土曜日。今日はハグリッドの小屋を訪ねる予定だったが、ハリーがオリバー・ウッドに捕まって早朝からクィディッチの練習に”拉致”された。ロンが起きたころには走り書きだけが残されていたそうだ。そのため、残された3人は朝食を持ち出して、霧の名残が漂う芝生の中をクィディッチ競技場へと向かっていた。
「あたしの知識が正しけりゃ、スポーツってのはしっかり寝て、しっかり食ってなんぼだろ」
「去年の大敗からずっとウッドは燃えてるみたいね。ジュリア、食べながら歩くのやめなさい、みっともないでしょ」
「あいあい。でもよ、ハリーに関しちゃ事故だろ事故。あのとき無傷だったのハーマイオニーだけだぜ? あたしはトロールとやり合ったし、ロンだってチェスの駒にぼこされた」
「あれは痛かったなあ。でも、ほら、名誉の……名誉の、あれ」
「負傷か?」
「そうだ、名誉の負傷」
「ウッドにとってはクィディッチ・カップだけが名誉なんでしょうね」
なにがオリバー・ウッドを狂わせるのか。いや、それはもちろんクィディッチなのだが、なぜそこまでクィディッチが彼を、彼らを狂わせるのか、ジュリアにはさっぱりわからなかった。声高に主張しないだけで、今でもクィディッチなどという競技は――それが本当にスポーツであるとして――正気の沙汰ではないとすら考えている。不安定な線分に身を任せて、地から足を離し、剛速球で選手を狙ってくる球体から身を守り、ゲームセットの合図になる拳大の球を掴むだけでそのチームに15回分のゴールと同じだけの点数が入る。ルールから何から滅茶苦茶だ。
そう思ってはいても、ハリーは熱心な選手だし、ロンには贔屓のチームがあるし、ハーマイオニーですら試合観戦に熱狂している。ジュリアはこの困惑にも似た感情をひとまず1人で消化しなくてはならなかった。魔法界の競技にはわけのわからないものが多い。悪臭を吹きかけてくるビー玉。爆発するトランプ。駒が言うことを聞かないチェス。開発者はウィーズリー家の双子と似た性質の持ち主だったに違いない。ジュリアはひとり静かに確信した。
てっきり競技場ではオリバー・ウッドに檄を飛ばされながら選手たちが飛び回っているものだと思っていたが、スタンドに着いてみればようやく赤いローブの選手団が更衣室から出てきたところだった。
「よおハリー、今から解散して朝飯か?」
「まだ始まってすらいないんだよ。新しい戦術のことでね」
「そりゃ結構なことで」
トーストを食べるロンとハーマイオニーに対するハリーの羨ましげな視線から察するに、オリバー・ウッドは更衣室に軽食を用意することも忘れたようだ。ジュリアはハリーにマフィンを1つ投げてやった。
「ありがとう、ジュリア!」
「ナイスキャッチだ、シーカー。ぶっ飛んでこいよ」
ジュリアたちの後ろでコリン・クリービーが歓声を上げながらシャッターを切っている。この熱狂的なハリーファンの少年がいつからいたのかは知らないが、軽快に空を舞う選手たちの姿が鮮やかなものであることは、流石のジュリアも認めざるを得なかった。見ている分には嫌いではない。
実を言うと、ジュリアにも空を飛ぶことへの憧れはあった。しかし、その憧れはまず3歳半のころにピクシーの群れによって強引に叶えられ、次に5歳のころに暴走飛行する絨毯によってまたも強引に叶えられ、そして9歳のころにマグル界の広告を見て確信した――空を飛ぶことに関してはマグルの方が優れた技術を持っている。
ジュリアがハンググライダーに挑戦する妄想を膨らませているうちに、競技場の様子がおかしくなってきた。別の更衣室から緑のローブを着た一団が入場してきたのだ。
