無骨な燭台に灯された火が照らす部屋には、白と黒の大きなタイルが敷かれ、そしてその上には4人の中で最も高身長なロンの背をさらに超える大きさの駒が整列していた。駒は白の軍勢と黒の軍勢に分かれて睨み合っている。さながらこの部屋は巨大なチェス盤だ。
ロンが黒のナイトに近づくと、顔のない騎手は馬上からロンを見下ろした。
「あの……向こうに行くには、チェスを指さなきゃいけませんか?」
返事はない。しかし、首を横に振るわけでもない。
「違う、これは、たぶん……もう一度質問させてください。僕たちが向こうに行くには、チェスに参加して、勝たなくちゃいけませんか?」
黒のナイトが首を縦に振った。
この厳密さはおそらくマクゴナガルだ。変身術の基礎である思考能力、魔法使いの基礎である経験、そしてグリフィンドール寮生の基礎である勇気を問う罠。
当然ながら、この4人はそれぞれがそれぞれの長所と短所、そして特技を持つ。思考能力で言えばハーマイオニーがずば抜けているだろう。経験で言えばジュリアが多少抜きん出るかもしれない。勇気ではハリーが一歩勝る。それでも、この罠に立ち向かう最適のプレイヤーは、ロンだ。
「気を悪くしないでね。3人とも、チェスは上手くない。だから……」
「お前に預ける、ロン。指示を寄越しな」
誰も異論はないようだった。ハーマイオニーがルーク。ハリーがビショップ。ジュリアがクイーン。ロンがナイト。黒の駒と交代する形で、生身の4人が盤面に立つ。
ロンの指す通りに駒は進んでいった。
ポーンが互いに2マス進む。ナイトが互いに跳ぶ。ビショップがその隙間を縫うように前進。キャスリング。
序盤は何事もなく手が進んだ。
最初に取られたのは黒のナイトだった。白のクイーンが黒のナイトを旗で殴りつけると、騎手の首から先が砕け飛ぶ。そしてクイーンは騎馬を盤外に放り出すと、静かにマスへと収まった。
盤面に残った大理石の破片から青ざめた顔を背けて、ロンが指揮を飛ばした。
「これで、道が空いた。ハーマイオニー、進んで」
中盤戦は苛烈だった。取る、取られる。おそらく生身の駒を取るときも白の駒は容赦しないだろう。ジュリアはポーンが構える石の剣をちらりと見る。これは少々痛いでは済まされない。おそらく、取られれば脱落する。
そして、さらに手が進み、その時が来た。
一度指揮を止め、黒の指し手――ロンが呟く。生き残った白の駒は微動だにせずこちらの動きを待っている。ロンの指揮が一手ずつ盤面に変化を生み、そして今、ロンの目には道が見えているのだ。
「詰めが近い。そのためには……」
ロンが斜め前のマスに視線を向けた。そこは白のクイーンが利いている。ここから先の詰めはジュリアにもわかった。
白のクイーンが黒のナイトを――ロンを取る。ジュリアがチェックをかける。白のクイーンが道を塞ぐ。そこにハリーが出る。白に守りの手はない。
「僕が取られるしかないみたいだ」
「だめ!」
ハリーとハーマイオニーの叫びが響いたが、両陣営ともに駒は微動だにしない。そして、ロンもまた、揺らぐことはない。彼は指し手としての勝利を確信しており、同時に駒としての敗北を確信している。
ロンは血の気の引いた顔で、しかし気丈にも笑ってみせた。
「いいプレイヤーは駒の切り時を心得てるんだ。ジュリア、ハリー、このあとの動きはわかるよね?」
「散々叩き込まれたからな。……ロンが取られる。あたしが出てチェック。白のクイーンがあたしを止めるが、向こうもあたしに止められる。そして、ハリーが王殺しだ」
