床を蹴って棍棒を躱す。視野を広く維持し、振り下ろしには大きくサイドステップを、薙ぎ払いには高く跳躍を。
石畳が砕けて弾ける鋭い破片を盾の呪文で防ぐ。この礫は散弾だ。一瞬でも防ぎ損ねれば、肉を裂き骨に食い込む。
失神呪文を叩き込む。回避と同時に、または空中で、または盾を展開しながら。一年間の訓練が成果を見せるときだ。紅に染まった閃光の槍が山トロールの巨躯に乗った頭を貫き、時折よろめかせる。倒れはしないが、ダメージは蓄積している。
シンプルな作業だ。以前とは違う。ジュリアは攻めの手と守りの手を兼ね備えている。ミスさえなければ、勝ちはきっと掴み取ることができる。ジュリアは確信していた。
「そんな大振り、当たるかよデカブツ。ステューピファイ! くそ、まだピンピンしてやがる。神経まで鈍いのか、あ?」
ジュリアはトロールを観察しながら、クィレルの言葉を思い出していた。クィレルはトロールと焚火を囲んで一夜を明かした。そして、そこからトロールを研究したが、評価はされなかった。
ハロウィーンにクィレルはトロールをホグワーツへ侵入させることに成功している。クィレルはトロールの扱い方を知っていたのではないか。そうでなければ、自分が仕掛ける罠にトロールを起用するはずもない。
スネイプはクィレルの何を『怪しげなまやかし』だと考えていたのだろうか。閉心術ではないだろう。それを指摘するということは、開心術を試みたと白状するようなものだ。スネイプとダンブルドアは、彼のどこに謎を見出していたのだろう。
トロールの薙ぎ払いを跳躍して回避する。このコロッセオはワン・オン・ワンだ。ジャイアントキリングに挑むグラディエーターもまた獣。お互い守るものも観客もなく、ただひたすらに相手の喉笛を狙う。
「ステューピファイ、ステューピファイ、もうひとつおまけだ、ステューピファイ! 少しは効いたろ、のろま野郎!」
トロールの巨体がぐらつく。しかし、トロールは棍棒を支えにして姿勢を立てなおし、ジュリアに向かって吼えた。
何がこのトロールをそこまで駆り立てるのだろう。トロールは愚鈍な魔法生物だ。日の光に弱く、暴力的で、ほとんど会話も成立しない。トロールとクィレルの間に何があるのか。
防ぎきれなかった破片がジュリアの頬を切った。熱い。じわりと血が滲むのを感じる。
「クィリナス・クィレル、あんたの置き土産はちょっとでかすぎるぜ」
「くいりなす」
棍棒を振りかぶったトロールが、そのまま動きを止めた。
ジュリアは耳を疑った。いま、このトロールは、何と言った?
「……そうだ、トロール。クィリナスだ。お前はクィリナスの友達か?」
「みーく、くいりなす、ともだち」
会話が成立している。
ジュリアは頬の血を拭うと、トロールの目を見上げた。表情はわからない。ジュリアにトロールを見分ける知識はない。もしかしたら、クィレルにならわかったのかもしれないが。
「ミークか。ミーク、お前はどこから来た」
「やま。とおく。くいりなす、つれてきてくれた。なまえくれた。あるいた。みずたまり、わたった。ここ、はいった」
聞き苦しい声だったが、トロール――ミークは確かに返事をしている。ふと、ジュリアの頭にひとつの可能性を描いた図像がよぎった。一人旅をするクィレル。山の中で焚火に当たり、獣に怯えている。そこに、一体のトロールが現われる。
ジュリアは杖を下ろすことなく、しかしミークとの会話を続けた。
「クィリナスになんて言われた? どうしてあたしらを襲う?」
「くいりなす、きた。ないてた。おねがいされた。まもって」
「そうか。……そうか」
「おまえ、くいりなす、ともだち?」
ジュリアは苦しかった。この愚鈍で暴力的な魔法生物は、しかし、純朴なのだ。つい先ほどまで己に呪文を突き立てていた相手に、自分の友達の、友達なのかと尋ねるほど。泣きながら駆け込んできた友達を守るために、ひたすら棍棒を振るうほど。
