ハリー・ポッターと獣牙の戦士   作:海野波香

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墓標を

 この場所に来るのは二度目だ。ジュリアはまず匂いで気づいた。消毒液、魔法薬、花の匂い。目を開くと、真っ白な中に温かな照明が吊るされている。今日は柔らかいベッドに寝かされていた。

 

 ジュリアは両腕を宙に伸ばす。指は正常に動く。肘も問題なし。肩も良好。しかし、全ての関節が以前より強張っている。数日寝込んでいたようだ。

 

 そのまま太もものホルスターへ。杖は二振りともある。抜き、照明にかざす。傷は見当たらない。僥倖だ。ホルスターに戻して息をつく。

 

 

「乙女の寝顔を覗くのは悪趣味だって教わらなかったのか、ダンブルドア」

 

 

 紫のスツールに座った長身痩躯の老人が、ジュリアに柔和な微笑みを向けていた。賞賛と感嘆、それから少しの安心と言ったところか。少なくとも、いまこの賢者が表面に出しているのは、そういった感情だった。

 

 

「いやはや、相変わらず君には頭が上がらんのう。しかし、わしが君を心配する気持ちもほんのちょびっと理解してくれないかね?」

 

「心配なのはあたしのほうさ。ハーマイオニーたちは無事か」

 

「無事じゃよ、ジュリア。無事じゃ。ミス・グレンジャーとミスター・ロナルド・ウィーズリーは君が目覚めるのを心待ちにしておった。ハリーは隣のベッドで寝ておるが、もうじき目を覚ます頃合いじゃろう」

 

 

 ダンブルドアが挙げた名前に、クィリナス・クィレルはなかった。

 

 

「クィレル先生は、死んだのか」

 

「悲しいことじゃ。彼はヴォルデモートに魅了されておった。もはや彼の体は呪いに侵されきっておったのじゃ。ハリーは彼と勇敢に戦い、そして打ち倒した。ある意味では、彼を救ったのかもしれん」

 

「違う」

 

 

 ジュリアはできるだけ憶測で物事を語りたくなかったが、もう死んでしまった人物について語るには、憶測を挟むしかない。ジュリアはゆっくりと言葉を紡いだ。

 

 

「あんたは悲しんじゃいないさ。あんたはクィレル先生を助けようとも、理解しようともしなかった」

 

「彼はよき教師じゃった。それはもちろん、素晴らしいことじゃ。しかし、アルバニアで彼はヴォルデモートと出会い――」

 

「力を求めて、自ら憑依された。そうだろ?」

 

 

 ダンブルドアは嬉しそうだった。ジュリアにはこの老人がなぜ喜んでいるのかわからなかった。

 

 

「君は冷静に推理し、多くの情報を精査し、見事真実に辿り着いた。見事、見事」

 

「そういうことじゃねえよ」

 

 

 ジュリアは体を起こした。ハリーが眠っているのなら、声を荒げるわけにはいかない。しかし、ただこの男の甘い言葉に身を委ねるわけにもいかない。

 

 ダンブルドアが水差しとコップを取り出したが、ジュリアは首を振って断った。

 

 

「アルバニア語はわかるか」

 

「名高きバーテミウス・クラウチ氏ほどではないが、心得はある。クィレル先生から何か聞いたのかね?」

 

「ミーク、ってどういう意味だ」

 

「”友達”じゃよ」

 

「そうか」

 

 

 ジュリアの中でひとつの憶測が確信に変わった。

 

 

「クィレル先生はな、あのトロールに名前をやったんだ。あいつはミークって名前だった」

 

 

 ダンブルドアは沈黙していた。微笑みこそ崩さなかったが、何の感情も表に出していないように思えた。

 

 

「これはあたしの推理だ。あたしはシャーロック・ホームズでもないし、母さんみたいに頭がいいわけでもない。でも、パズルのピースはあらかた揃った」

 

「ふむ」

 

「……学生時代、クィレル先生はレイブンクローの落ちこぼれだった。実技ができなかった。あそこじゃできない奴はハブられる。きっと、ずっと独りだった。あの人は力を得れば仲間ができると思った。それで、アルバニアに行った。ここは情報が足りねえ。アルバニアにヴォルデモートが潜伏しているのをどこで知ったのか。自力じゃねえな。誰かに吹き込まれた。その可能性が高い」

 

 

 そして、もしかすると、吹き込んだのはこの老人だ。ジュリアはダンブルドアの目を見たが、そこには白いローブを着せられたジュリアだけが映っていた。答えはない。

 

 ジュリアは言葉を続けた。

 

 

「クィレル先生はアルバニアに向かった。山中でトロールと友達になった。その前か後かはわからねえけど、たぶん、ヴォルデモートのことを倒そうと考えてたんだろうな。だが、腐ってもヴォルデモートはヴォルデモートだ。クィレル先生は闇の力に魅了され、憑依されることを選んだ」

 

 

 ダンブルドアは何も言わない。否定もしない。

 

 

「さて、お話はここから始まったわけだ。ハリーが入学した。あんたはハリーに試練と機会を与えた。ハリーは少しずつ自尊心と勇気を獲得していった。一方で、ヴォルデモートは復活のために賢者の石を狙った。あんたは賢者の石を餌にヴォルデモートをホグワーツまで釣り上げた。生き残った男の子と、ぶっ飛ばされた闇の帝王。両者がホグワーツに揃ったわけだ。……このあたりは、ハリーも気づいてるだろうよ」

 

 

 ケンタウロスに背負われたハリーの燃える瞳を思い出す。あの時すでに、ハリーは覚悟していた。そして、ハリーも馬鹿ではない。わざわざ自分が入学する年にダンブルドアが敵の最も求めるものをホグワーツへと運び込んだのだ。多少は察しがつく。

