学び舎というよりは、騙し絵か知恵の輪だ。
ジュリアは早くもホグワーツという迷宮に愉快さを見出していた。ただし、この愉快さはフラストレーションの溜まる愉快さだ。具体的には、未知の法則で動く階段、正規ルートの隠し扉、訪問しあう人物画、編隊が変わる甲冑……そういった諸々だ。
一見、すべてが学びを妨害しているようにすら思える。しかし、これらにはすべて法則性があり、知識と経験の蓄積、加えて少しの論理的思考能力があれば、ホグワーツは素敵なダンジョンだった。
多くの新入生がこの城に翻弄されている。もちろんジュリアもその一人だ。しかし、本屋のバイト中に立ち読みしたD&Dのルールブックを思い出せば、この程度のことは楽しめる。残念ながら購入する金もなかったし、TRPGを一緒に遊ぶような友人もいなかったが、それはそれだ。今はリアルでマジックを堪能しているのだから。
とはいえ、天文学で深夜に一番高い塔を昇って天体観測をさせられ、その翌日に朝一番で変身術ともなると、さすがに無理難題を言っているように思える。1年生の時間割にしわ寄せが来ているのか、それともホグワーツなりの洗礼なのか。
ともかく、夜更かしに慣れていなかった「いい子ちゃん」のプリンセス・ハーマイオニーを叩き起こして、可能な限りの速度で変身術の教室までお連れするのが今日のジュリアの任務だ。
「嬢ちゃんはもっと悪い子になんなきゃな。つまり、夜更かしに慣れんだよ。じゃなきゃ入学早々変身術は落とすことになる」
「だって、こんなのあんまりよ。私、本を読みすぎて目が悪くなるからって9時には寝かされてたのに」
「生憎とまだここはお前のお城じゃねえんだ、お姫さま。っと、見つけた」
ハーマイオニーの手を引いてタペストリーをくぐったジュリアは眼下に変身術の教室を見つけたが、どうやら今は離れ小島になっているようだった。しかも上階に出てしまった。これはまずい。
時間はあまり残されていない。マクゴナガルは遅刻に寛大なタイプではないだろう。となると、多少の無茶も通さねばならない。ジュリアは冷静に城の法則を観察した。
「……よし、あの階段だ。昇るぞ、ハーマイオニー」
「何言ってるの、変身術は下じゃない。下りの階段を待たなきゃ……ああ、マクゴナガル先生は許してくれるかしら」
「お忘れのようだから教えてやるが、ここは魔法の城、マクゴナガルは鬼寮監、物体は重力に従って落下する。んじゃ、失礼して」
「ちょ、ちょっと、何して、きゃあっ!」
まだ頭がぽやぽやしている様子のハーマイオニーを抱き上げ、旋回を始めた階段を三段飛ばしで駆け上がる。変身術の教室は対角線上。階段の高度は十分。どこにも繋がっていない頂点までトップスピードを維持し――
「え、嘘でしょ、無理よ、無理無理!」
「今日のおめざだ、ハーマイオニー。お口閉じてねえと舌噛むぞ。らあっ!」
全力で階段の縁を蹴る。
時間の流れが遅く感じる。ゆっくりと降下――正確には、落下していき、変身術の教室前の踊り場が近づく。ジュリアは大理石へのしなやかな着地を試み、そして、それは成功した。
対岸から歓声が上がる。観衆がいたようだ。しかし、ジュリアはそれには応えず、まずハーマイオニーの状態を確認した。
「ほい、ご到着。もう口開いていいぞ」
ハーマイオニーはしばらく口を閉じたり開いたりさせていたが、次の瞬間にはここ数日の付き合いで一番の声量でのお叱りをいただいた。
「ば、馬鹿じゃないの? あなた馬鹿なのねジュリア! 着地できなかったら、し、死んでたかもしれないのよ? 命の危機! 命の!」
「どうどう。あたしはちゃんと計算したし、そこにはお前の羽根みたいな体重も一応含まれてるし、成功の確信があったから飛んだ。んで、あたしらは授業に間に合う。それともここで口論して授業サボるか?」
「でも……でも、あなた、怪我してないの? 骨折は? 捻挫も?」
結局のところ、この可愛い子はジュリアのことを含めて心配してくれているから、怒っているわけだ。そう思うと、少々態度が軽率だったような気がしてくる。ジュリアの胸中には申し訳なさがこみ上げてきた。
「平気だ、ハーマイオニー、万事快調。だが、まあ、お前を命の危機に晒したことは謝らなくちゃいけねえか。ごめん」
