スネイプの執務室は珍しく窮屈だった。というのも、普段は薬品ケースが整列している棚や机に大量の羊皮紙が積まれ、床に直置きで様々な本が山をなして、さらにはスネイプが妙に苛立っているからだ。ジュリアは比較的低い山の1つにおっかなびっくり手を乗せて、崩れないことを確かめてからそこに腰かけた。
無言のスネイプからティーカップを受け取る。嗅いだことのない香りだ。くだもののようなみずみずしさと薬のような不思議さが混ざっている。嫌な匂いではない。一口含むと、味わい深い渋みが広がった。
「なんだこれ、うまいな。初めて飲む味」
「鉄観音。中国の茶だ」
「へえ、夏季休暇中はアジア旅行か?」
「我輩にそのような暇はない。3年前、クィレルが旅行先で買ってきたものだ」
一瞬、大きなティーカップを抱える両手に力が篭もった。焦がしたような深い茶色の水面が揺れる。クィリナス・クィレル。ジュリアの中に並ぶ墓標の1つに刻まれた名前だ。彼は故人で、しかもまともに会話したのは一度だけ。だというのに、なぜ自分がこれほどまで感傷に浸り続けているのか、ジュリアにはわからなかった。
ジュリアの中で隣人との離別という出来事はさほど珍しいことではない。その中には死別も含まれている。クィリナス・クィレルの死も取るに足らない記憶として色あせていくと思っていた。ハリーの箒を呪っていたときの嫌な笑みも覚えている。あのとき彼はヴォルデモートの配下であり、闇の魔法使いだった。
彼は敵だった、そしてもう死んだ。そう割り切れたらどんなによかっただろう。ジュリアは自問自答する。人狼狩りの魔法使いたちが死んだとき、自分は奴らの死を悼むだろうか。きっと悼まないだろう。なら、彼と奴らとの違いはどこにあるのか。どちらも加害者で、もしかするとどちらも被害者だったかもしれない。条件はさほど変わらない。だとしたら、何が自分を苦しめているのか。哀れみ、同情、そんなものを抱くほど、自分は弱い生き物だっただろうか。
「……茶葉ってそんなに長持ちするんすね。あ、魔法か」
自分は今、上手く笑えているだろうか。ジュリアは自信がなかった。
「クィレルという男は、夏季休暇が始まると手早く事務仕事を片付け、気づいたころにはもう旅行に出ている、そのような輩であった」
「なんだよ先生、やめろよな。葬式みてえなこと言って」
「葬式と形容しても差し支えなかろう。遺品に囲まれ、故人を語っているのだから」
「あんたも、冗談言うんだな」
今度は上手く笑えなかった。
スネイプの仏頂面から目をそらして本の山を見やる。ジュリアはその中にロバート・グレイヴスの『ギリシア神話』を見つけた。クィレルはやはりオルフェウスの冥府下りを知っていたのだろう。そして、ここにある本はすべて、彼の遺品なのだろう。
「我輩の目を見ろ、ジュリア・マリアット」
「あんたと見つめあう気分じゃねえな」
「見るのだ」
「嫌だ」
机の向こうから伸ばした腕で頭を押さえられ、無理矢理顔を覗き込まれる。スネイプの瞳にいつにも増して不機嫌そうなジュリアの顔が映っていた。様々な魔法薬と、少しだけ香辛料、加えてカビの匂いがする。ジュリアはこの男の匂いも嫌いではなかった。
しばらくスネイプはジュリアの目を見ていたが、小さくため息をつくと、ジュリアの頭から手を放し、椅子にもたれかかった。
「やはり、魅了でも憑依でもないらしい」
「ご心配どうも。あたしは正気だ」
「校長は、君がクィレルに魅了された可能性を疑っておられた」
「そりゃ随分な名探偵だこって」
「闇の帝王を身に宿した者と対話し、正体を知ってなお死を悼む。それこそ、正気の沙汰ではない」
「まあ、な」
ジュリアは山積みの本に背を預けた。羊皮紙と埃の匂い。落ち着く匂いだ。これがすべてクィレルの遺品だと思うと、奇妙な感覚になる。まるで、今この瞬間にも彼がおどおどしながら戸を開けて、つっかえつっかえ授業を始めるのではないか、そのような感覚に。
つまるところ、ジュリアはまだクィリナス・クィレルという人物の死から抜け出せないでいた。ヴォルデモートに魅了されていた、憑依されていた、そういったことを抜きにした、彼個人の死が忘れられないのだ。
「やっぱ、正気じゃねえのかもなあ」
ジュリア・マリアットは正気ではない。呟いた自分の言葉がじわりと広がった。
「奴の人となりに関する君の推理については、校長から聞かされている」
「あんたはどう思ったんだ、先生」
