ハリー・ポッターと獣牙の戦士   作:海野波香

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母の恩師

 授業終了の鐘が鳴った。ビンズが黒板をすり抜けて消えていくのを傍目に、ジュリアは伸びをして、それから出すだけ出しておいた教科書をウェストポーチに放り込んだ。

 

 

「それで、どうするの?」

 

「んー、ビンズ先生の執務室行きたい」

 

「ゴーストにも執務室ってあるのね」

 

「なかったら霊権侵害だぜ、霊権なんてあるのかは知らねえけど」

 

 

 首を鳴らして、頭の中で地図を回す。魔法史の教室は2階。ジュリアの記憶が正しければ、カスバート・ビンズの名札がかかった執務室が5階、去年ハリーがみぞの鏡に魅了されかけた空き教室の近くにあったはずだ。

 

 木曜は2限目の魔法史と4限目の魔法薬学の間が空いているから、時間に余裕がある。とはいえ、だらだらと大階段を上っていくのも時間の浪費だし、他の寮や学年が3限目に魔法史の授業を受けるかもしれない。タペストリーで隠された通路、本棚の裏の昇降機、そういったものを駆使した方が早いし、より確実にビンズの話を聞くことができるし、なにより気分がいい。

 

 そうと決まれば、行動あるのみだ。ジュリアはハーマイオニーの手を引いて混雑をすり抜け、人ごみに紛れてタペストリーをくぐり、隠し通路に辿り着いた。 ジュリアの経験に従えば、この通路が一番5階まで近く、またほとんど人に知られていない。

 

 

「ねえ、ジュリア」

 

「どうした?」

 

「ジュリアっていつの間にかホグワーツに詳しくなったわよね。秘密の道もそうだし、歴史のことも」

 

「ダンジョンアタックが楽しいお年頃なのさ」

 

「なにそれ」

 

 

 ハーマイオニーが空いた手を口元にやって静かに笑った。つられてジュリアも笑った。狭い隠し通路に二人きり、早くもなく遅くもない足取り。ジュリアはこの時間が好きだった。

 

 ダンジョンアタック。ジュリアはホグワーツを攻略するのも楽しく思っているが、昔憧れた、ゲームに手を伸ばすという野望も捨ててはいない。新聞配達のアルバイト中に読んだ広告によれば、ウォーハンマー:ファンタジーバトルの第4版が今年発売される予定か、もしくはもうされるのだったか。バイト代もそこそこ貯まった。ハーマイオニーとミニチュアゲームやRPGで遊ぶのも楽しそうだとジュリアは想像を膨らませた。ただ、そうなるとロンは呼ばないほうが賢明だろうか。彼は駒が動かないと楽しめない生粋の魔法族だ。楽しめない遊びを強要することほど無益なものもそうそうない、ジュリアはそう考えていた。

 

 通路の行き止まりには本棚が置かれている。この本棚に並ぶ取り出せない本を正しい順番で押すことで、本棚が動いて昇降機への道が開ける。順番を間違えると本が襲いかかってくるので、気をつけなくてはならない。ジュリアはウィーズリー家の双子からこの通路の情報を得たが、飛び回って噛みつく本たちにずいぶん苦戦させられた。対処法は小鳥に変身させてしまうことである。ジュリアの苦手な変身術だ。

 

 1つ、2つ、3つと本の背表紙を押すと、静かに本棚が開いた。その奥にはぽっかりと穴が空いており、鎖が縦に伸びている。昇降機の鎖だ。ジュリアが壁に据え付けられたベルを杖で叩くと、彼方で滑車が鳴きながら鎖を手繰り、昇降機を引き寄せはじめた。少し騒々しい。

 

 さほど時間の経たないうちに降りてきた鉄の籠を見て、ハーマイオニーがぼそりと呟いた。

 

 

「骨董品ね」

 

「落ちたとか床が抜けたって話は聞かねえし、大丈夫大丈夫」

 

「そもそもこのエレベーターの話を聞かないわよ。本当に大丈夫なの?」

 

 

 返事の代わりに扉を開いて飛び乗る。少し軋むが、問題はない。おそるおそる足を乗せたハーマイオニーを引き寄せて、ジュリアは上昇のベルを鳴らした。

 

 それなりの速度で暗闇の中を上昇する。滑車はいよいよ悲鳴を上げ、籠を揺らす。ハーマイオニーの手がジュリアのローブを握りしめているのに気づいて、ジュリアはハーマイオニーの背に腕を回した。

 

 

「落っこちねえから安心しろって」

 

「別に、怖いわけじゃないわよ。ジュリアが落ちるんじゃないかと思ったの」

 

 

