ハリー・ポッターと獣牙の戦士   作:海野波香

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あなたのこころののぞみをうつす

 ハリーは食事もせず、取り憑かれたように喋り続けている。昨夜の冒険はハリーにあまりよくない収穫をもたらしたようだ。ジュリアはハリーの瞳をじっくりと覗き込んで――もし本当に憑依や魅了の呪いを受けていれば、目がうつろになると母が言っていた――、どうやら単に魅入られただけだとわかった。

 

 家族を映す鏡。ジュリアも興味がないわけではない。もし父の姿を見ることができれば、それは喜ばしいことだ。しかし、死者の世界と生者の世界を繋ぐ魔法というのは並大抵のものではない。ジュリアの記憶が正しければ、神秘部に就職したという母の先輩がそのようなゲートを研究していたらしいが、結果は一方通行のものが作られただけだ。姿を見せるだけとはいえども、危険なものである可能性は高い。

 

 

「いいか、ハリー。よく聞け。死者ってのは帰ってこねえ。その鏡は危険だ」

 

「でも、ジュリア……あの鏡には本当に僕の家族が映ったんだ」

 

「ハリー、僕も君のパパとママに会ってみたい」

 

 

 ロンも危険性を認識していないようだった。この調子だと今晩も鏡のもとに向かうのだろう。

 

 ロンが見たとき何を映すのかもジュリアの興味をかき立ててしまった。ハリーは顔を知らなかった両親、それにおそらく祖父らしき人物まで見た。いずれも故人だ。まだ情報が不足しているからなんとも言えないが、見た者に縁故のある死者を映す鏡なら存命のウィーズリー家は映らない。しかし、ロンが見てもハリーの家族を映すようなら、誰かがハリーに見せるために設置した”家族写真”か、もしくはとてつもない呪具か。

 

 友達を守りたい、自分の家族を見たい、知的好奇心を満たしたい。3つの欲求がジュリアの背を押した。

 

 

「オーケー、危険性については置いとくことにしよう。あたしも連れてけ」

 

「3人も入るかな」

 

「あたしはハーマイオニーより小せえんだぞ、いけるいける。つうかお前ら少し身長寄越せ」

 

「そのうち伸びるよ、ジュリア。ハリー、君はパパとママどっちに似てた?」

 

「パパ。でも、みんな言うとおり、目はママに似たみたい」

 

 

 ハリーは陶然としている。ニコラス・フラメルのことを調べるなどという考えはすっかり頭から離れたようだ。一難去ってまた一難。

 

 その晩は3人で夜の散歩ということになった。ハーマイオニーから教わった温熱呪文のおかげで凍えはしないが、もう1時間近くさまよっている。なぜならハリーが辿ったルート――図書館を経由し、スネイプとフィルチから逃げた道を、おぼろげな記憶を頼りに進んでいるからだ。

 

 

「ねえ、もう帰ろうよ」

 

「嫌だ! このあたりのはず……ここを曲がった……ここだ!」

 

 

 ハリーがドアを押し開けた。今は使われていない教室のようだ。壁際に寄せられた机は畳まれて逆さに置かれ、その上に椅子が乗せられ、隅には空のゴミ箱がひっくり返されている。鏡の件がなければ、魔法の練習をするのに適した場所のように思えた。

 

 確かに鏡がそこにあった。ジュリアはハリーが脱ぎ捨てた透明マントを拾うと、まずは鏡の全体を観察する。天井まで届きそうな枠が金色に輝いている。真鍮ではない。ジュリアの直感と知識が鏡を危険だと糾弾していた。黄金が使われる魔法の道具は黄金の価値に準ずるだけの効果を持つ。魔法界の古い言い伝えだ。

 

 

「ほら、見て……みんないる」

 

「僕、君が映ってるのしか見えないよ」

 

「そんなはずない。ほら、こっちに立って」

 

 

 警告の声を上げる前に、ロンが歓声を上げた。

 

