっぱり、ゼェ、歩幅の差は、ゲホッ、覆すのが、辛い……!」
「ハッ、ハァ、細い道、は、お前のが有利、だろ……! 最後で取り返せなきゃっ、俺にゃ、どうにもならん……おぇっ」
息も絶え絶えな喘鳴交じりの会話。
体内で生産された熱がひんやりとした空気にあてられ、2人の全身からは沸騰したような湯気が立ち上っていた。もはや脳内まで茹だりそうな体内熱だ。スポーツドリンクとは別に用意していた冷水を頭から被ったり、運動着の上を脱いだりとオーバーヒート寸前の肉体の温度を応急的に冷ましていく。
毎朝の日課である
聞くだけで心臓が破れそうな拷問だが、2人にとってはただの
だが、苦ではない。彼らが己の本懐を、己の目的を遂げるには、最低限このくらいはやらなければならないのだ。
朝の冷たい空気に対する感謝と共に、呼吸を整えつつクールダウンのストレッチを行う。
「そういやニュースでやってたよな。ヴァーミリオン皇国から皇女様がウチに入学してくるって。もう日本には来てんだよな? 多分」
「そうだね。歴代最高成績で首席入学の
「はー、そりゃこのクソみてえな学園もさぞかし安泰だろうよ。頭も素質も腕っぷしもトップクラスなんて逸材を手に入れたんなら」
「いや、
俺はそんなんじゃねーよ、と苦笑混じりの指摘にぞんざいに返答する男。
ストレッチを終えて程よい疲労と熱を残した身体の調子を確かめつつ、彼は遠くを眺めながらぽつりと呟く。
「………また春、だな」
「……うん。そうだね」
そのやり取りに込められた感情はただの感慨ではない。これから始まる生活は、彼らが希望を以て臨み、そしてそれを悉く否定された去年のやり直しなのだ。
片や社会ぐるみの理不尽で、片やそれに抗ったが故に。
無為にした、させられた無念と屈辱は新生活を前にした一般的な学生としては似つかわしくないものかもしれないが、耳障りの良さに何の意味があろう。
新たな始まりは誰にも等しく門戸を開く。
重要なのは、そこから前に踏み込む力だ。
「ようやくまともにスタートが切れるのかね、お前は」
「ああ。理事長が変わって体制と制度も一新された。ランクだけじゃなく実力を見てくれるなら、僕にもチャンスは平等にある」
「……お前の言う平等は重いな」
静かに拳を握り締める“持たざる側“の言葉の重量に、その背景をよく知っている“持って生まれた側“はそれ以上の言及をやめた。
《
そこまでの代償を支払ってようやっと手に掴めたのは、《七星剣武祭》───『選りすぐりの《学生騎士》が一堂に会し覇を競う祭典で優勝すれば学園を卒業できる』という、余りにも細い蜘蛛の糸。
だからこそ彼は腐らず、臆さずここまで耐えた。
糸を手繰るため鍛えてきた。
全てが敵に回った1年間、ずっと己の側に立ち続けてくれた友の────そして遠くない内に敵となる男の遥か高い位置にある目を見据え、“持たざる側“は握っていた拳をそのまま前に突き出す。
「やろう、
「……おう。その時には全力でブッ倒す。その結果お前の未来がどうなるとしても、それすら覚悟の上なんだろ? ───
想い続けてきた夢を躊躇わず潰すと言われてなお、もちろん、と口元に笑みすら浮かべて淀みなく言い切った彼の拳に、『カズマ』と呼ばれた男もまた、こつんと拳をぶつけた。
これから始まる新たな1年の幕開けに、そんな若者らしい会話と決意表明をしたのが数分前のこと。
学生寮に帰宅し自室に入ろうと玄関に手をかけた瞬間、耳を劈いた絹を割くような少女の悲鳴。しかもそれが聞こえたのは、まだ男1人しかいないはずのイッキの部屋。
────明らかな異常事態。
カズマを反射的に行動させたのは、胸糞の悪い1年間の経験だった。
「オイ何があった!?!?」
慌てて彼の部屋の前に駆けつけ、施錠してあったドアを蹴破って室内に乗り込んだカズマが見たものは──────
─────半裸の美少女の眼前で鍛え抜いた己の半裸を負けじとばかりにさらけ出す、誠実で実直であるはずの親しい朋友、
◆
《
己の魂を武装───《