理性的で計算高いジュリアが囁く。騙してしまえ。クィリナス・クィレルの友達だと言え。クィリナス・クィレルを助けに来たと嘘をつけ。そうすれば、このトロールは安心する。ジュリアは二人の後を追い、そしてトロールは、ミークは、ダンブルドアたちに処分される。
クィレルの寂しげな顔が忘れられなくて、ジュリアは笑って杖を構えた。
「お生憎様だ、くそったれ。あたしは敵だ。クィリナス・クィレルを殺す狩人だ。さあ来いファッキントロール、あたしをぶっ潰してみろ! さあ、さあ、さあ!」
トロールは怒り狂ったように吼えると、力任せに棍棒を両手で握り、そして2つに引き裂いた。
盾の呪文は半球を生み出す。右を守れば左は空き、左を守れば右は空く。そして、ジュリアは片手で守り、片手で攻める戦法のみを練習してきた。攻撃の方向が増えれば増えるほど、ジュリアが受けるダメージは増加する。
それでも、ジュリアは牙を剥き出しにして笑った。
「そいつがトロールの二刀流か。あたしを真似したつもりか? 舐めんなよ」
ジュリアを両側から挟むようにして、棍棒だったものが叩きつけられる。跳躍したジュリアの背に砕けた石畳の破片が突き刺さる。ジュリアは棍棒の片割れの上に着地して、息を吐いた。痛みで視界が白くなるが、かえって思考は澄み渡っている。
杖が熱い。今なら失敗することもないだろう。
鋭く、鋭く、ひたすらに鋭く。イメージするのは牙と爪。己の、人狼の誇り。
ジュリアは想起する。ハーマイオニーはジュリアを人だと言った。であれば、この牙も、爪も、ジュリアの剣だ。ジュリアは獣皮を纏い、獣爪を振るい、獣牙を剥く、獣を宿した人の戦士だ。
剣を。
「剣ってのは、こう使うもんだ――グラディウス、貫け!」
白い閃光が部屋を照らす。狙うのはトロールの喉笛。刃の鞭が突き進む。トロールが両腕で防ごうとするが、それは悪手だ。持ち上げられた棍棒の勢いに乗って、ジュリアは光を追うように空を蹴った。
刃が収縮し、厚く、太くなっていく。眩しい。
灰色の肌が近づく。あと少しだ。
「――あばよ」
そして、光が貫いた。
トロールの首元を蹴って刃を引き抜き、ボロボロになった床へと着地する。降り注ぐ生臭い鮮血を浴びながら、ジュリアは古本屋の老店主が教えてくれた、ニーベルンゲンの歌を思い出した。ジークフリートは悪竜を倒して竜血を浴び、無敵の体を手に入れたのだったか。トロールの血を浴びたジュリアは何になるのだろう。賢さが下がる? それは勘弁願いたかった。
膝に力が入らない。ジュリアは床に倒れ込んで、全身の痛みに顔をしかめた。
トロールは両腕を半端に浮かせたまま、そして両足で立ったまま、ジュリアを睨みつけている。もう声を上げることはない。
「タフな野郎だ。……くそ、流石に痛むな。来年は鎧でも……っ!」
トロールの両腕がジュリアめがけて振り下ろされる。
世界がやけにゆっくりと動いていた。思考するジュリアと、体を動かすジュリアと、悪態をつくジュリアがいる。思考するジュリアが分析した。ニワトリは首を落としても走り回るという。トロールにもそれと同じ現象が起きているのだろう。トロールは死んでいるが、命令だけが生きている。体を動かすジュリアが両腕を構え、口に盾の呪文を唱えさせる。悪態をつくジュリアが怒鳴り散らす。
「殺しても、殺されたら、負けなんだよ! プロテゴ、護れ!」
二重の盾がジュリアを包む。しかし、トロールの両腕が叩きつけられる衝撃は、盾から腕へ、腕から肩へ、肩から背中へと伝わっていった。
腕を弾かれたトロールが倒れていくのが霞んだ視界に映った。ジュリアは笑って、笑って、痛みに身を委ね、そして深く暗闇へ沈んでいった。
「――あたしの勝ちだ」