 実に合理性を欠いた、ハーマイオニーらしくない言い訳だ。暗闇に隠れて見えないはずの白い首筋が冷や汗をかいているようにすらジュリアには思えた。

 

 

「そうかい。じゃあ落っことさないようしっかり掴まっててくれよ、そろそろだから」

 

「それってどういう――」

 

 

 昇降機が急な減速をかけ、暗闇の中で停止した。光はないが、5階に到着だ。勢いを殺しきれずにハーマイオニーがよろめくのを支え、そのまま石畳に移る。昇降機が落ちると思っていたわけではないが、それでもやはり足元はしっかりしているほうが安心できた。それはハーマイオニーも同じことと見えて、いくぶん呼吸が落ち着いている。

 

 ジュリアはハーマイオニーの背に回していた左手をそのままハーマイオニーの強張った右手へと下ろし、そっと握った。そして反対の手で杖を抜き、光を灯す。石壁に松明が2つ、そして行き止まりだ。

 

 

「さて、どうやって開けるんだったかな」

 

「ちょっと、ジュリア」

 

「冗談だ、冗談。インセンディオ」

 

 

 両方の松明に橙色の炎が灯るとすぐに、さっと強い光が差し込んだ。道を塞いでいた本棚が動いたのだ。ホグワーツの本棚と肖像画は扉代わりである。ジュリアはこの一年と少しで怪しいと思った本棚を押す癖がついたし、とりあえず肖像画と話してみて合い言葉を訊かれないか確認してみるようにもなった。

 

 回廊を抜けて肖像画を押すと、そこはもう5階だった。おべんちゃらのグレゴリー像――フレッドとジョージの言葉が正しければ、外に繋がる通路を隠している像だ――を挟んだ窓の向こうにはレイブンクローの塔がある。現役の寮生に知り合いがいないので、中がどうなっているかはわからない。ただ、グリフィンドールのそれと大きく異なるということもないだろう。

 

 

「なあ、ハーマイオニー」

 

「どうしたの?」

 

「いや、レイブンクローの談話室ってどんな感じだろうなあって」

 

「レイブンクローの。そういえば、他寮の談話室って入れないのかしら」

 

「入れないことはないんじゃねえの? 完全に敵地だから進んで行きたかねえけど」

 

「ハッフルパフとか、歓迎してくれそうじゃない?」

 

「あー、それは確かに」

 

 

 なんの益もないことを話しながら、ジュリアは1年生のころの記憶――具体的には、ハリーやロンと一緒にみぞの鏡を見に行った記憶を頼りに、ハーマイオニーの手を引いてビンズの執務室へと向かった。

 

 小さな扉にカスバート・ビンズの札がかかっている。ジュリアは少し悩んでから、ローブの前を整えて、扉をノックした。

 

 

「――どうぞ」

 

 

 扉を押し開ける。小さな、埃っぽい部屋だった。壁沿いに本棚が置かれ、執務机にも何冊かの本が積まれている。椅子やソファは使われていないようで、蜘蛛の巣が張っていた。空のティーカップが置かれたままだ。

 

 カスバート・ビンズは入室者に目もくれず、羽ペンを握って執務机の前で浮遊していた。

 

 

「失礼、今月の指導報告書を仕上げねばならんので。どうせ見もせん報告書を上げさせるなど、役人はいつの時代も変わらんですな、まったく。……ああ、好きなようにお座りになるとよろしい」

 

「うぃっす、失礼します」

 

 

 ジュリアはそのままソファに腰を下ろそうとしたが、それより早くハーマイオニーが杖を抜いて埃と蜘蛛の巣を拭い取った。

 

 二人はしばらく黙って座っていた。羽ペンが羊皮紙の上でかりかりと音を立てるのだけが聞こえる。この部屋は沈黙に満ちていて、それはまるでカスバート・ビンズという人物を表しているかのようだった。

 

 

「あなたが黙りこくっているのは珍しいですな、ミス・ムーアクロフト」

 

 

 やはり、ビンズはジュリアをジュリアの母だと勘違いしているようだ。

 

 

「あー、そのことなんだが、先生。あたしはエレン・ムーアクロフトの娘だ」

 

「娘ね。……娘? 子ども?」

 

「そうとも言う」

 

 

 ビンズは羽ペンを放り出してジュリアの方に向き直った。眼鏡の向こうで目を見開いている。少し奇妙だった。これほどまでにビンズが驚いているのも、そしてその感情をこれほどまでに露わにしているのも。

 

 

「なるほど、まあ、あれも人の子だったということですかな。娘……娘か。名前は」

 

「ジュリア。ジュリア・マリアット」

 