「スリザリン・チームと親睦会か? スポーツマンシップってのはすげえな」
「暢気なこと言ってる場合じゃないよジュリア、競技場は予約制なんだ。じゃなきゃ戦術を盗まれちゃう」
「様子がおかしいわ、行きましょ」
友人の危機を感じれば自らトラブルに飛び込む。ハーマイオニーについて、スネイプが下した評価を思い出す。出しゃばりでお節介。しかし、ジュリアにはこの悪癖が美徳に思えることもあった。たとえば、今のようなときだ。
競技場の中央、集団に合流したときには、スリザリン・チームが余裕の笑みを浮かべてグリフィンドールの面々を見下していた。緑のローブを纏った彼らはお揃いの新品の箒を手にしている。ジュリアにもわかる、これは高級品だ。一方のグリフィンドールは、控えめに言って見劣りする。ハリーのニンバス2000ですら。
「一体何してるんだ? それに、なんでマルフォイがここにいるんだ?」
「ああ、タイミングがいいじゃないか、ウィーズリー。僕はスリザリンの新しいシーカーで、僕の父上がチーム全員に買ってくださった最新型の箒、そう、このニンバス2001をここのみんなで賞賛していたところだよ。疑問が一気に解決して嬉しいだろう?」
ロンは愕然とした様子で口を開いたまま固まった。情報量が多すぎるのだろう。にっくきドラコ・マルフォイがスリザリン・チームの新しいシーカー。ルシウス・マルフォイがスリザリン・チームに箒を寄贈。箒は全て最新型で、ハリーのものをすら凌駕する。
マルフォイは得意げに、そしてあざ笑うように言葉を続けた。
「グリフィンドール・チームも新しい箒を揃えれば少しは差が埋まるんじゃないか? そのクリーンスイープ5号を博物館か骨董商に売れば小銭にはなる」
スリザリン・チームのにやけ笑いが爆笑に変わった。ロンの日頃から繰り広げられるクィディッチ語りが正しければ、グリフィンドール・チームの箒は骨董品と言っても差し支えない。ジュリアはクィディッチという競技にさほど明るくないので、両チームのプレイングスキルを比較することはできないが、スポーツとは多くの場面で狡猾さが有利に働くイベントだ。フェアプレイでスリザリン・チームに勝っていくには相応の技量と、そして相応の性能が必要になる。
グリフィンドール・チームの面々は怒りに顔を赤く染めたり、眉間に皺を寄せたり、それぞれのやり方で不快感を示していた。中でもオリバー・ウッドは今にも爆発しそうな勢いで蒸気を上げていた。
ここに割って入った勇者がいる。ハーマイオニーだ。
「少なくとも、グリフィンドールの選手は誰一人としてお金でなんか選ばれていないわ。こっちは純粋に才能で選ばれたのよ」
痛烈な反撃だった。事実、グリフィンドール・チームは骨董品を相棒として戦い続けてきたわけで、その技量は並大抵のものではない。去年はハリーが医務室送りにならなければクィディッチ・カップを手にしていた可能性もあった。それほどの熟練兵たちなのだ。
そのことはマルフォイも理解していたようで、自慢げな顔が歪んだ。せっかくの愉悦に、しかも己の家格によって勝ち得た愉悦に水を差される不愉快さ。ジュリアには彼の気持ちがわからない。しかし、表情から察するに、その程度は些細なものとは言えないようだ。
そして、彼はその気持ちを最大限の罵倒に変換した。
「誰もお前の意見なんか求めてない、この『穢れた血』め」
グリフィンドール・チームから怒声が上がった。ウィーズリー家の双子がマルフォイに殴りかかろうとし、オリバー・ウッドが声にならない声を上げ、女性陣からも悲鳴のような糾弾が聞こえた。