 

「うわあ……僕、僕が映ってる」

 

「正気かロニー坊や、鏡は反射するもんだ」

 

「違うんだよ。もっと年上で……主席のバッジをつけてる! ビルがつけてたやつだ。それに、寮杯とクィディッチ・カップも持ってる……これが僕の未来なのかな」

 

 

 ロンも鏡に魅入られた様子で、すっかり興奮している。

 

 ジュリアの頭は回転しはじめる。ハリーには家族が見える。ロンには名声が見える。まだ判断するには情報が足りない。

 

 

「ちょっと照らすぞ。ルーモス」

 

「眩しいよ、ジュリア」

 

「んじゃそこどけ」

 

 

 ジュリアはできるだけ鏡面を見ないようにしながら、鏡を観察しはじめた。枠に彫り込みがある。

 

 

「すつうを、みぞの、のろここ、のたなあ、くなはで、おか、のたなあ、はしたわ。なるほど。……なるほどねえ」

 

「なんだいそれ、呪文?」

 

「鏡の上の彫り込みだ。……ノックス、闇よ」

 

 

 ジュリアはハリーにマントを投げ渡すと、鏡に背を向けた。この鏡を見てはいけない。ジュリアの意識が警鐘を鳴らしている。

 

 

「帰るぞ。ミセス・ノリスの匂いが近づいてる」

 

「待って、もう少しだけ」

 

「ハリー……ここであたしに失神させられてミセス・ノリスに見つかんのと、今すぐ一緒に帰んのと、好きなほう選びな」

 

 

 ハリーは渋々マントを広げた。ジュリアはハリーの手を取って部屋から連れ出したが、ハリーはまだ未練がましい目つきで鏡のほうを見ていた。

 

 翌朝になってもハリーの顔はぼんやりとしていた。魔法史の授業を受けているときよりも意識がふわふわしていそうだ。今なら詐欺にだってかけられそうで、ジュリアはため息をついた。

 

 ロンもどうやらハリーを見て危険を悟ったらしい。ハリーの意識を鏡からそらそうと、あの手この手でハリーを誘っている。

 

 

「ハリー、チェスしようよ」

 

「ううん、しない」

 

「じゃあ、ハグリッドのところに行かない?」

 

「うーん、いいや……」

 

「しっかりしろよハリー。あの鏡、なんだか嫌な予感がするんだ。それに、フィルチもスネイプも見回ってる。もう行かない方がいい」

 

 

 返事はない。ハリーは行く気のようだ。ジュリアは覚悟を固めた。

 

 その晩、ハリーが寮を出るより先に、ジュリアは鏡のもとに向かった。ジュリアは透明マントも持っていなければ、自分を透明にするような呪文もまだ知らない。しかし、入学してから地道にホグワーツを学んできた。そして、鋭い嗅覚と夜目がある。一人であれば夜の散歩もさほど難しくはない。

 

 鏡は依然としてその教室に置かれていた。人の気配はない。

 

 

「私はあなたの顔ではなくあなたの心の望みを映す、ね。願望、欲望……さあ、見せてもらおうじゃねえか」

 

 

 ジュリアは大きく息を吸うと、鏡の前に立った。観察しなくてはならない。

 

 

「落ち着け……落ち着くんだジュリア・マリアット……心を無にしろ」

 

 

 ジュリアの考えが正しければ、この鏡にはある種の開心術がかけられている。しかし、それだけではないだろう。深層心理を読み取り、最も求めているものを差し出し、しかし与えない。人を虜にする基本的な、しかし最悪の手法だ。

 

 ジュリアは聞きかじった程度の閉心術を試みて、鏡を睨みつけた。

 

 ヘーゼルの瞳が、優しくジュリアを見つめている。明るいブラウンの髪を横に流し、穏やかな紳士然とした長身の男。顔には三筋の爪痕がある。長い腕を伸ばし、小さな手と指を絡めている。

