ジュリアはできるだけ口で呼吸しながら、女子トイレに押し入ったトロールを睨みつけていた。トロールの退治方法なんてものは教わっていない。そもそもトロールはそのあたりに徘徊しているような隣人ではないからだ。
「あたしが隙を作る。右側の洗面台に隠れて脱出しろ」
「ジュリアはどうするのよ!」
「汚えトロールなんかに噛みつくのは気が向かねえな。魔法でなんとかするか」
ホルスターから杖を抜く。有効な呪文を思い出せ。思考しろ、ジュリア・マリアット。ジュリアは奥歯を噛みしめた。
「無理よ、今度こそ死んじゃうわ!」
「一人は生き残る。そうすりゃ助けが呼べる。そしたらもう一人も生き残る。ほら、イージーなゲームだ」
そう嘯きながらも、手が汗ばんできたのをジュリアは感じていた。これが命がけ。これが、戦い。
その途端、杖からどっと熱が入り込んできて、ジュリアの心臓は跳ね上がった。熱は指先までまんべんなく広がり、脳天まで突き抜けて、全身を包み込む。杖がジュリアを促していた。
オリバンダー老人の言葉を思い出す。この杖の本質は闘争。
「オーケー、やってやろうじゃねえか」
ジュリアは牙を剥きだしにして笑うと、勢いよく手首を返し、トロールの小さな頭にとびきりの衝撃呪文を叩き込んだ。
「おら、来いよデカブツ。あたしはここだ!」
左斜め前へ二歩。半身を個室の壁に隠すような姿勢。これでハーマイオニーに棍棒は当たらない。
もう一発青い閃光を放つ。トロールは唸り声を上げて棍棒を振りかぶり――
「プロテゴ!」
ジュリアだけを残して、トイレの個室を粉砕した。
プロテゴは所詮盾でしかない。怪力を叩きつけられたジュリアの右腕には相応の負荷がかかっている。ジュリアはそれを、人狼の膂力で凌いでいた。内心は冷や汗がだらだらだが、不敵に笑って挑発してみせる。
ハーマイオニーが白磁の洗面台を潜ってゆっくりと出口に進んでいく。ジュリアはそれを横目に、杖を振り続けた。
「ディフィンド! そりゃ通らねえか。レダクト! だめだ、弱い。ステューピファイ! くっそ、分厚い面の皮しやがって、ファッキントロール。っと、プロテゴ! こっちだってガードは堅いんだ間抜け」
ハーマイオニーはトイレの中ほどまで進んでいた。千日手というわけではない。スタミナでは圧倒的にジュリアが不利だ。しかし、少しの間だけこのまま拮抗状態が続くなら、倒せなくても負けはしない。負けないなら、援軍が来る。援軍が来るなら、勝ちだ。
一瞬。そう、一瞬の慢心だった。
トロールが唸りながら、棍棒を横薙ぎに振り払う。計算外の動き。左から、右へ。ジュリアからハーマイオニーへ。
ジュリアに考える時間はほとんどなかった。咄嗟にジュリアはハーマイオニーの隣へ跳躍し、杖を傾けて無言で脆い盾を展開する。プロテゴは半球の盾を出力する。球は力を受け流す。つまり、軌道を変えられるはずだ。
そして、砕けた盾ごと吹き飛ばされた。
「ジュリア! きゃあっ!」
棍棒が洗面台を掠めて砕く音がした。ハーマイオニーの甲高い悲鳴が聞こえる。配水管から水が噴き出ている。頬が冷たい。
ハーマイオニーに揺さぶられて、自分が倒れていることに気づいた。
トロールが棍棒を振りかぶる。ジュリアは浅く息を吸って、吐き出した。ひどい臭いだ。
口の中を切ったらしい。頭を起こして血の混じった唾を吐き捨てると、ジュリアは右手で杖を構えた。杖腕が折れなかったのは幸いだ。杖が無事なのも幸いだ。つまり、まだ運は切れていない。ジュリアは諦めていなかった。
「プロテゴ。……っつう、響くじゃねえか」
ハーマイオニーに早く行けと促す。ジュリアに次の一発を押さえられる自信はなかった。だというのに、ハーマイオニーはジュリアに縋りついて、震える手で杖を構えている。
「ぷ、プロテゴ。プロテゴ。……プロテゴ!」
何度唱えてもハーマイオニーの前に盾は現われない。盾の呪文には相応の集中、相応の鍛錬、相応の覚悟が要求される。今のハーマイオニーにはどれも不足しているだろう。ジュリアは”もう一度”が成功することに期待して、杖を握りしめる。
その時だった。
見慣れた黒髪がトロールに飛びついて首を押さえ、もがき、何を思ったか鼻に杖を突き刺した。そして、痛みに暴れるトロールの、その手に握られた棍棒に向けて、
「――ウィンガーディアム・レヴィオーサ!」
浮遊呪文の光が走った。
トロールの棍棒が宙に留まり、そして頭へと落下する。ノックアウトだ。白目を剥いて倒れるトロールの向こうに、見慣れた赤毛が立っていた。
「あーあ……見せ場、取られちまった」
そこで、ジュリアの記憶は途絶えた。