ジュリアも怒っていた。このような罵倒はそうそうお目にかかれるものではない。むしろ、暗がりの世界では生まれを蔑むような言葉は使われないのだ。スラム街で素性の知れない荒くれ男に中指を立てるのと同じくらいの危険がある。誰しも己の命を守るため、そして暗黙の了解と化した良識のためにこのような言葉は使わない。だから、この怒りは新鮮だった。それゆえに熱く、焼けるようだった。
しかし、最も怒り狂っていたのはロンだった。彼はローブから折れた杖を引き抜き、マルフォイに突きつけた。呪いをかけるつもりだ。
「マルフォイ、思い知れ!」
しかし、ロンの杖は主の意思に逆らい、呪いを逆噴射させた。緑の光弾がロンの胃に向かって撃ち出され、ロンは衝撃に尻餅をつく。そして、彼は何か言おうとして、言葉の代わりに大きなナメクジを1匹吐き出した。
スリザリン・チームの盛り上がり具合といったらすさまじいもので、一番体格のいい男――ジュリアの記憶が正しければ、去年の試合でハリーにタックルして殺しかけた男だ――は膝をつきそうなほど笑っているし、マルフォイもすっかり機嫌を直したようだった。さぞや滑稽だろう、「思い知れ」と叫んで呪いを放った術者が自らナメクジを吐いているのだから。
しかし、ジュリアにはロンの怒りがわかった。ウィーズリー家は話を聞く限り歴史の長い名家だ。その彼らがスリザリンではなくグリフィンドールに属しているという事実によって、彼らがこの最低の罵倒をユーモアのあるジョークとして認めない騎士道精神の持ち主であることが証明されている。
ジュリアは母の言葉を思い出す。頭に血が上ったときは、自分より怒っている人物を探せ。自分より怒っている人物の醜態を見れば、自然と冷静さが帰ってくる。そう、ジュリアはこの上なく冷静だった。同時に、ロンの様を醜態とも思わなかった。だから、たまにはグリフィンドールらしく――獅子のようにあることを選んだ。
「随分とお楽しみだな、マルフォイ」
「は、マリアットか。今度はどんな手で僕を馬鹿にしようっていうんだ? ナメクジの次はゲジゲジでも吐いてくれるのか? ほら、見せてくれよ」
「あたしはマルフォイ家の跡継ぎに呪いをかけるつもりはねえよ。ただ――」
ジュリアは爪を伸ばす。鋭利に、硬質に。ほんの数センチにも満たない5本の刃。魔法が大っぴらに使えなかった時期、ジュリアにとってこれは剣だった。そして、魔法を使える環境になった今でも、剣の振るい方くらいは覚えている。
ジュリアの手刀がマルフォイの頬を浅く切った。遅れて、静かに血が伝う。
「おっと、悪いな。つい手が滑っちまった。そう、お前が口を滑らせちまったのと同じように」
「ひいっ……血が、血が」
「ドラコ・マルフォイ」
胸ぐらを掴む。もはやその顔に嘲笑はなく、いつも以上の青白さに覆われている。この男の血も赤いらしい。同じ赤なら、そこに穢れもなにもあったものだろうか。所詮、純血とは近親交配者を高尚に言い慣わしただけのことであり、古い言い伝えにあるような、青い血が流れると噂された王侯貴族ではない。
無様な近親交配者の末裔に、囁きかける。
「その流れる血にとくと刻め。お前が悔い改め懺悔するその時まで、あたしはお前を許さねえ。一瞬たりとも忘れることなく憎み続けよう。静かに、冷たく、喉笛に食らいつく時を狙おう。あたしとお前の約束だ。楽しみに待ち続けろ」
静まりかえったクィディッチ競技場に、青ざめたマルフォイを投げ捨てる。もはや嘲笑も、怒声もなかった。
ジュリアは黙ってロンを立たせた。もうこの場に用はない。彼を治療する必要がある。
「ハリー、手伝ってくれ。あたしの背じゃロンを運べねえ」
「わかった、行こう」
ナメクジを吐き続けるロンを支えて、4人はクィディッチ競技場を後にした。