 

 紺色の髪を腰まで伸ばした小さな魔女が、ジュリアにだけわかる薄らとした微笑みを鏡から向けている。ジュリアと同じ琥珀色の瞳は叡智に溢れ、そして絡めた指を愛おしそうに握りしめている。

 

 ヘクター・マリアット。そして、エレン・マリアット。

 

 

「……くそったれ、娘の前でいちゃつきやがって」

 

 

 ジュリアは涙を拭うこともせず、杖を抜いた。この鏡はあってはいけない。毒だ。それも劇毒だ。可能な限りの手段で破壊を試みねばならない。保護がかけられていたら、拳で砕くまでだ。

 

 ジュリアは杖を振りかぶり――

 

 

「その鏡は魔法を反射するようにできておるそうじゃ。わしにも壊せん。それに壊してほしくもないのう」

 

 

 皺の寄った細長い手が、そっとジュリアの右腕を掴んだ。

 

 

「……三頭犬、トロールの次は魅了の呪具ときた。とんでもねえダンジョンだな、ダンブルドア」

 

「君の鋭い理性と知識はまさにエレン・ムーアクロフトの再来じゃな。そして、友を守るため危険とわかっていても立ち向かう勇気は、ヘクター・マリアットからしっかりと受け継いだようじゃ」

 

「危険だってわかってんなら、なんで……なんでハリーに見せた!」

 

 

 ジュリアの激昂に応じるように杖が熱を帯びる。ダンブルドアには何かしらの考えがあるのだろう。しかし、今回のそれはジュリアに容認できるものではない。しかし、ダンブルドアは微笑を崩すことなく、レースの縁取りがなされた紫のハンカチを取り出すと、優しい手つきでジュリアの涙を拭いた。

 

 いけない。感情的になっている。

 

 ジュリアはいつの間にか荒くなっていた呼吸を落ち着かせると、素早く杖をホルスターに収めた。そして、床を蹴るようにして鏡とダンブルドアから離れる。今はどうしてもこの老人が信用できなかった。

 

 

「答え合わせをしよう、ジュリア。君はどこまで理解したのかな」

 

「……基礎部分はおそらく開心術で構成されてる。見たやつの願望、欲望を読み取り、その中で最も強いものを選別してるんだろう。だが、それだけじゃねえな。最も強い望みに対して、求めているものを差し出す。この部分は見た者の記憶からだけじゃ生み出せねえ。なんらかの情報源に接続して、その情報を映してると考えるのが妥当。それがどういう魔法なのかはわかんねえけど、さらに魔法を反射するっていうならたぶんそうとう古い魔法だ。……だが、それはあくまで情報で、そして映像だ。実体じゃねえんだ」

 

 

 鏡をちらりと見やる。ある冬の夜、ジュリアは空っぽの腹を抱えて雪に震えながら、バーガーショップの広告を見上げていた。その晩は野草を食んで朝を迎えた。母が恋しかった。温もりが恋しかった。しかし、広告からビーフのパテは出てこない。

 

 

「一番ほしいもんをちらつかせて、手の届かないところで見せつける。くそったれの、最悪な、呪いの鏡だ」

 

「見事。見事じゃ。今夜の散歩分の減点を埋めあわせるには十分すぎる知恵と知識をありがとう、ジュリア。君が理解したとおり、この『みぞの鏡』には多くの魔法使いや魔女が魅入られ、正気を失い、時には命を落としてきた。しかし、しかしじゃよ、ジュリア。真に賢明な魔法使いであれば、望むものを見ただけで満足し、魅惑から脱することもできる。――そうじゃろう、ハリー」

 

 

 透明マントが床に落ちる音で、ようやくジュリアはハリーが部屋に入ってきていたことに気づいた。明るい緑色の瞳に困惑が浮かんでいる。彼はどこから聞いていたのだろうか。そして、どこまで理解したのだろうか。