「さほど交流があったわけではない。君の推理に正否の判断を下すのは難しい」
「それでもいい。先生の見たあの人は、どんな人だったんだ」
しばらく、2人は沈黙していた。本の山の向こうで、大鍋がひとりでにかき混ぜられる音がする。一定のリズムで水薬が揺れ、混ざり、熱せられ、泡とともに蒸気を上げる音。静かだ。
「奴は」
スネイプが突然声を発したので、ジュリアは体を強張らせてしまった。妙な向きに体重のかかった山から何冊か本が落ちてくる。ティーカップを落とすわけにもいかず、いくつかを両腕で受け止め、1冊に頭を打たれたジュリアに、スネイプは呆れたような視線を向けた。
「聞く気があるのか、ないのか」
「ある、あるからちょっと待ってくれ。頭から血ぃ出てる気がする」
「出ていない。……奴は、温和な男だったように思う」
スネイプはティーカップを執務机に置いて、語りはじめた。饒舌ではなかったが、その淡々とした語り口はジュリアに痛みを忘れさせた。
「毎年、旅行のたびに土産を買ってきた。茶葉、菓子、乾物。旅先での見聞を授業で扱っていたとも耳にしたことがある。……それから、花を好んだ。執務室には植木鉢がいくつか並んでいたし、そこに積まれている本にも多くは押し花が挟まれている」
「押し花」
「植物学における標本作製の手法だ。もっとも、奴は栞として用いていたようだが」
ジュリアはそっとティーカップを脇に置いて、落ちてきた本の中から一冊のページを捲る。『オカルティズム、魔術、文化流行』と題された分厚いその本には繊細な文字で書き込みがされていた。「一般的な魔法史と並べると面白い」「ここは一般化が過ぎるか?」「興味深いが不明瞭、要調査」「現地での観察の結果、一部に異なる結論を得た。通読後に私の見解をまとめる」時には辛辣に、時には愉快そうに羽ペンが踊ったのがわかる。
そして、ラベンダーが挟まれたページから先には、何も書き込まれていなかった。
今のジュリアにこの本の内容を理解することはほとんどできない。マグルの研究者が著した難解な書物なのだろうということだけがわかる。しかし、その研究書を読み解き、自分の考えと織り交ぜた彼の「マグル学」は、きっと面白かった。これは確信だった。
「……クィレル先生のマグル学、受けてみたかった」
「スリザリン寮生にマグル学を選択する者はほぼいなかった。ゆえに、奴がどのような授業を行ったのか詳細は知らん」
「まあ、だろうな」
「しかし、ここには奴がマグル学の教鞭を執っていたころの蔵書がいくらか揃っている。校長は君が形見分けに参加する権利があるとお考えだ。君と、どうせ首を突っ込んでくるであろうグレンジャーのために、奴が書き込みを残したものや図書館の蔵書と重複するものをここに用意した」
自分で学べ。そういうことだろうか。ジュリアはクィレルの細やかな筆致を指先でなぞった。彼の瞳には叡智が渦巻いていた。あの高みまで到達するのに、自分はどれだけかかるだろう。
しばらく考えて、ジュリアは頷いた。
「受け取る。全部理解するのには一生かかっても足らないかもしれねえけど」
「全部持っていく気か?」
「持っていっていいなら」
スネイプは目を閉じて何か考えているようだったが、やがて杖を取り出し、本の山を浮遊させて整理しはじめた。紙の渦に巻き込まれないよう、ティーカップを手に山から飛び降りる。鉄観音がこぼれそうになって、ジュリアは慌てて一口啜った。
「まずは手近なものから始めろ。関心と興味の向いたものからだ。必要に迫られているわけではないのだから、時間をかけて余暇に学べ。君が励むべきは学業、礼法、訓練、その3つであることを忘れるな」
ジュリアにそう言い聞かせながら、スネイプは渦巻く本を使い古された小さなトランクケースに流し込んだ。無数の本を飲み込んだトランクケースがぱたりと閉じる。
そして、差し出されるままにジュリアはトランクケースと巻かれた羊皮紙を受け取った。
「それが目録だ。鞄に手を入れてタイトルを呼べば取り出すことができる。どちらも貴重品と思って扱え」
「あいあい、感謝します。……これ、先生が書いたのか?」
「ひどく時間のかかる作業であった」
ジュリアはしっかりと頭を下げた。きっと大変だっただろう。
スネイプは鼻を鳴らすと、杖を振って2人のティーカップにお茶を補充した。まだまだ話は続くらしい。ようやく椅子を出すスペースができたので、ジュリアはスネイプの向かいに椅子を引いてきて座った。