ジュリアは何度も再計算した。立ち読みしたスコアを思い返し、ロンとの対局を思い返し、それでもこれ以上の最善手は思い浮かばなかった。
黒の騎馬に跨がったロンが頷く。
「それでいい。……いいかい、ハリー。絶対に石を守ってくれ」
ハリーの返事を待たずにロンが進む。そして、白のクイーンが幾度となく黒の駒を砕いた旗を、ロンの頭へと振り下ろした。
鈍い音がして、ロンが騎馬からずり落ち、盤上に崩れ落ちる。
「ロン!」
「動くな! ……いいか、動くな」
ハーマイオニーの叫ぶような悲鳴に被せて、ジュリアは怒鳴った。今動けば、計算が全て崩れる。そして、指し手を失った黒の陣営にとって、ここは最後のチャンスだ。
ジュリアは深呼吸する。大丈夫だ。駒は脱落するだけ。そうでなくては、次の一局が指せない。魔法使いのチェスとはそういうものだ。だから、ロンは死んでいない。
ジュリアは進んだ。そして、白のクイーンがそれを阻む。
「よう、糞アマ。てめえはここであたしと睨めっこだ。……ハリー、行け!」
震える手を握りしめ、ハリーが白のキングを捉える。
「――チェックメイト」
王殺し。白のキングは王冠をハリーの足元に投げ出すと、お辞儀をして固まった。ゲーム終了だ。
3人はロンに駆け寄った。意識はない。出血もない。そっとジュリアがロンの頭に指を這わせる。陥没や骨折もなさそうだ。
「……行こう、ジュリア、ハーマイオニー」
ハリーの言葉に立ち上がって、3人はロンを残し盤上を去った。
通路はまだ下っている。ここはまだあの城の地下なのだろうか。湖の下かもしれないし、森の下かもしれない。ジュリアはそろそろ方角がわからなくなってきていた。
「次はなんだと思う?」
「スプラウト先生は悪魔の罠だったわ。鍵を飛ばせたのはフリットウィック先生ね。チェスの駒に命を吹き込んだのはマクゴナガル先生だし……あとは、クィレル先生の『怪しげなまやかし』とスネイプの……」
「――止まれ」
ジュリアの鼻が、知っている匂いを嗅ぎ取った。腐った雑巾と吐瀉物のような悪臭。
「なるほど。なるほどねえ、そういうことかよ、クィレル先生」
「ジュリア?」
「トロール。クィレル先生の罠はトロールだ。……あたしが扉を開く」
ジュリアは口で思いきり息を吸うと、扉を蹴り開けた。
想像を絶する、とはこういうことを言うのだろうか。天井は見えず、首が痛くなるほど見上げてようやくトロールと目が合う。これがクィレルの言っていた山トロールという種族だろう。手には大木のような棍棒を握っている。
トロールが棍棒を振りかぶった。奥には通路が見える。扉はない。
ジュリアは素早く判断を下した。
「走れ」
「ジュリア!」
「ぐずぐずしてんじゃねえ!」
思考は冴え渡っていた。両手が素早くホルスターから杖を抜く。指に熱を感じる。父の杖は温かく、自分の杖は焼けるようだ。ジュリアは求めた。杖は応えた。
通路に向かう2人に振り下ろされた棍棒を、ジュリアの盾が受け止める。魔法で緩和されてなおその圧倒的な威力はジュリアの腕に悲鳴を上げさせ、大きく後ずさりをさせた。2人が心配そうにジュリアを見やるのが目に入る。
「行け、行ってこい。あたしも後から追いつくさ」
上手く笑えているか自信がなかった。しかし、笑わなければならない。不安を抱えさせたまま前進させるわけにはいかないのだ。ジュリアはそのままトロールに自分の杖を向けた。刺すように鋭く、発音は正確に、狙うのは頭、可能であれば目。
「ステューピファイ、麻痺せよ! ……行け!」
2人が部屋から去ったのを確認して、ジュリアは今度こそトロールに向き直った。
リベンジの時が来た。