 

 

「わしにとっては3夜連続、しかし、ハリーにとっては今夜が初めてになるのかのう。こんばんは、ハリー」

 

「あの……こんばんは、先生。それに、ジュリアも」

 

「……おう、ごきげんよう、だ。この深夜徘徊少年」

 

 

 ジュリアはハリーから目を背けて、吐き捨てるように挨拶を返した。取り乱したところを見られただろうか。もしそうなら、あまり喜ばしくない。ジュリアは自身の感情的で直情的な部分を――母と対立した部分を好んでいなかったし、尊厳のために秘匿するべきだとすら考えていた。

 

 

「ハリー。君の友達のジュリアが見事な説明をしてくれたとおりじゃ。『みぞの鏡』は心の一番奥底にある、一番強い望みを映し出す。しかし、それは真実でもなければ、現実でもない。どうじゃろうか、ハリー。君は家族を見た。それは取り戻せないものかもしれないが、見ることができたということに価値があると思わんかね?」

 

「僕……僕、パパやママを初めて見ました。すごく、すごく嬉しかった……。だけど、そっか、もう会えないんですね」

 

 

 ダンブルドアが項垂れるハリーの頭に、そっと手を置いた。ダンブルドアの紫のローブがハリーを包む。それはまるで悲しむ孫を優しく慰める祖父のようでもあった。

 

 ダンブルドアはハリーを特別目にかけている。ジュリアにはそれがわかった。ダンブルドアは惜しみない慈しみの感情をその瞳に宿している。ハリーの顔は見えないが、きっと涙を流しているのだろう。しかし、2人の間には温かな繋がりが生まれようとしていた。

 

 

「逝ってしまった者たちと直接対話することはできない。それでも、彼らは記憶の中に生き続ける。ハリー、君は家族を知った。これからは君の中に家族がいるのじゃよ」

 

「僕の、中」

 

「そうとも。……さて、そろそろミセス・ノリスが巡回してくる時間じゃ。ジュリア、ハリーにその素敵な温熱の呪文をかけてやってくれるかな。この寒い中、パジャマにマント一枚では体に悪いからのう。この鏡は明日よそに移そうと思っていたところじゃ。もちろん、そうしなくとも君は鏡を探したりしないじゃろう。そうだね、ハリー?」

 

 

 ハリーが鼻をすする音が聞こえた。しかし、しばらくして、ハリーはしっかりとした声で返事をした。

 

 

「はい、先生。……先生、1つ質問が」

 

「いいとも」

 

「先生には、何が見えたんですか?」

 

「厚手のウールの靴下を一足、手に持っておるのが見えたよ。わしにクリスマスプレゼントをくれる人はなぜか本ばっかり贈りたがる。ハンカチと靴下はいくつあってもいいものじゃのにのう」

 

 

 ダンブルドアはおちゃめにウィンクしてみせた。ダンブルドアにはきっと別のものが見えている。それが家族と共にいる自分なのか、グリンデルバルドに打ち勝った若き日の自分なのか、魔法省大臣の執務椅子に座る威厳ある自分なのかはジュリアにはわからない。しかし、きっとこれ以上ダンブルドアは語らないだろう。

 

 ジュリアとハリーはダンブルドアにおやすみなさいと挨拶をして、寮に戻った。誰に出くわすこともなく、何の会話もなかった。ホグワーツは沈黙を保っている。まるでダンブルドアの心のように。

 

 ジュリアは黙って女子寮のドアに手をかけたが、ハリーは透明マントを畳みながら、その背へと静かに声をかけた。

 

 

「ジュリア」

 

「……なんだ、ハリー」

 

「ありがとう。心配してくれて」

 

「明日、ロンにもしっかり謝っとけよ」

 

「うん」

 

 

 ジュリアは背を向けたまま手を振ると、今度こそ女子寮のドアを開いた。

 

 こんな日に限って月は雲に隠れていた。

 

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