「ほう……ふむ……なるほど……。あれならもっと仰々しい名前をつけると思っていたのですがね、モルガンであるとか、エルフリーダであるとか。いや、あれが子を授かるということ自体まったくもって驚愕すべき事態でありますが。それで、何用ですかな。言付けでもありましたか」

 

「いや、そういうわけじゃねえんだ。なんつうか、そう。生きてたころの母さんのことをよく知ってる人から、母さんの話を聞きたくて」

 

「生前」

 

 

 ビンズの動きが止まった。より正確には、半透明の表情が止まった。まるで急速に年老いていくかのように、力が抜けていく。

 

 

「そうですか。あれは死にましたか。……そうですか」

 

 

 ビンズの表情は読めなかった。しかし、ひどく静かだった。

 

 しばらくの沈黙を経て、ぽつり、ぽつりとビンズが語りはじめた。

 

 

「ミス・ムーアクロフトはこの長い教師生活の中で一番手を焼かされた生徒でありました。悪童というわけではない。より相応しい言葉を探すなら……知識欲の権化、そう言えるでしょうな」

 

「知識欲の権化、ね。確かに母さんはそんな感じだった」

 

「なまじ行動力があるからなお厄介でしたな。しばしば授業の合間にここまで押し寄せてきて、勝手に紅茶を淹れ、勝手に本を漁り、勝手に喋り倒して。校長室に押し入って憂いの篩を調べようとしたこともあったとか、なんとか。あれははっきり覚えておりますぞ、ミス・ムーアクロフトが受けた唯一の減点でしたからな」

 

「それは初めて聞いたかもしれない」

 

「さもありなん、あれは己の失敗をすすんで人に語る性格ではなかった。しかし、まあ、優秀ではありましたな。だからバグショットのところに推薦状まで書いたわけですが」

 

 

 このあとの顛末は知っている。ジュリアの母は歴史家であるバチルダ・バグショットに師事するか、聖マンゴの癒局で狼憑きの研究癒になるかの岐路に立ち、迷うことなく癒者の道を選んだのだ。それは己の才能を賭けた挑戦でもあり、愛する夫への献身でもあった。

 

 

「あれが卒業すると聞いたときは、引退するときが来たかと思ったものですが、一向に音沙汰がないと思えば……死んでいたとは」

 

「あたしに魔法史を叩き込んだとき、母さんはよく先生の話をしてた。マクゴナガルの次か同じくらいにお世話になった、って」

 

「私はなにもしていない。あれが勝手に学んで、勝手に去っていっただけでしょう」

 

 

 それからまた、ビンズはしばらく黙って漂っていたが、ゆっくりと執務机の前に戻り、引き出しから一枚の紙切れを引っ張り出した。色あせたそれは、どうやら写真のようだ。ビンズはそれをジュリアに差し出した。

 

 

「勝手といえば、これがありましたな。あれが私の絶命日を勝手に決めて、勝手にパーティーを開いたときのものです。一緒に写っている生徒の名前は忘れましたが」

 

「……ジュリア、これって」

 

「ああ、うん。母さんだ。並んでるのは父さん」

 

 

 間違いなかった。紺色の髪を腰まで流した小柄な魔女が、身内にしか分らない自慢げな笑みで、胸の前に本を抱えている。エレン・ムーアクロフトだ。レイブンクローのローブは袖が余っていて、安っぽいパーティー帽も相まってアンバランスな雰囲気を醸し出している。

 

 その隣で困ったような笑みを浮かべて頬をかいているのが、ヘクター・マリアット。顔に薄らと三筋の爪痕が見えるが、それすらも勇ましさに変換させるだけの美貌を備えている。ヘーゼルの瞳がジュリアを捉えると、ふわりと破顔して小さく手を振った。

 

 そして、二人の前に立たされた――ゴーストにこの表現が適しているかは微妙なところだが――ビンズが、少し困惑したように眉を曲げている。

 

 

「進呈しましょう。引き出しに眠らせておくよりは幾分有意義ですからな」

 

「いいのか?」

 

「持っていきなさい。……ホグワーツのゴーストというのは不便なものです。知識を更新することもできない、紅茶を飲むこともできない、教え子の墓に花を手向けることもできない」

 

 

 返事に困って、ジュリアは無言で写真を受け取った。ビンズも返事を望んでいるわけではないようで、まるで一人の世界に沈んでいるように目を閉じていた。

 

 ビンズが指導報告書に戻ったので、ジュリアとハーマイオニーは彼の執務室を辞去した。

 

 ジュリアの母は写真を遺さなかった。少ない写真をかき集めて作ったアルバムはセシリーに預けたままだ。このあとセシリーにふくろうを送ってアルバムを届けてもらおう。ジュリアはそう決めた。


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