ハリー・ポッターと獣牙の戦士   作:海野波香

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初めての医務室

 清潔なシーツと、消毒液と、ささやかに香る花の匂いが鼻をくすぐる。天井は白く、カーテンも白く、棚も白い。きっとここで白くないのは燭台の灯りだけだろう。潔癖を感じる空間だった。

 

 ジュリアは寝心地の悪い寝台の上で、光に右手をかざしてみた。動く。傷もない。腕には包帯が巻かれていたが、痛みはなかった。次は左手。こちらも動く。これといって異常は見当たらない。ホルスターは太ももに巻かれたままだ。両手をそれぞれの杖に伸ばし、抜き、構え、収める。良好。

 

 

「目が覚めて最初にとる行動が杖の確認とは、驚くべき冷静さじゃのう、ジュリア。まるでアラスター・ムーディのようじゃ」

 

 

 いつ現われたのかはわからなかったが、気配には気づいていた。隠す気もなかったのだろう。羊皮紙の匂いをかすかにまとった老人――アルバス・ダンブルドアがスツールに腰かけてジュリアを見ていた。寝顔を見られたのは少々癪だったが、そんな些細なことをぐちぐち言うよりも、気にすべきことがジュリアにはある。

 

 

「ハーマイオニーに怪我は」

 

「無事じゃよ。君は護りきった。まっこと、友情とは美しいものじゃ」

 

「そうか」

 

 

 ジュリアは上体を起こして、どこも痛まないことを確認してから、大きく背伸びをした。体の強張った感触から察するに、少なくとも丸一日は寝かされていたらしい。

 

 それから、ジュリアはダンブルドアを睨んだ。

 

 

「こういうの、監督責任っつうんじゃねえの」

 

「いかにも、君は聡明じゃな。ミス・グレンジャーと君を危険に晒してしまったのは、わしの監督責任と言えよう。すまなかった」

 

「……ってことは、ハリーとロンが危険に飛び込むのは想定内だったわけだ」

 

 

 ダンブルドアは何も答えず微笑んでいる。ジュリアは小さく舌打ちをした。

 

 母の言葉を思い出す。ダンブルドアの前で自分の本性を隠せる人間はいない。だから、ジュリアは取り繕うことなく、平然と悪態をつく。

 

 

「ファッキントロールはパンプキンパイのデリバリーには向かねえと思うがな。少なくともあたしのほうがいい仕事をする」

 

「そうじゃな、君にとって初めてのホグワーツで過ごす、友人とのハロウィーンを台無しにしてしまったことも詫びねばならん。君には頭が上がらんのう」

 

「……あんたには人狼の生徒を安全な場所に隔離する用意がある。そうスネイプ先生から聞いた。つうことは、父さんもその世話になったんだろ? その恩がある。だから、まあ……当分の厄介事はチャラにしといてやるよ。あたしに関してはな」

 

「ありがとう、ジュリア。君は実に愛情深い子じゃ」

 

 

 ダンブルドアは目をキラキラさせて、鷹揚に頷いた。そして、杖もなしに空中から水差しを取り出すと、グラスに注いで差し出した。ジュリアは小さく感謝の言葉を述べて、それを一気に飲みほす。口の中の傷も治っているようだ。

 

 魔法はすごい。傷を治す。水を生み出す。衝撃から身を守る。しかし、ジュリアにはまだ敵を打ち倒す魔法が不足していた。もし早々にトロールを片付けられれば、ハーマイオニーに怖い思いをさせずに済んだかもしれない。ジュリアは悔しかった。

 

 

「ディフィンドは表皮に傷をつけるだけだった。レダクトで砕けるほど棍棒はやわじゃなかった。頭を狙った失神呪文ですら今のあたしじゃトロールも倒せねえ」

 

「しかし、盾の呪文は見事に君とミス・グレンジャーを脅威から守った。知っておるかな、今は大人の魔法使いや魔女でも盾の呪文を使えない者が多いのじゃ。君は誇っていい」

 

「そんなんじゃねえよ」

 

 

 ジュリアはグラスを差し出して、水のおかわりをもらうと、また飲みほした。まだ戦いの熱が燻っているような気がしたのだ。水はよく冷えていて、少しレモンの風味がした。気が利いている。

 

 