「……はあ、すっかり目が覚めちゃった。降ろして、ジュリア」
「はいよ。立てるか? 腰抜けてねえか?」
ハーマイオニーはジュリアの腕から降りると、ローブを整えて、とんでもない方向を向いているネクタイを直して、杖がちゃんとあるか確認したあと、ジュリアを見て小さくため息をついた。
ジュリアにはハーマイオニーが何を思っているのかさっぱりわからない。まだハーマイオニーの思考パターンも把握していないし、この行為自体イレギュラーだ。しかし、自分でもうまく言語化できないが、そもそもそういう問題ではないような気がしていた。
まだ数日の付き合いだが、ハーマイオニーという人物と接するにあたっては、計算だとか、パターン化だとか、そういったものがかえって逆効果なように感じられたのだ。これまで一時的な「お友達」を作るのには便利だったツールが、何もかもまともに機能しない。
ジュリアが黙っていると、ハーマイオニーはおもむろに手を伸ばし、そして、ジュリアの頬を引っ張った。
「いでで、なにすんだ」
「なにしょぼくれた顔してるのよ、まったく。ほら、最後までエスコートしてくれないの?」
ハーマイオニーはジュリアの頬から指を放すと、言葉を続けた。
「それは、もちろん、びっくりしたし、怖かったし……でも、少しも痛くなかったし、正直ちょっとドキドキした。それに、授業に間に合うもの。だから、その……ありがとう」
「……お前時々すげえ可愛いよな」
「あなた時々すごく失礼よ」
一瞬の間があって、二人の笑い声が弾けた。
ジュリアはハーマイオニーの手を取ると、変身術の教室の戸を押した。時間はまだある。大体の生徒は揃っているかもしれないが、遅刻ではない。だからセーフだ。
「なにもセーフではありませんよ、ミス・マリアット」
「ひっ」
ミネルバ・マクゴナガルというよりは、マホウトコロで使役されているとかいうオニに近いものがいた。さすがのジュリアも息が苦しくなった。
なぜ考えが読まれているのかだとか、まさか生徒に読心術は使わないだろうなだとか、そんなことを考える余裕もなかった。ジュリアは母さんと同じくらい怖い生き物がいることを知った。
マクゴナガルの眼光はジュリアにのみ向けられていた。どうやら彼女の中でハーマイオニーは被害者という扱いになるようだ。
「ミス・マリアット。ホグワーツ魔法魔術学校は爽快感を味わえるマグル向けアスレチックではありません。もしそのように考えてらっしゃるのなら、アスレチックでもジャングルでも農場でも、好きなところにお帰りなさい。グリフィンドール5点減点」
「……遅刻しないルートを通ったらまさかの減点。遅刻したって当然減点。しかも自分の寮から。あんた面白い寮監だぜ、先生」
「記憶が正しければこの後のコマは空いていましたね。ミス・マリアット、あなたは居残りです。友人を命の危機に晒すということの重みを理解するまでは、変身術の複雑性と危険性も理解できないでしょうから」
教室のあちこちからクスクスという笑い声が聞こえた。咄嗟の口答えを完封されたのが滑稽だったのだろう。こればかりは悪癖であるとジュリアも自覚していたが、今回ばかりは顔から火が出そうな気分だった。
命の危機、というフレーズでハーマイオニーの顔が赤くなった。そして何か反論をしようと口を開いたので、ジュリアは慌ててハーマイオニーの口を塞ぐと、マクゴナガルに頭を下げた。
「そこについては反省しますんで、ほんと。はい。居残りでもなんでも。……ほら、席に座んなハーマイオニー。座れったら」
「……よろしい。それでは授業を始めます。ああ、その前に」
マクゴナガルはハーマイオニーに微笑みを投げかけると、一転して穏やかな口調を見せた。
「友人を教室の前で怒鳴りつけてまで良心というものを思い出させたのは、実にグリフィンドールらしい行いです。ミス・グレンジャーに5点差し上げましょう」
この人なんだかんだ甘いんじゃないか。そう思ったジュリアに、もう一度鋭い眼光が突き刺さった。さながら不可視の矢に射貫かれたような気分で、今後は「マクゴナガルは目から魔法が撃てる」という噂をまことしやかに広めていこうとジュリアは現実逃避をはじめた。