人ごみは好きではなかったから、ジュリアは早々に紅色のホグワーツ行特急へと乗り込んだ。ホームは見送りと生徒でごった返している。
発車前の車窓をちらりと眺めて、ジュリアはクエンティン・トリンブルの『闇の力――護身術入門』を取り出した。もうとっくに読み終えていたが、暇つぶしだ。
コンパートメントを独占してのんびりするのは悪くない気分だった。漏れ鍋の宿泊費は安かったが、ベッドはスプリングが嫌な音を立てるし、シーツは染みだらけだし、枕には虫が湧いていた。
結局、ジュリアはこの数週間、床で寝ることを選んだ。久しぶりのクッションは心地いい。試しにシートの上をごろごろしてみたが、中々の感触だ。
しかし、脳裏にあの厳格な魔女の顔が浮かんできて、ジュリアはシートに座りなおすと、ウェストポーチからコンパクトミラーを取り出した。
七分丈の白シャツ。ホルスターが着けられるぎりぎりの裾のスキニージーンズ。ドラゴン革のローファー。ジュリア基準で十分にイカす、かつマクゴナガル基準でぎりぎり下品でない、ちょうどいいコーデだ。とはいえ、どうせ着いたら暑苦しいローブに着替えるのだが。
コンパクトミラーを閉じてウェストポーチに放り込むと、窓際に置いたままだった『闇の力――護身術入門』を一瞥した。マグル界も魔法界も両方のイギリス中を転々としたジュリアからすれば、この本は入門とも呼べないように感じる。しかし、今のジュリアにはその程度の基礎すらないのだろう。
「……プロテゴ、護れ」
唱えながら杖を振るうと、魔力の半球がジュリアの眼前を覆う。盾は基本だ。殺しても殺されては勝ちにならない。相討ちは負けだ。
杖をホルスターに戻す。引き抜く。唱える。戻す。引き抜く。唱える。
着くまで少し繰り返してみるか、などと思っていた矢先、コンパートメントのドアがノックされた。ジュリアが返事をする前にドアが開く。反射的に杖を向けると、黒髪の少年が引きつった表情で両手を上げていた。
「あー、えっと、ごめん。降参だ。……僕を呪ったりしないよね?」
「あたしが着替え中だったら特上のをかけてたかもな。ノックの後は返事を待つってのが上品なやり方らしいぜ、ハリー・ポッター君」
少年の目が驚きに見開かれるのを見てくつくつと笑いながら、ジュリアは自分の杖をホルスターに戻した。
「気にすんな。マナーってやつはあたしも最近叩き込まれたばっかだ。席探しか? そうか」
ジュリアは対面のシートを顎で指すと、自分のシートに戻って次の暇つぶしをウェストポーチから取り出した。少し迷ったが、ここはミランダ・ゴズホークの『基本呪文集』だ。変身させる対象もないのに『変身術入門』を読んでも仕方がない。
ハリー・ポッターはしばらく戸惑っていたが、どこか諦めたような、あるいは決心したような顔つきでジュリアの対面に座った。
しばしの沈黙。ジュリアには心地よく、ハリー・ポッターには居心地が悪い。
「あの……」
「今からしようとしている質問はマダム・マルキンの洋装店でプラチナブロンドの坊ちゃんに聞かされた以外のことか?」
「あっ、君、あのときの!」
ジュリアは教科書から顔を上げて、彼に微笑んでみせた。相変わらず眼鏡はひび割れているし、痩せこけているが、彼はハリー・ポッターで、そしてなによりジュリアにとっての同級生だ。
「ジュリア・マリアット。新入生だ。ジュリアでいい」
「じゃ、じゃあ、僕もハリーで」
「オーケー、ハリー。――それで、ドアの前に突っ立ってる、ネズミ飼いの坊やは誰だ?」
ハリーの視線がコンパートメントのドアに向かう。動く気配はない。ジュリアはため息をついて立ち上がると、ドアを開いた。
音を立てて開かれたドアの向こうには、気まずそうな顔の赤毛がいた。まだトランクを抱えたままだ。ジュリアの推察が正しければ、この少年も席探しだろう。
「えっと……」
「簡単なステップだろ。挨拶する、名乗る、座る。ほら、トランク寄越せ、棚に載せるから」
ジュリアがトランクを奪って網棚に載せる間に、赤毛はモゴモゴしながらもジュリアに言われたとおりのステップを踏みはじめた。