「あんたには常に何かしらの考えがある。だからホグワーツで起こることに無意味なことは何もない。母さんの言葉だ」

 

「レイブンクローの才女で名を轟かせたミス・ムーアクロフトがそのようなことを言っていたとは、照れてしまうのう。耳が真っ赤になりそうじゃよ」

 

「だから、ひとまずあたしはあんたを信じてんだ、ダンブルドア。でも、信じる者がすくわれるのは足だけ。あたしはそういう世界も見てきた」

 

 

 ジュリアは寝台に体を戻すと、大きく息を吐いた。

 

 いつもジュリアの演奏に拍手してくれて、明日は賛美歌をとリクエストして、翌日に凍死していた浮浪者の老人。ジュリアがバイトで入ったばかりの酒屋で、長年勤めていた店員に売り上げを持ち逃げされ、酒浸りになった店長。ジュリアが店番していた本屋の常連で、いつか小説家になるのだと息巻いていて、詐欺の容疑で捕まったと報じられた青年。皆なにかを信じていた。しかし、力が足りなかった。

 

 

「ただ信じて空を仰ぐだけじゃだめだ。あたしには天に食らいつく力が必要なんだよ」

 

「ジュリア。今の君には十分すぎるほどの力と情熱がある。わしには眩しいくらいじゃ」

 

「その言葉は甘い蜜だ。あたしを絡め取って、固めて、止まらせちまう。……あたしは強くならなきゃいけねえんだ」

 

 

 ダンブルドアは相変わらず微笑んでいたが、瞳の奥には叡智と憂いが溢れんばかりに渦巻いている。この老人の考えはやはり少しもわからなかった。

 

 しばらく沈黙して、今度はダンブルドアから口を開いた。

 

 

「フリットウィック先生は昔、決闘クラブのチャンピオンじゃった」

 

「ほう」

 

「マクゴナガル先生も闇の勢力と戦った勇ましい魔女じゃ」

 

「それは想像つくな」

 

「スネイプ先生は学生のころから独自の呪文を開発し、しかもそれを実戦に投入した。おや、ここに上がった3人の先生方だけを見ても、君は指導者に恵まれておるのう」

 

 

 ダンブルドアは皺の寄った長い指でジュリアの頭を優しく撫でた。ジュリアは黙って受け入れる。悪くない心地だ。

 

 

「学ぶのじゃ、ジュリア。じっくりと、着実に。ホグワーツは学び舎なのだから」

 

「……いつか、あんたも教えてくれるか? グリンデルバルドと決闘した魔法戦士として」

 

 

 少し不躾なお願いだったかもしれない。いきなり最強の魔法使い、イギリスの英雄、魔法戦士隊長に指導を乞うというのは、他の先生たちを軽んじているように聞こえたのではないか。

 

 ジュリアはそう心配したが、ダンブルドアはお茶目にウィンクした。

 

 

「一歩一歩じゃよ、ジュリア。一段ずつ踏みしめていけば、きっと次の階に辿り着ける。もしくは階段をジャンプ台にすることもあるやもしれんがのう」

 

「いやー、お恥ずかしい限りっすね、はは」

 

 

 ダンブルドアは立ち上がると、座っていた紫のスツールをあっという間に消してしまった。

 

 

「その元気があれば、マダム・ポンフリーも面会を許可してくれるじゃろう。外で君の友人たちがお待ちかねじゃよ」

 

 

 ジュリアは医務室の外から聞こえる3人の話し声に耳をすませた。角の取れた口調のハーマイオニー、つっけんどんなところのなくなったロン、快活に話すハリー。3人の話題は一貫してジュリアのことで、なんだか恥ずかしくなった。

 

 ダンブルドアがひらひらとジュリアに手を振って、カーテンを捲り去っていく。3人が歓声を上げて駆け寄ってくるのがわかった。じきにマダム・ポンフリーが飛んできて叱りつけるだろう。それくらい賑やかだった。

 

 

「ったく、すっかり仲良しこよしになりやがって」

 

 

 危機的状況の共有と協働による親密度の上昇。そんな言葉が頭に浮かんだが、ジュリアはかぶりを振ってそれを打ち消した。3人は、いや、4人はそんな単純化された理屈で説明できる関係ではないのだ。

 

 ジュリアはハリーとロンにげんこつを落とす準備をしながら、思わず笑みをこぼした。


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