古い時代には『魔法使い』や『魔女』とも呼ばれてきた彼らは、科学では測れない力を持っており、最高クラスならば時間の流れを意のままに操り、最低クラスでも身体能力を超人の域に底上げすることができた。
武道や兵器などでは太刀打ちすることすら叶わない、人の身を超えた超常の力。
今や警察も軍隊も、戦争すら
その1つが《魔導騎士制度》だ。
国際機関の認可を受けた
そしてここ、日本の東京都に東京ドーム10個分という広大な敷地を持つ『
若い
その破軍学園の理事長室に、同じように悲鳴を聞きつけた寮の警備員に痴漢として現行犯逮捕された2人は連れてこられていた。
皮のソファに座る煙草をくわえたスーツ姿の麗人、破軍学園理事長・新宮寺黒乃は、一連の騒ぎの経緯を一輝から聞き終えると───呆れた表情で言い放つ。
「……なるほど。下着姿を見てしまった事故を、自分も脱ぐことで相殺しようとしたと。アホだろお前」
「その時は紳士的なアイデアだと思ったんですけどね……。冷静になった今考えてみたらすんごい危ない人でした……」
「そもそもテンパったところで脱ぐかと言いたいが、ともあれ脱いだものはもうしょうがない。とりあえずお前の事情は理解したとして……」
黒乃は座った姿勢のまま首をぐっと反らし、一輝の隣にいる、一輝より遥かに高い位置にある男の顔を見上げる。
「で? その現場にドアを破壊してまで乱入したお前の言い分は何だ。
「俺まで痴漢扱いは無いんじゃないですかね」
床に立ったこの場にある何よりも高い所から、ドアを破壊した下手人である彼────
齢16、日本人であるはずのその身長はおよそ
「確かにドアをぶち壊しましたよ。しかも……あー、その、ちっと見ちまいましたよ。そこは言い訳しませんし、暴走しちまったのも認めます。謝るのは当然のことでしょう。
ただ、ただですよ? 勘違いだったとはいえ、俺は非常事態を収めるために行動を起こした訳でして。どこぞの誰ぞみたいにロクな考えもなく脱いだ奴と同列で怒られるのは違うんじゃねえかと思うんです」
「ちょっっっっとカズマ??? ここに来て自分1人が逃げるの??? 見損なったよ、今朝に感じた心の交流を返してくれないかな」
「ほざきやがれチビ助。俺は抗うぞ。俺はもう謂れのない罪なんぞに2度と負けはしねえ」
「おい。その気概は結構な事だが、お前はそもそも被害者が誰かを忘れてないか?」
あっという間に亀裂が生じた2人の内ゲバを遮り、黒乃はトントンと指でテーブルを叩く。
「考えてもみろ。突然見ず知らずの男が部屋に侵入してきて、あられもない姿の自分の目の前で衣服をキャストオフ。そこにお前みたいな強面のデカブツが玄関を蹴破って乱入ときた。
……さて、どこに『
「……………はい。返す言葉も無いです」
ぐうの音も出ない。聞くだけで戦慄ものだ。
返す刀で深々と抉られ縮こまる一真だが、一輝も一輝で己のやらかしたコトの重さを改めて自覚し肩を落としている。
「ステラさんには留学初日に申し訳ないことをしてしまったなぁ……。このことで日本を嫌いにならないでくれればいいんだけど」
「は? ステラ、って言やあ………あぁっっ!?
そういやあの顔、新聞で……!!」
「なんだ、2人とも知っているのか。まぁどこの新聞や局でも一面を飾っていたからな。
なら話は早い。誠心誠意謝ることだ。2人とも悪意はなかったとはいえ、下手をすれば国際問題になりかねん。理不尽に感じるだろうが、男の度量を見せろ」
「「………はい」」
男とはどうしてこう都合のいい時だけ利用されるのだろうか───
思わずそんなことを考えてしまいながら漏れそうになる溜め息を押し止めていた、その時だ。
「……………失礼します」
理事長室のドアが開き、彼女は現れた。
ウェーブのかかった紅蓮の髪に、制服をこれでもかと押し上げる女性としての身体のライン。
世界の誰を引っ張り出しても見劣りするだろう美しく整った顔の造形は、何の根拠もなく彼女が高みに位置する者だと理解させるには充分だった。
ヨーロッパの小国、ヴァーミリオン皇国の第2皇女────ステラ・ヴァーミリオン。
恐らくは泣いていたのだろう、目元を赤く腫らした