「はじめまして、僕、ロン・ウィーズリー。あの、座っていいかな。他、どこも空いてなくて……」
「聞いてたと思うが、ジュリア・マリアットだ。ジュリアでいい。席は空いてる」
「ハリー・ポッター。僕もハリーでいいよ。座って」
ロン・ウィーズリーと名乗った赤毛の少年は、混乱と興奮が入り混じった奇妙な声を上げてハリーの隣に座った。
「君、ほんとにハリー・ポッターなの?」
「他にハリー・ポッターがいるのか知らないけど、僕はハリー・ポッターだよ」
「じゃ、君、本当にあるの? あの……」
ハリーが額の傷痕を見せると、ロン(そう呼んでほしいと慌てたように口にした)はますます興奮した。
ジュリアから見て、二人は少しずつ良好な友人関係を構築していっているように思えた。お互いに自分の過去を開示して、パーソナルデータを共有する。車内販売で豪遊し、それを共有する。ジュリアもマグル界でバイトをするときは架空の経歴をでっち上げ、まかないをシェアして”お友達”を作ったものだ。
しばらくして、話題は教科書に視線を戻していたジュリアに向かった。
「そういえば、ジュリアはなんで僕がスキャバーズを飼ってるってわかったの?」
「スキャバーズ……ああ、ネズミか。匂いだよ」
「えっ……僕、臭い?」
「あたしの鼻が特別きくだけだ、気にすんな」
そういうものか、と安心した様子のロンが件のネズミを取り出したので、ジュリアは顔を上げてそちらを見た。ぐったりしている。生きているようだが、フクロウの餌と言われた方がしっくりくるだろう。
それについてはロンも同感なようで、「死んでたって、きっと見分けがつかないよ」とうんざりした口調でぼやいた。
「少し面白くならないかと思って、黄色に変えようとしたんだ。でも呪文が効かなかった。見てて……」
ロンがボロボロの杖――ジュリアの観察が正しければ、はみ出ているのはユニコーンのたてがみだろう――を振り上げたその瞬間に、コンパートメントのドアが開かれた。栗色の髪の少女が、丸顔の今にも泣き出しそうな少年を引き連れて立っている。
「誰かヒキガエルを見なかった? ネビルのがいなくなったの」
「嬢ちゃん、ノックって知ってるか?」
「あら、魔法をかけるの? 見せてもらうわ」
ジュリアは心の中でぼやいた。だめだ、会話が成立しない。「あら、ごめんなさい」の一言もないようじゃ、この少女はきっとこれからの学校生活でハブられる。どれだけ優秀でも潰される。
かといってそれを指摘してやるほどジュリアは優しくないし、指摘したところで受け入れるほど少女も柔軟ではないだろう。ジュリアはあくびをして、様子を見ることにした。
もちろんネズミが黄色くなることはない。色だけとはいえ、生物を変化されるのは変身術の領域だ。ちょっとしたおまじないでできるものではない。
ハーマイオニー・グレンジャーと名乗った少女は、立て板に水とばかりに教科書のことやら、ハリーの名声のことやら、寮のことやら喋り倒すと、
「あなたたち着替えたほうがいいわ、もうすぐ着くはずだから」
と言い残して、ヒキガエル探しの少年を連れて去っていった。嵐のように。
ジュリアはため息をついて、二人に肩をすくめてみせると、網棚からトランクを引き下ろしはじめた。ロンはまだ呆然としている。ハリーは食べ散らかしたお菓子を片付けようとしている。こういうところで性格と経験が出るのだろう。
「んじゃ着替えるかね。あーあ、何が楽しくてKKKの色違いにならなきゃなんねえんだか」
シャツのボタンを外しはじめて、ジュリアは二人の視線に気づいた。見つめ返してやると赤い顔を背ける。
「こんな貧相な体でも見ちまうんだから、男の性ってのは哀れだよなあ。悪い、先に着替えるから門番頼むわ」
「わ、わかった」
これで一段落。そう思ってボタンに手をかけた途端、ドアの向こうから気障ったらしい声が聞こえた。
「このコンパートメントにハリー・ポッターがいるって、汽車の中じゃその話でもちきりなんだけど。それじゃ、君なのか? で、なんでドアの前でつったってるんだ?」
到着するまでに着替えられるんだろうか。ジュリアはボタンを戻すと、うんざりした顔でドアの取っ手に指を乗せた。