執務机の上に残った埃を拭い取って杖を収めると、スネイプはジュリアに睨むような目を向けた。ジュリアは今年度に入ってからまだ何も、ほとんど何もしていないはずだ。
「さて、順番が前後したが……我輩の記憶が間違っていなければ、君には報告すべきことがあるはずだが?」
「えっと、どれだ……マルフォイをちょっとからかったこと?」
「それに関しても報告が来ているが、その話ではない。いや、しかしそれについても警告しておく。ルシウス・マルフォイは名家の当主に相応しいだけの余裕を持ち合わせた人物だが、一児の父でもあり、さらには家格相応の権力者でもある。無益な綱渡りはしないのが身のためだ」
「余裕、ね。ダイアゴン横丁でアーサー・ウィーズリーと取っ組み合いしてたけど」
「……彼も時にはそういう一面を見せる。ともかく、それは本題ではない。ポッター共と君の小さな冒険について、我輩はまだ説明を受けていないように思う。特に、あのトロールに何を使ったか」
スネイプの視線から逃れるように、ティーカップを口に運ぶ。クィレルの罠であるトロールと戦った、その最後の一撃に、ジュリアは剣の呪文「グラディウス、貫け」を用いた。これはジュリアがスネイプの個人授業でうっかり生み出してしまったオリジナルだ。白熱する鋭い刃を鞭のように伸ばし、収縮させることで一振りの剣となるこの魔法は、巨大な山トロールの喉笛を貫き、切り裂いた。
スネイプ曰く、呪文の開発というものは発想を魔法理論に落とし込んで綿密な計算を行い、小規模な実験を重ね、ようやく実用化に至るものとのこと。それをジュリアは一発で成功させ、事故を起こすことなく制御した。これは極めて幸運なことで、もし刃が逆噴射されていれば、最悪の場合肩から先と”お別れ”をしていたかもしれないのだ。
「いや、その……杖が応えてくれたっつうか、確信が湧いてきたっつうか」
「魔法は、オカルトでは、ない」
「その台詞すげえ面白いぜ、先生」
スネイプは不愉快の極みと言わんばかりに鼻を鳴らして、ジュリアの頭を巻かれた羊皮紙で叩いた。それほど力は篭もっていなかったが、かえってそれが不気味だった。
「え、なんだよ今の、とうとう杖の代わりに羊皮紙で呪いがかけられるように……」
「なっていない。もう一度だけ言うが、魔法はオカルトではない。……夏の間にあの呪文を再現し、分析した。読み込んだ上でどのような作用が生じているのか理論に落とし込み、レポートにして提出したまえ。参照すべき文献はいくつか載せておいた。レポートの添削を繰り返し、及第点を取るまでは使用を禁ずる」
押しつけられた羊皮紙を広げると、そこにはスネイプの神経質な細かい字でみっしりと、しかし整然とまとめられた実験記録らしきものがあった。ちらほらと知らない単語も飛び交い、ジュリアの頭では解読するだけでもかなりの時間がかかるとはっきりわかる。これを理解した上で、自分の言葉に噛み砕き、さらにそれを既存の理論に当てはめて分析し、再度文章化しなくてはならないらしい。
ジュリアが思わずげんなりすると、スネイプから厳しい言葉を浴びせられた。
「我輩としては、君が自らすすんで杖腕を捨てるというのなら、なにも気にすることはない。ただ夏に少々の時間を浪費しただけで終わる。しかし、君は強くなることを求めており、我輩の提案に対して頭を下げた。合理的な選択と判断ができるようになるまで個人授業をお預けにしても構わんのだぞ?」
「……はい、頑張ります、当面使いません、ありがとうございます、今年もよろしくお願いします」
「結構。少しは発音もまともになってきたようだな」
「お、マジで?」
頭を上げた途端、スネイプの杖がジュリアを叩いた。今度はそれなりに痛かった。
「もう崩れている。加えて、あの呪文は殺傷力があまりに高い。緊急時にのみ用いるように」