 

 

「あんたは気づいてたかもしれない。だから、これは馬鹿なあたしの独りよがりなスピーチになるかもしれない。でも、言わせてくれ。クィリナス・クィレルは、抵抗していたよ」

 

「君が愛情深い子なのはよくわかるよ、ジュリア。しかし――」

 

「なるほど。気づいてなかったなら教えてやる。ヴォルデモートは三頭犬の突破方法を知らなかった。だからクィレル先生にハグリッドと接触させて情報を引き出した。でも、クィレル先生はマグル学の教授で、読書家だ。オルフェウスがどうやってケルベロスを寝かしつけたかなんて、あたしでも知ってる。それを、クィレル先生は隠し通した。おそらく、真っ先にヴォルデモートから習った、閉心術を使って」

 

 

 ジュリアの頬を涙が伝った。ジュリアは不思議だった。自分はこんなに感情的な人物ではなかったはずだ。なぜ泣いているのだろう。誰のために泣いているのだろう。

 

 

「クィレル先生は闇の魔術に対する防衛術の教師として、多少の問題はあったが、十分な仕事をした。ターバンの下には常に脅してくるヴォルデモートを隠し、ヴォルデモートを隠していることをあんたらに隠し、生徒を大事に思っていることをヴォルデモートに隠した。隠して、隠して、隠し通して、結局群れに戻れないまま、死んじまった」

 

 

 今度こそ、ジュリアはダンブルドアを睨みつけた。今はこの男を許せる日が来るとは思えないほど、腹立たしかった。そして、それ以上に悲しかった。

 

 

「あんたなら救えたんじゃねえのか、アルバス・ダンブルドア。それなのに、ヴォルデモートに最も望むものを見せびらかして、与えず、それどころか従わされていたクィレル先生を殺した」

 

「彼は手遅れじゃった。ヴォルデモートと魂を分け合い、もはやハリーの護りに触れるだけで崩れるほどに呪われておった」

 

 

 冷静なほうのジュリアがメモを取った。最初に出会ったときの予想は間違っていた。ハリーにはなんらかの”護り”がかかっており、それによって彼は対ヴォルデモート用人型決戦兵器として運用されている。熱された盾で殴るようなものだろう。

 

 

「だからハリーにクィレル先生を殺させた」

 

「ハリーはヴォルデモートを倒した。ヴォルデモートを失ったクィレル先生は死んでしまった。間接的な原因ではあるかもしれんが、殺したのはヴォルデモートじゃ。その穿った見方は、少々ハリーに厳しすぎるのう」

 

「あたしが厳しいのはあんたに対してだ。どうしてクィレル先生を使い潰してハリーを育てた。より大いなる善のために、か?」

 

 

 ダンブルドアの笑顔から、一瞬だけ温かみが消えたような気がした。

 

 ダンブルドアはじっとジュリアを見つめている。ジュリアは視線をそらすことなく、糾弾を続けた。

 

 

「あんたがやったことは正義かもしれない、ああそうさ。だが、あんたの理念は、あんたが打ち倒したグリンデルバルドと同じだ。ヴォルデモートを倒すためなら、マグル学の教授くらい使い潰したっていい。そう考えちゃいねえか?」

 

「……わしほど年老いると、時折自分で自分が何を考えているのかわからなくなる。考えることを考えが勝手に行ってくれるのじゃ。便利だけれども、時には全てを把握していないことが恐ろしくなるのう」

 

 

 誤魔化しと肯定が半々と言ったところか。

 

 これ以上言い立てても、クィレル先生は帰ってこない。このことを早く忘れてしまわないと、ハリーを傷つけることになるかもしれない。ジュリアは横になると、ダンブルドアに背を向けた。シーツに皺が寄る。

 

 

「あんたがここで安心してるってことは、ヴォルデモートは追いやられたってことだ。でも、ヴォルデモートが完全消滅したなら、もっとお祭り騒ぎになってていい。それに、表向きは死んだことになってるヴォルデモートがホグワーツに侵入していたなんてことになったら、生徒の家族は急いで子どもを呼び戻すだろうよ。だから、公表される悪役はクィレル先生になる。そして、ヴォルデモートは消え去ったわけじゃない。……そうなんだろ、ダンブルドア」

 

「残念なことじゃ。もし人が敵を目前とせずとも団結し、打ち倒すべき者がなくとも勇気ある行動を賞賛できるのであれば、悪役など必要ないというのに」

 

「ああ。残念だ。残念だよ、くそったれ。……寝る。ハリーと話すんだろ、行けよ」

 

 

 ジュリアはシーツをたぐり寄せて、顔をうずめた。

 

 

「ゆっくりおやすみ、ジュリア。見事な推理と、見事な愛情をありがとう。わしもまだまだ学ぶことが多い」

 

 

 返事はしなかった。ジュリアは丸まって、奥歯を噛みしめた。

 

 ダンブルドアの気配がカーテンの向こう側に移動して、マダム・ポンフリーの足音が近づいてきた。長く話していたから、調子を確認しに来たのだろう。

 

 

「……マダム・ポンフリー、音楽かけてくれよ」

 

「あなたに必要なのは音楽ではなく休養です」

 

 

 マダム・ポンフリーは、声を上げずに泣きじゃくるジュリアに何かを聞くこともせず、ただ布団をかけ直してくれた。

 

 まだ、知らなくてはいけないことが沢山ある。知らなくてはならない。無知は罪だ。無知は死を招く。自分の死だけではない。周りに死をばらまくことになる。ジュリアは己の無知が恐ろしかった。だから、頭に詰め込むために、クィリナス・クィレルという穏やかで臆病で迂闊にも無知であった教師を、小さな墓標の下に納めて、あとは忘れることにした。


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