「トロールは緊急時だっただろ」
「左様。我輩は一言もあのトロールに対し行使した件を糾弾してはいない。君が生きて帰ったことを、指導者として少なからず誇りに思っているのも確かだ」
スネイプの意外な台詞に、ジュリアは思わず彼を凝視した。ジュリアはスネイプの善良な側面を少なからず知っている。しかし、彼がこれほどまでに明確な形でその側面を態度に表したことはなかった。それどころか、彼は自分の少し歪な優しさを秘匿しようとしているようにすら思えた。それゆえに、ジュリアは衝撃を覚えた。
スネイプは仏頂面で、落ち着いていて、ティーカップを優雅に口へと運んでいる。いつも通りのスネイプだ。
「先生」
「何だ」
「もっかい言って」
「断る。さて、今年度の個人授業についてだが……何か希望はあるか?」
ジュリアはまだのぼせたような感覚が残っていたが、動かせるだけの理性を総動員して、自分に必要なものを考えた。防御に関しては盾の呪文の二重展開が可能。攻撃手段は失神呪文を得た。奥の手として剣の呪文が控えている。まだまだ学ぶことは多いが、それゆえに次の一歩が悩ましい。
ジュリアは悩み、様々な状況を想定し、なんとか答えを絞り込んだ。
「舌縛りの呪文って、先生のオリジナルだよな?」
「どこで知った」
「いやあ、母さんに口答えするとよくかけられてさ。セブルスが開発した呪文で一番使い勝手がいい、って言ってた」
スネイプはしかめ面をして眉間を押さえた。ジュリアの想像が正しければ、きっとこの男もジュリアの母に振り回されたのだろう。エレン・ムーアクロフトは計算高い人物ではあったが、その計算はしばしば自分の利益を中心に動作しており、必然的に”台風の目”になっていた。ハグリッド、マクゴナガル、マダム・ポンフリー、そしてジュリアの意見が一致している部分である。
「あの人は……それで、何が言いたい」
「あれはただの悪戯じゃなくて、無言呪文を使えねえ相手に有効な呪いだと思う。つまり、なんつうのかな……傷つけない、拘束とか、制圧とか、そういうの。あ、もちろん、されたときの対処も」
「対象を傷つけない攻撃手段と、その対処。そのような解釈でよいか」
「そう、それ!」
「どういう心境の変化かは知らんが、君が殺すか殺されるかの世界から足を洗おうとしているのは喜ばしい。今年度は昨年度の復習も行いつつ、その方向でカリキュラムを組む。いつもの部屋で、来週から行う。時間割を見せたまえ……木曜の3コマ目だ。質問はあるか?」
ティーカップを消失させ、棚から書類の束を呼び寄せてジュリアを追い出す準備をしているスネイプに、ジュリアはしっかりと頭を下げた。去年、個人授業の提案を呑んだときと同じか、それ以上の嬉しさがこみ上げてきたのだ。
自分の生存だけを考えるなら、失神呪文と盾の呪文さえあればいい。しかし、失神呪文は攻撃的な呪文で、明確な攻撃の意思があったと判断される。ましてや剣の呪文など、人に向ければ殺意があったとされるだろう。ジュリアにはもう守らなくてはならない人々がいて、帰らなくてはならない居場所がある。攻めねば殺されるかもしれない。しかし、傷つければ守れないかもしれない。
「ありがとうございます、先生」
「励め。……言い忘れたが、君は正気だ、ジュリア・マリアット。敵だから殺してもよい、敵に与すれば殺してもよい、そのような御旗を掲げる者共よりずっと、正気だ」
「そっか。……うん、ありがとな、先生」
返事はなかったが、ジュリアは満足だった。ヴォルデモートの配下だった男の死を悼んでいてもよいのだ。そう思うと、幾分気が楽になった。安心して、心の中で静かに弔うことができた。ジュリアはようやく、クィレルにさよならを言うことができた気がした。